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3章 明治時代の上富良野 第2節 三重団体と移住の展開

181-189p

2 三重団体の移住

 

 三重団体の出発

 三重団体が郷里を出発してから上富良野に入地するまでの道程、経過については「『上富良野の開拓功労者』田中常次郎」(前掲書)、『上富良野町史』第2編第1章、及び第6編第3章に収載する吉沢くら、川田金七の談話、『かみふ物語』に収載する川田金七の談話などに語り伝えられており、ある程度、その足取りをたどることができる。

 まず三重団体が三重の四日市港を出発したのは、30年3月28日であった。四日市には前日に集合することとなっていた。一行の戸数、人数であるが、『上富良野志』(明42)は83戸、484人とする。「『上富良野の開拓功労者』田中常次郎」(前掲書)は3月10日出発、85戸とするが日付は誤りである。『伊勢新聞』(明30・3・17)には、以下の記事が認められる。

 

 ○北海道移住民安濃郡百三十九名、一志郡八十九名、河芸郡五十九名、鈴鹿郡八十九名、度会郡七名、三重郡七名、志摩都二十一名、合計四百十一名は来二十六日四日市発汽船にて小樽港へ向け出発すべし。尤も小樽より空知迄汽車にて達し、空知郡フラヌイの原野へ移住の筈なり。

 

 この報道によると三重団体の一行は、全部で411人であったという。安濃郡の出身者が139人と最も多く、全体の3分の1を占めていた。その次が一志・鈴鹿郡が89人と同数となっており、ついで河芸郡の59人となっている。安濃郡には田中常次郎の出身地である安東村があり、ここの村民が三重団体には多かったことを示している。

 行程は四日市港から横浜港までは日本郵船の小型帆船、敦賀丸であった。敦賀丸は3月26日午後4時に四日市港を出港することになっていたが(伊勢新聞、明30・3・26)、何かの都合で出港が延期になっていたようである。横浜では3日間ほど港内の海上丸に宿泊して船待ちをした後、貨物船の仁川丸にて小樽へと向かう。途中、大時化にあい「ぶっちゃがる(ひっくりがえる)」と船内は阿鼻叫喚の状況であり、いったん荻の浜(宮城県石巻市の東部)に寄港した時は九死に一生を得た思いであったという。ここで森川房吉、山本丹治、稲垣銀治の3家族は下船して、陸路で北海道へ向かうことになったという。

 その後、仁川丸は岩手県の大船渡、道内では七飯に寄港して小樽に着く。小樽着港は4月3日のことで、『北海道協会報告』(第12号、明30)には三重県三重郡から空知郡空知川沿岸へ72戸、236人と記録されている。この記録は協会の小樽移民取扱所の係官がまとめたものであり戸数、人数共に実数とみられ、こちらの方が正しい数値と思われる。『上富良野志』がいう83戸、484人というのは後続移住者を含めた数値であろう。ただし、先の『伊勢新聞』では411人としており、このあたりは今後の検討が必要である。戸数に関しては「『上富良野の開拓功労者』田中常次郎」も85戸とするが、「八十五戸全部が入地したのは二年目であった」と述べている。

 小樽に到着した一行は、ただちに小樽から歌志内まで汽車で行くことになる。乗車したのは無蓋の貨車であり、この日はみぞれまじりの雪が降っており、汽車の煤煙と寒さに耐えながらの幸い行程であったという。歌志内から徒歩で空知川沿岸の村落である赤平村平岸に向かい、ここの三重団体のもとでひとまず一時滞在し、雪解けを待ちながら入地の準備をすることになるのである。

 平岸の三重団体は30戸より成り、愛知県出身者も一部含んでいた。28年4月3日(「木札」で佐々木乙吉は5日とする)に開放なった空知川沿岸に入地するが、入地前に20日間ほど幌向の三重団体のもとに滞在し、雪解けを待つと同時に開拓の体験談などを聞き、実地の開墾に備えた学習の機会としていた(『赤平八十年史』昭48)。上富良野の三重団体もやはりこの例にならって、平岸の三重団体のもとに滞在したものであろう。

