第3章 明治時代の上富良野 第4節 明治期の農業と林業
220-230p
2、商品作物への取り組み
開拓地での作付け
先に紹介した『旧村史原稿』の「三重団体の移民入地するや直ちに僅かの地積を拓きて、食糧たる馬鈴薯蕎麦麦等の作付をなし、以て本村開拓の先駆をなす」という記述にもあるように、雑穀や豆類を中心とした自給用作物の作付けから上富良野の農業は始まった。主食の米を補うものとして主要な作物であった粟や稗、稲黍、さらには大麦や小麦、裸麦など麦類、蕎麦や玉蜀黍、馬鈴薯、そして大豆や小豆をはじめとする豆類などが、開墾間もない耕作地に作付けされていったのである。
開墾に着手して間もない時期の作物の様子を、具体的に記録した史料に『島津農場関係資料』(海江田家蔵)がある。そのなかから明治34年度の「富良野農場作物景況」を以下に紹介する。
明治三十四年富良野農場作物景況
一、富良野農場作物は三十二、三十三ノ両年共六月中旬降霜ノ為メ諸作物発芽セシ分ハ総テ被害甚シカリシ為メ三十四年度ニハ霜害ノ憂アル者ハ□□六月中旬ニ発芽スル様播種セリ。故ニ成熟期為メニ十日以上モ後レクルヲ以テ秋霜(九月二十七、八日ノ両日大霜)ノ為メ収穫皆無ノ者モ少カラズ。先ツ作物ノ類別景況左ノ如シ。
大豆、小豆
一、大豆ハ発芽生育良好ニシテ九月ノ霜害アリシモ壱分□ノ被害ヲ受ケタリ。晩熟ノ分ハ五分ノ被害ヲ受ケ先ツ壱反歩ノ平均収穫ハ五斗余ナリ。
小豆ハ九月ノ霜害ノ為メ皆無卜云フ程ニテ高燥地ノ分ハ弐分位ノ収穫ヲ得タリ。
稲黍、粟
一、稲黍ハ小作人食用主要作ニシテ、発芽生育良好ニシテ、十分ノ作ナラントノ目的ナリシニ八月出穂ニ際シ俗ニ黒穂ト云フ者発生シ、甚シキ場所ハ少シモ収穫セサル場所アリ。故ニ一反歩ノ平均ハ六斗余ノ収実ナリ。粟ハ三十二年度ニ虫害ニ罹リシ故カ作者少ク其景況豫想シ難シト雖モ稲黍ト同様□□小作人等ノ食用主作物トナラン。壱反歩ノ収穫ハ六斗余ナリ。
大麦、小麦、燕麦
一、大小麦ハ末タ新開地ニシテ耕作者少ク発芽生育ハ良好ニシテ一反分平均五斗余ノ収実アリ。燕麦ハ成育良好ニシテ一反歩弐石余ノ収実アリ。
菜種、蕎麦
一、菜種ハ昨年九、十月ニ播種シ本年八月ニ収穫セリ。壱反歩ニ付平均八斗余ノ収実ナリ。霜害ノ憂ナキヲ以テ、将来小作人販売用ノ主作物トナラン。蕎麦ハ成育良好ナリシモ開花ノ時機雨量多カリシ為メ収実減シ一反分ニ平均五斗余ノ収実ナリ。
馬鈴薯、豌豆、大角豆類
一、馬鈴薯ハ□□他ニ比シ十分収穫アリシモ、気候ノ為メカ三十四年度ハ北海道全道馬鈴薯役病ト云フ害虫発生為ニ□口口ハ一反歩□□□ニ少クモ三十俵アリシモ僅カ十五俵位ノ収穫ナリシ。豌豆、大角豆類ハ大福豆及鶉豆ノ如キハ九月霜害ノ為メ収穫皆無□□。豌豆ハ一反分五斗余収実ナリ。
大豆の1反当たりの収量が5斗、小豆皆無、稲黍6斗、粟6斗、馬鈴薯15俵など、ここには極めて低い作況が並び、ある程度の収穫を得たのは燕麦と菜種くらいであったことが分かる。前年には多くの小作人が無断退場し、島津農場自体が厳しい状況に追い込まれていたのだが、「富良野農場作物景況」というこの報告からは、厳しい自然条件のなかで収穫が上がらず、苦闘しているであろう移住民たちの姿が日に浮かぶようである。
なお、同じ史料のなかから、34年における各作物の上富良野での1石当たり売買相場を、旭川での取引価格とともに表3−5に掲げた。
表3−5 明治34年上富良野・旭川農産物価格表(1石当たり)
品種 |
3月 |
6月 |
9月 |
12月 |
平均 |
上富良野 |
粳米 |
9円00銭0 |
9円20銭0 |
9円20銭0 |
8円50銭0 |
8円97銭5 |
|
大豆 |
5円50銭0 |
5円50銭0 |
5円50銭0 |
4円50銭0 |
5円25銭0 |
4円00銭0 |
小豆 |
3円50銭0 |
4円00銭0 |
6円50銭0 |
7円00銭0 |
5円25銭0 |
4円50銭0 |
大麦 |
