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3章 明治時代の上富良野 第5節 市街地の形成と諸産業

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1、市街地の始まり

 

 市街予定地の測設

 第3章第1節「フラヌ原野の開放と農場の設置」に述べられているように、殖民地の区画は明治22年に樺戸郡新十津川で初めて実施されて以来、各殖民地でも行われるようになっていた。この殖民地撰定と区画測設で特徴的なのは、将来の町や村を想定した明確な計画性をもって設計されていたことである。そして、その設計の際の標準となったのが、29年に定められた殖民地撰定及区画施設規定(本庁決議)であった。それまで殖民区画の設計には統一された基準はなく多様な設計が行われていたのだが、ここで初めて統一規定が定められたことになる。そこでは「三〇〇戸ないし五〇〇戸に対する耕宅地ならびにこれに要する諸般の予定地をもって一村と仮定すること」(『新北海道史』第4巻)とされ、農耕区画地以外にも市街地や道路用地、役場などを建てる公有地、さらには病院、学校、神社、墓地などの公共地、薪炭用や防風用の役目をもつ樹木地などが、「諸般の予定地」として確保されていたのである。

 いうまでもないことだが、開拓当初の殖民区画地は未開の原野のなかに孤立して設定される。そこに入植する移住民たちは生活物資ひとつを入手するにしても、不便このうえない状況が待ちかまえていたわけである。市街地はこうした生活の不便をおぎない、さらには将来の農産物の集散や流通の機能をになうべき商工業地域として構想されたといえる。具体的には基線道路を基準として区画が配置され、1区画は間口6間、奥行14間の84坪以下とすること(殖民地撰定及区画施設規定第4条)などが定められていたが、実際は最初から市街地として区画を測設する場合や、当初は公共用地(市街予定地)として存置した上で移住者の動向に応じて測設する場合などがあったようである。富良野殖民地の場合も、この殖民地撰定及区画施設規定にほぼ準拠して「諸般の予定地」が設定されたと考えられる。

 上富良野では「空知郡富良野原野は上中下共に鉄道開通と同時市街地撰定の必要あるより、昨年七月中上川支庁より福井技師出張して之れか区画を行へる」(『北海道毎日新聞』明33・3・13)という新聞報道があり、32年に市街予定地の測設が行われたことが分かっている。つまり、最初から市街地区画が設けられていたのではなく、公共用地として存置されていたものを、鉄道の開通と合わせ測設し、市街地を設定したと考えられる。このことは「三十二年九月上中富良野市街地設定ノ為メ同上用地トシテ存置シタル公共用地ノ全部ハ三十六、三十七、両年度支庁報告色分図ニ據レバ己〔ママ〕ニ処分済ニ属スル」と、富良野原野区画図(明治30年測設、開拓記念館蔵)掲載の富良野原野区画地内地積表に添えられている但し書きの内容からも窺える。

 

 市街区画の貸付告示

 このような経緯を経て、明治33年6月、上富良野市街予定地設定貸付の告示が行われた。その内容について『小樽新聞』(明33・5・27)は次のように伝えている。

 

  石狩国上川郡神楽村字美瑛、空知郡富良野村字上富良野、中富良野、下富良野、及天塩国上川郡士別村字士別、同郡剣淵村字剣淵、和寒ノ七箇所に市街予定地を設定し貸付を為すを以て、貸付出願者は北海道国有未開地処分法施行規定に依るの外、左の各項を心得可き旨、道庁は昨日告示せり。尚ほ市街予定地区画地図面は所轄支庁に備へありと云ふ。

 一、未開地貸付願書は明治三十三年六月二十日より北海道庁上川支庁に於て受理す 但願書数区画数に満たるときは願書受理せさることあるへし

 二、貸付地積は一戸に付一区画を標準とす 但二区画以上の貸付を得んとする者は詮議の上特に許可することあるへし

 三、着手期限は許可の月より六箇月以内とす

 四、貸付地の成功期間は一箇年以内とす

 

 既に述べてきたように、富良野原野は殖民地開放と同時に十勝へと通じる鉄道の敷設が明らかになっており、また旭川と距離的に近いこともあって、人々の間では将来の発展が有望視される地域だった。それだけに上富良野市街地の貸し付けについても人々の関心は高く、この市街予定地設定貸付の告示が行われて1カ月もたたないうちに、予定区画は定数を満たす人気を集めたようである。その様子を当時の新聞は次のように伝えている。

 