 平岸の三重団体はフラヌ原野の貸付にも、大きな働きをなしていた。「同年〔30年〕三月団体員空知〔川〕沿岸居住者ヲ撰ヒ、フラヌ原野ヲ踏検セシム、同原野ニテ予定地弐百弐十五万坪ノ貸付ヲ得タリ」(板垣贇夫の「木札」)とされており、上富良野の三重団体が平岸に到着する前に貸付を得るための実地調査を行っていたのであった。このように両三重団体は深い関係をもち、いうならば兄弟の関係であったといっても過言ではない。

 

 上富良野への入地

 平岸に到着後、副団長の田中常次郎、そして田村栄次郎、久野伝兵衛、高田次郎吉、川田七五郎(金七の父)、吉沢源七、川辺三蔵、服部代次郎(庄助の三男、箕三郎の弟)の7人の組長らによって、入植地の調査隊が上富良野に派遣されることになる。一行は空知川に沿って遡り、滝里をこえてフラヌ原野に入る。そして今度は針路を北に取り、富良野川を遡って4月12日に西3線北29号の175番地、楡の木の下に立つことになった(この日が三重団体の入植の記念日とされている)。この時には既に150戸分の区画割ができていたので、それにあわせて入植地の割り振りを決めたという。そして14日に平岸に引き返したのであった。

 三重団体の一行で最初に上富良野に入地したのは、『上富良野町史』(122頁)によれば先の8人であったが、吉沢くらは12人とし吉沢源七(*)、田村栄次郎(*)、加藤清松、城之口仁蔵、杉野捨吉、服部代次郎(*)、川田七五郎(*)、久野伝兵衛(*)、寺前千代松の9人の名をあげている(*は先と共通、『上富良野町史』176貢)。

 こうして入地の準備ができたので、いよいよ上富良野に入地することになるが、『上富良野志』には第一陣の51戸は2隊に分かれ、「一手は美咲方面より四月廿三日来着し、一手は夕張方面より下富良野を経て四月三十日到着」とされている。はたしてこの日付に根拠があるものなのか不明であるが、2隊に分かれて入地したことは認めてよいようである。

 2隊に分かれたのは途中の宿泊施設、旭川での必要物資の購入のことなどを考慮したものであろう。なお、『北海道協会報告』第12号(明30)には、三重県一志郡からフラヌ原野に移住する7戸21人が4月6日に陸奥丸で室蘭港に着いている。一行は「小作」となっているが、三重団体の一員の可能性が高い。

 「『上富良野の開拓功労者』田中常次郎」によると、美瑛方面からの入地は「先走り」と称され、18戸が家族と共に滝川、音江を経て旭川に至り、旭川では「炊事具等の家具を求め」たという。その後、ベベツの三重県人前川宅で1泊、ビエイでも1泊して上富良野に到着したとする。家族を含めると一行は100人前後となっていただろう。日付は5月10日に出発し、12日頃の到着である。

 吉沢くらの談話によると旭川では三浦屋という旅館に1泊し、一部は旭農場に1週間滞在したという。なお、18戸の戸主は以下の通りであった(『上富良野町史』)。

 

加藤清松

川田七五郎

川辺三蔵

久野伝兵衛

篠原久吉

城ノ口仁蔵

杉野捨吉

高田次郎吉

田中常次郎

田村岩太郎

田村平太郎(孫左衛門二男)

辻村勘六

寺前千代吉

服部代次郎

松井市太郎

山野(崎)脇松

吉沢源七

米川喜市

(五十音順)

 

 川田金七は父七五郎と共に「先走り」に加わるが、談話によると5月2日に平岸を出発し滝川、音江ボッケ(深川市音江)、辺別(東神楽町)と3泊して5日に上富良野に到着したという。同じ集団行動をとった一団のはずなのに、人によって日付、宿泊地も異なっており、何故このように違っていのか不思議なくらいである。

