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3章 明治時代の上富良野 第3節 明治期の村政

208-216p

4 部制の実施

 

 部の設置

 明治39年の二級町村制の施行とともに、村内を部に分ける部制がしかれることになった。部制度は二級町村制第59条に基づくもので、町村長の事務を補佐する役割をもち各部には部長1名が置かれた。この年6月23日に上富良野村長から上川支庁へ部長の任命方が内申され、さらに8月13日には、「目下部長ヲシテ為取扱度事件モ不尠、差支居候義ニ付特急御任命相成候様」と、申請がなされた。当時、部長の任命者は支庁長とされていたのである。

 上富良野村で部長が設置される理由については、「土地広潤ニシテ実際ノ取扱上不便至大ナルニ付キ新ニ部長ヲ置キテ、村長事務ヲ補任セシメ以テ其敏活ヲ図ラントスルニアリ」とされており、部長の任務・役割はまず第1に、「村長事務ヲ補任」することにあった。

 部は当初は9部編成となっており、区域は部長設置規則(明治39年9月5日許可)には以下のようになっていた(「親展書類」役場蔵)。

 

 第一部 北四号ヲ界トシ東四線北十一号ニ至ル一円。

 第二部 中富良野市街地及東六線北十五号風防林界。

 第三部 西方東六線北十五号風防林界。

 第四部 西方ハ東五線、南方北十五号風防林界。

 第五部 南方北十八号ヲ界トシ東三線ヨリ東七線ノ間ニ於ケル一円。但六部ニ属スル部分ヲ除ク。

 第六部 上富良野市街及北二十六号ヲ界トシ西一線ヨリ東三線ニ至ル一円。

 第七部 南北十五号風防林、東方東四線、北方北二十号ニ至ル一円。

 第八部 東三線ヲ界トシ西方北廿号ヨリ北廿六号ノ間ニ於ケル一円。

 第九部 北二十六号以北。

 

 その後、明治40年6月に「基線及西七線ヲ界トシ北二十六号線以北」を区域とする第10部、41年3月には、「自西七線北二十七号線以北、西十三線北三七号ニ至ル間」を区域とする第11部が新設となった。第10部の新設理由は、「区域広潤ニシテ人民各所ニ点在シ、到底一人ノ部長ヲ以テ施政ノ周到ヲ期ス可カラス」、第11部は「字ヱホロカンベツ新区画地開場ト共ニ各移住者ノ数ヲ増加シ、豊里団体外七個団体各所ニ点在シ、加フルニ区域広潤ニシテ一部ヲ増加セサレハ到底施政ノ周到ヲ期スベカラス」というものであった(『村規則』役場蔵)。

 41年3月に11部までそろったところで「部長設置規則」が改正され、各部の区画は以下の通りとなった。

 

 本村ノ区域ヲ左ノ拾壱部ニテ毎部ニ部長一名ヲ置ク

 名称   区域

 第一部 北四号ヲ界トシ東四線北十一号ニ至ル一円。

 第二部 中富良野市街地及東六線北十五号風防林界。

 第三部 西方東六線北十五号風防林界。

 第四部 西方ハ東五線、南方北十五号風防林北十八号。

 第五部 南方北十八号ヲ界トシ東三線ヨリ東七線ノ間ニ於ケル一円。但第六部ニ属スル部分ヲ除ク。

 第六部 上富良野市街地及北二十四号ヨリ北二十六号ニ至ル間、東一線ヨリ東四線ニ至ル。

 第七部 南ハ北十五号風防林、東方東四線、北方北二十号ニ至ル一円。

 第八部 東三線ヲ界トシ西方北二十号ヨリ北二十六号ノ間ニ於ケル一円。

 第九部 北二十六号以北基線マテ。但上富良野市街ヲ除ク。

 第十部 北二十六号以北西七線迄。

 第十一部 自西七線北二十六号以北、至西十三線北三十七号以北一円。

 

 部の番号は上富良野村の南部、下富良野村との境界となっている北4号線の方から第1部と数え、村の北部の北26号線以北が、当初は最後の第9部となっていた。各部の大正元年9月の状況について以下のように報告されている(『村勢調査基楚』役場蔵)。

 

