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3章 明治時代の上富良野 第6節 開拓期の交通と通信

277-284p

2、鉄道の開通

 

 北海道における鉄道政策

 こでは、北海道における鉄道政策の推移を、『新北海道史』(第3・4巻)等を参考にしつつ概観してみたい。

 北海道に初めて鉄道が開通したのは、手宮・札幌間で、開拓使時代の明治13年(1880)11月のことであり、日本で3番目の鉄道であった。これは、幌内炭鉱の石炭を小樽港に運ぶことを目的とした幌内鉄道の一部として開通したものであった。幌内鉄道は同15年に手宮・幌内聞が全通するが、経営が思わしくなく、やがて、同22年には民間に払い下げられることになり、以後、その路線は北海道炭礦鉄道株式会社によって運営されることになる。炭礦鉄道は、移民の増加、沿線住民の定着等を背景に実績を上げ、同25年までに小樽・室蘭両港から岩見沢を経て空知太まで路線を延ばし、その沿線における開拓の飛躍的発展をもたらした。

 しかしながら、鉄道建設には多額の費用が必要であり、また、その運営には、移民の増加、開墾の進展にともなう農産物輸送の拡大など諸条件が整う必要があった。それ故に当初、開拓の基礎事業として急がれたのは、幹線道路の整備であった。拓地殖民、経費節減を期待されて設置された北海道庁も初期交通運輸政策の中心をそこに置いていた。

 それが明治20年代後半になると、にわかに鉄道を中心とした拓殖政策が立案されるに至る。これは、当時農村で発生していた過剰人口のはけ口として、また、予想される世界貿易の競争激化に応ずるために必要な国力の拡充を支える富源地として、さらに、極東地域での殖民地経営を強化しつつあったロシアに対する軍事的要衝として、北海道に対する関心が高まり、その開拓が、より効果的に、より早急に成し遂げられる必要が生じたためである。

 この当時の鉄道を中心とする開拓意見を代表するのが、明治26年3月に、第4代北海道庁長官北垣国道が井上馨内務大臣の求めに応じてまとめた「北海道開拓意見具申書」(『新撰北海道史』第6巻史料2)である。

 この中で、北垣は、当時国内で高まっていた北海道拓殖論を踏まえ、また、開拓に際して北海道炭礦鉄道が挙げた成果などを念頭に置きながら、予想される列国間の貿易に日本が参入するためには、第1に鉄道を建設し、次に港湾を整備し、その次に、排水、運河、道路工事に着手して開拓のための基礎条件を整えて、「我国ノ一大富源」たる北海道を開拓することが急務であると説いている。

 そして、北垣はその第1に取り組むべき鉄道の路線として、函館・小樽間、空知太・根室・網走間の2線を挙げ、さらに後者について、「空知太ヨリ雨龍、上川、帯広、大津、釧路、標茶、網走ヲ経テ、根室ニ達ス」と説明している。

 この路線のうち、「上川、帯広」に関しては、北垣が同年12月にまとめた『北海道鉄道予定幹線略図解』(北海道大学附属図書館北方資料室蔵)により詳しい説明がされているので、それを示そう。

 

 旭川ヨリ十勝太ニ至ル      百三十八哩

 旭川ヨリ分岐シテ上川御料地内貸下地ノ中央道路敷地ヲ仮用シ美英〔ママ〕川岸平坦ノ地ヲ過キ「ポロベツ」「ベベツ」ノ諸川ヲ渡り「ビバウシ」川ノ向フニ於テ美英〔ママ〕川ヲ横切リ平夷ナル丘陵ノ野ニ上リ「ビバウシ」及ヒ「エホロカンベツ」水源ノ北南ニ分流スル陵夷ヲ越エ(海面ヲ抜クコト七百八十尺)「フラヌ」原野ニ出ツ此原野ハ空知川ノ流系ニ属スル一大平野ニシテ地質ハ第四紀層ナリ其内部沮洳ノ地多キヲ以テ線路ハ東部ノ山蹄ニ取リ字「エホロシ」ニ至テ空知川ヲ渡リ(幅凡二百四十尺)専ラ南岸ノ広原ニ就キ「ヤマイツナシベツ」等ノ川流ヲ横断シ「ツナシベツ」前後ニアル断崖凡六千尺余ノ間ヲ過キ「ルーマソラチ」ニ出同川ニ沿ヒ「ルベシベ」支流ヲ遡リ石狩十勝国境ノ山脈ヲ破リ「パンケシントク」ニ出テ十勝大原野ノ中央ヲ横断シテ帯広ヲ過キ十勝太ニ達ス