 

 写真 三重団体最初の泊地である楡の木(郷土館展示より)

 ※ 掲載省略

 

 様々な「移住日」

 三重団体、その中でも最初に入地したことになる「先走り」が上富良野に入った、本来なら記念され記憶されるべき「移住日」の日付が、意外にも資料によりまちまちであり、人々の記憶の中でも一定していないのである。例えば『北海道』『上富良野志』では5月4日とするが、先の川田金七では5日、「三重団体員十七人ト共ニ当富良野原野来住者ノ率先ナリ」と「先走り」の一人である吉沢源七の「木札」では6日とし、まだ他にも異伝があったりして、それぞれ異なっているのである。結局、18戸による「先走り」の入地は5月初旬とみてほぼ間違いないのであるが、正確な日付は確定できない状況といえる。

 このことは「木札」からも指摘できる。発足については3月27日から29日とするもので大体の統一がみられる。しかし、「移住」に関してみるとそれこそまったくまちまちである。「木札」から30年の移住者が上富良野に到着・移住したとする月日についてみると、

 

4月

 1日−12人 7日−2人 10日−1人 12日−4人 14日−1人 15日−2人 20日−1人 下旬−1人 

5月

 2日−1人 4日−2人 5日−1人 6日−1人 7日−1人 10日−1人 15日−1人 17日−1人 21日−1人

 

となっており、一団で行動してきた割には不統一な感が否めない。

 ただ、これらの「移住」の月日については、

  @北海道へ到着した日

  A小樽港に着き上陸した日

  B赤平村平岸に到着した日

  C上富良野へ入地した日

以上の4種類が想定される。4月1日が12人と最も多いが、これなどは@を指し、おそらくは七飯に寄港した日ではないかと思われる。4月12日は楡の木に到った日であるが、これらを除く4月の月日は@〜Bを指示するものとなろう。5月はCを指すはずであるが、一定の日に集中することはみられない。それぞれが思い思い判断のもとで「移住日」を記したのであろうが、「先走り」の18戸を除きバラバラに入地したことを暗示させる。例えば田中常次郎の家族の場合は5月15日に平岸を発ち、美瑛経由で18日に到着したという(『上富良野町史』123頁)。平岸に残った32戸は、しばらくそこの滞在を続け、同年の11月になり入地することになったとするが(『上富良野志』)、「木札」で佐々木乙吉は7月20日、落合石松は12月31日とするように(『上富良野町史』177頁)、個人行動で行われていたようである。

 また、『殖民公報』(第70号、大2)の「富良野の三重団体」には、「明治三十年四月渡道、空知郡歌志内村字平岸に移着し一箇年経過の後、三十一年上富良野原野に転住したり」と、団体全員が1年間、平岸に滞在したことを記述している。これには何かの誤聞が含まれているだろうが、あるいは平岸残留組の一部のことを指している可能性もある。

 平岸残留組の他にも高士仁左衛門のように、「辺別で一作して」秋に入地した例もあり、個人的な判断に任せられていた部分も多かったようである。

 このように三重団体の入地がいくつかに分かれたのは、おそらくは仮小屋の建設、食料のことなどを考慮して組織的に入植をずらしたり、あるいは個人的な裁量などによって調整が行われていたからであったろう。三重団体は種々の事情や思惑があって、以上のような複雑な編制と道程をとって上富良野に入植したのであった。

 

 蟄龍生の「殖民地管見」

 以下に紹介するのは、『北海タイムス』(明35・4・15)に掲載された、蟄龍生の「殖民地管見」による三重団体の移民の聞き取りである。

 

