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3章 明治時代の上富良野 第9節 開拓期の生活

327-332p

1、移り住んだ人々

 

 移住民の動向と『上富良野志』

 『上富良野志』(明42)には、道内外から移住した人々の中から154人の略伝(興信録)が誌されている。上富良野への移住の経過、たどり着くまでの道内での転居、職業の変遷、水害や災害などとの苦闘も知れる。家族、女子の氏名も記録されている貴重な郷土史である。

同書の序によれば、略伝は「成墾の艱難に耐えし人々の小照」を記録して「後世に遺す」もので「諸子の成功」の例であった。また、家族を加えたのは、家族が「一家開墾の難事」を遂げる力であったと編者(中島包洲)は述べている。家制度の社会において、新しい家族の視点を含んだ編集である。

3−26「『上富良野志』にみる移住者の動向」は略伝を職業、年令、家族、再移住の箇所について要約したものの抜粋である。略伝に登場する人々の割合を明治41年戸口表をもとに算出すると、154の戸数は約2200戸に対する約21l、その家族は849人で人口約6200人に対する約14lとなる。

 

 表3−26 『上富良野志』にみる移住者の動向

移住者

(戸主)

職業

家族数

出身県

生年

西暦

来道までの移住地

渡道年と地名

移住地(移住年)

上富良野入植年

岩崎庄次郎

学校長

3

富山県

1863

 

1889札幌

岩見沢・倶知安・早来(1909)

1908年(明41)頃

伊豆本栄太郎

農家

3

鹿児島県

1877

オーストリア

1902上富良野

 

1902年(明35)

六條金作

農家

9

香川県

1840

 

1895余市

神楽(1897)

1902年(明35)

長谷藤蔵

農家・染物業

6

三重県

1873

 

1899不明

 

1903年(明36)

長谷藤十郎

写真時計印判業

5

三重県

1885

 

1897上富良野

旭川(1900)

1908年(明41)

十川茂八

農家

不明

徳島県

不明

 

不明

 

1909年(明42)在住

越智発太郎

農場管理人

8

徳島県

1869

 

1881札幌

樺戸・滝川・札幌・長沼(1893)

1903年(明36)

大島新松

農家

8

福井県

1866

 

1896滝川

 

1898年(明31)

海江田信哉

農場管理人

9

鹿児島県

1865

 

1885江別

茨戸・長沼

1901年(明34)

加藤政吉

学校長

3

新潟県

1871

 

1895函館

泊・小樽・深川・旭川(1900)

1902年(明35)

柿原利作

農家

5

富山県

1871

 

1881小樽

美唄・札幌(1997)・当麻

1901年(明34)

横山丈太郎

木材商

3

愛知県

1875

 

1897新十津川

旭川・当麻・旭川(1900)

1901年(明34)

田中常次郎

農家

11

三重県

1858

 

1897上富良野

 

1987年(明30)

田村熊太郎

料理店・劇場主

3

兵庫県

1875

 

1898美瑛

旭川・美瑛(1901)

1905年(明38)

中尾伝吉

農家

3

兵庫県

1888

 

1893永山

 

1899年(明32)

上田清治郎

農家

9

富山県

1857

 

1896鷹栖

 

1899年(明32)

安井新右衛門

農家

不明

福井県

不明

 

1887利尻

鬼脇・札幌手稲・当別(1892頃)

1902年(明35)

小林高平

金物商

2

長野県

1884

 

1899札幌

長野(1902)・旭川・新十津川・旭川

1909年(明42)

荒井栄蔵

農家

8

富山県

1880

 

1895幌向

 

1900年(明33)

来海實

村長

3

熊本県

1859

東京

1899札幌

旭川・鷹栖・美瑛(1905)

1909年(明42)

北常蔵

学校長

4

富山県

1881

 

1897両粉

美瑛・神楽(1905)・近文

1907年(明40)

三谷広三郎

農家

9

香川県

1867

 

1890長沼

 

1900年(明33)