 第一部 現在戸数弐百三十二戸。当部ハ明治三十二年以来伊藤及鹿討ノ両農場ヲ企図シ、之レガ開墾ヲ開始スルニ及ビテ始メテ移住スルモノアリ。尓来、金井牧場、吉井造林、岩谷及東牧場等各貸付ヲ得テ、之ガ経営ニ着手シ年々著(いちじるしく)敷人戸ノ増加シ来シ現状ヲ呈スルニ至レリ。当部ハ地勢多クハ岡陵起伏ナルモ、地質概(おおむ)ネ肥沃ニシテ諸種ノ作物ニ適ス。将来益々発展ノ余地多々アリ。

 第二部 現在人戸二百七戸。当部ハ明治三十一年福井県人等合力団体ト称スヲ組織シ移住ナスヲ創始トス。尓来、個人貸付及江藤農場等ニ続々移住シ現状ヲ呈スルニ至レリ。地質過半ハ泥炭地ナリト雖トモ平坦ニシテ諸種ノ作物ニ適シ、本村中水田開墾ノ嚆矢トス。

 第三部 当部全部個人貸付ニシテ明治三十一年以来富山県及福井県人等続々移住シ、一誠以テ農事ニ精励シ朴直ニシテ質素ナリタレバ各富裕ニシテ、整地ノ実ヲ挙ゲ甚ダ有望ナリトス。而シテ現在百七戸ヲ有ス。地質概ネ良好ニシテ諸作物ニ適ス。

 第四部 当部ハ現在八十戸ニシテ明治三十一年以来個人貸付ヲ得テ移住ス。地質肥沃ニシテ本村中第一位ヲ占ム。一般富裕ナリトス。

 第五部 当部ハ明治三十一年人見農場開墾シ移住者募集シ尓来、個人貸付及時岡、西谷牧場及橋埜農場、宮城団体等ヲ以テ続々移住シ、各開拓ノ実ヲ挙ツ、アリ。現在戸数弐百〇四戸ニシテ将来移住者ヲ収容スベキ余裕多々アリ。地勢□□□平坦、岡陵相半スルモ地質良好ニシテ各種作物ニ適ス。

 第六部 現在人戸二百二十二戸ニシテ明治三十二年上富良野市街地ヲ区画セラル以来住民増加シ、上富良野市街地ハ概ネ百五十戸以上ノ街ヲナスニ至レリ。常ニ輸出入ノ繁ヲ為シ将来有望ナリトス。

 第七部 当部ハ本村中水田ヲ以テ主作トス。明治三十一年石川県人及福井県人等各団体ヲ組織シ移住、尓来、熱心ニ開拓ス。左レバ一段富裕ニシテ開拓ノ実ヲ挙グ。而シテ現在戸数八十八戸ニシテ、地質ハ一般泥炭地ナルモ諸種ノ作物ニ適ス。

 第八部 当部ハ明治三十二年男爵島津忠備農場トシテ貸付ヲ得、小作移住セシメタルヲ以テ始トス。尓来、山形、高知団体等移住シ、各開拓ノ実ヲ挙グ。而シテ現在戸数八百六十五戸トス。地質概ネ良好ニシテ各種作物ニ適ス。

 第九部 当部ハ明治三十年三重県人団体ヲ組織シ本村ニ移住ス。之レ本村開拓ノ嚆矢ナリトス。其団体ノ一部当部ヲ開墾シ、尓来、個人及渡辺牧場、山田、安井、宮北牧場等各貸付ヲ得テ新移住者著敷増加シ現在百三十二戸ヲ算ス。当部ハ其区域広大ナリトス。左レバ将来移住者ヲ収容スル余裕多大ナリトス。

 第十部 当部ハ第九部ト同時ニ三重県人団体移住シ開拓ノ実ヲ挙ゲ、先来、新井、作佐部牧場等貸付ヲ得テ之レガ経営ニ当リ年々移住者増加シ、現在百七十三戸トス。地質概ネ良好ニシテ各種ノ作物ニ適ス。

 第十一部 当部ハ本村ホロカンベツト称スル山林ナリシモ明治三十八年始メテ新区域ヲ画シ、明治三十九年始メテ移住セシメ岐阜県人、宮城県人等各団体ヲ組織シ移住、其他個人貸付等アリ。著敷移住者増加ヲ呈ス。

 当部ハ一般岡陵起伏ノ地勢ナリト雖トモ克ク開拓ノ実ヲ挙ゲ、諸種ノ作物ニ適シ将来多数ノ移住者ヲ収容スルヲ得、現在人戸百七十五戸トス。

 

 部長の任命

 明治39年5月に各部の部長発令が上川支庁長に要請され、その顔ぶれと区割りは以下のようになっていた。

 