 

 富良野原野を経由する鉄道路線の建設が、具体的なルートを示して主張されたのは、恐らくこれが初めてであろう。富良野原野の東部を通るこのルートは、前項で述べた「幻の中央道路」の予定路線と同じであり、上川と十勝を結ぶ交通路線の開設が、北海道開拓を成就させるための急務として、今度は鉄道に名をかえて再び主張されたのである。

 その後、鉄道建設の必要が国会や民間にも認められるようになったが、明治27・8両年にわたる日清戦争が終わると、ロシアとの緊張が高まったことや賠償金によって財政規模が拡大したことなどによって、北海道における官設鉄道敷設の必要が一層高まった。

 こうした中、明治25年以来、北海道庁、北海道炭礦鉄道、旭川の住民等各方面から強い要望が出ていた、空知太・旭川間の鉄道敷設が、同29年2月に29・30両年度の継続事業としてようやく予算化されることになった。道庁は、これに応じて臨時北海道鉄道敷設部を設けその準備に当った。

 また、貴族院議員近衛篤麿らは「天賦の富源」「北門の鎖鑰」たる北海道を開発するには、こうした一部の路線だけでなく、北海道全体を見通した幹線路の整備が必要であるとして、法案を議会に提出した。これは議会の審議を経たのち、「北海道鉄道敷設法」として、明治29年5月に公布された。ここに北海道官設鉄道が設立されることになった。

 北海道官設鉄道は、その後、鉄道国有化の動きに対応して、明治38年に北海道庁から逓信省に移管された。さらに、日露戦争後、国力の拡充が叫ばれると、政府は同39年に「鉄道国有化法案」を議会に提出し、それを成立させた。こうして、北海道官設鉄道の路線は、買収された、北海道炭礦鉄道、北海道鉄道の路線とともに、北海道国有鉄道の1路線となった。

 

 十勝線の予定線とその変更

 「北海道鉄道敷設法」は、予定線として、旭川・十勝太・厚岸・網走間、利別・相ノ内・厚岸・根室間、旭川・宗谷間、雨竜原野・増毛間、名寄・網走間、小樽・函館間をあげ、これを、3300万円で、明治30年度から期限を設けない継続事業として実施することを規定していた。

 この法律に基づき、北海道庁は帝国工科大学から田邊朔郎を招き、具体的な路線や建設順序、工費などの確定作業を進めた。道庁はその結果を「北海道官設鉄道調書」にまとめて拓殖務大臣に提出した。そしてそれは、帝国議会の協賛を得て、実施の運びとなった(『北海道鉄道百年史』上)。

 この調書によれば、富良野原野を経由する、旭川・網走間の路線317哩は、「拓殖並ニ兵備上特ニ急施ヲ要スルモノ」として第一期線に位置付けられた。第一期線として他に、旭川・宗谷間180哩、厚岸・根室間65哩があげられ、これらは明治30年度より12年間の継続事業とされた。第二期線は、小樽・函館間146哩、奈与呂(名寄)・網走間167哩、雨竜・増毛間40哩、利別川口・相ノ内間89哩で、第一期線に次いで起工するものとされた(「北海道官設鉄道調書」北海道立図書館蔵)。

