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3章 明治時代の上富良野 第7節 明治期の教育と青年会

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1、教育の始まり

 

 開村と寺子屋的教育

 上富良野において初等教育がスタートしたのは、開村の翌年にあたる明治31年(1898年)のことである。すなわち、この年赴任した島義空が、高田派専誠寺説教場において寺子屋的教育を行ったのが、その始まりである。明治18年8月に北海道内を巡視した金子堅太郎も『北海道三県巡視復命書』で述べているように、北海道の教育においては、経費の面からもまた教育に従事可能な人材の不足という点からも、僧侶が教員の供給源とみなされていたが、上富良野における初等教育も、まさに説教場における僧侶の役割の一部としてスタートしたのである。

 一方、明治32年3月には、東中富良野において雑貨店を開業していた神田和蔵が、自らの所有する3間×5間の小屋で教育を開始した。神田は大阪府出身、陸軍教導団で軍人教育を受け、この前年上富良野に移住した人物である(『上富良野志』明42)。

 

 簡易教育所への移行

 ところで神田は、教育を開始する際に自らの小屋を「簡易教育所」と名づけたといわれている(『東中郷土誌』昭27)が、これは明治31年2月に制定された「簡易教育規程」(庁令第2号)を意識してのことと推察される。この規程によると、成立5年未満の町村などでは、原則として6年以内の期限で簡易教育を行うことができ、簡易教育を出張教育と嘱託教育の2種類とし、出張教育は特別分教場を設けて毎月10日以上本校より教師を派遣して教育を行い、嘱託教育は町村居住の一私人で、相当の資格と設備をもつ者に町村の教育を嘱託することとしている。おそらく神田は、自らの教育活動を公的なものではないにせよ、いわゆる「嘱託教育」の代行と考えていたのではないだろうか。明治45年に作成された『村勢調査基楚』は、当時の教育状況を次のように伝えている。

 

  明治三十二年末、上富良野西中富良野東中富良野下富良野ノ四個所ニ簡易教育所ヲ設置シタルモ、末タ正当ノ手続ヲ経テ施行セシニアラス。教場ノ如キ多クハ一時民家ヲ借り受ケ、或ハ草葺小屋ヲ建テ之レニ充用シ、教員ノ如キ、亦地方ノ特志者ニ之ヲ托シ、僅少ノ報酬ヲ与ヘテ僅カニ実施セシニ過キス。

 

 一方、この史料にある4つの「簡易教育所」を正式な簡易教育所とする申請が道庁に提出されたのは、明治32年12月のことである(『総代会書類』役場蔵)。つまり開校後ほとんどすぐに申請を出したことになるわけだが、このことは上富良野における初等教育が、「簡易教育規程」制定の時期と重なったこともあって(『新北海道史』第4巻通説3、昭48)、スタートの段階で既に寺子屋的教育からの脱却と公的な簡易教育所の開設を目指していたことを意味する。

 

 簡易教育所の開設と尋常小学校設置への努力

 さて、上富良野、西中富良野、東中富良野、下富良野の「簡易教育所」が、道庁から正式な簡易教育所としての認可を受けたのは、明治33年4月2日のことである(『総代会書類』)。これをもとに、4月中には上富良野簡易教育所(のちの創成小学校、現上富良野西小学校に統合)が西2線北28号の共有家屋(草小屋)を仮校舎に授業を開始し、9月9日には東中富良野簡易教育所(現東中小学校)が、東9線北17号の公共用地に掘立・柾葺で3間×6間の校舎を建築し、ここで授業を開始した。この時の教育所開設のありさまを、『村勢調査基楚』では次のように伝えている。

 

  超ヘテ三十三年四月二日初メテ簡易教育所ノ施設ノ認可ヲ受ケ部落有志ノ寄附金ヲ以テ校舎ヲ建築シ、爰ニ稍々完備セル授業ヲ開始セシモ、教員ハ多クハ僧侶ヲ以テ之レニ充ツ。是畢竟人物ノ寡少ナルト経済ノ許サヽルトニ依リナリ。

 

 ところで、この道庁からの認可の条件をみると、上富良野における簡易教育施行の期限は、開始の月から3年以内と規定されている(『総代会書類』)。つまり3年後には尋常小学校へ移行することがこの時点で既に目標として掲げられているのである。とすればたとえ「経済ノ許サヽル」とも、3年後の尋常小学校化に向けて教員の確保や校舎敷地や樹栽地などの学校基本財産の確保、寄付金集めなどに直ちに取り組む必要がある。そこで明治33年11月16日には、上富良野村における学務委員の設置が許可され、教育行政の充実に向けての体制作りがなされている(『総代会書類』)。また明治34年3月12日には、東中富良野簡易教育所に対して、東9線104番地の土地1万5000坪が小学校敷地を目的として付与され、同年9月6日にはさらにその残地4万3500坪が実業樹栽地の名目で付与されている。さらに明治34年11月15日付「引継書類」にも(『自明治三十四年引継書類綴』役場蔵)、明治34年度中には上富良野簡易教育所を尋常小学校に変更することが、総代人と地区の有志との協議により決定され、その際寄付金により校舎を新築すること、校舎敷地と樹栽地付与の出願中であることが記されている。また東中富良野簡易教育所でも、先に述べた付属樹栽地付与認可にともない、明治35年度中の尋常小学校設置の計画が地区の有志間において進展していることがうかがえる。