 一部 川仁高太郎  福原・伊藤・田中・鹿討各農場、亀井・榎・吉井牧場。

 二部 四方勇吉    中フラノ市街地及東六線北十五号風防林界。

 三部 中野常蔵    中フラノ西方東六線、北方北十五号風防林。

 四部 尾崎政之    中フラノ西方ハ東五線、南方北十五号風防林、北方十八号。

 五部 住友与平    中島倍本農場、南方北十八号マテ。

 六部 北原虎蔵    上フラノ市街地、永山農場。

 七部 伊奈繁太郎  中フラノ南北十五号風防林、東方東四線、北方北二十号マテ。

 八部 豊田左平    島津農場三善カシベツ、北方北二十六号、南方北二十号。

 九部 田村栄次郎  上フラノ北二十六号以北。

 

 この時の部長の指名・推薦は、村長が行っていたようである。当初、部長の職務、選任の方法、任期などを規定した規則は設けられてはいなかったからであるが、やがて後述するように組長の選挙・推薦方式へとなっていく。それは42年3月から12月までの間における「組長規約」の成立によるものである。

 これにより部長の選任は、各部内の組長による協議によって部長候補を村長に推薦し、それを受けて村長は上川支庁長に任命を申請していた。このような部長の選任の過程で分かることは第1に、住民の民意を反映した民主的な直接選挙でないこと、第2には選任に際して村長、上川支庁長の意向が介在していることである。このことは部長制は「住民自治」のための地区制度ではなく、あくまでも上からの「官治」のためのものであり、部長は村役場における行政の端役≠ノ位置付けられていたのである。

 実際の選任の方法についてみると組長による協議により決められることが多かったようであるが、中には籤による抽選で決定していたところもあった。中富良野の第一部では、以下のような「当籤届」を出している(『親展書綴』役場蔵)。

 

 第壱部長当籤届

  明治四拾参年十月十四日中富良野鹿討分教場内ニ於テ組長会議開会仕、高橋伊左衛門当籤相成候ニ付、右投票之結果左記之通リニ候間、出席員記名調印之上此段及御届候也。

 明治四十三年拾月十四日

 

 第一部は9組あったようであるが出席者は5人に過ぎなく、4人は欠席している。大事な部長選定に際してこのように出席率が低いのは、後述するように自分が部長選定されることに対しての忌避の心理が働いていたからである。すなわち、組長たちは部長に就くことを忌避していたのである。

 村長、村側の意向が働いた例を示すと、明治45年6月に上富良野の第5部にて候補として選任された人物につき村長は、「国税滞納者ニシテ納税思想ニ乏シク、従テ部長トシテ任命セラルルハ甚ダ不穏当」(『親展書綴』)と、上川支庁長への推薦を見送っている。税の徴収に当たる部長本人が国税滞納者とあっては村役場でも不都合というわけではあるが、例え部の方から選任してきた人物であっても、あくまでも行政論理の方が優先されたのであった。

 

 各部の部長

 表3−4は明治39年から大正2年まで8年間における、各部の部長の任免をまとめたものである。資料の関係上ですべてを正確に網羅したものとはいえないけれども、『親展書類』『親展書綴』(役場蔵)『上富良野志』などによりこの時期は割合と部長の任免を拾うことができる。

 これを概観すると一般的に部長の交代が頻繁なことである。例えば第2部では21人、第5部では11人、第3・9部では10人という具合に、頻繁に交代している。部長の任期は1年間であったが、この任期をまっとうすることは稀な状況であったのである。

 中には第8部の2人、第10部の3人というように小人数による長期の〃名望家支配″を遂げているところもあったが、ほとんどが途中交代するというのが実情であった。

 この理由はいくつか考えられるが、基本的には部長が激務であったことに尽きるであろう。役場での会議や役場との連絡、あるいは組長への連絡などで多くの時間を取られ、生業が犠牲となることが根本的な理由である。先に部長選定への忌避心理について述べたが、忌避の理由はこれに尽きると思われる。いまだ開拓の途上期であっただけに、時間的な負担の問題は大きかったであろう。

 その他にも、「無学無筆ニテ御役場ヨリ御達之書類一切不明ニ付」と文盲を理由とするもの、長期旅行中で「部長ノ如キ一日モ空位ニ存シ置キ難ク」と長期の不在を理由とするものもあり(『親展書類』)、諸種の点で部長の職務には困難なものがあったのである。

 

3−4部長の変遷(明治39〜大正2)

 

1

2

3

4

5

6

 