 第一期線とされた旭川・網走間の路線のうち、旭川から富良野原野を通り十勝国帯広に至る路線を十勝線といった。一方、旭川から名寄を通り天塩国に至る路線を天塩線といった。十勝線のうち、旭川から富良野原野の南端を通過するまでのルートは、明治26年に北垣国道が『北海道鉄道予定幹線略図解』で示したルートとほぼ同じと考えられる。すなわち、旭川から分岐し、御料地内を通り、「ビバウシ」川と美瑛川の合流点付近で美瑛川を渡り、「ビバウシ」川と「エホロカンベツ」川の水源を南北に分ける丘陵を越え、「フラヌ」原野に出て、その東方を通り南端に達するルートである。

 しかしながら、明治32年12月に道庁の北海道鉄道部が発行した「第一回北海道鉄道部年報」(北海道大学附属図書館北方資料室蔵)によると、右の予定線は変更になったようである。年報は、「十勝線美瑛、下富良野間」の路線について、美瑛停車場から「上川、空知両郡ノ境界ヲ越ヘ富良野原野ニ出テ同原野ノ西部ヲ貫キ」と説明している。予定線で「同(富良野)原野ノ東方ヲ経テ」とあったのが、「同原野ノ西部」と変わったのである。

 この予定線の変更に関係すると思われる地図が、北海道開拓記念館に所蔵されている。それは明治30年の測設に基づいた「フラヌ原野区画図四葉 附鉄道線変更図壱葉」と題するもので、鉄道路線の変更にともなう区画地積の移動を示した表を掲載している。そして、この地図に富良野原野の西側を通る鉄道路線が示されているのである。

 右のことから、予定線の変更は、恐らく明治30年のことと思われる。路線変更の理由については、はっきりしたことはいえないが、泥炭地を避けて富良野原野の東方を選定してみたものの、やはり東南部の鳥沼付近の工事が困難と判断されたのであろう。

 『上富良野町史』に「鉄道測量当時上富良野から富良野に至る鉄道は開拓時代の十勝国道の線が予定されていたので、東中に駅ができることが予測され、急いでこの方面に入地した者があった」と記されているが、富良野原野への最初の入植は明治30年のことであるから、入地者のなかに、予定線の路線が変更になったことを知らなかったものがいたことは十分予想される。

 

 十勝線の開通

 富良野原野の西側に路線を変えた十勝線は、明治30年に着工され、同33年に下富良野まで開通した。現在の旭川・富良野駅間を走るJR富良野線である。着工の月については、『北海道庁第十二回拓殖年報』、『旭川市史稿』上巻は5月とするが、『第一回北海道鉄道部年報』は6月としている。

 旭川・下富良野間には辺別(現JR富良野線西神楽駅)、美瑛、上富良野、中富良野、下富良野の各駅が設けられた。旭川・辺別間は明治31年7月16日、辺別・美瑛間は同32年9月1日、美瑛・上富良野間は同年11月15日、上・中・下富良野間は同33年8月1日にそれぞれ開通した。その後、同年12月2日に下富良野・鹿越間、同34年9月3日に鹿越・落合間が開通した(『旭川市史稿』上巻)。

 落合以東については、狩勝隧道や屈曲した路線を含む落合・新得間が難工事で、明治40年9月8日になってようやく帯広まで開通した。同38年十月までに釧路・帯広間が開通していたので、ここに至って旭川・釧路間が全通となり、釧路町で全通式が挙行されたという(『殖民公報』第38号、明40・9)。これ以後、この区間全体は釧路線と呼ばれるようになった。

 工事については、上川・空知の郡界の丘陵地帯や、中・下富良野間の泥炭地で困難を呈し、明治31年にたびたび起こった水害で、橋が流されるなどの被害を受け、また、旭川から富良野原野までの道路整備が不十分で、必要な材料の確保に手間取るなど悪条件もあった。しかしながら、概して平坦な土地が多かったこともあり、こうした悪条件を克服しつつ工事はほぼ順調に進んだ(『第一回北海道鉄道部年報』)。

