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3章 明治時代の上富良野 第5節 市街地の形成と諸産業

262-266p

4、硫黄と石材

 

 硫黄鉱の発見

 北海道開拓を進めるため行われたものに、地形測量、殖民地撰定など一連の未開地調査があったが、もうひとつ開拓の重要な基礎事業として進められたのが、明治19年から22年かけて行われた全道に及ぶ地質調査であった。この調査によって道内の鉱物資源の概略が明らかにされ、24年には調査の成果をもとに『北海道鉱床調査報文』が発行されるのだが(『新北海道史』第4巻)、十勝岳の硫黄鉱床の発見、確認もこの調査のなかで行われた

 のである。この『北海道鉱床調査報文』では十勝岳の硫黄鉱区について、次のように報告している。

 

  硫黄鉱区ハ二ヶ所ニアリ。其一ハ噴火口ヨリ少シク下部ニシテ、険峻ナル山腹ニアリ。其面積凡五千坪ニシテ平均厚サ一尺五寸。硫鉱八万二千五百石アリ。

  又ソノ一ハ此ヨリ南直径凡半里ヲ隔タル山門ノ凹所ニ在り、其面積ハ凡四千坪。平均厚サ二尺ニシテ硫鉱八万八千石ヲ有セリ。

  此二ヶ所ノ硫鉱ヲ合算スレバ十七万石ナリ。斯ノ如キ良鉱ヲ発見セシ後モ、尚ホ空ク此山中ニ放棄シ置クハ、実ニ遺憾ニ堪エサレトモ、如何セン本山ハ本道ノ中央山脈ニ位シ路ヲ何レニ取ルモ運搬ノ不便ナルハ言ヲ俟タス。且ツ単ニ硫黄ノミヲ目的トシテ運路ヲ開通スヘキ価値ヲ有セサレハ、他日夫ノ沃野千里トモ称スへキ上川原野ニ人口蕃殖シ随テ鉄道ヲ布設スル期ニ達セハ、此硫黄山モ亦採掘ノ運ヲ開クニ至ラン。

 

 鉱床は2カ所、それぞれ8万2500石と8万8000石の埋蔵量で合計17万石。運搬の交通の便に問題はあるが、「斯ノ如キ良鉱ヲ発見セシ後モ、尚ホ空ク此山中ニ放棄シ置クハ、実ニ遺憾」と、この段階では極めて有望な硫黄鉱であると、ここでは報告されているのである。

 このようにして発見、確認された十勝岳の硫黄鉱床だが、資本家や鉱山関係者の動きには素早いものがある。『北海道鉱床調査報文』の発行から2年後の明治26年3月29日付『北海タイムス』には「ケンルニ山」、同じく27年2月9日付けには「オプタケシケ山」の硫黄試掘願いの記事が掲載されている。そして、この鉱区権をめぐる動きはひとつの騒動へと発展していったようである。

 

 硫黄鉱区をめぐる紛争

 明治34年4月16日付けの『北海タイムス』には「十勝岳硫黄鉱区事件」という『東京朝日』から転載記事が掲載されている。「目下農商務省鉱山局に於て調査中なる北海道上川郡十勝岳硫黄砿区採掘特許事件は久しき以前より葛藤を生じ居りしが今其真相を聞くに随分入込たる事情あり」との書き出しで始まるこの記事は、かなり長い記事なので内容を簡単に紹介すると、十勝岳の硫黄鉱区をめぐって競争出願が加熱、そのなかで札幌鉱山監督署の監督官補を巻き込んだ不正も発覚し、誰が採掘許可を得るかで大騒動になっているというのである。

 そして、そのほぼ1カ月後「十勝岳硫黄鉱許可せられん」という記事が『北海タイムス』(明34・5・22)に再び掲載され、騒動は解決したことが分かるが、「其後試掘出願人間に於ても種々協議の上、或は権利を譲り渡すもの之れを買受くるもの等雑多の手続を履行して大概其纏りもつき」と、記事のなかにはある種の談合ともとれる文言があり、紛争の複雑さを窺わせる。

 ただ、この騒動に関する新聞記事を通して、明らかになった事実もある。まず、十勝岳の2つある鉱床のうちひとつは既に北畠具視という人物が既に所有しており、騒動はもう一方をめぐって起きたということである。また、この出願競争の結果、小樽の商人である町野清平がもう一方の鉱床の採掘権を落手したと思われることなどである。