下村菊太郎

米穀荒物海産雑貨商

3

愛知県

1867

大阪

1897函館

 

1907年(明40)

   *上川管内志編纂会著『上富良野志』(明治42年12月刊)に掲載されている興信録(154名)から、変化に富んだ経歴と職種などから、上富良野に入植した特徴的な23名を抄録した。女子の名前は戸主の家族として書かれているが、動向の記載はないので具体的に取り上げることは出来なかった。

 

 再移住をしてきた人々

 道内でも開墾のスタートが遅い上富良野には再移住を志す人々がやって来た。その内訳を『上富良野志』から集約してみると、道内外から上富良野へ直接移住したもの36戸、道内の町村へ移住した経験を持ち上富良野が2度目の移住地のもの64戸、3度目のもの22戸、4度目のもの19戸、5度目のもの6戸、6度目のもの3戸、不明5戸で再移住の平均は約2.3回となる。

 農家は、総数(兼業も含み99戸)のうち上富良野へ直接移住したもの27戸、2度目が45戸、89lが2〜3度目で定住したことになる。直接移住した三重団体が14戸、長沼に入った福井団体が2度目の移住で3戸・直接移住したもの3戸、岩見沢に入った石川団体の6戸が2度目の移住をして住居を定めた。総数のうち小作として入植したことを明記した2戸は回数不明と直接移住であった。42年の農業家(『村勢調査基楚』明45)は総数1154戸で自作697戸、小作392戸、自作兼小作165戸である。農家の約12lが掲載されていることになる。小作農家が良い土地を求めて移動することが多かった中で、小作農家であった十川茂八と和田富蔵は「日夜精励」「熱心業務に服し」土地を成墾し土地所有者となった。

 

 移住回数と職業

 略伝の中で移住回数の多いものをみると、金物商小林高平(明治17年生まれ)は15歳で長野県から渡道、7年間に6回札幌・長野県・旭川・新十津川・旭川・長野県と移りながら金物店・呉服店・荒物店・呉服店・金物店などに従事した。農場管理人越智発太郎(明治2年生まれ)は高齢の父と7人の家族を持ち、父とともに渡道後の22年間に、商業・土木・運送業に就き、札幌・樺戸・滝川・札幌・長沼をたどって上富良野へ移住した。妻ちよ(明治14年生まれ)は10年間に5人の子を産み、家族の中では女手一人であった。また、教育家は移動が多く、校長岩崎庄次郎(文久3年生まれ)は富山県から札幌・岩見沢・倶知安・早来とめぐった22年の間、請負業・郵便局・道庁・訓導・鉄道部・学校長に就いた。

 職業は27種、兼業も含めて戸数の多い順にあげると、農家(99戸)、僧侶宗教家(10戸)、農場主管理人(8戸)、教育家・牧場主管理人(各5戸)、商業家・荒物雑貨・料理店・木材業・官吏(村長郵便吏員)は各4戸、金物商・軍人・土木・は各2戸、運送・建築・旅館主・待合・理髪・劇場・写真印刷時計・染物・米穀・蹄鉄鍛冶・馬売買業・菓子商・陶器商・医師は各2戸である。『村勢調査基楚』の明治44年職業調べでは、農業1597戸、商業93戸、工業2戸、木工場2戸、その他29戸と農業以外の合計は125戸(全体の8l)である。略伝の業種戸数166戸から農業・牧場(112戸)を引くと、農業以外は54戸となる。44年の農業以外の業種と比較すると、ほぼ半数が掲載されたことになる。「移住民の情況」(『引継書類綴』明36)は「住民は農八商工二」の割合で、「商工者生計の程度」は「農者に比すればわずかに裕かなるが如し、農家は貸付地の開墾に全力を傾くるの時期なるを以て、廉食茅屋に甘え居るものの如し」であったという。職業構成をみると、36年より44年の方が農業者の比率が増加した状況であった。

 

