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3章 明治時代の上富良野 第5節 市街地の形成と諸産業

251-256p

2、明治期の商業

 

 商業の始まり

 明治期において北海道で広く行われていた商取引のひとつに「仕込取引」がある。入植間もない移住農民たちの手持ちの資金は限られている。そこで農民たちは農作物を収穫する前から作物を担保に、農具や営農資材はもとより、味噌、醤油などの日用品、さらには衣類や小間物まで、雑貨商と農産物商を兼ねていた商人(仕込商人)から貸し付け(仕込)を受け、収穫物でそれを精算するという方法で、必要な商品を手に入れたのである。これを一般的には「仕込取引」といった(『新北海道史』第4巻)。

 一方、雑貨商が農産物商を兼ねていたということは、「仕込取引」にはもう一つの役割があったことが分かる。つまり開拓当初、市場流通がまだ整備されていない段階において、この仕込商人(仕込取引)によって穀物などの農産物は市場に送り出されたのであり、農民の側からいえば作物を商品化できたということなのである。

 『上富良野志』には「米穀、荒物、海産、雑貨商」であった下村菊太郎に関する記録がある。そのなかで注目したいのは函館、小樽で海産商を営んでいた経歴であり、それらが「一小部分に止まれり」と記されていることである。おそらく当初は行商を営んでいた人物であったのであろう。

 当時、「仕込取引」で仕入れた農産物の多くは小樽、函館などの問屋(その多くは農産物だけでなく海産物も扱っていた)と取り引きされ、そこから道外へと移出されて行った。つまり、仕込商人と小樽、函館の移出入間屋は極めて密接な関係にあったのである。また、仕込商人は開拓地に入ってきた行商人が、定住し雑貨荒物店を開業する場合も多かったともいわれている(『新北海道史』第4巻)。こうした背景をもとに下村菊太郎の取り扱い商品や経歴を考えると、典型的な仕込商人であったと考えられるのである。

 『旧村史原稿』には上富良野の商業の始まりについて次のように記されている。

 

  本村に始めて商業店舗を開始したるは、明治三十一年春金子庫三氏が三重団体に於て金物商の傍ら荒物雑貨等日用品を販売したるを以て嚆矢とす。それと前後して石井某氏中原茂七氏等が同様の店舗を現在の市街に開始す。

 

 ここでは取引形態に関する記述はない。だが、開拓当初における農産物の流通状況、あるいは最大の顧客である移住農民たちの経済状態は、雑貨商と農産物商を兼ねた商業者を必要としていた。こうしたことを考えると、上富良野においても「仕込取引」はかなり重要な意味をもっていたと思われるのである。

 

 雑貨店の取り扱い商品

 現在でいえば農協的役割にも通じるところのある「仕込取引」だったが、多少、難点もあった。つまり「農村漁村に於る小売業者は、日常の必需品其他多くの物品を需用者に貸売を為し、需要者は之が代償として収穫物、若しくは其売却代金を以て支払いをなすの習慣あるが故に、商品の価格従て高きを免れず」(『殖民公報』64)というのである。ただでも北海道の物価は高い傾向にあった。しかも、「仕込取引」は貸し付け(仕込)である以上、金利も加算される。商品の価格が高くならざるを得ないのは、おのずと明らかであろう。

 また、表3−20はこの時期に上富良野の雑貨店などで扱われた商品の種類や数量を知る一つの目安として、明治32年度から37年度までの『北海道鉄道年報』から、上富良野駅に到着した主な商品の数値をまとめたものである。なお、上富良野駅の設置は32年11月だから、32年度の数値は翌年3月までのものに当たる。約半年分にもかかわらず他年度に比べ数値的には大きいが、まだこの時点では上富良野から先の鉄道は開通していない。おそらくこの数値のなかには中富良野や下富良野地方向けのものも含まれ、さらには鉄道工事関係者の消費も含まれていると考えられる。

 表3−20に掲載した品目全体としては、食料品のなかで米の占める割合が意外に大きいことがまず目につく。また縄筵、鉄物といった営農資材の数値が大きいことも、開拓から間もない土地ならではの特色といえるだろう。ただ、この時期の移住者の増加に比べると量的な伸びはかなり緩やかである。このことは明治30年代、移住農民たちの生活も極めて苦しいものであったが、上富良野の商業者たちも経営に苦労したであろうことを推察させる。

 

 表3−20 重要品噸数取調報告書(到着駅・上富良野駅) (単位噸)

 