3円70銭0 |
3円80銭0 |
4円00銭0 |
4円00銭0 |
3円87銭5 |
2円50銭0 |
小麦 |
5円00銭0 |
5円50銭0 |
6円00銭0 |
5円20銭0 |
5円42銭5 |
4円00銭0 |
燕麦 |
2円20銭0 |
2円30銭0 |
1円80銭0 |
1円80銭0 |
2円02銭5 |
1円50銭0 |
裸麦 |
4円30銭0 |
4円30銭0 |
4円50銭0 |
5円00銭0 |
4円52銭5 |
|
蕎麦 |
2円50銭0 |
3円00銭0 |
3円20銭0 |
3円50銭0 |
3円05銭0 |
2円80銭0 |
矼豆 |
3円50銭0 |
3円50銭0 |
3円80銭0 |
5円00銭0 |
3円95銭0 |
|
豌豆 |
3円80銭0 |
4円00銭0 |
4円00銭0 |
3円80銭0 |
3円90銭0 |
3円00銭0 |
大福豆 |
7円50銭0 |
6円00銭0 |
6円00銭0 |
5円60銭0 |
6円27銭5 |
|
蜀黍 |
3円00銭0 |
3円20銭0 |
3円00銭0 |
3円00銭0 |
3円05銭0 |
|
亜麻種 |
|
|
5円80銭0 |
5円50銭0 |
5円65銭0 |
|
玉蜀黍 |
3円00銭0 |
3円50銭0 |
3円50銭0 |
3円30銭0 |
3円32銭5 |
|
黍 |
2円00銭0 |
3円00銭0 |
3円50銭0 |
4円00銭0 |
3円12銭5 |
3円00巍0 |
馬鈴薯 |
2円00銭0 |
2円00銭0 |
2円00銭0 |
2円00銭0 |
2円00銭0 |
2円00銭0 |
薹 |
|
|
7円50銭0 |
8円50銭0 |
8円00銭0 |
6円00銭0 |
芋麻 |
1円50銭0 |
1円50銭0 |
1円60銭0 |
1円50銭0 |
1円52銭5 |
|
亜麻莖 |
|
|
3円50銭0 |
3円50銭0 |
3円50銭0 |
|
出典 『島津農場関係史料』『上川便覧』
自給生産から商品作物へ
このように苦難の連続から始まった作物への取り組みだが、自給生産から商品作物の耕作へ営農が本格化した時期は明治35年前後と考えられる。表3−6は明治32年度から37年度までの『北海道鉄道年報』に記載されている「重要品噸数取調報告」をもとに、上富良野駅から発送された農産物の数量をまとめたものである。この時期の農業統計は下富良野あるいは中富良野との分村前であることから、上富良野に絞り込んだデータはなかなか確認できないのだが、33年に下富良野まで鉄道が開通して以降の上富良野駅からの発送は、ほぼ上富良野地域に限定された数字と考えてよい。その意味では貴重な統計といえるが、ここから分かることは、合計で34年までは2桁で推移してきた発送量が、35年は291.9d、36年は821.7d、37年は1703.3dと、35、6年を境に急激に増加していることである。つまり、上富良野で営農の本格化が始まった時期が35年前後というのは、ここから裏付けられるのである。また、送り出された各作物のなかで、発送量の多いことで目につくのは、やはり小豆をはじめとした豆類、さらには燕麦、壼V(うんたい:菜種)の3作物である。やがてこれらは上富良野農業の畑作主要作物に育っていくのだが、『北海道農業発達史』(道立総合経済研究所、昭33)、『新北海道史』(第4巻)などを参考にして、以下にその背景について紹介する。
30年代から既に豆類については、北海道における最大の移出農産物であったが、なかでも小豆は餡や菓子の原料として8割近くが道外に移出され、市場において独占的地位を占めていたといわれる。それだけに商品価値も高く移住民たちは早くから積極的に小豆の作付けに取り組んだと考えられる。