 『上富良野志』にみる年齢と家族

 次に『上富良野志』興信録に登場する人物と家族の満年齢を、同書が刊行された明治42年の時点で検討したい。男子144人(不明10人を除く)の平均年齢は42.1歳。年齢層は71〜19歳までと幅があり、40歳未満66人が46l。その妻108人(不明41人を除く)の平均年齢は37.3歳、年齢層は65〜20歳。40歳未満63人が58lを占める、若い社会であった。家族は849人、1戸平均人員は5.51人。女子は392人で46.17lを占め全道平均と変わらない。家族構成をみると、祖父母同居は3戸、父母同居は29戸。祖父母では95歳(荒井つよ・文化11年生まれ)、79歳(大嶋やゑ)、父母では81歳(上田松右衛門、三谷岡三郎)、79歳(小池ふさ)、77歳(田中いを)、73歳(山崎みさ)、72歳(城越源蔵)らが70歳以上の高齢者である。父母の平均年齢は、父64.6歳、母62.5歳で最も若い父母は50歳であった。

 移住者のなかでも、70歳代の人々は郷里で天保の飢饉や百姓一揆の盛んな時期に生を受け、明治維新を体験して渡道したことになる。平均年齢に近い海江田信哉は42年には44歳で、鹿児島で明治維新の変革期に育ち20歳(明治18年)で来道、北海道庁の草創期に江別屯田へ移住し、大農経営を学び長沼の島津農場(31年)から上富良野島津農場(34年)へ農場管理人として移住した。

 移住した家族の様子を伝えるものに第3章第2節で紹介された、三重団体が草分神社へ奉納した「木札」がある。同団体の82家族が入植して5年目に当たる35年に書かれた。1家族平均5人。夫婦の年齢記載のある13組の平均年齢は夫が41.4歳、妻37.2歳。最も若い夫婦世帯に33年入植の黒田久吉(23歳)・さく(19歳)がいる。家族で多いのは松井仙吉(35歳)はな(32歳)の世帯で仙吉の父母のほか14歳以下の子ども8人の11人家族、三重県波切村から親族2世帯とともに30年3月30日上富良野へ入植して5年、この間に4歳2歳1歳の子らが誕生した。賑やかな声が聞こえてくるようである。

 

 より良い居住地を求めて

 上富良野へ移住した人々は、試みに知人を頼って来遺し、仮小屋を建てて帰郷したり、生活のめどが立ちそうになって家族を呼ぶなど様々な形態の定住が図られ、「わらじ親」といわれた知人の世話により、旅装を解いたのだった(わらじ脱ぎ)。

 東中へ移住した岩田家の場合を岩田賀平(明治43年生まれ)の話を基に地図(図3−1)で確認したい。賀平の父・長作は21歳の38年10月頃、長兄で30歳の僧侶岩田實乗とともに富山県東布施村(現黒部市)から東旭川を経て上富良野に移住した(A点)。40年3月、長作の兄夫婦と子ども1人と実母つる、そして長作の遠縁に当たるちよと母の姉夫婦と子ども1人が東3線19号(B点)に移住し、入地した。長作とちよが40年に結婚して45年まで住んだのは、既に北海道の土地を「内地で予約してあった」東9線19号(C点)で、長作が冬に山稼ぎをして購入した土地だった。ベベルイ川から水を引きやすいと思ったけれど、砂砂利(すなじゃり)で米の見込みのない土地だったので既墾地の東3線18号(D点)へ移った。通い作をしばらく続けた時期があったかも知れないD点では、向かい側の風防林も開墾した。やがて、十勝街道(斜線道路)沿いの東7線18号(E点)が潅漑工事により米作が可能になったことに着目し、小作人を入れて拓き大正8年以降、長作一家はE点に居住した。D点から18号を約三`b歩いて、A点の祖母のもとへよく遊びに行き、東6線と7線の間の鬱蒼とした風防林を迂回した、窪んだデコボコ道を淋しい思いで歩いたという。

