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3章 明治時代の上富良野 第4節 明治期の農業と林業

235-239p

4、林業と林産物

 

 官林の解除

 明治19年の北海道土地払下規則、30年の北海道国有地処分法によって北海道では国有地の払い下げ、もしくは貸し下げなどの処分が進められてきたが、その拡大とともに問題となってきたのが無原則な伐採など山林への浸食や荒廃だった。そこで明治32年に北海道官有林種別調査規定が制定され、地種あるいは林種区分を明確にすることで、将来の山林保存を図るための調査が開始された。このとき官林は大まかにいうと一種林が国有林、二種林が公有林、三種林が私有林、四種林が不要存置林に分類され調査が進められたのだが、やがて官林解除によって国有未開地に組み入れられた四種林は、その接続地とともに牧場などに貸し下げられていくのである(『新北海道史』第4巻、『旭川営林局史』第1巻)。

 33年10月19日付の『北海道毎日新聞』は「北海道庁は去る十五日栗沢、勇払、富良野の第四種林を解除したり。其解除箇所左の如し」と、以下の富良野村における官林解除を報道している。

 

 石狩国空知郡富良野村ルーチマンソラブチ官林 158万562坪5合

 同 ペンケユクルペシユベ官林 673万625坪

 同 ユクトラシベツ官林 660万2062坪5合

 同 トナシユペツ官林 (甲)142万坪 (乙)930万750坪 (丙)86万9687坪5合

 同 ニシタップペンルナポンヌブル官林 74万1125坪

 同 アラヌイ官林 1572万750坪

 同 コルコニウシユベツ官林 1348万1625坪

 同 エホロカアンベツ官林 275万178坪5合

 

 また、34年10月30日付『北海タイムス』の「富良野通信」は、「昨年来官林解除の上、牧場名義の下、人民に貸付されし数千万坪の樹林地は、爾後余り人の注意を惹かざりしが、此頃に至り、同貸下地内の樹木を立木の侭買入れんもの、札樽地方より入込み来る人多ければ、本年冬季雪中に至らば、随分伐木の為め多少賑ふ事なるべく思はる」とも伝えている。富良野地域における造材の本格化、牧場での造材の始まりに関してはこのような背景があったのである。

 

 牧場と造材

 富良野盆地周辺で造材が本格化するなか、畜産の項で既に述べてきたように、上富良野でも大地積貸し下げによって明治期に開設された牧場では、その大半で造材が行われていた。なかでも、豊富な資源量と良質な木材を出したことで知られていたのが新井牧場(日新)である。『上富良野町史』では「カツラ、セン、ナラ等の巨木があって、三人で両手をひろげて抱き余る様なのが至るところにあり、各地を稼ぎ廻った杣夫も平原唯一と評したほど」で、「附与検査がうかってからも木材の切出しがつづいていて上富良野地方では他に余り例のない流送による搬出があった」と記している。

 また、新井牧場以外にも30年代では西川牧場(日の出)、岡部牧場(日の出)、堀川牧場(草分)など、また40年代に入ると第一及び第二作佐部牧場(清富)、霜取牧場(江花)など、各牧場における造材の様子が『上富良野町史』には述べられているが、典型的な造材目的の牧場のひとつとして、西川牧場について触れておこう。

 『上富良野町史』によると、牧場主は「神戸から北海道のドロ材を買いにきた西川竹松」。「上富良野駅の駅長をしていた某氏(どの駅長か不明)が、道庁で開拓係をしていた兄の厚意で貸下げをしてもらったが、駅長という職業から牧場経営が出来ずにこまっていた」土地を譲り受けて牧場を開設したとされる。西川竹松はこの造材によって財を得たのであろうか。『上富良野町史』には触れられていないことだが、「斎藤彌三郎、西川竹松両氏の合資経営にかゝる上富良野木工場にては、昨三日午後一時盛大なる開業式を挙げ、来賓七十餘名ありたり」(『北海タイムス』明40・11・6)という新聞記事からも分かるように、後に上富良野木工場の共同経営者となっている。