  私共の此地に入りましたのは、丁度明治三十年の事でありました、当時旭川より御料地を通り旭農場を経て美瑛迄は移住者弗々(ぼつぼつ)ありました故、ドウニカ、コウニカ道形(みちかた)ありましたから往来には差支へませんでしたが、サアそれからと云ふものは丸ッキリ道と云ふものがないんで御座いませう。幸に団体移住で20余戸100人近くの同勢で参りましたから、サアそれからが大奮闘だ。このデコボコの山阪を通り越せば御上から頂た土地で、ソレハソレハ立派な地面がある、ソレに行かなければ我々の落着く処がないんだ、と云ふて一同を奨励しまして、血気盛んなる男女は各々先に進み老幼を後になし鋸、鎌、山刀(なた)等を用意し道を開きつゝ進んだのでゴザりませう。御話をすれば何でもない様でゴザりますが、中々実地にはソウウマク捗りません。其中に老幼婦女に泣きだすと云ふ騒ぎで、丸でコレでは地獄の一丁目ダナド、口々に云ふのでゴザりませう。ソレヲヤツトノコトデ我慢をさして各々の貸付地に到着しましたと云ふ様なワケデゴザリマセウ。

 

 ここからうかがえることは、第1に美瑛方面から上富良野に入ったこと、第2に「二十余戸百人近く」という集団で移動していたこと、第3に初の入地者の一行とみられることである。そうなるとこの話者は、18人の「先走り」の1人と判断されると同時に、「二十余戸百人近く」ということから18人とは戸主を指すものであり、正確には18戸約100人が最初の入地した三重団体の一団といえそうである。

 

 移住戸数

 三重団体の移住戸数も資料によってまちまちである。『上富良野志』(明42)は83戸、484人とし、先の『北海道』では30年に80余戸とする。「木札」(板垣贇夫)は32年に「フラヌ原野団体員百二十余戸移住完了」とし、32年まで120余戸の移住とする。

 

3−2 三重団体名簿

氏名

出身地

前地名

H18合併

移住年

木札

組合

付記

1

石垣源十郎

員弁郡大長村南大社

三重県員弁郡東員町

 

31.4

長男源助

2

一色武右衛門

員弁郡大長村南大社

三重県員弁郡東員町

 

30.5

 

 

3

伊藤卯之助

三重郡三重村生桑

三重県度会郡大紀町

 

34.2

 

 

 

 

4

伊藤兼次郎

桑名郡木曽崎村加路戸

三重県桑名郡木曽崎町

 

30.4

 

 

 

 

5

伊藤 季吉

河芸郡玉垣村

三重県鈴鹿市

 

30

 

 

 

6

伊藤 藤蔵

朝明郡駒木村

三重県三重郡 ?

 

39・4

 

 

 

 

7

伊藤松治郎

桑名郡木曽崎村加路戸

三重県桑名郡木曽崎町

 

30.4

 

 

 

 

8

伊藤安太郎

桑名郡木曽崎村加路戸

三重県桑名郡木曽崎町

 

30.4

 

 

 

 

9

稲垣 銀次

一志郡高岡村高野

三重県一志郡一志町

津市

30.4

 

 

 

10

内田 庄治

一志郡戸木村

三重県久居市

津市

30.4

 

 

二男幸吉

11

遠藤 房吉

一志郡高岡村高野

三重県一志郡一志町

津市

30.4

 

 

 

 

12

落合 石松

 

 

 

 

 

 

13

大西 吉松

一志郡矢野村

三重県一志郡香良洲町

津市

30.4

 

 

14

大畑 仙松

志摩郡志摩村畦名

三重県志摩郡志摩町

 

30・4

 

15

加藤伊之助

桑名郡木曽岬村見入

三重県桑名郡木曽崎町

 

30.4

 

 

16

加藤 清松

河芸郡玉垣村

三重県鈴鹿市

 

30

 

 

 

 

 

17

加藤伝兵衛

桑名郡木曽岬村見入

三重県桑名郡木曽崎町

 

30.1

 

 

 

18

川喜田辰蔵

一志郡矢野村

三重県一志郡香良洲町

津市

30.8

 

長男久次郎

19

川田 金七

河芸郡玉垣村

三重県鈴鹿市

 

30.5

 

 

父七五郎

20

川辺 三蔵

安濃郡安東村河辺

三重県津市

津市

30.4.