  上富良野市街予定地出願競争 上川郡官線鉄道沿各市街予定地貸付出願希望者は非常に多き由なるが、上富良野の如きは願書二百通に達し盛に競争運動を為し居れりと云う。(『北海道毎日新聞』明33・6・13)

  石狩国上川郡神楽村字美瑛、空知郡富良野村字上富良野、中富良野、下富良野、手塩国上川郡士別村字士別、同郡剣淵村の市街予定地は貸付出願の数既に区画数に満ちたるを以て、貸付願書は昨日より受理せられず。(『北海道毎日新聞』明33・6・22)

 

 ところが、貸し付けは順調にはいかなかったようである。『村勢調査基楚』(明45)の明治42年上川支庁に宛てた調査事項報告のなかで、村統計係主任は「市街の開始ハ遥ニ後ニシテ其区画ヲ撰定シ、明治三十四年七月ノ交〔ママ〕ニ至リテ之ヲ貸付セリ。但シ従来無願ヲ以テ所々ニ家屋ヲ建築シ、商業ヲ営ミツヽアルモノハ十数戸アリタリキ」と記し、『上富良野志』も殖民の項目で「明治三十四年七月区画を更められ付与を為す」と記しているのである。これが事実であるとするならば、新聞などが伝えた貸し付けの告示や貸し付け出願が締め切られてから、ほぼ1年の空白があったことになる。また、「明治三十四年・総代会書類」(役場蔵)には申請が34年3月20日、許可が同年4月4日という上富良野市街地無償貸し付け許可書類(上川支庁指令第128号)が綴られている。『村勢調査基楚』や『上富良野志』の「三十四年七月」という日付が意味するところは不明だが、実際の貸し付けが当初の予定よりかなり後れて始まったことは、ここからも明らかといえるだろう。

 なぜ、このようなことになったのか、詳細については分からないところも多い。だが、新聞史料などをたどっていくと、「市街の開始」が遅れるに至った理由の一つと考えられる事実が浮かび上がってきた。

 

 無願建築と立ち退き問題

 『村勢調査基楚』の報告のなかに「従来無願ヲ以テ所々ニ家屋ヲ建築シ、商業ヲ営ミツヽアルモノハ十数戸アリ」と記されていたように、市街地が設定される以前から、富良野原野では無願による建築が相次いでいたようである。だが、違法な無願建築を既成事実として、なし崩し的に認めるわけにはいかなかったのであろう。以下に紹介する『北海道毎日新聞』(明33・3・13)にもあるように、貸付告示を前に上川支庁はこれら無願建築について立ち退き命令を出していたのである。

 

  空知郡富良野原野は上中下共に鉄道開通と同時市街地撰定の必要あるより、昨年七月中上川支庁より福井技師出張して之れか区画を行へるに、其後地方の人気大に昂り、上富良野の如きは貸付を受ずして該区画地にドシドシ家屋を新築し、今や二十戸に近き建物ありて稍市街地の形を成すに至れり。然るに支庁は今回該地貸付に決したるを以て、無願建築を成したるものに立退の命令を発したるより、家屋所有者の驚き一方ならず。協議の上、誓願委員を派して現在の侭貸付ありたき旨を陳情したれど、支庁は若し斯る者に許可するに於ては、後来市街地設置の場合、悪慣例を残すを恐れ、全然此請願拒絶したるを以て、無願建築者は泣々立退の請書に調印したり。然るに下富良野に於ける私設駅逓兜谷精平は、此も無願にて市街地敷地内に家屋を建設したるに、新築後貸付指定せられたりと聞き、上富良野の無願建築者は其は好事例なり、駅逓は公共の用に充つるものにもせよ兜谷の私設に係るものには是特典を与え、我々には是非とも立退くべしと命ずるは支庁の処置偏頗なりとて、寄々協議の上、今一応支庁に迫らんと目下運動中なりと云う。

 

 しかし、この新聞記事では「無願建築者は泣々立退の請書に調印したり」とあるが、それから3カ月後である3月の貸付告示の時期を迎えても、この立ち退き問題はまだ解決には至らなかったようである。

 

 紛争への発展

 貸し付けの告示から3カ月、願書締め切りとの報道からは半年ほど後に、『北海道毎日新聞』(明33・9・9)には「富良野宅地貸下の魂胆」と題する次のような記事が掲載になっている。

 