これに対し大豆は味噌、醤油、豆腐、納豆の原料や大豆油の製造に使われるなど、重要な農作物ではあったが、需要が大きかった分、この時期から既に大陸産大豆が大量に輸入され、小豆のように道産大豆は独占的地位を占めることはできなかったといわれる。しかし、油分が少なく蛋白質が比較的多かったことから、大陸産大豆と競合しつつ醤油、味噌、豆腐の原料として次第に移出量を増やしていった。
また、小豆など以上の発送量をみせる壼V(菜種)は、前項で紹介した「富良野農場作物景況」のなかでも「霜害ノ憂ナキヲ以テ、将来小作人販売用ノ主作物トナラン」と述べられているように、栽培が比較的容易で冷害にも強かったことから、移住民たちは積極的に作付けに取り組んだとみられる。豆類同様、壼Vも道内での消費は限られていたが、道産壼Vは油の歩止りが良いことなど品質面で人気も高く、搾油原料として道外から買入れに来るものが増加していったといわれる。
燕麦については当初から家畜の飼料用として栽培された作物だが、上富良野における作付け拡大の背景には、軍馬の飼料を必要としていた旭川の第七師団の存在が大きいと考えられる。30年代後半には燕麦共同販売会が組織され、札幌に設置された陸軍糧秣本廠札幌派出所を通し全国の各師団に供給されるようになると、さらに作付けは拡大していくのだが、燕麦共同販売会などの動きについては、後の「明治期の農業団体」の項で詳しく触れることにする。
ところで、表3−6ではその他に分類される農産物の発送量が極めて多い。詳細については不明だが、いくつかは推定される作物がある。まず、ひとつは島津農場で小作人の多くが退場した後、直営で取り組んだとされる牧草である。『島津農場沿革』によると35年で100町歩に播種したとされ、収穫のすべてが移出されただろうから、これだけでも収穫はかなりの数量に上ると思われる。また、上富良野がこの時期、第七師団が移設されるなど、人口が急増しつつある旭川の後背地でもあったことを考えると、玉葱、甘藍(かんらん:キャベツ)、蘿蔔(らふく:だいこん)、胡蘿蔔(こらふく)、牛蒡(くごぼう)、さらには未熟状態の矼豆(ささげ)、豌豆、菜豆など、作付けされた蔬菜類も、自家消費されるだけではなく、かなりの量が移出に回されたと思われるのである。
なお、表3−7から表3−10までの4つの表は、現在、確認することのできる明治期の史料のなかから、上富良野(中富良野を含む)の農業生産をまとめたものである。ただ、これらの統計では史料により取り上げている作物が違うなど表記が統一されておらず、さらにいえば年度ごとの生産量、生産額の激変が随所にみられ、これが冷害や価格相場に影響されたものなのか、単なる誤記か、判断のつかないものがある。そこでこれらの統計をひとつの表にはまとめないで、史料ごとに年度別の生産額を各表に掲げている。
表3−6 重要品噸数取調報告表(発送駅・上富良野駅)(単位噸)
|
明治32年 |
明治33年 |
明治34年 |
明治35年 |
明治36年 |
明治37年 |
大麦 |
|
0.2 |
1.0 |
1.2 |
9.8 |
3.5 |
小麦 |
|
2.3 |
1.1 |
21.0 |
63.7 |
34.6 |
裸麦 |
|
2.5 |
6.2 |
6.0 |
42.4 |
62.7 |
蕎麦 |
|
11.5 |
0.8 |
66.5 |
12.9 |
21.3 |
燕麦 |
|
3.0 |
4.6 |
3.8 |
145.7 |
274.9 |
大豆 |
|
13.0 |
1.1 |
32.0 |
24.1 |
27.3 |
小豆 |
|
10.3 |
0.9 |
4.5 |
114.8 |
267.8 |
菜豆 |
|
23.6 |
2.4 |
5.1 |
20.7 |
43.6 |
豌豆 |
|
0.2 |
0.0 |
1.6 |
1.3 |
11.4 |
玉蜀黍 |
|
3.2 |
8.9 |
2.7 |
6.8 |
9.3 |
粟 |
|
0.1 |
0.6 |
0.0 |
0.0 |