 西川竹松について、『上富良野志』は「君は三重県河藝郡玉垣村に生る。商業に従事せり。然るに明治三十一年を以て現在地に移住し當時農業に勤勉せしが、同三十四年十月より木材業に従事し、同三十九年牧畜に志し、昨今は木材業を休め牧畜専業となり牧場経営に盡力せり」と記している。ここで興味深いのは「三十四年十月より木材業に従事」とされているところである。『旧村史原稿』では西川竹松が木材の手挽販売を34年に始めたことになっており、直接にはこのことを指すのだろうが、『上富良野町史』は西川牧場開設も34年としているのである。つまり、牧場の開設と同時に木材の手挽工場を設立したことになるのだ。さらに引用文では「同三十九年牧畜に志し、昨今は木材業を休め牧畜専業」とするが、実際は既に述べたように40年、木工場の設立に乗り出している。その意味では「牧畜に志し」との記述はいささか疑わしいものといえるだろう。

 ただ、『上富良野志』は興信録に西川竹松を取り上げる一方、「工業者として最も多く知られたるものは、上富良野市街地に於ける上富良野木工場なりとす。該工場は旭川宮下町木材販売業斎藤氏の主宰する處たり。合資組織にて創立せしものなれば、其基礎鞏固にして業務盛大なり」と、上富良野木工場との関係には一切触れていない。理由については不明である。

 

 官林の立木払い下げ

 貸し下げとなった牧場での造材とともに、この時期、上富良野周辺では官林の立木払い下げによる造材も進められていた。官林木の払い下げについては明治21年に官林木特売規則、官林雑産物特売規則、官林産物公売規則、23年の官有森林原野及産物特別処分規則などの諸規則が制定されていたが、道内で民間資本による造材が盛んになるひとつのきっかけとなったのは、これらの規則の廃止に伴って公布された27年の北海道官有森林原野産物公売規定などの制定だった。ここではいくつかの規制が緩和され山林利用の機運が高まるとともに、35年公布の北海道国有林原野特別処分令によって、払い下げに関する制限がさらに緩められることになる。その結果、民間資本の随意契約による大規模な造材が可能になり、30年代から40年代にかけて道外資本をはじめとする製紙、マッチ軸木、タンニン、製材などの工場が次々と設立され、造材もより盛んになっていったのである(『新北海道史』第4巻、『旭川営林局史』第1巻)。

 この時期、上富良野周辺での動きを追うと、富良野沿線を含む上川地方はマッチの軸木になるドロノキが多かったので、33年旭川に浪花組製軸所、34年下富良野学田に岡田與雄の工場、37年南富良野鹿越に森製軸所など、まずマッチの製軸工場が設立されている。また、木挽などの製材工場も35年に三井物産砂川工場、40年に上富良野木工場、下富良野には本間牧場の本間十一らの共同経営による富良野産業株式会社など、動力を備えた木工場が操業を始めている。さらに、39年には本州の大手製紙会社である富士製紙が、金山での砕木パルプ工場の建設に着手するなど、造材の需要はますます高まっていった(『新北海道史』第4巻、『上川開発史』『上富良野地方史』)。

 なかでも上富良野の造材と最も関係の深かったのは三井物産砂川木工場である。明治期の北海道の林産物では主要なものに鉄道枕木があるが、主な需要は清国への輸出であった。しかし、当初、取り扱っていたのは外国商人であり、投機性の強い取り引きであったことから三井物産が進出、生産から輸出までを手がけるため砂川に工場を設置したのである(『新北海道史』第4巻)。『上富良野町史』には、

 

  江幌第二部落の須貝特太郎宅附近に事務所と飯場があって大勢の杣夫がはたらいていた。赤ケット(毛布)に藁の爪甲といういでたちで材木、マタビキ等にしたがった期間が何年あったかよくわからないが、静修地区までの各沢々で事業を終わるまでには少くとも数年かかったものと思う。

 

など、三井物産による江幌での造材の様子が記されており、ほかに静修における造材についても触れられている。なお、『上川開発史』は「明治三十三年ごろの立木価格は、一尺締について、エゾマツ二四銭、トドマツ二三銭、セン二二銭、ヤチダモ、アカダモ二〇銭、その他の雑木は一五銭〜一六銭、ドロノキは百石、五円程度であった」と記している。

 