明治32年

明治33年

明治34年

明治35年

明治36年

明治37年

186.26

126.6

109.0

134.2

237.8

159.5

味噌

29.27

17.5

14.6

17.1

39.8

21.8

醤油

13.67

14.3

10.6

10.1

14.8

17.7

8.93

15.2

16.3

18.8

11.9

34.1

和酒

45.35

60.2

33.6

32.1

31.2

48.4

洋酒

2.16

3.9

2.5

1.7

2.6

2.2

鮮魚

3.78

12.5

8.0

14.8

12.0

17.2

塩魚

5.08

6.9

4.7

5.1

5.6

11.2

砂糖

6.70

6.7

7.4

5.9

11.4

11.9

縄筵

9.56

12.7

10.4

8.4

28.0

30.2

1.39

3.6

2.4

2.0

1.3

鉄物

9.65

6.9

2.8

2.5

3.0

10.3

石油

6.09

6.8

6.0

5.1

5.1

9.2

薪炭

0.50

1.2

0.0

0.3

3.7

0.0

木材

0.33

0.3

78.5

15.3

6.8

36.8

合計

328.72

295.3

306.8

273.4

415.0

410.5

   出典 『北海道鉄道年報』(明治32〜37年)

 

 金子庫三と金子商店

 先に紹介した『旧村史原稿』のなかで「本村に始めて商業店舗を開始したるは、明治三十一年春金子庫三氏が三重団体に於て金物商の傍ら荒物雑貨等日用品を販売したるを以て嚆矢とす」と記されていたように、金子庫三が上富良野における商業の創始者の一人であったことはよく知られている。『上富良野志』には経歴やその移住時期、活躍などについて、次のように記している。

 

  君は岩手県紫波郡日詰町に生まる。父業を継続して商業を営めり。明治二十五年渡北し旭川の商家に入りて商業に従事せり。然るに三十二年三月商業経営の目的を以て当地に移住し、一小店を設け雑貨を販売せしが、君の天性敏活と多年の実験に忽ち君の偉才を発揮し来り日一日に商運隆盛となり、今や本村第一の資産家なりと呼ばるヽのみならず、十勝線屈指の成功者として呼ばるヽに至れり

 

 ここからも分かるように、金子庫三は草分(西2線北28号付近)の「フラノ川のほとり」で「自分の掘立小屋を建て」営業を始め、鉄道開通後は市街地へ移り荒物雑貨、日用品、衣類などを手広く扱い、42年には「今の光町一丁目のあたりに水車の精米工場」を設立するなど(金子全一「大正時代の市街地」『郷土をさぐる』4号)、丸一幾久屋の屋号で知られる上富良野における有力商業者の1人となったのである。

 なお、『旧村史原稿』では上富良野への移住時期について「明治三十一年春」と記し、『上富良野志』は「三十二年三月」としている。また、『上富良野町史』では「三十一年草分に開店し、駅前、を経て」、十字街に「三十二年に定住し貸下げをうけた」と記し、前述の金子全一「大正時代の市街地」(同)では、草分へは32年、市街地へはその翌年と記している。史料それぞれがいずれも違う期日を掲げているわけだが、草分神社に奉納された木札では「明治参拾壱年六月拾九日(中略)掘立小屋建築移住ス。居スル事数日、翌年三月上富良野市街地ニ新築移樽ス」とあり、この期日が正しいと思われる。

 

 写真 市街地に開店時の幾久屋雑貨店

  ※ 掲載省略

 

 商業の創始者たち

『旧村史原稿』には金子庫三の記述に続き「それと前後して石井某氏中原茂七氏等が同様の店舗を現在の市街に開始す」とあったように、断片的ながらも明治期の商業者についていくつかの記録が残されている。ひとつは同じ『旧村史原稿』に「営業別創始者」として記されているものである。そのなかから木材など製造関係を除く明治期の商業者たちを紹介すると、以下の通りである。

 

 物品販売業

  明治三十一年、金子庫三氏三重団体に於て金物商の傍ら日用品の販売をなす。

 製造販売業

  豆腐 明治三十二年、現在の魚菜市場の所に館甚兵衛氏飲食店と兼業にて開始す。

  麹 明治四十年、上野某氏駅前現在土田氏の所に於て開始せり。

 運送業

  明治三十二年、鉄道開通と共に境柳輔〔ママ〕氏駅前に於て開始す。

 土木請負業

  同年、下出駒吉氏現在の松浦市兵衛氏宅前にて開業す。

 理髪業

  明治三十三年、駅前にて小笠原林三郎氏開業す。

 湯屋

  明治三十四年、安川某氏現在松浦市兵衛氏の所にて石屋兼業にて開始す。尚これ以前に湯屋業を営みたる者ある由なるも詳ならず。

 質屋業

  明治三十五年頃森川房吉氏三重団体より市街地に移り宿屋と共に開業す。

 飲食店業

  明治三十二年館甚兵衛氏豆腐製造販売業と共に現在の魚莱市場の所に営む。

 料理店業

  明治三十一、二年、駅前にて鈴木金次郎氏、同じ頃現在避病院の場所にて後藤某氏開業す。

 娯楽場

  明治三十九年現在泉川丈雄宅裏にて田村熊太郎氏料理屋兼業にて芝居小屋を開設す。

 