 

中富市街

 

 

東中

上富市街

39

川仁高太郎

四方勇吉

12.高橋孫七

伊奈繁太郎

北磯右衛門

尾崎政吉

住友与平

10.奥村秀太郎

中野常蔵

40

 

1.梶野洋一

酒井通義

9.隅田宇松

岡田七蔵

有沢松次郎

纓坂源三郎

田中亀八

六浦林之助

宮北忠平

41

3.長田谷次郎

11.池田文蔵

野堀末吉

4.湯浅伊蔵

松岡勘蔵

2.森田喜之八

5.福屋登代次郎

1.中尾茂七

12.五味勝太郎

42

7.布施庄太郎

10.和田惣藤次郎

4.吉崎与八郎

10.山田清三郎

3.安井新右衛門

井上善助

4.有塚利平

 

43

10.高橋伊左衛門

7.加藤源太郎

10.山田清三郎

4.長谷川太十

3.佐古善一

松岡百之助

2.中北亀吉

2.長尾松太郎

12.堀田常次

11.広浜伊蔵

44

 

 

坂本清市郎

 

 

松野吉蔵

45

 

高橋孫六

11.湯浅勇作

丹羽市助

2.十川茂八

4.西谷元右エ門

7.奥村秀太郎

12.足立与三

2

 

 

 

 

 

 

 

 

7

8

9

10

11

 

福井

島津

26号以北

草分

 

39

豊田熊平

北原虎蔵

田村栄次郎

40年6月設置

41年3月設置

40

松藤三治

9.広浜伊蔵

 

1.増田嘉太郎

4.坂治三郎

6.田村栄次郎

 

41

12.野尻丞作

 

 

 

 

42

島田弥七郎

志賀久兵衛

4.坂治三郎

田村栄次郎

後藤貞吉

43

4.石田清吉

12.久保政吉

 

3.浜村菊蔵

7.西山酉治

岡松田安次郎

7.田中常次郎

4.奥野仙蔵(辞退)

44

 

 

坂本清市郎

 

後藤貞吉

45

2.松本八太郎

 

3.萩子信次

6.寺前千代松

11.立松為次郎

 

4.鶴野作五郎

6.佐々木兵右衛門

11.鶴野作五郎

2

 

 

 

 

 

 

 組と組長

 戸長役場の時期においても組が置かれ、「総代人ノ下ニ各部落適宜ノ地位ニ組長ヲ設ケ、村内ニ通知スベキ告諭達等ノ伝達ヲ取扱ハシメ、村費ノ滞納者督促等ノ任ニアクラシム」(「事務引継演述書」役場蔵)とされ、総代人を補佐し村治の一端を担う組長が選出されていたが、この時期の組・組長は後の二級町村制の部・部長に相当するものであった。明治39年に二級町村制が施行されて新たに部・部長が設置された後にも、今度は部内を区画する行政区として組が再編されて引き継がれ、組長の選出も行われていった。

 42年3月に村長を退任した草浦耕蔵の引継文書には、組長の設置に関して、「部長ノミニテハ百般ノ行務行届ガタキ次第モ有之ニ付、別紙規約標準ニ基キ便宜上組長ナル者ヲ設ケ、以テ部長ヲ補助セシメツゝアリ」と述べ、組長が部長の補助役とされていたことを語っている。そしてさらに、以下の「組長設置ニ関スル組合規約草案」を掲げている(『引継書類綴』役場蔵)。

 

 第一条 本組合ハ当部内ニ於ケル公共事務ノ普及敏活ヲ謀リ併セテ組内ノ公益ヲ増進スルヲ目的トス。

 第二条 本組合ハ何々区域ニ依リ戸数何十何戸ヲ以テ組織シ第何部何組下称ス。

 第三条 当組合ニ関スル公益事務ヲ担当スル為メ組長一名、副組長一名ヲ互選セベシ。但、副組長ハ組長事故アルトキニ限り之レカ代理ヲ為スモノトス。

 第四条 組長ハ該当部長ノ召集ヲ応シ諮問ニ応答スルハ勿論、為シ得ル限り部長ヲ保佐シ部内ノ円滑ヲ謀ルコトヲ努ムルモノトス。

 第五条 組長ハ事務ノ繁栄ニ応シ組内ニ於テ協議ノ上相当報酬ヲ贈与スルコトアルベシ。

 第六条 組長ノ任期ハ其年四月ヨリ翌年三月迄トシ、其補欠選挙ニ於テ当選シタル者ハ前任者ノ残任期間ヲ継承スベシ。

 但、満期再選スルハ妨ケナシ。

 第七条 組長ヲ選挙シタルトキハ其人名ヲ本村役場へ報告シ同時ニ組内一般へ通知スベシ。

 第八条 本規約ハ直ニ之レヲ施行スルモノトス。

 