 明治期の林産物

 表3−15は明治32年度から37年度の『北海道鉄道部年報』(北海道鉄道部)に収載されている「重要品頓数取調表」をもとに、農産物同様、上富良野駅から発送された林産物の数量をまとめたものである。木材に限っても33年の580dが翌年は3倍の1634d、その翌年もさらに3倍の5842dと、34年と35年を境に林産物の発送量は急激な伸びをみせていることがこの表からは分かる。既に述べてきたように上富良野で牧場の開設が始まったのは34年である。また、三井物産の造材進出の時期ともほぼ重なっている。これらのことからも、牧場の開設や三井物産の進出が上富良野の造材に大きな意味をもっていたことが窺えるのである。

 この時期の林産物としては角材や挽材、丸太、鉄道枕木、柾、銃床、下駄材のほか薪、木炭などが知られているが、上富良野(中富良野を含む)におけるこれらの産出量を表3―16から3−19までに掲げた。ただし、これらも農産物の統計同様、表記の不統一や数量・金額の激変が相場や需要などの外的な要因によるものか、誤記なのか判断できないところがある。そこでここでも史料ごとに年度別の産出量、あるいは移出量を掲げている。

 

 表3−15 重要品頓数取調表(発送駅・上富良野駅)(単位・頓)

 

木材

枕木

薪炭

明治32年

23.29

158.64

6.31

明治33年

580.30

 

167.10

明治34年

1,634.20

28.20

28.00

明治35年

5,842.80

539.00

892.20

明治36年

6,541.60

1,308.00

2.00

明治37年

7,515.00

1,085.00

91.00

   出典 『北海道鉄道年報』(明治32〜37年)

 

 表3−16 明治40年林産物

 

数量

価格

木材

3,175,416斤

102,640円

枕木

11,119

22,240

木炭

39,322

2,940

   出典 『上富良野志』

 

 表3−17 明治41年林産物

 

数量

価格

木材

10,000尺〆

10,000円

挽材

5,000尺〆

2,500

丸太

320尺〆

200

白楊丸太

450尺〆

405

1,700丸

700

枕木

10,000挺

1,500

下駄材

1,000駄

100

木炭

10,000貫

400

   出典 『村勢調査基楚』

 

 表3−18 明治42年林産物

 

数量

価格

丸および角材

40,000尺〆

36,000円

挽材

10,000石

10,000

鉄道枕木

25,000挺

6,250

木炭

150,000貫

3,750

   出典 『上川支庁管内統計一班』

 

 表3−19 明治45年林産物

 

数量

価格

丸および角材

69,132尺〆

 

挽材

22,000石

 

銃床

 

5,500丸

 

鉄道枕木

11,370挺

 

22,654棚

 

その他

1,870円

 

木炭

547,800〆

 

   出典 『上川開発史』

 

 造材と移住民

 このように牧場などの山林から次々と材木が切り出されていた当時の上富良野だが、造材は地域の経済や移住民たちの生活にも様々な影響を与えていた。『村勢調査基楚』は「殖民地ノ状況」として次のように記している。

 

  一般部民ハ、両三年前迄ハ、材木ノ搬出盛ナリシ為メ、副業ニテ得ル所ノ利益多カリシ為メ、稍々豊富ノ状態ニアリシモ、近年材木界不振ノ結果ト頻年凶作ノ為メ、多クハ困難ノ状態ニアリ

 

 移住民たちにとって、明治期は営農基盤が整っていない時期だけに、農作物以外から現金収入を得ることは、極めて重要な意味をもっていた。とくに、搬出の関係から造材は冬季に集中していたといわれる。農閑期に現金収入を得られるということは有利な条件であり、当時の農民たちが冬季間、ほとんど造材に出ていたというのもうなずける。

 また、『上富良野町史』は三井物産の造材と移住民の関係については、次のように記している。

 

  移住者はこの造材用に出来ていた形だけの林間の道路を通って入地し、先づ第一番に三井物産の造材した時のウラ材をきって生活のための金にしたが、このウラ木の材を買って製材し利益を上げたのが伊藤七郎右エ門(木工場)だった。

  このウラ木がなくなるとこのトラシエホロカンベツ川の入地者の中には前造材会社である三井物産の砂川木工場(空知)に働きに行くものもあった。

 

 ただ、『村勢調査基楚』にも記されているように、林業界にも景気の波があり、その好不況は移民たちの生活を直撃することにもなったのである。