 この騒動に関しては、4月16日付の記事が『東京朝日』から転載であったことからもわかるように、道外でも関心を集めたかなり大きな出来事だったようで、それから半年後の10月23日、24日の2日にわたり『北海タイムス』は十勝岳硫黄鉱山の探訪記事を掲載している。ここからもいくつかの歴史的事実が分かるので、24日付けのものからその一部を紹介してみよう。

 

  精錬所の在る処は則ち既に蝦夷松及椴松帯の尽くる処にして、数町を上れば純然たる這松の外復一木の存ずるなし。尚登ると二十余町に至れば、全山悉く火山灰及凝灰岩の□山にして一の樹木なく草苔だに。さらに岩石を攀(よ)ずること数丁、則ち精錬所より約一里を隔てたる処に一小屋あり。内に硫黄の土塊数百石は蓄ふ。是れ昨年北畠某が採掘に着手したるに当り、鉱山監督署より停止を命ぜられたるを以て其侭放棄せるもの。然るに試みに之を手に取りて其品質を検すれば幾んど純粋の硫黄にして他の地方に於ける粗製品に優ること数等なり。若し此の如き硫黄十余万石存在するに於ては蓋し他に比類なき良山なるべしと言へば、渡邊氏は町野氏砿区に露出堆積するものは悉く皆是なりと、先づ余をして一驚を喫せしめたり。夫より此小屋を出て復た岩石の間を攀(よ)ぢりて数丁を登れば、則ち第一の硫黄噴出口に達す。今日現に黄色の純硫黄を吐出しつヽあるの下数丁間に渡りて一面の堆積硫黄あり。其露出せる部分のみを概算するも一万石に下らず。夫より尚崎嶇突兀の間を登れば至る処硫黄あり而してケンルニ山の絶頂に至れば、二個の大旧噴火口あり。其周囲数ヶ所より吐出しつヽある硫黄は、所々に堆積し累々として黄色の岩層を形成せるありて流て、一面の磐形を成せるあり。或は土石の下に埋没して纔(わずか)に一部の露頭を示せ〔ママ〕のあり壮観実に言ふ可らず。

 

 採掘の着手

 ところで、十勝岳における硫黄の明治期の歴史について述べている主なものとしては、『上富良野町史』と『美瑛町史』(第3巻、昭45)がある。そのなかで『上富良野町史』は硫黄採掘の着手については次のように述べる。

 

  十勝岳における硫黄採掘はヌッカクシフラヌイ川上流、ヌッカクシ山のふところにあるいわゆる旧噴火口から始まった。明治四十一年から四年乃至五年間で明治年間としては相当な機械設備をもっており原田某という陸軍少佐であったことが知られている。

 

 これに関しては『旧村史原稿』では「明治三十八、九年、翁温泉にて大島組が硫黄採掘を初めしも思わしからず同四十二年終に中止せり」とあるのだが、ともに先の新聞記事と照らし合わせると、騒動の結果、小樽の町野清平が落手した鉱床のことと思われる。これが大島組、さらには原田某に所有権が変わっていった経緯は不明だが、38年以前にも採掘が開始されていた可能性は高い。

 一方、『美瑛町史』では採掘の着手については、次のようにある。

 

  美瑛町の硫黄採取は、明治38年北畠具視の採取が最初といわれ、その後も経営は替わりながら事業は継続されていたが、採算がとれず数年にして解散した。その後、大正8年に平山硫黄株式会社が、十勝岳噴火口付近にある硫黄の採掘を企業化したが、大正15年5月の大爆発でその施設を失い、30年もの間放置されたままになっていた。

 

 先の探訪記事からも分かるように、この北畠具視が所有していた鉱床は、記事が書かれた34年段階で精錬所も施設され、さらには「是れ昨年北畠某が採掘に着手したるに当り」と、33年から採掘が始まっていたことを述べている。これらのことからいうと、十勝岳の硫黄採掘は多くの文献に記されてきた時期よりもはるかに早く、明治33年前後には開発が始まっていたと考えられるのである。

 

 生産の低迷

 明治期において硫黄は石炭に次ぐ北海道の主要鉱産物で、全国的な割合でも北海道がその60l以上を産出していたが、価格変動が激しく、とくに明治40年代は価格が下落したために、十勝岳の硫黄鉱も安定した経営には至らなかったようである。

 明治37年3月5日付け『北海タイムス』には次のような記事が掲載されている。

 

  十勝硫黄山と云へるは美瑛より四里餘距りたるところにあて〔ママ〕、此程來其の成績好良有望なるを或る新聞に記載されつヽありしが、何故か該事務所支配人某は某旅館より約千圓某料理店より約六百圓餘の金を引出し、何處へか姿を隠し事務員も亦行衛不明の由にて、豫て同所に雇われ居る工夫五十餘名は今は喰うに食物なく殆んど當惑の体にて、果ては激昂の餘り不穏の模様見ふるに依り、旭川警察署にては此の急報に接し右制止として巡査部長以下巡査を両三名一昨夜出張せしめたり。

