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3章 明治時代の上富良野 第8節 開拓期の社会

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2、窮民救済と災害

 

 窮民救済

 社会事業として、道は開拓使設置後間もなく「賑他[しんじゅつ]規則」を定め、20年に「貧窮な患者」に対する救護内容を拡大し、32年には「行旅病人及行旅死亡人取扱手続」を定めた。上富良野においても32年度は「行旅病人死亡人台帳」など行旅病人関係に8冊の薄書が残されていた。同年度の「行旅病人仝死亡人弁償金仕訳の件」によると、弁償金1477円5銭4厘を国庫支弁(829円93銭5厘)、公共団体支弁(6円40銭)、被扶養義務者弁償(32円45銭9厘)、村費(弁償未済に付村費繰替分・32円27銭)の4者で捻出したことがわかる。ところが、村費からの行旅病人費用の繰替払いが負担となっていったようで、「人民の感情」として「一般人民は村費の賦課を受くる。素より国民の義務と思考すれども昨年の行旅病人仝死亡人の繰替払を為せし、全員に対し要感情を抱の□も之有やの存様なり」(34年『引継書類綴』)という状況であった。

 上富良野村の戸口表(36年)は、本籍人2527名、寄留者の出入り805(入719、出86)名で、流動する村民の構成であった。さらに、寄留届を役場に提出するに至らない人々の行き倒れや病人(行旅病人)の存在を忘れてはならない。『北海道衛生誌』によれば、大正3年春には、落合道路・下富良野道路工事に労役者87名が就労し、罹病者はいない。しかし、就労後の冬期に上富良野を通過した労役者のなかから行旅病人が出たとしても不思議ではない。

 また、大正元年には、居住者のなかでも「貧窮のため、医薬を求むること」のできない、施療を要するものに対する事業もあった。無料の施療券が済世会の上川管内事業として交付され、薬価1日7銭以内、入院1日45銭以内、上富良野は5カ村を担当する執行医師(下富良野)が受け持っていた(『小樽新聞』大1・7・29)。

 

 移住と災害

 風水害の記憶は、31年9月の大雨による全道的大水害が語り継がれ上富良野へ入植する契機となっている。例えば、広瀬ハルエ(明32年生まれ)は「夕張川の氾濫により、折角拓いた土地もすべて流されてしまいました」「東中では五十嵐農場や中島農場なども見て回ったが、水害に懲りているので水のつかない土地ということで、此処倍本農場にきめたようです」(「古老のテープ」昭55、『郷土をさぐる』3号)と語っている。ハルエの婚家、広瀬家は28年岐阜県から空知郡清真布(現栗沢町)へ移住して3年目に大水害に遭遇、32年に倍本農場に転入した。ハルエの生家(中西)は三重県から空知郡幌向村(パンケソーカ)へ31年5月に移住したばかりの秋、大水害にあったことになる。

 この災害は、第3章第2節「団体の離散」での指摘のように、移住者を「四離滅裂」に引き裂かざるを得ないほどの困難をもたらした。ハルエの祖父と西谷元右エ門夫人が従姉妹にあたり、幌向では近くに住んでいたことから、中西一家は先に東中に移住していた西谷元右エ門を頼りに大正元年移住した。

 また、福井県から来道した安井新右衛門は、土木・漁業などで成功すると、当別で開墾し、植え付けをした田畑を31年の石狩川の氾濫で失った。安井新右衛門の『記録』は「田畑共草出来は上等の処9月9日の大々洪水水害にて一物も取れず、3年続きの凶作に困難なす。炭焼を本分として漸く糊口を凌く」と記している。そして道長官から「水害者に対し食料、種物料、農具料として数回に金八十円余貸与相成利息なしにて年賦払にて」支給され、「大正六年全部払たり。大に助った」という。5代目にあたる安井敏雄氏が述べるように、新右衛門は大きな川のない上川行きを指向し、中富良野旭中に新天地を求めて34年移住した(『郷土をさぐる』2号)。しかし、新右衛門の期待に反して翌年から2年続きの凶作という現実であった。彼は『移住者成績調査第二編』(明42)にも登場する成功者の一人であり、『記録』は災害の事実を、家族の動向も交えて淡々と記している。

 

 災害の記録

 前項に見たように31年の洪水は全道を襲い、富良野の被害は『北海道毎日』(9・18)によると「富良野村水害の為め浸水家屋八六、溺死一」、同紙(11・5)の管内水害調では「富良野村(人口一八三名[ママ])は耕作反別(三四万反)、被害反別(一九万反)、収穫皆無田別(二二万反)、家屋流失(二戸)」であった。

 34年も全道的に水害に見まわれた年で、『東中開基八十年誌』の東中生活年表には「冷害凶作」、となっている。

 35年は「凶作及災害」の年(『北海道凶荒災害誌』)であって、安井新右衛門『記録』は「水田の大凶作にて種籾も取れぬ処沢山あり、幸ひ自分は、種籾自分と小作用丈取れる…今年も凶作の為め秋に炭籠を作り材木炭焼」をした、とその生活実態も伝えている。富良野地方の5月の水害は「ベベルイ川出水し、二三日より家屋四〇戸浸水し、道路破壊、耕地破壊など少なからず」(『北海タイムス』5・29)であった。

 36年は「水稲はウンカ虫が多発して反当一俵位の収穫にて、二年続きの凶作なり困難す」、翌年も「七月大洪水ありて川向の新田二反歩流さる」と新右衛門は『記録』に綴っている。実は、この37年の上富良野における大洪水は「降雨量一五七・七mm」に達し、「七月九〜十一日に至り降雨連続、諸川氾濫全道に大雨洪水」に達し、札幌につぎ2番目の降雨量であった(『殖民公報』第22号)。

 40年前後の記録は見い出せなかった。44年は、春には「降雨にて中富良野東一線北十四号沿岸に水車業富田徳馬の用水溝堤防破壊、国道五十間路上に浸水し、人馬往来不通」(『北海タイムス』4・15)、夏は「降雨多量八月暴風雨あり」(岩崎与一『郷土史調べ』)という水害の年であった。翌年の春も富良野川の融雪による増水のため、大混乱となり「富良野川が中富良野下富良野間の堤防破壊、鉄道線路破損、線路八九寸浸水人家六七十戸下富良野と中富良野から折返し運転」(『小樽新聞』4・17)をせねばならなかった。

 移住者にとって災害との闘いは絶え間なかった。新右衛門は三十七年には潅漑用水溝を出願し、翌年許可を得た。行政は、33年に「水難救護労務賃金定率の件」認可を受けて救護対策を施し、36年に役場にて気象観測を開始。37年の水害救済事務打ち合せのため、三浦戸長は7月19日上川支庁への参庁認可を受けていた(34年『総代会書類』)。また、39年『引継書類綴』の現金引渡しの中に「凶作地義援金 七七円七五銭」の項目がみられる。