 各工区は請け負いに付されたが、請負人の中には、当初、材料欠乏、人夫不足、資金不足などを理由に着工を遅らせる者もいた。しかし、多額の保証金が没収せられるに及び、以後は、各人他と競って落成を急いだという(『北海道毎日新聞』明32・9・8)。

 また、鉄道工事は入植地ばかりでなく、隣接する既存の市街地にもいろいろな影響を与えた。例えば、工事中、「建築列車を以て官用品運搬に差支へなき限りは公衆の貨物の運送を許可」されたため、上富良野ではそれまで交通の便が悪くて高かった物価が大いに下がったという(『北海道毎日新聞』明32・10・3)。一方、工事には多くの人夫が雇われたが、彼らは「受負人又は組長とか云へる者」に虐待され、給料をもらえなかったり、また、冬季になって工事がなくなると解雇されたりした結果、旭川市街に集まり、さまざまな社会問題を引き起こしたという(『北海道毎日新聞』明32・11・22、明33・3・18)。

 

 上富良野駅の開業

 上富良野駅は明治32年11月15日に開業した。同年9月に美瑛駅が開業したときは、「旭川、美瑛間汽車開始に付旭川有志及び旭川倉庫課員其他沿道人民は盛なる祝賀をなし美瑛停車場附近にては仁輪加催しもあるとぞ」(『北海道毎日新聞』明32・8・29)、ということであったので、上富良野駅の開業に当ってもほぼ同じような状況ではなかったかと想像される。

 上富良野駅は同市街地に設置されたが、当初、3カ所にその予定地があった。1つは市街地、1つは基線と北15号の会する所、1つは三重団体貸下地である(『北海道毎日新聞』明31・1・22)。この内、基線と北15号の会する所については、後にその近くに中富良野駅が置かれた。また、他の2つについては、先掲した明治30年測設の「フラヌ原野区画図四葉 附鉄道線変更図壱葉」が参考になる。すなわち、そこには、三重団体貸下地に対応する、北27号と北28号、西1線と西2線に囲まれた場所(現日の出地区)に予定されていた上富良野駅を市街地に変更することが記されているのである。

 つまり、当初、現在の日の出地区に当るところに駅が予定されていたが、明治30年の鉄道路線変更に際してそれが市街地へと変更になったのである。

 明治34年6月11日に北海道庁長官が制定した「北海道鉄道部鉄道係員服務規程」によれば、駅職員として、駅長、助役、車掌、出札掛(乗車券、入場券の発売)、改札掛(乗車券、入場券の検査・収集)、貨物掛、小荷物掛、電信掛、操車掛、車号掛、車掌見習、電信掛見習、信号手、転轍手、制動手、警手、駅夫が置かれた(『北海道鉄道百年史』上)。

 駅長は、主に北海道庁に置かれた北海道鉄道部の書記から任用されたようである(『北海道毎日新聞』明33・7・12)。JR上富良野駅によれば、終戦後記録等を処分したため、就任退任の年月は不明であるというが、大正5年に至るまでの歴代駅長は次のとおりである。

 

 初代 京野作治  2代 倉田信次郎 3代 松本修北 4代 高山竹次郎

 

 こうした体制で、列車の運行が始まったのであるが、上富良野駅開業時の運転時刻、里程、運賃は次のようになっていた。

 

 

午前

午後

運賃(銭)

上富良野発

8:13

4:40

 

 

美瑛 〃

9:01

5:28

9.69

14

辺別 〃

9:39

6:06

18.40

26

旭川着

10:00

6:27

24.55

35

 

 

午前

午後

運賃(銭)

旭川発

6:00

2:07

 

 

辺別 〃

6:23

2:30

6.15

9

美瑛 〃

7:00

3:07

14.66

21

上富良野着

7:45

3:52

24.55

35

 (明32・11・15改正、『汽車汽船旅行案内』第66号、明33・3・1発行、交通博物館蔵)

 

