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3章 明治時代の上富良野 第7節 明治期の教育と青年会

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4、「小学校令」改正後の教育状況

 

 明治41年の「小学校令」改正

 明治40年3月、勅令第52号により「小学校令」が改正された。これにより尋常小学校の修業年限、すなわち義務教育年限が4カ年から6カ年に改められ、高等小学校の修業年限も2カ年、もしくは延長して3カ年と定められた。また尋常小学校の教科目も「修身・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操」となり、女子は「裁縫」、土地の状況により「手工」が加えられ、また「農業」・「商業」などが随意科目とされた。つまりこれまで高等小学校の教科目だったものが尋常小学校の教科目となったのであり、この改正令は昭和16年の「国民学校令」まで適用された。

 この改正「小学校令」は翌41年4月より実施されたが、これにより上富良野の各小学校も再編成がなされた。まず上富良野尋常高等小学校は尋常科6カ年、高等科2カ年に編成され、東中富良野尋常小学校は6カ年となるかわりに補習科が廃止、上富良野簡易教育所はこれを機に上富良野尋常小学校に組織変更された。

 

 校舎の増改築

 ところが義務教育年限が4カ年から6カ年に変更されれば、確実に生徒数は増大し、従来の高等小学校の教科目を教授するためにも学校設備の充実が不可欠となる。上富良野でも、明治41年4月の改正小学校令実施を前に、各小学校において校舎の増改築がなされた。上富良野尋常高等小学校では明治40年6月15日に56坪の増築を行った。内訳は2教室と付属廊下、児童玄関などで費用825円は有志の寄付によってまかなわれた。また同年12月28日にも裁縫室14坪、住宅6坪、教員住宅兼児童寄宿舎22坪7合5勺、計42坪7合5勺の増築が行われ、建築費600円は村費でまかない、校地の地ならしは校下有志の労力奉仕によってなされた(『上富良野志』、『上富良野小学校開校八〇周年記念誌』)。東中富良野尋常小学校でも、明治40年に間口6間×奥行3間の教室と教員住宅の増築が、福家登代次郎、松岡勘蔵を建設委員として行われ(『上富良野志』)、41年にも事務室9坪、宿直室10坪5合の増築が行われている(『旧村史原稿』)。

 上富良野簡易教育所でも、尋常小学校となる直前の明治41年3月1日より、同校としては初めての校舎増築工事に着手し、同月31日に竣工した。当時上富良野簡易教育所の通学区域内は、戸数80戸で児童がようやく増加してきたこと、住民の資力が充実し義務教育年限延長が尋常小学校への組織変更によい機会と認識されたことなどが増築の理由であり(『村勢調査基楚』、『上富良野志』)、教室20坪、玄関1坪5合、便所4坪75合の総建坪26坪25合の増築と玄関、便所の小規模な模様替えを行った。工事費540円は通学区域内の寄付でまかない、吉田貞吉、田村栄次郎、高士仁左衛門、田中常次郎、石垣源十郎が建築委員となった(『創成小学校沿革志』上富良野西小蔵、ただし『上富良野志』では総建坪31坪5合、4月工事着手、5月中竣工となっている)。

 一方学校の設備拡張に関しては、明治42年3月23日に開催された上川管内町村戸長会議でも問題となっており、小学校の教授上必要な器具、機械の設備を少なくとも明治42年度内か43年度の始期、つまり最初の尋常第6学年が進級するまでには完成することが指示されている(「指示事項」『町村戸長会議録附参考書類』)。また同年9月の会議においても、5、6学年の児童の収容に向けて尋常小学校の設備拡張に取り組むことが会議の議題となっており(「町村長戸長会議事項」『町村戸長会議録附参考書類』)、校舎の増改築を含めた急速な設備拡張が上川管内全体の教育政策上の課題であったことがうかがえる。上富良野でも改正小学校令施行直前の設備拡張だけでは不充分で、その後も毎年のように校舎の増改築が行われた。明治42年2月8日には、上富良野尋常高等小学校が学校敷地として1町2反6畝の付与を受け(『上富良野志』)、明治43年7月16日には上富良野尋常小学校で2回めの校舎増築が行われた。ただし今回は物置3坪・住宅3坪、総建坪6坪と小規模な工事で、費用は43円71銭7厘、田村栄治郎が建築監督をした(『創成小学校沿革志』)。また明治44年には上富良野尋常高等小学校で再び校舎増築が計画されている。この増築は生徒大幅増によるもので、3教室、廊下、便所の総建坪27坪と大規模な工事となった。そのため工事費も1406円80銭5厘と高額になったが、これも寄付金でまかなわれ、同年6月30日に竣工した。当校では翌45年6月15日にも裁縫室や小便室の一部造作替えをし、水流し場が設置されている(『上富良野小学校沿革志』上富良野小学校蔵)。