 

 

 

 

21

木内小三郎

河芸郡明村林

三重県安芸郡芸濃町

津市

30.4

 

 

 

22

久野伝兵衛

河芸郡玉垣村

三重県鈴鹿市

 

30.5

 

 

23

小柴 市蔵

津市山中

三重県津市

津市

30

 

 

 

 

 

24

小林 清治

河芸郡明村林

三重県安芸郡芸濃町

津市

30.5

 

長男 勇吉

25

坂  勘蔵

鈴鹿郡加太村梶ヶ坂

三重県鈴鹿郡関町

 

30.4

 

 

 

 

26

佐々木乙吉

鈴鹿郡坂下村

三重県鈴鹿郡関町

 

30.7

 

 

27

鯖戸平三郎

一志郡矢野村小松関

三重県一志郡香良洲町

津市

31.12

 

 

 

28

篠原 久吉

安濃郡安西村岡本

三重県安濃郡芸濃町

津市

30.5

 

 

29

嶋田武左衛門

河芸郡明村林

三重県安芸郡芸濃町

津市

31.3

 

 

 

30

城之口仁蔵

河芸郡玉垣村玉垣

三重県鈴鹿市

 

30.5

 

 

 

31

須藤源九郎

三重郡小山田村山田

三重県四日市市

 

30.4

 

 

 

 

32

杉野新三郎

河芸郡玉垣村

三重県鈴鹿市

 

30

 

 

 

 

 

33

杉野 捨吉

河芸郡玉垣村

三重県鈴鹿市

 

30

 

 

 

 

 

34

高士仁左衛門

河芸郡明合村中縄

三重県安芸郡安濃町

津市

30.5

 

 

35

高田治郎吉

鈴鹿郡関町木品町

三重県鈴鹿郡関町

 

30.4

 

 

36

高橋藤三郎

安濃郡明合村荒木

三重県安芸郡安濃町

津市

30.4

 

 

 

 

37

高山 熊吉

一志郡矢野村

三重県一志郡香良洲町

津市

30.8

 

 

 

38

立松為次郎

一志郡戸木村

三重県久居市

津市

30.4

 

 

 

39

田中栄次郎

河芸郡明合村中縄

三重県安芸郡安濃町

津市

30.5

 

 

 

40

田中代二郎

河芸郡玉垣村稲生道

三重県鈴鹿市

 

 

 

 

 

 

41

田中常次郎

安濃郡安東村納所

三重県津市

津市

30.5

 

服部庄助四男

42

田村岩太郎

 

 

30

 

 

 

 

 

43

田村栄次郎

安濃郡安東村河辺

三重県津市

津市

30.5

 

長男 岩蔵

44

田村 栄蔵

安濃郡安東村河辺

三重県津市

津市

30.4

 

 

栄次郎分家

45

田村新次郎

安濃郡安東村小郡

三重県津市

津市

31.3

 

 

 

46

田村孫左衛門

安濃郡安東村河辺

三重県津市

津市

30

 

 

三男 勧

47

辻村 勘六

安濃郡安東村渋部

三重県津市

津市

31.4

 

 

 

48

寺前千代松

安濃郡安東村河辺

三重県津市

津市

31.4

 

 

 

49

寺本広太郎

員弁郡大泉村東一色

三重県いなべ市

 

33.2

 

 

 

 

50

長井文次郎

安濃郡安東村渋見

三重県津市

津市

30.4

 

 

 

51

仲条 与吉

鈴鹿郡野登村辺法寺

三重県亀山市

 

31.6

 

 

 

52

西川 竹松

河芸郡玉垣村柳

三重県鈴鹿市

 

31

 

 

 

53

橋本 長七

鈴鹿郡加太村梶ケ坂

三重県鈴鹿郡関町

 

30.4

 

 

 

 