 上富良野・旭川間1日2往復、上富良野から旭川への所要時間は1時間47分、逆は、1時間45分、運賃は35銭であった。

 ただし、この運賃については、明治31年2月の内務省告示・訓令に基づき、北海道移住民は道内の鉄道運賃を無料にするという特典が与えられていた(『新北海道史』第4巻通説3)。

 

 写真 鉄道開通当時の上富良野駅

 ※ 掲載省略

 

 上富良野駅の営業実績

 北海道官設鉄道時代の上富良野駅の営業実績は北海道鉄道部発行の年報によってわかる。明治32年から37年にかけてのそれを見ると、乗客数は、三等旅客では、平均6、7000人で、同33年が8532人と最も多くなっている。貨物数量は、34年までは、ほぼ2000d台であったが、35年から急に9000d以上に増加し、32年をのぞき、発送貨物の数量が圧倒的に多かった。発送・到着貨物双方を通じて、特に多かったのは、木材、枕木、米・雑穀類を中心とする農産物であった。

 その後の状況については、明治45年に北海道鉄道管理局が発行した『北海道鉄道沿線案内』に、同44年度の状況が記されているので、それによると、乗車人員2万4623人、降車人員2万4894人、発送貨物1万8288d(木材、農産物、石材、その他)、到着貨物2880d(肥料、その他)となっている。

 これらから、旅客、貸物ともに、ほぼ順調に業績を伸ばしていったといえよう。ただし、発送貨物の大部分は木材と枕木によって占められていた。これは、明治33年から35年にかけて、第七師団が札幌から旭川に移駐し、多くの物資が運び込まれたこと。また、その結果旭川が急速に発展したこと。さらに、日清戦争、日露戦争を経過し、日本の大陸進出が進み、木材・枕木等の輸出が増加したこと(『北海道鉄道百年史』上)。同40年に旭川・釧路間が全通したこと、などを背景としたものであった。こうしたことを考えると、上富良野駅の業績が順調に伸びたのは、上富良野の産業が発展したためとばかりは言えないようである。

 

 鉄道開通の影響

 鉄道の開通は沿線に大きな影響を及ぼした。鉄道開通前は、道路の不備もあって物価が高かったが、開通後は、「上川地方」に比べ余り変わらなくなったという(『北海道毎日新聞』明32・12・30)。

 また鉄道の開通は、市街地の発達にも寄与した。上・中・下の3富良野の市街地選定は鉄道開通に合わせて行なわれた。中でも、上富良野では、貸し下げ前に市街区画地に無願で入り込み、家を建てて住み始めたものもいたという(『北海道毎日新聞』明33・3・13)。これは後に立ち退きをめぐって一大問題となった。一方、正規に出願するものも多く、上富良野では200余通に達し、盛んに「競争運動」をするものもいたという(『北海道毎日新聞』明33・6・13)。こうした結果、地価の高騰が引き起こされた。

 鉄道工事の請け負いに当っては、官僚といかに関わるかが大きな問題であった。それ故、利権と地盤の拡大を狙って、政党が官僚との交渉を買って出るという動きが見られた。十勝線の工事請け負いにおいても憲政党がそうした動きを示したという(『北海道毎日新聞』明33・2・17)。結局、この交渉はうまくいかなかった。

 このような鉄道敷設に政党が積極的に介入するという動きは、大正以降顕著になるといわれる(『新北海道史』第4巻通説3)。

 十勝線において明治33年に早くもこうした動きが見られたことは、注目すべきことといえよう。

 上川と十勝の間に位置する富良野地域にとって、明治40年に旭川・釧路間が全通したことは大きな出来事であった。『殖民公報』(第41号、明41・3)は、それが上川地方に及ぼした影響として、次の点をあげている。すなわち、旭川町における宿泊人員は増えたものの、中間駅の各市街では2割減であったこと。これまで小樽方面から供給された鮮魚が釧路からも供給されるようになったこと。さらに、十勝方面に米を輸出できるようになるとともに、十勝からは大豆が上川方面にもたらされるようになったことなどである。恐らく、これらは上富良野に直接、間接の影響を与えたことと思われる。