 

 増改築への不満と赤井校長の転任

 ところでこのような増改築は、改正「小学校令」施行以前もそうであったが、ほとんどがその学校の通学区域内有志の寄付によるものであった。これは、ただでさえ教育費増大に悩む町村にとって増改築の費用まで負担不可能であり、一日も早く子供の教育機関を確保したい地域住民が、自発的に学校建築を進めるより仕方がなかったからである。ところが以前からの度重なる増改築による負担過重からであろうか、上川管内では認可を得た設計書に基づいて施工していない校舎や、欠陥工事により完成後すぐに倒壊する校舎、さらに認可には別の設計図を提出しておいて実際には認可前に着工している校舎など、杜撰な工事が続出した(「町村長戸長会議事項」『町村戸長会議録附参考書類』)。もちろん上富良野においてこのようなことがあったかどうかは明らかではないが、ただ学校の増改築が地域住民にとって、金銭面を含めて負担となっていたことは事実である。

 明治43年3月5日の「東中富良野尋常小学校長ニ関スル件」(『明治四十三年自一月至十二月親展書綴』)によると、東中富良野尋常小学校の通学区域の住民たちが、当時の校長である赤井鶴也への不満を理由に、学校の増築費の負担を拒んでいることが、村長から上川支庁に対して報告されている。これによると、東中富良野尋常小学校は入学児童の増加により増築が必要となり、通学地域内の有志、とくに村会議員の住友與平や越智初太郎などがこれを呼びかけたが、部長の井上善助や土井貞次、福家豊次、岩崎虎之助らが反対し、赤井校長在任中は一切の経費を負担しないことを明言したという。この間題は、一見すると地区の有力者間の対立と校長への不信が原因ともみえるが、報告では、

 

  右等反対者ノ中、井上福家ハ多少資産アルモ他ハ皆無資同様ノ小作人ナレハ同部落ニ名望ヲ有セス。目下増築ノ必要ヲ唱へ居ルモノハ、前記ノ住友與平、越智初太郎、田中亀八(村会議員ニテ村農会長)、松岡、尾崎等ニテ、住友、越智、田中ノ如キハ、同部落ノミナラス当村有数ノ資産家ニ候。反対ノ意見ヲ有スルモノハ、多クハ同部ノ我利的無資産ノモノナリ。

 

として、実は「無資産」の地区住民に反対者が多いことが指摘されている。これはたとえ「資産家」たちが増築費を一時的に負担しても、結局後になって「無資産」の小作人にその負担がはねかえってくることが見通されているからであろう。この間題は、赤井を4月22日付で山部尋常小学校訓導兼校長に転任させ、後任に稲村覚を迎えることで表面的に解決され、結局はこの年校舎35坪と玄関の増築が行われた(『旧村史原稿』)。しかしこの一件は、これまで何の抵抗もなく進められてきたようにみえる上富良野の教育拡充自体に疑問符が付けられたことを意味している。

 

 上富良野第一教育所の開校

 明治41年から大正に至る時期は、明治40年の富良野原野における残区画地の開放で多数の移住団体が入地したことにより、新たな教育所の開設が村内の各地区にみられた。明治41年3月には、「小学校令」の改正にともない「簡易教育規程」、「旧土人児童教育規程」、「特別教育規程」が廃止され、これら3つの規程の内容をまとめるかたちで「特別教育規程」の改正がなされた。これによると、町村で尋常小学校設置の費用が負担できない場合に教育所を設けて尋常小学校に代え得るとされたが、新設された教育所はこの規程に基づいている。