54

長谷藤右衛門

安濃郡安東村跡部

三重県津市

津市

31.1

 

 

 

 

55

服部慶太郎

河芸郡玉垣村稲生道

三重県鈴鹿市

 

31.3

 

 

 

庄助 四男

56

服部 庄助

河芸郡玉垣村稲生道

三重県鈴鹿市

 

31.3

 

 

 

 

57

服部箕三郎

河芸郡玉垣村稲生道

三重県鈴鹿市

 

 

 

 

庄助 長男

58

林 安太郎

津市中三番町

三重県津市

津市

30.6

 

 

 

 

59

広  卯吉

志摩郡志摩村

三重県志麻市

 

 

 

 

 

60

布施庄太郎

鈴鹿郡関町中町

三重県鈴鹿郡関町

 

30.4

 

 

 

61

前岨 安吉

河芸郡飯野村安塚

三重県鈴鹿市

 

31.3

 

 

 

 

62

増田嘉太郎

河芸郡明村林

三重県安芸郡芸濃町

津市

33.3

 

 

 

63

松井市太郎

志摩郡波切村

三重県志摩市大王町

 

30.3

 

 

64

松井 仙松

志摩郡波切村

三重県志摩市大王町

 

30.3

 

 

 

65

松井為四郎

志摩郡波切村

三重県志摩市大王町

 

30.3

 

 

 

66

水原 政次

津市

三重県津市

津市

30

 

 

 

 

 

67

宮崎駒治郎

河芸郡玉垣村玉垣

三重県鈴鹿市

 

30.4

 

 

 

 

68

森下 仁助

鈴鹿郡加太村梶ケ坂

三重県鈴鹿郡関町

 

30.4

 

 

 

 

69

森川 房吉

一志郡高岡村日置

三重県一志郡一志町

津市

3b.5

 

 

 

 

70

山崎仙太郎

河芸郡玉垣村柳

三重県鈴鹿市

 

30.4

 

 

 

 

71

山崎兵次郎

河芸郡玉垣村柳

三重県鈴鹿市

 

30.5

 

 

長男兵松

72

山崎林兵衛

河芸郡玉垣村柳

三重県鈴鹿市

 

31.3

 

 

 

男由松

73

山崎脇松

河芸郡玉垣村

三重県鈴鹿市

 

30

 

 

 

 

 

74

山本丹治

安濃郡辰水村

三重県安芸郡美里村

津市

30.4

 

 

 

75

吉沢源七

河芸郡玉垣村玉垣

三重県鈴鹿市

 

30.5

 

 

76

吉田 貞吉

河芸郡一身田村西之町

三重県津市

津市

33.4

 

 

 

77

吉田 久作

志摩郡志摩村

三重県志摩郡志摩町

 

30.11

 

長男 楠蔵

78

米川 喜市

一志郡矢野村小松

三重県一志郡香良洲町

津市

31.12

 

 

 

79

若林助次郎

安濃郡安東村納所

三重県津市

津市

30

 

二男仲次郎

80

家田与三次郎

愛知県中島郡大江村

愛知県稲沢市

 

33.9

 

 

 

81

大角佐十郎

愛知県中島郡三宅村

愛知県中島郡平和町

 

31.4

 

 

82

岡田甚蔵

愛知県中島郡梅須賀村

愛知県稲沢市

 

31.3

 

 

83

島  義空

愛知県額田郡河合村

愛知県岡崎市

 

31.1

 

 

 

 

84

畑中良太郎

雨竜郡深川村メム

北海道深川市

 

32.1

 

 

 

85

伊藤七次郎

不明

 

 

 

 

 

 

86

分部 牛松

不明

 

 

 

 

 

87

服部 六太

不明

 

 

 

 

 

 

  出典 木札−岩田賀平「三重団体草創の人々」(『郷土をさぐる』第5号、昭60)

     組合−三重団体戦時記念開墾組合(『総代会書類』役場蔵)

     志−『上富良野志』、碑−三重団体頌功碑(『上富良野町史』179頁)

