第3章 明治時代の上富良野 第1節フラヌ原野の開放と農場の設置
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4 島津農場の開設
農場の開設
明治30年に3261万1750坪という広大な富良野原野が開放となり、植民地には移住団体が予定存置を受けて相次ぎ入植すると同時に、資本家たちが大地積の貸付けを得て農場、牧場を開設していった。これ以降、富良野原野では増区画地の開放なども何度か行われ、これにともなって開設されていった農場、牧場数を現自治体別にみると、
農場 牧場
上富良野町 25 30
中富良野町 20 8
富良野市 22 2
南富良野町 14 19
占冠村 4 3
合計 85 62
となっている(『富良野地方史』昭44)。上富良野町には農場数25、牧場数30となっており、いずれも5自治体の中では多い数を示している。
このように上富良野町に多数の農場、牧場が開設された理由は、
@植民地の開放が年次的に早かったこと。
A鉄道開通が早く交通が便利であったこと。
B大学農場、演習林、御料地など官公署地への編入が少なかったこと。
などの理由があげられる。上富良野町内に開設された主な農場は明治30年代では島津の島津農場、富原の永山・福島農場、東中の人見(中島)・神田・田中・倍本・森農場、江花の村木農場、40年代では東中の五十嵐・橋野・佐藤農場、里仁の津郷農場、江幌のカネキチ農場などがある。
以下ここでは、主な農場の開設過程と経営などにつき、明治36年10月31日現在の「北海道国有未開地大地積貸付現在表」(『新撰北海道史』第6巻、昭12)、『上富良野志』(明42)、『北海道農場調査』(大2)、『上富良野町史』(昭42)などをもとにしてみていくことにする。
写真 島津農場管理事務所兼倉庫棟
※ 掲載省略
島津家の農場計画
島津農場の沿革・概要については『殖民公報』第77号(大正3年3月)所載の「上富良野島津家農場」、『島津農場概要』(島津農場刊、謄写版)、『島津家農場沿革』(海江田家蔵)などがあるが、農場管理人の海江田信哉がまとめた草稿である『島津家農場沿革』が最も詳細である(『島津農場概要』は『島津家農場沿革』をもとにまとめられたものである)。また、島津農場の経営についても上記資料に触れられているが、海江田家蔵の島津農場関係資料の中にも多数の記録が残されている。いまこれらの資料をもとに以下の記述を進めていくことにする。
まず、島津農場の沿革・概要をみていくことにするが、農場の起りは以下の通りであった。
明治参拾壱年五月廿七日、島津家ヨリ土地購入嘱托員園田実徳ヨリ吉田清憲へ、島津家ニ於テ北海道へ農場御計画アルニ付キ其監督ノ一切ヲ嘱托アリ。五月廿九日、吉田清憲ヨリ海江田信哉ヘ農場管理ノ嘱托アリ。依テ同日札幌滞在中ノ園田実徳へ吉田・海江田両名、札幌豊平館ニ於テ面会セリ。其時園田ヨリ島津家ニ於テ計画ノ土地ハ、栃木県人ノ矢板武・鈴木要三外弐名ノ組合ニテ土地ノ貸下ヲ受ケ、北晃社ト称シ経営準備中ノ左記四ケ処ノ土地ナルヲ以テ、後来農耕地トシテ適当前途有望ナルヤ否ヤ、実地調査ノ上詳細ナル報告方嘱托アリ。
島津家では明治31年に北海道で農場創設の計画をたて、土地選定につき土地購入嘱托員であった園田実徳に嘱託したようである。5月27日に園田から吉田清憲に対して農場監督、29日に吉田から海江田信哉に対しては農場管理の嘱託があり、3人は会談をもちまず農場予定地の実地調査を行うことにしたのである。
園田実徳はもと薩摩藩士で明治5年に開拓使に出仕し、15年に廃止後は北海道運輸、共同運輸、日本郵船会社など海運業の振興に尽くし、また北海道炭鉱鉄道、函樽鉄道といった本道の鉄道業を興していった重要な人物である(『開拓の群像』下巻、『北海道開拓功労者関係資料集録』上巻)。一方で彼は既に19年に渡島国亀田郡亀田村に農場を開設していた。もと開拓使の牧羊場、780町歩の貸下げを得たものであるが、北海道の実情に明るく、農場経営にも精通していたことから、島津家より土地購入の依頼を受けたものであったろう。
ところで、予定地というのは明治3年9月に矢板武、鈴木要三ほか2名により組織された北晃社の貸下げ地であった。それは、