0.0 |
黍 |
|
2.7 |
3.2 |
9.8 |
0.3 |
15.1 |
甘藍 |
|
2.3 |
0.0 |
0.3 |
0.5 |
0.0 |
林檎 |
|
0.2 |
1.5 |
0.3 |
0.1 |
0.3 |
馬鈴薯 |
|
0.6 |
0.2 |
1.6 |
1.1 |
6.9 |
麻 |
|
0.3 |
0.0 |
0.0 |
0.0 |
0.0 |
亜麻 |
|
|
0.0 |
0.0 |
0.0 |
0.0 |
玉葱 |
|
0.1 |
0.1 |
0.4 |
0.0 |
0.0 |
繭 |
|
|
0.0 |
0.0 |
|
0.0 |
薹 |
|
|
|
0.0 |
117.3 |
53.6 |
その他 |
|
2.0 |
1.6 |
133.7 |
255.4 |
871.0 |
合計 |
28.19 |
81.1 |
35.7 |
291.9 |
81.7 |
1,703.3 |
出典 『北海道鉄道年報』(明治32〜37年)
表3−7 明治36〜38年農作物
|
明治36年 |
明治37年 |
明治38年 |
|
米 |
耕作反別 |
70町 |
70 |
120 |
収穫高 |
250石 |
770 |
840 |
|
麦 |
耕作反別 |
−町 |
470 |
520 |
収穫高 |
−石 |
3246 |
5000 |
|
燕麦 |
耕作反別 |
100町 |
120 |
170 |
収穫高 |
3500石 |
2500 |
3230 |
|
玉蜀黍 |
耕作反別 |
100町 |
107 |
112 |
収穫高 |
1300石 |
1123 |
1170 |
|
稲黍 |
耕作反別 |
200町 |
200 |
210 |
収穫高 |
1200石 |
1960 |
2000 |
|
大豆 |
耕作反別 |
100町 |
58 |
61 |
収穫高 |
700石 |
377 |
366 |
|
小麦 |
耕作反別 |
50町 |
79 |
95.3 |
収穫高 |
350石 |
750 |
903 |
|
馬鈴薯 |
耕作反別 |
70町 |
50 |
55 |
収穫高 |
4900石 |
2250 |
3000 |
|
薹 |
耕作反別 |
170町 |
112 |
155 |
収穫高 |
1530石 |
896 |
? |
出典 『明治39年・上川支庁管内統計一班』
表3−8 明治40年農作物
|
村内物資 |
輪出 |
||
数量 |
時価 |
数量 |
時価 |
|
大豆 |
366石 |
2,930円 |
− |
− |
小豆 |
5,503石 |
44,024円 |
4,932石 |
44,388円 |
豌豆 |
338石 |
3,173円 |
− |
− |
稲黍 |
2,000石 |
6,400円 |
− |
− |
玉蜀黍(雑穀) |
1,170石 |
3,200円 |
1,900石 |
9,500円 |
馬鈴薯 |
133,000貫 |
3,330円 |
− |
− |
甘藍 |
21,600貫 |
1,728円 |
− |
− |
蘿蔔 |
30,000貫 |
1,500円 |
− |
− |
米 |
840石 |
9,240円 |
42石 |
5,000円 |
大麦 |
165石 |
743円 |
− |
− |
裸麦 |
5,625石 |
33,750円 |
− |
− |
小麦(麦) |
2,768石 |
19,376円 |
1,977石 |
13,839円 |
菜種 |
575石 |
4,888円 |
397石 |
9,600円 |
牧草 |
240噸 |
6,720円 |
675噸 |
1,215円 |
出典 『上富良野志』
表3−9 明治41年農産物
|
村内物資 |
輸出 |
||
数量 |
時価 |
数量 |
時価 |
|
大豆 |
280石 |
1,400円 |
200石 |