  先に石狩天塩等に於ける宅地貸下けの告知あるや、富良野村居住の予備軍曹にて当時荒物商を営み居る神田和蔵、同村総代田丸正善及び某農場の管理人時岡勘次など□もの一攫千金の巨利を博□んと密々協議を凝らしたる末、三富良野に於ける停車場付近なる最も有望の宅地各十戸、都合三十戸を手に入れんとして戸長松下高道を瞞着し、種々様々の名称を用ゐて十数通の願書を調整し、表面他人の名義となし居るも、其実願書には悉く三名の者共が委任状を添付し、夫々手順を運びたるも、上川支庁部内に於て加担人を設けざれば事の成就し難きを慮かり、様々苦計を施こしたる結果同庁の老朽官吏第〇課長二子縞某なるものを抱き込み、同人の周旋を以て終には支庁長にまで甘く取り入り、彼等がかねて見込の通り事十二分に整いたれば、三富良野に於ける停車場付近有望の地は決して他の出願者に許可せざる手筈なるよし

 

 しかも、こうした内容の記事は、これ以降も9月19日、23日、26日、10月2日付けと続き、無願建築の立ち退きに端を発した問題は、上川支庁関係者や松下戸長を巻き込んだスキャンダル事件に発展したことを窺わせるのである。

 もちろん、こうした世間の耳目を集める事件へと発展した直接の原因は、上富良野で立ち退きを迫られていた人々の不満や反発であろう。この記事に書かれていることが、全て正しいかどうかは分からないが、当時の国有未開地の処分状況を考えると、貸し付けに一部、公正さを欠く例があったことは十分推察できる。

 そのためこの時期に至っても立ち退かずに、上川支庁と交渉している人々がいたことが、次の『北海道毎日新聞』(明33・9・18)の記事からも分かる。

 

  去る六月上中下三富良野宅地貸下げの告示あるや、前々より同地方に於て無願家屋の建築をなし、或は旅店或は荒物店等相当の営業をなし居る森澤熊吉、高井良助、志村米一、都築源次郎等四、五名は規則違反の廉を以て引き揚げ命令に接する場合は、忽ち営業に差支を生するのみならず一方ならぬ困難を感ずるに依り、是非とも元の所に居住して営業を継続せんものと右四、五名打ち連れ立ちて上川支庁に出頭(以下略)。

 

 だが、問題がこれほど大きくなったのは、やはり別の要素もあったと考えられる。おそらくこの種の問題は、上富良野に限ったものではなかったのであろう。土地の貸し付けや払い下げをめぐり各地で様々な不正があり、それが風評として伝わることで、一種の不公平感が当時の社会には広く蔓延していたと思われるのである。次に掲げる『北海道毎日新聞』(明33・9・30)の記事などは、その一端を伝えるものといえる。

 

  上川支庁に於ける宅地貸付の処分に付いては、毎日五十名百名宛召喚せらるヽにより、何時も門前は人山を築き居ることなるが、番号の都合によりては、朝八時頃より晩の四時五時頃まで待たせ置かるヽには何人も閉口するの外なし(略)▼上中下富良野共既に有望の箇所は予約済みとなり居ることなれば、毎日人民を召喚して取調ぶるも是れはホンの儀式的の調査に止まり、結果貸下げ難しの指令に接するは落ちなるべしとは、事情に通したる説なるが如し。

 

 この間題がどのような解決に至ったのかは、史料がほとんど残っていないために分からない。しかし、これが「市街の開始ハ遥ニ後ニシテ其区画ヲ撰定シ」と後に記録される一つの原因であったことは、十分に考えられるだろう。

 

 市街予定地の区画

 このような経緯のなかで測設、貸し付けられた上富良野市街予定地だが、区画図が一切、残されていないので、当初測設された区画数や1区画の面積など、詳細についてはほとんど分からない。だが、同時に告示された中富良野や下富良野などの市街区画図を模写したと思われる図面が、旭川市史編纂室に所蔵されている。これらを参考にどのような区画が測設されたかを考えてみる。

 まず中富良野市街予定地は駅を正面に鉄道と平行して5ブロックが2列、合計で10ブロックの区画が記され、その1ブロックをさらに路地をはさんで10区画ずつの20に分け、1号から200号まで通し番号が打ったものが図面に記されている。つまり、当初測設された中富良野市街予定地の区画数は200戸と考えられる。これに対し下富良野市街図に記された区画規模はさらに大きく、図面には「宅地戸数九百四拾四戸」という添え書きもあるが、区画の通し番号では970号までの数字を確認することができる。これに関しては、同じ旭川市史編纂室に所蔵されている『北海道の隆運』(明43)という史料のなかに、下富良野市街地について「市街地は三十四年の貸附に係り、宅地総区画数九百七十、二百五十戸分は未処分に属す」という記述があるところをみると、図面の番号通りおそらく970区画の測設があったのだと思われる。

