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3章 明治時代の上富良野 第4節 明治期の農業と林業

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1、耕作地の開墾

 

 開墾への取り組み

 明治30年、フラヌ原野の開放によって、上富良野には次々と予定存置を受けた団体移住者、さらには個人移住者が入植し、大地積の貸付を受けた資本家たちが農場や牧場を開設していった。

 その詳細については、本章第1節「フラヌ原野の開放と農場の設置」、第2節「三重団体と移住の展開」で既に述べられているが、『旧村史原稿』(昭18)に「三重団体の移民入地するや直ちに僅かの地積を拓きて、食糧たる馬鈴薯蕎麦麦等の作付をなし、以て本村開拓の先駆をなす」とあるように、移民たちの開墾への取り組みはまさに上富良野の農業の始まりそのものであった。

 

  気候は兎角不順。本年四月二十四日頃積雪は消えたれども、其後二回の降雪あり。其最後の雪は五月二十一日にして、其日の冷気云はん許りなく、次いで降霜屢々あり。中にも去る三日の降霜は、雪かと許り思はるヽ程厚く、旁々農家は本年の作附に就て大心配を為し居れり(『北海道毎日新聞』明31・6・10)土地肥沃の箇所は樹林地にして、草原地は小砂利交り赤土黒土の混合にて農作物の成育好良ならず(『北海道毎日新聞』明32・10・3)

 

 これは当時の上富良野の様子を伝える新聞記事である。入植間もない移民たちは慣れ親しんだ本州とは明らかに違う自然環境にとまどい、想像を絶する困難に直面しながら、未開の大地を切り開いていくことになるのである。

 開墾当初における耕作面積とその推移を確認する手掛かりは、ごく限られている。次に掲げるのは、『旧村史原稿』に記録されている32年の耕地面積である。

 

 「明治三十二年田畑墾成表」

有租地

0反

0反

無税地

既墾

0反

650反

新墾

15反

265反

合計

15反

1815反

 

 「明治三十二年日中作表」

自作地反別

15反

995反

1010反

小作地反別

0反

820反

820反

合計

15反

1815反

1830反

 

 31年までに開墾されたのは、上富良野はもとより現在の中富良野町、富良野市などを含む広大な富良野原野のうちわずか650反、32年には265反が開墾されたことを示しているが、当初、開放された富良野原野の面積は3261万1750坪である。この表にある1830反という耕地面積は全体のわずか1.6l程度にしかすぎない。また、『北海道戸口表』による明治32年の富良野村の戸数は319戸と記録されているから、これもひとつの目安として概算してみると、1戸当たりの平均耕地面積は6反に満たないことになる。

 なお、同じ32年の「富良野近況」と題する『北海道毎日新聞』の記事には、「昨三十一年既墾地は畑五十八町三反、新墾地五十町歩、合計百八町三反歩になりしか、本年は新墾三百十一町七反にして、前年に比し約三倍の増加を為したれば、同原野が如何に拓殖の進歩せしを知るに足る」(明32・12・30)とあり、『旧村史原稿』の数字とは若干の相違がみられる。

 一方、当時の開墾の進捗状況について『北海道毎日新聞』は「団体及び単独移住者は概して成績良好なれど大農場は何れも甚だ不成績なりと云ふ」(明32・4・13)、「去る九月十日頃より富良野殖民地成功検査及着手検査の為め道庁殖民課員出張中なるが其成績は頗る悪く没収返地を命せらるゝ者多数なりと」(明32・9・10)とも伝え、開墾は個人移住者や団体移住者が先行するかたちで進んでいたことをうかがわせる。ちなみに上富良野町役場の土地台帳の登記番号の1番は東中の神田和蔵であり、彼が上富良野における成墾者第1号であったことが推察される。

 

 耕地面積の拡大

明治36年、下富良野村が分村し富良野原野は2分されることになった。だが、既入植地の開墾の進展に加え、39年のエホロ殖民区画地などの開放を背景に、その後も移民の増加は続き、耕作地は着実に拡大を続けるのである。上富良野村統計係主任がまとめた『村勢調査基楚』(明45、役場蔵)には明治42年からの報告が収められているが、42年12月の上川支庁への報告では「当部内殖民地ハ概ネ成功シ目下開墾ニ吸々〔ママ〕タルハ唯『エホロカンベツ』ノ一部落ノミ」と記し、上富良野村全体の耕地面積としては、田反別が240町、畑反別は3750町の数字を掲げている。なお、42年における耕地面積を、『旧村史原稿』から示すと次のようになる。

 

 「明治42年墾成耕地」

自作

既墾地

185町

2476町

 

新墾地

50町

300町

 

小作

既墾地

55町

1034町

 

新墾地

10町

150町

 

合計

既墾地

240町

3510町

3750町

新墾地

60町

450町

510町

総計

300町

3960町

4260町

    *不作付地 畑 30町歩

 

 このことから『村勢調査基楚』の耕地面積は、41年時点での面積と考えられるが、『旧村史原稿』や『村勢調査基楚』以外にも、上川支庁の統計書『明治四十三年八月・上川支庁管内一班』(役場蔵)が42年現在の耕地面積として、ほぼ同様の数字を掲げている。

 明治40年代の耕地面積拡大を裏付ける資料としては、もうひとつ大正元年(明治45年)、上川支庁調査による「自作地小作地別耕地面積調」(『上川開発史』上川支庁、昭35)がある。

 これによると上富良野の耕地面積は自作地が6777.8町、小作地が3800.4町で、合計は1万578.2町。農家戸数は2102戸、1戸当たり耕作面積は5.03町となっている。