 

 これは北畠具視が所有していた鉱区のことと思われるが、一支配人の不祥事とは違う意味があったと考えられる。また、40年2月22日付け『北海タイムス』には次のような記事も掲載されている。

 

  上川郡美瑛村美瑛字美瑛川支流ポンピエ川水源硫黄鑛區三十七万八千八百四十坪、及空知郡上富良野村フラヌイ川上流温泉澤硫黄鑛區五十五万六千四百五十五坪は、所有者札幌區南一條西七丁目渡邊寓治に於て鑛區税を納入せざるにより、來たる三月五日上川税務署に於て競賣に附する由。尚入札時間は五日午前十時より十一時までにして入札保証金五百圓なりと。

 

 30年代初めの採掘の開始から、十勝岳硫黄鉱の所有者は不明な部分を含め、かなりの変動があるとみられるのだが、この記事によると40年時点での所有者は、両鉱床とも渡邊寓治という人物であることになる。このことからいうと、明治期の所有者の変遷は予想以上に激しかったといえるだろう。

 

 石材の産出

 上富良野では開拓当初から昭和2、30年代にほぼ終わりを告げるまで、長く石材を産出していた。『明治三十三年度北海道鉄道部年報』の「重要品噸数取調表」で上富良野駅から発送された産物をみると、971dの石材が発送されている。この年、上富良野駅から発送された物産の合計は1727d。石材のほかでは木材が580.3d、薪炭が167.1dだから、これら3発送品でそのほとんどが占められることになり、重量からいえば最も多く送り出されていたのが石材ということになるのである。また、この「重要品噸数取調表」に掲載されている33年時点での上川線(砂川−旭川)、十勝線(旭川−鹿越)、手塩線(旭川−士別)の各駅のなかで、石材を送り出しているのは上富良野ただ1駅である。その分だけに貴重な産物であったともいえる。

 この時期、石材の需要がどのような性格を持っていたのか、「上富良野硬石山の発見」と題する、次の『北海道毎日新聞』(明33・5・24)の記事がひとつの手掛かりを与えてくれる。

 

  近頃上川地方に於いては鉄道工事、師団建築工事等の起りしより、其材料たる硬石の需要を感ずる事頗る夥しきも、従来同地方には硬石を産出する箇所少なくして、当業者は少なからざる困難を感じ居りしが、同区北一条西三丁日永倉某は空知郡上富良野東三線北二十六号付近にて硬石山を発見し、其筋の許可をえたる由にて、該石質はサンドストーンにして其質極めて堅緻、建築材料には最も適し、数量は優に三四十万切は伐出し得られ、位置は上フラヌ川に沿いたる高丘にありて、伐採容易なるのみか、上富良野停車場を距る僅に十五丁、旭川には二十五哩位にて、運搬便利なれば、有望の硬石山なりとの事にて目下伐採の準備中なりと。

 

 この硬石山が「東三線北二十六号付近」に実際にあったものか、詳細については不明だが、注目したいのは旭川では第七師団の移設が決まり多くの建築工事が始まっていたというところである。コンクリートで基礎を作る現代とは違い、当時は建物の基礎として石材は欠かせないものであった。一般の民家などの場合は手近にある大き目の石を利用した場合もあったようだが、師団工事となれば話は別であろう。この時期に安定した需要が生まれ、上富良野が石材の供給地になった背景にはこうした事情があったと考えられる。

 また、この記事にも「東三線北二十六号付近」という場所が明らかになっているが、石材を産出した地域は市街地の東側、とくに旭野が中心であったと伝えられている。国土地理院発行の『土地条件図』では、旭野周辺は十勝岳火山の大規模火砕流による十勝(溶結)凝灰岩などが堆積する地域となっている。正確な岩石の種類は不明だが、上富良野から産出される石材は、この火砕流によって運ばれてきた、相当古い時代の溶岩を採取していたものと考えられる。

 明治期の石材産出額をこの時期の統計史料から示すと、『上富良野志』には明治40年度で22万4100斤、価格2241円とされているほか、『上富良野村統計表原稿』では44年で1万4000個、1万円としている。なお、産出された石材の種類、産出を担った石材業者や石工の動向、あるいは採取の様子など、明治期に関する記録は全く残されていない。大正期に入ると聞き書き史料などが現れてくるので、これらについては次節以降を参照願いたい。