1,000円 |
小豆 |
6,000石 |
42,000円 |
5,000石 |
35,000円 |
菜豆 |
250石 |
1,750円 |
200石 |
1,400円 |
豌豆 |
350石 |
1,750円 |
300石 |
1,500円 |
粟 |
70石 |
350円 |
|
|
黍 |
800石 |
3,200円 |
|
|
玉蜀黍 |
800石 |
3,200円 |
500石 |
2,000円 |
蕎麦 |
1,000石 |
4,000円 |
700石 |
2,800円 |
馬鈴薯 |
26,000貫 |
650円 |
|
|
玉葱 |
4,000貫 |
400円 |
|
|
甘藍 |
5,000貫 |
350円 |
|
|
蘿蔔 |
40,000貫 |
1,600円 |
|
|
胡蘿蔔 |
10,000貫 |
500円 |
|
|
牛蒡 |
12,000貫 |
600円 |
|
|
米 |
1,952石 |
19,520円 |
500石 |
5,000円 |
大麦 |
200石 |
1,400円 |
200石 |
1,400円 |
裸麦 |
1,260石 |
10,080円 |
1,500石 |
10,500円 |
小麦 |
|
|
1,000石 |
8,000円 |
燕麦 |
15,000石 |
37,500円 |
10,000石 |
25,000円 |
菜種 |
1,200石 |
9,600円 |
1,200石 |
9,600円 |
牧草 |
675噸 |
1,215円 |
675噸 |
1,215円 |
明治42年12月11日付けの上川支庁宛「調査事項報告」より作成。耕地面積など他の統計から類推して、41年の統計と判断した。裸麦については輸出量の方が多いがそのまま掲載している。出典 『村勢調査基楚』
表3−10 明治42年農作物
|
作付反高 |
収穫高 |
価格 |
反当量 |
粳米 |
195町 |
2,340石 |
23,400円 |
1.2斗 |
糯米 |
5 |
60 |
660 |
1.2 |
大麦 |
12 |
240 |
1,440 |
2.0 |
小麦 |
190 |
1,330 |
11,305 |
0.7 |
裸麦 |
395 |
3,950 |
27,650 |
1.0 |
燕麦 |
400 |
12,000 |
30,000 |
3.0 |
大豆 |
80 |
320 |
1,600 |
0.4 |
小豆 |
1,500 |
6,000 |
42,000 |
0.4 |
黍 |
90 |
900 |
2,700 |
1.0 |
壼V |
500 |
2,500 |
22,500 |
0.5 |
玉蜀黍 |
90 |
900 |
3,600 |
1.0 |
馬鈴薯 |
70 |
280,000貫 |
7,000 |
400貫 |
出典 『上川支庁管内統計一班』
移住民と副業
限られた支度金や持参金、あるいは最低限の家財道具や農具、衣類を手に入植した移住民たちは、開墾と同時にすぐにでも現金収入を得なければならないという切実な問題を抱えていた。入植後、買い足していかなければならない生活用具も少なくない。気象条件の厳しい北海道では思った以上に様々な営農用具を必要としたはずである。しかも、自給できる以外の食料や衣料を含め、必要な用具や商品の多くは道外からの移入品であり、いずれも値段は割高であった。移住民たちが商品作物への取り組みに積極的であった背景には、こうした理由があったのだが、その畑作などからの収入を補う副業的なものとして、明治期に道庁や農会などが積極的に奨励したものに養蚕がある。
上富良野でも道庁などの奨励に対応して「簡易養蚕伝習所」の設立を伝える、次のような記事が『北海タイムス』(明36・1・29)に掲載されている。