 この時期から本格化した造田熱と、移住者の増加が背景と考えられるが、42年の統計と比較しても倍以上の数字となっており、この間の耕地面積の急増には目をみはるものがある。同時に1戸当たり耕地面積も5町を超えており、統計上からはこの時期になってようやく営農基盤が整ってきたことをうかがわせる。

 参考までに同じ資料から下富良野村と南富良野村の数字を示すと、下富良野村の耕地面積は自作地が766町、小作地が3241.4町、合計で4007.4町、農家戸数1057戸、1戸当たり耕地面積は3.79町、南富良野村の耕地面積は自作地が580.2町、小作地が930.1町、合計で1510.3町、農家戸数は482戸、1戸当たり耕地面積は3.13町である。

 

 農場と小作人

 団体移住などによって耕作地が拡大するなか、一方では大地積払い下げによって開設された農場にも、小作移民が続々と入場していた。しかし、厳しい開墾生活のなかで退場する小作人も多く、「小作人ハ明治三十二年度、三十三年度ノ両年共気候不順ノ為メ農作物ノ収実僅少ニシテ、小作人等糊口サへ凌(しの)クコト能ハサリシ為メ、三十三年十二月ニハ五拾戸移入ノ小作人、三十九戸迄モ無断退場シ僅カ拾壱戸現住セリ」(『島津家農場沿革』海江田家蔵)という状況は決して珍しいことではなかった。

 こうした不安定な小作人の定着を図るため、当時の小作農場では「開墾小作」と呼ばれる北海道独特の小作慣行が行われていた。

 具体的には開墾料や小屋掛料などの支給があった。また、農場到着から半年、1年、収穫期までなど期間を区切っての食料の貸与、さらには農具類の現物支給なども行われていた。これらは将来、半額ないし全額を返済する仕組みをとっていた農場が多かったという。

 ほかにも、開墾した土地の2分の1から4分の1を分け与える「開分」制度、3年から7年が多かったというが、小作料を一定期間猶予する「鍬下年限」制度もあった(『上川開発史』)。

 『村勢調査基楚』では上富良野の小作人の状況に関して「荒地ニ入リテ小作シツツアル者等ハ、本年ノ如キ不作ニテハ、殆ンド米噌ニモ究〔ママ〕スル如キ者ハ又少ナシトセズ。然レドモ初メヨリ米噌

 ヲ供給スルノ約アルモノハ又格別ナリトス」と報告している。開墾に取り組む小作人たちの厳しさはいうまでもないが、小作契約による食料の貸与が多少なりとも救いになっていたことを示している。ほかに上富良野における開墾当時の農場と小作人の契約については、『北海道農場調査』に以下の4農場に関する記録がある。

 

 島津農場 成功期間ヲ四ヶ年トス。小作料ハ開墾料受領ノ年及翌年ノ二ヶ年ハ無料ノコト。開墾料ハ其ノ難易ニ依リ反當ニ付キ二圓ヨリ四圓マデ支給請フコト。

 橋野農場 鍬下五ヶ年。成功後ハ三ヶ年ヲ一期トス。開墾料ヲ支拂フ。又小屋掛料トシテ金十圓ヲ支給ス。

 カネキチ農場 地主及小作間ノ契約トシテハ尤モ単純ニシテ土地ノ状況ニ依リ三ケ年若シクハ五ヶ年ニ至ル鍬下契約ニ過ギズ。

 村木農場 開分ト鍬下ニシテ年期ハ五ヶ年ヲ以テ一期トス。

 

 ただし、これら「開墾小作」の慣行は、そのすべてがどの農場でも行われていたわけではない。小作人に与えられるものは地主側の経営方針や資金力に大きく左右されたと考えられる。『村勢調査基楚』には次のような記述もある。

 

  本村ニ於ケル大農者ハ其多クハ鍬下ノ方法ニ依リ施行シツヽアリ。作リ分ケ等ハ或ル農場一、二ニ止マリ、多クハ前者ヲ取レリ。其成墾地ニ入ル小作人タル者ニ対シテハ小作料ノ前拂ヲ求メ、又ハ収穫期ニ於テ農産物ヲ以テ小作料ニ換算、支拂ヲナス者アリ。尚小作料取立方法ニ至リテハ、□苛酷ニ渉ル如キ嫌ナキニアラサルモ、大体ヨリ歡察〔ママ〕スルトキハ容易ニ調和ヲ保チ居ルモノヽ如シ。

 

 また、『富良野地方史』には上富良野村役場の「小作慣行調査」(大11)をもとにした記述がある。現在、この史料の所在は不明だが、『富良野地方史』では次のように書かれている。

 

  開村当初、明治三二年頃より大正元年頃まで、地主において移住民を内地府県に募集し、小屋掛料(約三〇円)開墾料(一反歩約二円五〇銭)給与し米味噌代としては、一年間約一〇〇円位貸与し、移住を奨励した時代があった。しかし、現今にあっては鍬下年間〔ママ〕を与えるの外特別の事例なし。

 

 これらの史料からは上富良野の場合、「開分」を取り入れた小作農場は意外に少なかったようで、「鍬下年限」を除く慣行の多くは明治期でほぼ終わりを告げたことが分かる。さらに「其成墾地ニ入ル小作人タル者ニ対シテハ小作料ノ前拂ヲ求メ」「小作料取立方法ニ至リテハ、□苛酷ニ渉ル如キ嫌ナキニアラサル」とあるように、一部の小作農場では「開墾小作」の慣行自体が終わりを告げ、明治期の段階で既に「普通小作」へと移行していたこともうかがえる。