 また、市街地以外では東中で「明治三十一年〔ママ〕神田和蔵氏が東八線北十八号に於て雑貨荒物食糧品を販売したのが初めてヾある。それと前後して北條彦太郎氏、片山善平氏(みのや)、西谷仲次郎氏が呉服類を開店した」(『東中郷土誌』)ことが記録されているほか、里仁で「明治四十二年に佐々木兵蔵が雑貨店を始め、翌年の四十三年に津郷農場主の津郷三郎が開店し酒も販売」(『上富良野町史』)、江幌で「明治年代(三十年代という)に岡和田某が商店を開いた」(同)ことなどが記されている。

 

 明治40年代の商業者

 もうひとつ明治期における上富良野の商業者たちの動向を知る手掛かりとなるのは『上富良野志』である。発行時期からいえば明治41、2年の記録ということになるが、「第9章・商業」の「市街地」の項には次のように記されている。

 

  同地は十勝鉄道布設の為め停車場を設置せられしかば、開通と同時に交通の便を得て俄に発達進歩を為し、戸数二百七十、人口一千人以上に達せり。中に運送店境、森川、是安、加藤等あり。呉服店には金子、小林等あり。雑貨店には金子、下村、三谷、福屋、後藤、市田等あり。旅舎には森川、山本、鈴木、伊藤、山中等あり。料理屋には田村、犬塚、森、尾崎等あり。(中略)長谷写真及時計店あり。劇場は上市街の中央に屹立し(略)

 

 ここに記された商業者たちを、同じ『上富良野志』のなかの「興信録」などと照らし合わせながら、順にもう少し詳しく紹介すると、まず運送店に名前のある境柳助は『旧村史原稿』でも運送業創始者として名前が掲げられているが、32年鉄道の開通と同時に移住し運送業を始め、建築請負業にも手を広げていたという。移住前は江別野幌兵村で開墾の傍ら材木を業としており、造材目的と思われるが、37年に境牧場を開設した人物としても知られている。

 呉服店の金子とはいうまでもなく金子庫三である。同じく雑貨店にも名前があるが、巻末の広告では、取り扱い商品を呉服、雑貨としてマルイチ金子商店の名で掲載されている。また、呉服店の小林は小林高平と思われるが、「興信録」と巻末広告では金物商となっている。

 雑貨店では金子のほか、下村は先に述べた下村菊太郎であり、福屋は当時の役場収入役の福屋新が営んでいた商店である。ほかに「市街地」の項には書かれていないが、「興信録」には東8線で神田和蔵(ここでは32年の開業となっている)、東9線109番地で33年頃より松岡宗次が荒物商、また西2線北109番地で中野清次郎が土木請負業兼業で41年から営業などの記述がある。

 旅舎として名前の上げられている森川は、三重団体の一員として入植した森川房吉で、前項の『旧村史原稿』にも質屋業兼業で宿屋を始めた人物として名前がある。また、山本とは木材業で名前の知られた山本一郎で、マルイチ旅館の屋号で宿を経営していた。ほかに巻末の広告には質屋兼業で旅舎営業の廣濱伊蔵という名前がある。

 料理屋として上げられている田村は田村熊太郎。「元と侠客として其名遠近に知られた」(『富良野繁盛誌』大2)人物で、『旧村史原稿』にも芝居小屋・田村座の座主として名前が出ているが、兼業していた料理店の方は『富良野繁盛誌』の広告では店主・田村もよとなっている。また犬塚はマル加森伊勢屋の屋号で営業していた犬塚政吉、森はマル吉森盛楼の屋号で営業していた森傳吉でパリ床という当時としては酒落た屋号の理髪店を兼業していた。

 長谷写真及時計店と紹介されている店舗の経営は長谷藤十郎である。父・長谷藤右衛門はじめ一家で三重団体に加入して移住。入植時はまだ十代であったが、間もなく旭川に出て時計店で修業。41年に上富良野へと戻り、時計店、写真館以外にも印判朝日堂の兼業で開業した。ほかにも、「市街地」の項には書かれていないが、菓子商で35年に清日堂を開業した五味勝太郎、生肉販売などを経て陶器商を42年から始めた久保田茂利太、三重団体の一員として入植したが、32年に市街地へ移り待合営業を始めた城之口仁蔵など、明治期の多様な商業活動の一端が、『上富良野志』の「興信録」からは確認できる。

 なお、『明治四十三年八月・上川支庁管内一班』によれば、42年12月現在の職業別統計として上富良野(中富良野を含む)では、物品販売業80、製造業22、質屋業2、労力請負業1と記録されている。