上富良野市街地泉川義雄と云へるは、過般道庁より発布したる庁令に基き、今回同市街地第百八十八号及び第百八十九号両地に、簡易養蚕伝習所を設立せしが、該生徒は十五名にして之れに所長一名教員二名を置き、此の経費金四百二十六円を要する由にて、右の内二百四十円丈け補助の儀を昨日道庁に申請せり。
しかし、『上富良野志』が以下のごとく述べるように、ある程度、有利な条件はあったのだが、養蚕に取り組んだ農家は限られており、定着することはなかった。
蚕業は天然桑を利用し、明治三十三年の頃より飼育せしものありしが、蛆害等の患なきを以て、蚕体無病健全にして給繭頗(すこぶ)る鞏固(きょうこ)なり。此を以て蚕業に適するも、農作物の耕耘に忙はしき為め手を下すの余地なし。左れば蚕業の発達緩慢にして見るべきものなし(略)現今飼育するもの四十余戸に過ぎず。
明治44年10月5日付けの『小樽新聞』でも、上富良野における養蚕飼育戸数40戸、収繭高1.96石と伝えるが、定着しなかった理由には『上富良野志』が述べる労働力の不足に加え、上富良野の場合、造材という、より確実な副業収入が身近にあったことも考えられるだろう。
稲作の始まり
本来、米は温暖な地域の作物であり、気候条件の厳しい北海道では開拓時代の当初はむしろ不適なものとされ、道庁など上からの奨励はないに等しいものであった。歴史的にみても現在の米どころとされる上川や空知などに、稲作を定着させる大きな力となったのは下からの努力であり、移住してきた農民たちの米への憧れなど、執念にも似た米作りへの熱意であったといえる。なぜ当時の移住民たちが厳しい条件のなか、それほどまでに稲作に取り組もうとしたのか、自らも稲作を続けていた谷本篤治は「札幌郡月寒村広島開墾地米作概況」(『北海之殖産』36・明26・6)のなかで次のような理由を述べている。
第一、従来内地に於て米を常食とせし者が北海道に移住後全く之を廃し、他の食物を以て代ふるは実際困難なることにして、米を購はんとするも資力乏しく、例令之ありとするも交通不便にして容易に求むること能わず、大に米作の必要を感じたること。
第二、移住民は内地に於て米作上幾分の経験を有せしこと。
(略)
第五、北海道は気候寒冷往々一酔の酒を以て寒を凌ぐの習慣あり。然るに移住の初めに中りては、交通不便、酒の価不廉なりしを以て、自家用酒を醸すが為め米を作りしこと。
第六、藁、縄、草鞋、筵等を購はんとするも交通不便にして容易に求むる能わず。自ら米作をなし、其副産物たる藁を以て之を作るの必事を感じたること。
上富良野においてもここに記された理由の大半は該当したと考えられるが、さらに切実な問題もあった。ここまで述べてきた営農収入に関して、米は他の畑作物よりはるかに有利だったのである。この点を指摘した「上川農村の生産」と題する次のような記事が『小樽新聞』(明44・12・7)に掲載されている。
平井上川支庁長が最近に管内視察の際に四ケ農村の生産及資力を聞くに、東旭川村の生産価額は百九万三千七百九十六円、輸出額七十三万四千五百五十三円、輸入額四十二万三千九百三十二円にして、現在戸数二千三百四十五戸に均当せば一戸当りの生産額四百六十六円四十銭なり。上富良野村の生産額は四十三万三千八百四十八円、輸出額二十二万千二百十六円、輸入額六万九千七百八十円にして、千七百九十戸に分当せば一戸の平均生産額二百六十六円二十銭に過ぎず。之れを東旭川村の均当額に比し二百円強の低額なるは、水田経営□然らざるに起因す。如何に水田の畑地に比し有益なるかを推知するに足るべし。
この記事によれば、同じ上川で稲作中心の東旭川と、畑作中心の上富良野を比べると、一戸当たりの収入が倍近い開きになっているというのである。数々の厳しい条件や困難を乗り越え上富良野の移住民たちが稲作に取り組んだ背景には、こうした理由もあったのである。
稲作の試作