 なお、岩田家では上富良野の家を「石狩の家」、叔父の初山別村の家を「手塩の家」と呼んでいた。

 風防林は、上富良野を南北に2本、東西に3本、ほぼ900間(1620b)間隔で交差し、大正初めにはその風防林も、東2線そして東6線と7線の間を残すのみであったようで、幅100間(180b)の分だけは原始林そのままであった。「古老のテープ」(昭55)によると、東中で育った広瀬ハルエ(明治30年生まれ)は風防林地帯を切り拓くために大木を倒し、枝木をよせて焼き尽くす炎が天を覆ったことを鮮明に覚えている。村の真ん中に風防林があると、「熊が畑に入ってきて困った」という。7線道路を通学した徳武スギ(明治34年生まれ)は風防林がすでに畑となっていた土地へ家族と入植し、姉の夫が鉄砲で熊を撃ったと語っている。

 

 図3−1 岩田家の移動(移転)の推移

  ※ 掲載省略

 

 富田長蔵『諸道具売払帳』

 移住して来た人々は、家財道具を手離し、ときには旅費の足しともなった。

 明治37年1月10日、100種以上の生活必需品を近隣の54人に売り払い、同年2月5日北海道へ移住した富田長蔵は『諸道具売払帳』(郷土館蔵)を書き残している。諸道具は重いもの(石臼、餅つき杵、鋸)、壊れやすいもの(味噌つぼ、土瓶土鍋、徳利、茶漬わん、鏡台、ランプ、はりこ)、大きいもの(箱火鉢、たんす、仏壇、戸棚、机、ながし、糸まき台、かせ車、膳籠、鳥籠)、大工道具(のみ、かんな、金槌、釘)、農具(草取手鍬、中鍬、大鍬)、かさばるもの(はりこ、太鼓、蚕棚、障子)、桶類(漬物桶、手桶、かし桶、四斗桶、六斗桶、蒸桶)、箱物(重箱、銭張箱、道具箱、下駄箱、三宝箱)、調理用品(紅鉢、かま、六升鍋、茶釜、鍋、弁当箱、升)などが売り出された。しめて64円47銭の売り上げであった。

 北海道移住者の心得をみると、携帯すべき家具に、「鍋大小、包丁、茶椀、椀、皿、手桶、柄杓(大小)、小桶、空樽(大小)、鉄瓶、燈具、蓑、馬毛飾、蚊帳、筵、その他小道具」が挙げられ、厨房具家具の携帯を勧め、陶器桶などの壊れやすいものや荷高の大きなものは携帯しないほうがよいと、注意を促している(『第五北海道移住案内』明30)。また、36年に至っても「携帯すべき貨物」に「衣服夜具は勿論家具農具」が挙げられ、移住費用は1戸4人に対して、「小屋掛費一四円弱、家具費九円余、農具費二六円弱、食料八七円余、合計一三六円余」(『第四北海道手引草』明36)、約140円の支度金が必要であった。先の案内より食料費が30円上昇した分の移住費増となっている。

 富田長蔵の『諸道具売払帳』の品目には衣服夜具は見当らない。石臼を比較的高値の90銭で売払っているが、来道後に、いくらで入手したであろうか。臼(杵は自製)は30年の北海道価格(『第五北海道移住案内』)では1円である。大鍬を10銭、中鍬を3銭で売払っているが、同案内では平鍬が1円60銭、唐鍬が75銭、土地にあった鍬を必要とするとはいえ、費用がかさんだことであった。長蔵が後年、借金を郷里に返金したときに持ち帰った金ひばは、富田家の「いましめの木」となっている(富田弘司からの聞き取り平8)。

 長蔵は、単独移住をした木挽きであった。長蔵自筆の「過去帳」の添え書きによると、伊勢国で生まれ、24歳のときに事故で父を失い、滋賀県へ転居した翌29年旧8月の「大水害にて諸道具流失」した。1度転居して後、37年2月移住。四日市、横浜、室蘭まで6日間航路をたどり、旭川まで1日がかりの汽車の旅。長蔵42歳・妻そで35歳。長女を郷里に預け、長男、二男、三女を連れ、そでの縁戚(坂)の家族五人と高畑夫婦が同行した。