 そこで上富良野だが、「明治三十四年・総代会書類」(役場蔵)に収められている、前述の34年4月4日付け上富良野市街地無償貸し付け許可書類(上川支庁指令第26号)には「明治三十四年三月二十日願石狩國空知郡富良野村字上フラヌ市街地自八百八拾六号至八百九拾五号ニ於ケル宅地目的ヲ以テ未開地八百四拾坪無償貸付ノ件許可候候左ノ通リ心得へシ」と記されている。

 これは先のスキャンダル記事のなかで「三富良野に於ける停車場付近なる最も有望の宅地各十戸」とされた区画に相当する可能性もあるのだが、それはさておき886から896号まで10区画の貸し付け許可が下りているということは、区画番号が900番台近くまで確実にあったということである。これらを勘案すると当初、測設された上富良野市街予定地の規模は下富良野と同規模か、戸長役場所在地だったことを加味するとそれ以上だったと考えられるのである。

 1区画の面積については、殖民地撰定及区画施設規定のなかで、間口6間・奥行14間の84坪以下とするとされていたことは既に述べた。また、前述の上富良野市街地無償貸し付け許可書類には、886号から895号までの10戸分、840坪の貸し付けを許可したことが記されている。つまり、1戸当たり84坪ということになる。このことから上富良野市街予定地の場合も1区画の面積については、殖民地撰定及区画施設規定の上限である84坪が基本区画であったと推察されるのである。

 

 旧市街地と新市街地

 このように計画的に将来の町を構想して設定され、貸し付けが始まった市街予定地だが、既に紹介した『村勢調査基楚』に「従来無願ヲ以テ所々ニ家屋ヲ建築シ、商業ヲ営ミツ、アルモノハ十数戸アリタリキ」と述べられていたように、駅の設置あるいは市街予定地設定以前から事実上、上富良野の市街地の形成は始まっていた。後に「旧市街地」と呼ばれる戸長役場周辺である。鉄道開通も迫った上富良野の近況を『北海道毎日新聞』(明32・10・3)は次のように伝えている。

 

  市街 旅店を始め湯屋雑貨店は日々増加し、現今旅店七、飲食店三、雑貨店四十余にて番外地は七十余戸ありて尚建築中のもの少なからず。而して同地は十勝工事の咽喉部にて交通頻繁なれば、今後尚発達の望み十分なり。

 

 「現今旅店七、飲食店三、雑貨店四十余」という記述は、『村勢調査基楚』の「商業ヲ営ミツ、アルモノハ十数戸アリタリキ」とかなり戸数に開きがある。この新聞記事の店舗数などを一概に信用することはできないが、鉄道開通を前にかなり市街地に近いものが形づくられていたことだけは間違いないであろう。

 一方、『旧村史原稿』にはこの「旧市街地」の様子と、後の「新市街地」形成への経緯が、次のように述べられている。

 

  旧市街地は平地にして乾燥地であり水質良く、鉄道開通の時は駅はこの場所に出来るとの見込の下に店舗も増加せるものなり。然るに明治三十二年十一月鉄道開通し、駅は現在の場所に建築せられ市街も次第にその付近に活気を呈するに至れり。

 

 ところが、「次第にその付近に活気を呈するに至れり」という時期がいつ頃であったのか、「新市街地」形成の本格化に関する詳細な記録はあまり残されていない。そのなかで数少ない記録の一つが『上川発達史』(明36)である。

 

  上富良野市街地は現在戸数六十余戸あり。停車場付近は卑湿にして水質悪しく為めに著しき発達を為さず。運送店及一、二旅人宿のあるのみ。市街は戸長役場付近に漸次形成せられるべし。

 

 『上川発達史』は発行が36年であることを考えると、この上富良野市街地の様子は市街予定地の貸し付け開始から1年近く経過した35年頃と思われる。前述の上富良野市街地無償貸し付け許可書類にも「一、貸付期間ハ壱ヶ年トス」とあり、宅地の場合の成功期間は1年のはずである。とするなら、停車場付近に「運送店及一、二旅人宿のあるのみ」というのは意外なほど市街地形成への歩みは遅い。しかも、「市街は戸長役場付近に漸次形成せられるべし」というのだから、既に駅が設置され、市街予定地が設定された後も、「旧市街地」の店舗や住宅などの建設は、駅付近を上回るかたちで続いていたことが推察できる。おそらく「新市街地」の本格化は、明治40年代以降ということになるのだろう。