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3章 明治時代の上富良野 第3節 明治期の村政

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1 富良野村の設置

 

 滝川村と奈江村

 富良野盆地の地域は明治2年8月15日に蝦夷地が北海道と改称となり、松浦武四郎によって11国86郡が画定された際には、石狩国空知郡に編入となっていた。しかしまったく未開の地域であっただけに管轄村の設置は遅れていた。空知郡はもとより広大であり西部には15年に市来知村(現三笠市)、16年に幌内村(現三笠市)、幌向村、17年に岩見沢村などが設置されていたが、東部にいたってはようやく、23年1月15日に滝川村、同年8月7日に奈江村が置かれるようになった(奈江村の戸長役場の開庁は28年6月20日)。

 奈江村の区域は、「南ハナイエ川、西ハ石狩川、北ハ滝川村ノ一部ヲ裂キ空知川ヲ界トス」(庁令第46号)とされているように、滝川村とは空知川で分けられており左岸は奈江村、右岸は滝川村となるようである。これからいけば富良野盆地の地域も、空知川をもって2村に分立されることになる。ところが、富良野村戸長役場開設の説明書には、「富良野村は従前富良野原野と称し滝川村役場の所轄なりし」と明確に述べており(『北海道毎日新聞』明32・5・21)、富良野村の設置以前の所轄は滝川村であったようであるが、実際には無人の原野であっただけに、行政的には空白地帯とみていいであろう。

 

 富良野村設置の告示

 29年に至りフラヌ原野にも殖民地の測設が行われるようになり、同年12月25日に翌年の貸下げが告示となった。そして30年2月7日に貸下げの出願受付が告示され、未開のフラヌ原野にもいよいよ入植者の到来を迎えることとなり、ここに富良野村が設置されるようになる。

 明治30年7月1日に「石狩国空知郡ニ歌志内村、富良野村、同国上川郡ニ愛別村ヲ置ク」との道庁告示(第142号)が出され、歌志内・愛別村と共に富良野村が設置されることになった。

 区域は、

 

  南ハ胆振国日高両国ニ界ス、北ハ石狩国上川郡ニ界ス、東ハ十勝国ニ界ス、西ハ石狩国上川郡界ヨリ発スル「ナヱ川」ヲ下り空知川ニ落合、同川ヲ溯リテ「モシリケシユオマナイ川」ヲ溯リ、歌志内村及夕張郡ニ界ス。

 

というものであった。

 あわせて同日に、「石狩国空知郡歌志内村ニ歌志内村、富良野村戸長役場(略)ヲ置ク」ことが告示され(道庁告示第144号)、続いて7月9日に、「歌志内村、富良野村戸長役場ハ明治三十年七月十五日開庁ス」ることが告示となった(道庁告示第151号)。

 2村あわせての戸長役場が歌志内村に設置されたものであり、初代戸長の加藤尚友は14日に歌志内村に赴任し、告示通りに15日から市街地の近藤由太郎方で事務取扱が開始されたという(『北海道毎日新聞』、明31・7・18)。その所在地は現在の歌志内市本町135番地とされている。

 当時、歌志内村は空知炭鉱の稼動と空知線の開業、及び空知沿岸原野の開放で急速な進展をみせはじめており、戸数は748戸、人口は3386人を数えていた。村域は現在の赤平市、芦別市を含む広域であった。

 

 戸長役場と戸長

 戸長役場は開拓使の治下にあった明治12年7月23日に、郡区町村編成の布達により設けられた地方行政制度であった。戸長の職務は、「第一 布告・布達ヲ町村内ニ示ス事。第二 地祖及諸税ヲ取纏メ上納スル事。第三 戸籍ノ事」などの13項目であったが(「戸長職務概目」第14号達)、主に国政委任事務の遂行であって地域自治的な職務はまったく規定されていなかった。それ故に戸長も官選であり、道庁官吏が任じられて赴任するものであった。

 歌志内村、富良野村戸長役場の初代戸長には加藤尚之が任命されたが、明治31年7月に加藤戸長が初めて富良野村に巡回視察に来たことが、『北海道毎日新聞』(明31・7・13)に報じられている。

 

  去月末日歌志内戸長加藤〔尚友〕氏状況視察として来村せり。本月二日移民一同を田中氏宅に会して農事及村治に関して懇々説諭をなせり。実は当村開村以来の初巡回なり。会するもの農場主及ひ監督者、団体長、其他にて凡二十余名。会後加藤戸長の発議にて総代及ひ組長の選挙をなせしが総代は田中常太〔次〕郎、荻野直吉当選就任せり。

 

 この視察では7月2日に三重団体の指導者であった田中常次郎宅にて監督者、団体長など20余人による集会がもたれ、その折に富良野村総代人、組長の選挙が行われたという。組長は三重、石川、福井などの移住団体、島津、佐々木などの農場を単位にして地区単位の行政的なまとめ役であったろう。組長はこの後も長く置かれていくことになる。ただし総代人、組長の役割は協議費(村費)と密接に関係をもっており、また地元に戸長役場がないだけにこの折の選挙が公的なものかは疑問の点もある。

 ところで先の視察は「実は当村開村以来の初巡回」とされ、前年の7月15日に戸長役場が置かれて以来、なんと1年余りを経過してからの視察であったことになる。これもひとえに戸長役場の所在地である歌志内村とは、余りにも遠距離であったことが原因であったといえる。それにしても行政の担当者が村に不在であるという無行政村≠ヘ問題であり、村民が戸籍の届け出などでわざわざ歌志内村まで出向くのも何かと不便であった。そのために、富良野村戸長役場を地元に移設することの要望が強く出されるようになってきた。

 歌志内・富良野村戸長の加藤尚友は31年11月28日に退職し、同日に三上良知が任命された。