 右規約ヲ履行スルコトヲ誓ヒ組合員一同茲ニ記名捺印ス。

 明治四十年  月  日

           第何部字何々

           某    印

 

 この「規約草案」ではまず組の目的については、「部内ニ於ケル公共事務ノ普及敏活」と「組内ノ公益ヲ増進」とされ、第1に部内の行政区、第2に地区の公益組織として設定されていたのであった。次に組には選挙で選ばれた組長1名、副組長1名が置かれていた。両者の任期は1年であった。この規約草案により行政区としての組が成立し、住民による選挙により選ばれる民選の組長が誕生することになったのである。

 ところで『上富良野志』にも、「組長は各部内より推撰す。其人員は各部の定むる処一定せず。少きは五、六名より多きは十余人に達するものあり。然れとも往々統一を欠くあるを以て組長設置に関する組合規則を設けんとする計画あり」とし、「規約草按」が掲載されている。両者ほとんどの条文は同文であるが、1条だけ重大な修正が施されている。それは前者の「規約草案」が8条であるのに対して、後者の「規約草按」は9条となり1条多くなっている。付加された条文は「組長は其組内と相謀り関係部長の選挙を為すものとす」という組長による部長選挙が加えられたのである。『上富良野志』は42年12月の編集・刊行であった。引継文書は同年3月である。この9カ月間に村長が部長を指名・推薦する形態から、組長による選挙へと変わったことを示している。

 ただし、いずれも草案であって正式の組合規約ではなかった。おそらく、42年12月から程ない頃に正式に認可されたとみられるが、来海実が村長退任に際し44年2月4日に作成された引継文書には、以下の正式な「上富良野村内組合規約」が添付されている(『引継書類綴』役場蔵)。

 

 第一条 本組合ハ組内ニ於ケル公共事務ノ普及及納税義務ノ遂行ヲ謀リ、併セテ組内ノ公益ヲ増進スルヲ以テ目的トス。

 第二条 本組合ハ   ヨリ    迄ノ居住者ヲ以テ組織シ、第  部   組卜称ス。

 第三条 本組合ニ組長一名ヲ互選シ村長ノ認可ヲ受クルモノトス。

 第四条 組長ハ部長ノ指揮ニ従ヒ組内ノ円満ヲ謀リ及組内ノ事務ヲ掌モノトス。

 第五条 組合員ハ組長ノ事務成蹟ニ依リ壱戸ニ付キ弐拾銭乃至三拾銭ノ報酬ヲ為スモノトス。此場合ニ於テハ村長ニ申請シ認可ヲ受クルモノトス。

 第六条 組長ノ任期ハ其年四月一日ヨリ翌年三月三十一日迄トシ、其補缺被選挙者ハ前任者ノ残任期間ヲ継承スルモノトス。

     但再選スルモ妨ナシ。

 第七条 組長ノ選挙ハ三月十五日迄ニ執行シ部長ヲ経テ村長ニ申請スルモノトス。

 第八条 組長ハ村長ノ命令ニ依リ関係部長ノ選挙ヲ為スモノトス。

 第九条 本規約ハ部長過半数ノ意見ニ依リ変更改正スルコトアルヘシ。

 

 この「規約」では第1条に「納税義務ノ遂行」、第3条で副組長の削除、第5条で報酬金額の規定、第7条で選挙期日、第9条で規約改正の規定などが付加、訂正されている。

 

 島津農場の組制度

 島津農場では農場内を鉄道線路でもって2区にわける地区割となっていたが、農場内に組長1名、1区毎に1名の伍長が置かれていた。島津農場の「申合規則」(『要書綴』海江田家蔵)によると、以下の8条の規約が設けられていた。

 