上富良野の稲作の創始者としては、「明治三十三年田中常次郎と山口五平が一町五反歩の栽培をした」(『上富良野町史』)ことが定説となっている。出典は『上川の米作』(対馬雄一ほか、大7)と考えられ、その後、多くの文献も同書を参照するかたちで2人の名前を掲げる。だが、山口五平については同じ『上川の米作』のなかに、試作を32年とする記述もあり、詳細については分からないところも多い。
また、「明治三十三年一農民、山口五平なるものベベルイ川より無願にて五反内外の造田となして試作したるを嚆矢とした」(『東中郷土誌』昭27)、「東中の古老の話では三反であった」(『上富良野町史』)などと、東中の山口五平が試作した水田は5反程度だったことは明らかにされている。一方、田中常次郎の試作反別については、関連するものとして『上富良野町史』に、草分土功組合の資料をもとにした次のような引用がある。
明治三十五年当時内地ニ在リ米作ニ親シメル三重団体移住民ハ、従来ノ畑開墾ノ道程ニ於テ水田経営ヲ試ミントシ、富良野川西三線北二十九号付近ニ於テ引水ノ許可ヲ受ケ、区域三重団体ノ一部三十町歩余、水量二、一立方尺ヲ使用シテ水田試作ヲ試ミ、造田反別二町余ニ上レリ。然ルニ明治三十五年ハ本道一般凶作ニシテ不幸結実スルニ至ラス、爾後二、三年ニ互リ継続試作ヲ続ケタルモ何レモ良結果ヲ得ルニ至ラス、途中頓挫シテ再ヒ畑地ニ還元スルノ止ムヲ得サルニ至レリ。
これは三重団体における稲作の始まりを記しているわけだが、田中常次郎の試作が定説通り33年であるとするなら、ここに記録されている35年の水利権認可や2町余の造田に先行するかたちで、試作が行われたということになる。このことから推察すると、当初の試作反別は定説にある「一町五反歩」という規模を、かなり下回る面積であったことも考えられるのである。
稲作の創始者たち
このほか、昭和3年に旭川で「上川産米一〇〇万石」の祝典が行われ、上川支庁管内から水稲試作功労者5名、水稲試作成功者22名、水稲開発功労者60名、新品種、優良品種選出者9名、優良農具考案者6名がそれぞれ表彰されたが、上富良野からは水田開発功労者として田中常次郎をはじめ田中亀八、西谷元右エ門、海江田信哉、水田試作成功者として十川茂八が表彰され(『上川開発史』)、これらの人々も上富良野における稲作の創始者たちと考えられている。彼らの稲作への取り組みを『上富良野志』は次のように記す。
田中常次郎(三重団体) 「団体地として土地の付与を得るもの百余戸に達し中には数戸分を経営するものあり。潅漑溝を完成し米田を起して多額の米穀を収むるものあり。或は潅漑溝に着手し水利の応用を計りつヽあるものあり。十年の苦心惨憺は百年安全の基礎を鞏ふするに至る」
海江田信哉(島津牧場) 「昨今牧草地を除くの外小作人七十戸全部完成を告げり。潅漑溝は三十五年及び四十一年四十二年の分あるも、本年度の外は悉く成工(ママ)し米作を見るに至れり」
田中亀八(東六線北九八) 「三十四年及三十六年の両年間に付与を受けたる後にて、何れも小作を入れ盛んなる農業を為せり。爾来水田計画を起こし、ベヾルイ川の水を利用して潅漑溝を完成し米田地と為し、大に収穫を増し地価を上ぐるに至れり」
十川茂八(東八線) 「中島農場に入り小作人となり日夜精励の結果資本を得、現在地に入り更に精力を出して勤勉し二戸の土地を成墾し、付与を得て所有主たり。土地は大概ね水田に適するを以て、昨年来水田を造成して米作を為し益々奨励せり」
上富良野(中富良野を含む)における明治期の水田と米の生産高については、表3−7から表3−10などで既に触れているが、再確認のためにもう一度ここで紹介すると、38年に反別で120町、生産が840石だったのが、42年には200町、2340石と急激な増加をみせている。さらに44年4月2日付けの『小樽新聞』によると、43年までの水田開墾反別について500町、44年度の開墾見込みとしては500町とも伝えている。この数字は中富良野と合わせたものであり、上富良野の割合を知ることはできないが、造田と稲作の本格化が40年前後に始まったことは分かるのである。