 明治41年7月11日には上富良野第一教育所(のちの江花小学校、現上富良野西小学校に統合)が開校され、13日より授業を開始した(『村勢調査基楚』)。この地区は、明治39年村木久次郎が上富良野村エホロカンベツ原野200余町歩の貸し付けを受けて農場経営を開始して以降、土佐団体、山形団体、秋田団体などが入植したが、最初上富良野尋常高等小学校の通学区域に入っていたため、児童は2里近い伐開道路を往復していた。そこで村木らが主唱奔走して認可を受け、村木農場内の中川八次郎宅(現西4線北24号)を修理して仮校舎とし、第一教育所を開校した。初代の教員は伊藤鉉治であったが赴任が遅れ、上富良野尋常高等小学校の横田豊吉や北原稔が代行で授業を行い、伊藤の着任を待ったという(『江花小学校開校五十周年記念誌』)。

 

 上富良野第二教育所の開校

 また明治43年4月7日には上富良野第二教育所(現江幌小学校)が開校した。第二教育所の設置は、エホロカンベツの移住者増加による学齢児童の収容を目的としたもので、既に42年12月には校舎敷地の無償付与の認可を受けている(『自明治四十四年一月以降至大正七年度諸指令一件綴』)。場所は西8線北28号、最初の校舎面積は28坪、初代教員は脇山弥作であったが、3月29日の時点ではまだ任命されておらず(「教員異動ニ関スル件」『明治四十三年自一月至十二月親展書綴』)、開校ぎりぎりになって教員の確保がなされたものとみられる。また校舎の建築資金に関しては、明治42年1月に都築一意他150名より寄付の申し出がなされており、明治43年4月13日にこれを許容することが村会で決議された(「第二教育所建築寄付出願ノ件」、明治43年『村会議事録』)。

 その後第二教育所は、翌44年に28坪の増築をし、さらに明治45年4月10日には、同時期に開校した教育所にさきがけて江幌尋常小学校に組織変更した。この時期の江幌小学校の生徒増加は、移住民の増加と尋常小学校への変更が重なって相当急激なもので、同年6月6日「教員増俸ノ件ニ付上申」(『大正元年度親展書綴』)には、これまで第二教育所が単級、生徒60名内外であったのが、今期は生徒が92名になり(但し『江幌小学校沿革誌』では78名となっており表3−25はそちらを採用した)、脇山1人では教授上差し支え、裁縫担当教員が裁縫以外の教科も担当していることが述べられている。

 

 第三、第四教育所の開校

 一方『自明治三十四年引継書類綴』の明治44年2月5日付「演述書」によると、

 

  培本農場附近、新井牧場、豊里団体ノ場所、何レモ現住者五六十戸ニ及ヒ就学児童亦四五十名ニ達ス。然レトモ通学不便ノ為メ、今日マテ未就学者ノミニテ今回三ヶ所ノ有志、教育所又ハ分校設立願出テタルニ依り、之ヲ村会ニ提議セシニ、更ニ臨時村会ヲ開会スルニ決定シ居レリ。

 

とあり、史料中の3カ所でも教育所の設置が望まれていたことが分かる。そこでこのような要望に答えるかたちで、明治44年10月25日には上富良野第三教育所(のちの里仁小学校、現上富良野西小学校に統合)が、11月11日には上富良野第四教育所(のちの日新小学校、現上富良野西小学校に統合)が開校した。

 上富良野第三教育所は、明治40年の豊里団体約20戸の入植後、明治43年には児童数が20名近くにも達し、既に神山翁宅にて寺子屋式教育を開始されていたが、明治44年4月に学校開設の認可を受け、10月6日には太田儀六が赴任し第三教育所として開校された。校舎の建坪は35坪、校舎建築費482円68銭は通学区域内住民の寄付によった(『里仁小学校開校五十周年記念誌』)。

 また上富良野第四教育所は、明治44年新井牧場場主新井鬼司と使用人北谷堂が牧場内及び付近の児童に教育を施したのがその前身である。それが新井の寄付により牧場内に校舎を建築し、11月11日に授業が開始された。校舎の建坪33坪で久世第二が教鞭をとった(『郷土をさぐる』第2、第3、第4、第11号)

 

 写真 開校当時の上富良野第三教育所

  ※ 掲載省略

 