  注 原則として三重県、愛知県出身者のみを掲載。上記の史料箇所に○印のないものは、他史料により確認したものである。

 

 「富良野の三重団体」(『殖民公報』第70号、大2)は、「最初の移民は僅に三十二戸を存するに過きす。然れとも其後又郷里より単独にて移住せるもの二十八戸ありて合計六十戸二百七十人現住し、外に愛知県移民等十五戸ありて之に加はれり」とし、30年に32戸、後に28戸、さらに愛知県移民が15戸が加わるとする。これは「現住」分の数値のようである。

 以上の数値からみると30年に80余戸、その後32年まで40余戸が移住し、合計で210余戸であったとしてよいようである。ただし、離散者もあって明治末年まで「現住」したのは、その3分の2の75戸ほどであったのである。

 団体の不足分は愛知県民を補充したというが、『北海道協会報告』第12号(明30)には愛知県東春日井郡からフラヌ原野に移住する22戸106人が、3月25日に志賀浦丸にて小樽港に着いている。この一行が三重団体の愛知県民である可能性が高い。

 

 団体の離散

 先に団体の3分の2が「現住」したことを指摘したが、このことは3分の1が離散したことをあらわしている。それほど開拓が困難で団体の維持が難しかったのである。特に開拓初年の30年は霜害、31年は水害に見舞われ収穫は最低であった。これらが原因となって団体の不和を招いたのである。

 『北海道』(田中常次郎、大10)には、「移住当初に当りて諸種の障害醸生し、開墾の事業遂行の上に支障を生するや、団体中薄志弱行の徒は帰国又は他へ離散するもの続出して、殆んど収集すべからず」と伝え帰国者、離散者が続出したという。また、同じく『北海道』の「吉田楠蔵伝」には、「其附近概(おおむ)ね樹林地にして農作物の発育良好ならず、年々の収穫少にして一家衣食の料足らず、故を以て六十五戸の団体移住者中、前途を気遣ひ帰国又は他へ移転するもの続出し四離滅裂の状集収すべからず」と、「四離滅裂」の状況を伝えている。

 また、新聞報道では「団体移住民の困難」(『北海道毎日新聞』明31・12・15)と題して、31年の以下のような窮状を報じていた。

 

  石狩国フラヌ原野へ先に移住せし三重県の団体二百余戸の代理者は同農場に居らず、単に総代をして各団体の監理・指揮を為さしめ、水災前と雖と随分困難を来し居たるが、水災後は一層の惨境を極めたり。殊に総代と意見衝突し諸事放任の姿なれは目下非常の困難を来し、農民は路頭に迷ふの場合なるに依り道庁に哀願する所あらんと協議し居るとぞ。

 

 ここでの代理者は板垣贇夫、総代は田中常次郎であるが、両者の意見対立が水災後の困難を倍加した旨を伝えている。真相は不明であるが、水害が団体の経営を困難にしたことは確かである。ただ、当時は鉄道工事が行われており、ここの人夫に従事して賃金を得て窮乏をしのいだようである。

 

 田中常次郎

 三重団体の中心となった田中常次郎は安政5年(1858)に三重県安濃郡安東村字納所で生まれた。田中家は「世々庄屋を勤めて土地の旧家」であり、常次郎も「納所村の公職に挙げられ、村治に貢献する所多し」といわれている。常次郎が北海道移住を思い立ったのは明治27年、36歳の時であった。

 団体の解散があいつぐ困難な中で、よく三重団体をまとめた常次郎はその後村会議員、常設委員、在郷軍人分会理事、上富良野信用購買販売組合理事、富良野川潅漑溝組合副理事長などの公職の数々をこなした。そして明治42年に一切の公職を退いて「身を閑散に委し優遊自適」し、「観世流の謡曲を唯一の楽と為」したという。大正4年4月20日に死去した(享年58歳)。彼の功績をたたえて5年9月に専誠寺境内に頌功碑が建立された。