造田と水利
明治40年代に本格化した造田だが、この水田面積の広がりや潅漑の整備とともに、次第に農民間で水をめぐる争いが表面化したのであろう。この時期になると水利権の出願が相次いでいる。
水争いを避け、あるいは紛争になった場合も、自らの権利を主張するために、水利権を出願する必要が生じてきたわけである。また、水利権は個人が出願する場合もあったが、多くは共同による出願、つまり、用水組合のかたちをとる場合が多かったようである。造田規模の拡大とともに潅漑溝開削も共同での取り組みが必要になってきたということなのであろう。
『中富良野村史』(昭和29)には旭川土木現業所が所蔵する資料をもとにした、明治から大正にかけての上富良野における水利権に関する記録が収録されている。
『富良野地区土地改良区史』(昭50)にも、ほぼ同じ内容のものが再録されているが、これらの資料などをもとに上富良野の明治期における潅漑溝や水利権を、その水系と許可年次別に整理すると次のようになる。
富良野川水系
明治36年 青山栄松ほか22名代人及び本人原田平蔵(指令14)
明治41年 田中米八(指令3618) 桝田助蔵ほか19名(指令7699) 長谷藤蔵(指令2144)
明治42年 伊藤市太郎ほか5名(指令2067) 岡和田安次郎ほか2名(指令2213) 吉田貞次郎ほか13名(指令4507) 吉田貞次郎ほか44名(指令7154) 坂勘蔵ほか2名代理及び本人荻子俊三(指令8551) 吉田貞次郎ほか2名(指令9163) 増田嘉太郎ほか3名(指令9844) 中谷国太郎(指令10058) 白井善吉ほか1名(指令上第2168)
明治43年 畑中喜作ほか1名(指令1058)
ヌッカクシフラヌイ川水系
明治41年 多津美仲蔵ほか47名(指令1495) 山田慶吉(指令5190) 樋口和三郎(指令7188)
明治44年 境柳助ほか15名(指令道3369)
ベベルイ川水系
明治41年 松岡源之助ほか24名(指令2269)田中亀八ほか19名(指令7736)
また、これら以外にも『上富良野町史』にはエバナマエホロカンベツ川を水源する村木久兵衛の用水(明治41年認可)が記録されている。なお、明治期の水利権については「無願で実際上造田し、用水を造って引水してから水利権の申請した場合」(『中富良野村史』)が多かったという指摘も留意しておく必要があるだろう。
富良野川用水組合と東中水田用水組合
このように造田と表裏一体のかたちで用水組合が設立され、潅漑溝の開削が進んでいったこの時期の上富良野であるが、『旧村史原稿』には次のような記述がある。
明治四十年に至り造田熱盛んとなり私設潅漑溝の許可を受け試作をなす者続出し、無願造田面積百数十町歩の多きに及び水利漸く紛叫の状態を見るに至る。翌年無願造田四百町歩の地区を整理統合して富良野川用水組合の設立を見、その後更に強化統一を図り、大正十四年七月十四日草分土功組合の設立認可を得るに至れり。
ここで注目したいのは先に触れた水利権、とくに富良野川流域の水利権が、「水利漸く紛叫の状態」になったため富良野川用水組合を設立、その調整を経て出願、認可されたものだったと考えられるということである。大正期で触れる草分土功組合の設立から20年近くも前に、大同団結もしくは利害調整を目的としたこのような団体が設立されていたということは、極めて興味深いことであり、それだけ水利が稲作には重要であったということなのでもあろう。
一方、東中神社境内の開拓者顕彰碑(昭和43年建立)には「明治四十年東中水田用水組合設立」の文字が刻まれている。これについて『富良野地区土地改良区史』は、「東中富良野土功組合設立以前の中核用水組合であったことは是認してよいと思う。これは同じ上富良野町における草分土功組合の前身となった富良野川用水組合と同じ性質のものと見てよい」と記しているが、詳細については不明である。