 実業教育の充実

 明治41年改正「小学校令」で規定された尋常小学校の教科目には、手工、農業、商業など、いわゆる実業科目がある。これは明治国家の教育政策の底流に「実業教育」を重視する基調があることとも関わるが、殖民地である北海道ではとくにその傾向が強く、上川管内においても小学校令改正以前から実業科目や裁縫の加設が指示されていた(「上川支庁管内小学校長会議支庁長訓示演説要項」『明治三十九年七月ヨリ四十一年至親展書類』)。この傾向はその後も続き、上富良野尋常高等小学校では明治41年8月27日に「手工」科加設の認可を受け(『村勢調査基楚』)、さらに45年4月1日には高等科の「手工」科を廃止し「農業」科を設置した(『上富良野小学校開校八十周年記念誌』)。また明治42年5月25日には上富良野尋常小学校でも「手工」科の設置が認可されている。

 さらに時期は前後するが、明治41年11月24日には、村会において「上富良野村尋常小学校農業植樹実習地設立議按」が決議された(『村会決議関係議事録』役場蔵)。「議按」は実習地設立の理由を、

 

  国民教育ノ要旨ニ基キ地方ノ状況ヲ鑑ミ、小学校児童ヲシテ農業ニ関スル普通ノ知識ヲ得セシメ農業ノ趣味ヲ長セシムルニハ、時々其ノ土地実際ノ業務ニ就テ示教スルヲ専一トス。然ルニ本村各学校ニハ未タ完全ナル実習地ノ設備無之所、今回風防林ノ貸付ヲ好期トシ、如上二校(東中富良野、西中富良野尋常小学校……筆者注)ノ近附ニ於テ恰当ノ土地ヲ撰定シ、学校ニ対シ、農業植樹等実習セシムルノ可ナルヲ認メ本按ヲ提出ス。

 

としており、東中、西中の両校以外にも実習地が必要な学校には使用を許可するものとしている。これにより東中富良野尋常小学校が4000坪、また11月30日には上富良野尋常高等小学校が4400坪の実習地の借り受けを申し出ている。

 一方女子の「裁縫」科は明治30年代から比較的容易に加設が進んでいたが、明治40年代になると問題も出てくる。というのも明治40年以降、上富良野では師範学校や高等女学校の卒業生が教員として採用され、高学歴の教員の配置が進んでいたが、それにもかかわらず明治45年3月12日には、上富良野尋常高等小学校が「裁縫専科教員」の採用を上申している(『大正元年度親展書綴』)。

 これによると、「裁縫専科教員」の採用を希望する理由は、高等女学校卒業生の婦女子の裁縫の素養が不充分で到底完全な教授をするのは無理である点、それならば実地において技倆を有する者を採用しその任務を担当させれば、子女教育は十分である点が挙げられており、「裁縫」科のような科目の場合、必ずしも高学歴の教員が適任とはいえないことが述べられている。この上申には女子教育をやや軽んずる傾向もみられるが、「今日ノ教育者ハ実ニ浅薄皮想ニシテ真ノ教育家ト認ムルモノハ暁天ノ星ノ如シ」という一節には現代に通じる教育の問題点がよく表れている。

 

 学校医の増員

 明治期においては、トラホームの予防などの衛生面で学校医の役割は重い。上富良野では、明治39年10月牧諭輔に学校医を依頼したが、牧が明治31年文部省令第7号に規定された資格を有していなかったため、明治39年道庁訓令トラホーム予防規程により代用学校医として便宜上嘱託するにとどまった(『明治三十九年七月ヨリ四十一年至親展書綴』)。その後、明治42年に成瀬孝三、柳生萬之丞が任命され、それぞれが上富良野村内の小学校を2つに分けて担当した。

 成瀬は静岡県小笠郡日坂村に生まれ、明治39年旭川に移住、40年より上富良野にて開業した人物で(『上富良野志』)、上富良野尋常高等小学校、上富良野尋常小学校、第一、第二教育所、西中富良野尋常小学校を担当した(『明治四十三年自一月至十二月親展書綴』)。一方柳生は、宮城県栗原郡清瀧村に生まれ、明治31年医術開業試験に及第後、千葉県銚子町、宮城県桃生郡中津山村、同県本吉郡気仙沼の病院で勤務したのち、40年4月旭川に移住、42年に下富良野市街地で開業、さらに43年には南富良野村字幾寅に転居している(『北海道人名辞書』大3)。柳生の担当学校は中富良野尋常小学校と分教場、富問村分教授所、東9線尋常小学校、東中尋常小学校であった(『明治四十三年自一月至十二月親展書綴』)。