 第一条 農場内ヲ弐区ニ分チ組長壱名及伍長一区毎ニ壱名宛ヲ置ク。其区域ハ基線西壱線方面ヲ第一区トシ、東壱、弐線方面ヲ第弐区トス。

 第二条 組長ハ農場内一般ニテ互選シ、其任期ハ満弐ヶ年トス。

     但、再選スルコトヲ得。

 第三条 組長ノ取扱フ件左ノ如シ。

  一、戸長役場其他官庁等ノ交渉及ヒ各戸ヘ示達等ニ関スル件。

  二、公共的寄附金ニ関スル件。

  三、事務所ヨリ各戸へ通知ニ関スル件。

 第四条 伍長ハ其区域ニテ互選シ、任期ハ満一ヶ年トス。

     但、再選スルコトヲ得。

 第五条 伍長ノ取扱フ件左ノ如シ。

  一、各官庁等ヨリノ示達等、其区内伝達ニ関スル件。

  二、公共的寄附金ニ関スル件。

  三、死亡者、火難、疾病者等アリシトキ其処分方法ニ関スル件。

  四、事務所ヨリ区内ニ通知等ニ関スル件。

 第六条 農場内ニ死亡者、居家焼失者アルトキハ左ノ方法ニ偽リ互救シ、伍長ニ於テ取纏メ見舞金トシテ罹災者ヘ給与スル者トス。

  一、死亡者ノ時ハ左ノ通り。

    一、十才以下      各戸ヨリ十弐銭。

    一、十才以上       〃 二十銭。

  二、居家焼失者ノトキハ左ノ通り。

    一、各戸ヨリ金二十銭。

    一、拾坪ノ居家壱棟各戸ニテ造築給与スルコト。

 第七条 死亡者、火難者アリシトキハ近隣諸事手伝シ、手伝人ハ罹災者ノ内ニテハ飲食ヲ辞スルコト。

     但、其手伝人員ハ伍長ニ於テ定ムル者トス。

 第八条 全家疾病等ニテ播種、除草、収穫等出来サルトキハ伍長ニ於テ事情取調、不得止ト認メタルトキハ其区内ニテ協議ノ上保護スル者トス。

 

 以上の「申合規則」には第5条まで組長、伍長の選挙方、任期、役割が規定されているが、組長の主な役割は戸長・村役場、農場事務所との連絡であり、伍長はこれに加えて死亡、火災、疾病などの組員に対する扶助であり、第6条以下はその規定となっている。農場の組制度は役場の区制度に合致して機能しており、行政

 組織であると同時に農場組織、小作人組織であった。

 『殖民公報』(第77号、大3)に掲載された「上富良野島津家農場」によると、組では春秋の2回総会を開催し、「春は農場内規、耕作方法其他の協議を開き、秋は農作成績の批評研究をなし、且農場祭典の執行し併せて懇親会を挙行」したという。また、組長に対しては農場から3円内外、組員からは1戸60銭の慰労金が贈られていた。

 

 納税組合

 上富良野村の納税状況が不良であったことは先にも述べたが、その成績向上のために納税組合が設置された。納税組合は「組長トシテ部長之レヲ兼職ス」とされるように(『村勢調査基楚』)、当初は部を単位として設置された。設置時期は来海村長の引継文書に「納税組合ニ干スル件」として、

 

  別紙規約ニ基キ各部ニ納税組合ヲ組織シ別紙奨励規程ニ依り、新年度ノ初メニ於テ前年度各納税成績ヲ調査シ賞与金ヲ各組合ト其部長ニ与フル方針ナリ。

 

と述べており(『引継書類綴』)、明治44年4月頃に設置に至ったのではないかとみられる。

 別紙とされた「上富良野村納税組合規約」には目的として、「各種ノ租税其他公課ヲ納期限内ニ完納スル」こととされ(第一条)、組合長は部長、幹事は組長を充てるものとされていた(第7条)。

 組合長の役割は、「村長ノ指揮ヲ受ケ左ノ事務ヲ処理スルモノトス」とされ、

 @総会議事の準備と議決の執行。

 A納期内納入の督励と滞納の注意。

 B税金の徴収と役場吏員への納付。

 C納税一覧表の配布。

 D組合財産と文書・簿冊の保管。

が主な任務であった。

 大正元年9月における各組合の組合員数は以下の通りであった(『村勢調査基楚』)。これにより各部の戸数も判明する。

 

1組−232戸  2組−207戸  3組−107戸  4組−80戸

5組−204戸  6組−222戸  7組−88戸   8組−165戸

9組−122戸  10組−173戸  11組−175戸

 

 これからみると第1組(部)が最も戸数が多く、次いで6組、2組、3組となっていたが、いずれも200戸を超えていた。少ないのは7組であったが、これだけ多くの戸数を抱えた組長(部長)の職務は大変であったろうと思われる。

 納税組合はやがて部内の組を単位としたものに改組されることになる。