石狩国夕張郡長沼村馬追原野 500町歩
同空知郡上富良野村富良野原野 500町歩
十勝国浦幌原野 500町歩
同ノヤウシ原野 500町歩
計 2000町歩
以上の4カ所から成っていた。吉田、海江田の2人は早速、6月3日より馬追原野、9日より浦幌原野、中川郡ノヤウシ原野の調査に着手し、そして27日に富良野原野の調査を終え、7月2日に調査報告書を園田美徳に提出したのであった。その結果は、浦幌・ノヤウシ原野は農耕不適地であり、交通も不便であって、「後日好結果ヲ得ルヤ否ヤ保シ難キ事ニ被存候」とされ、「御取止メノ方得策卜愚考仕候」と進言されていた。一方、馬追原野と富良野原野はともに有望視され、富良野原野については以下のように述べられている。
一、空知郡富良野原野ハ土地良好、交通ノ如キモ便利ニテ利益モ数年ナラスシテ得ラル、事ト被存、且ハ現地接続ノ市街予定地ノ如キハ前途有望ノ位置ニテ、後来ハ現地ノ一部分ハ或ハ市街宅地ト相成ルヤモ難計ト被存候。
ここで富良野原野は土地良好、交通便利の上、市街地に接続しており将来、市街宅地となる可能性もあると述べている。別に添布された調査報告書には、「交通ノ如何」「土地ノ良否」につき詳述がなされている。
島津農場の創設と開場
以上の報告に基づき島津家では馬追原野、富良野原野に農場創設を決め、北晃社よりの譲渡を進めることになる。この経過について『島津農場概要』は、「三十二年二月本地及長沼の二箇所を譲受け長沼は当主公爵〔島津忠重〕の名義とし、本場は家令東郷重持の名義となし、次て公爵令弟男爵忠備の名義に改む」とし、32年2月に長沼農場は島津忠重、富良野農場は最初、家令東郷重持の名義で登記したというが、間もなく島津忠備に変更となった。
このようにして2カ所の農場地を得た島津農場であったが、上富良野村の富良野農場は面積137万8980坪、成功期間は明治31年から38年で名受人は島津富次郎(忠備、男爵、東京府荏原郡大崎村)であった。範囲は東が東2線、西が西1線、北が市街地、南が中富良野村との村界となる北20号であった。
島津農場では譲渡を得るや早速、32年からの開墾にそなえての準備を開始していく。以下、再び『島津家農場沿革』をもとに経過を追っていくことにしよう。まず10月10日に、「小作小屋掛用草刈リノ為人夫弐名ヲ派遣」され、これが「富良野農場事業着手ノ始メナリ」とされている。そして11月12日に吉田清憲、海江田信哉が来場して北晃社からの引継ぎを得るのであった。
そしていよいよ開墾に入る32年であるが、近藤直勝を富良野農場管理者とし、3月に小作を長沼農場のある長沼村付近で募集する。「上富良野島津家農場」でも32年3月夕張方面より富山、石川県人を25戸募集したとし、農場では当初から小作を本道で募集していた。募集したのは25戸であり4月12日に入場した。このうち、加藤房吉、山口九平、川村秀造、吉田仙吉、加藤荒市、中田太作、上田吉次郎、吉田政右衛門、蓑島彦右衛門、大島与三兵衛、室谷佐吉、山本要次郎、佐々木市太郎、出口小次郎、上村孫三郎、以上の16戸の入場者が記録に残されている。
この年は黍、粟、大豆、小豆、蕎麦、馬鈴薯、玉蜀黍(トウモロコシ)、扁豆、豌豆、蘿蔔(らふく:大根)、胡蘿蔔、午房(蒡)、南瓜(カボチヤ)、玉菜、裸麦が播種されていた。しかしながら、多くが不作に見舞われた。近藤直勝はこの年の農況を以下のように報告している(島津農場関係資料)。
一、当農場ハ本年何レモ新開ナルニヨリ総(すベ)テ作物ノ成長ハ良好ナリシモ収穫良好ナラズ。粟ノ如キハ虫害ノ為メ皆無トナリ、之レハ農場ノミナラズ富良野一般ノ不作ナリ。
この他に黍、大小豆、蕎麦、馬鈴薯の作況も報告されているが、天候の不順もあって一般的に不作であった。
33年3月にも同じく長沼村付近で小作を25戸を募集したが、「明治三十三年三月中小作人既住者調査報告」には以下の13戸の報告がなされている(島津農場関係資料)。
細川与三郎、本宮栄次郎、浜伊三郎、瀬川茂三郎、加藤勝三郎、北小三郎、室惣太郎(同居、橋爪仁三郎)、有田仁三郎、(以上は石川県出身で前住所は千歳郡漁村。以下同じ)、出家八太郎、立野庄太郎(石川県、空知郡岩見沢)、新谷仁三郎(石川県、空知郡沼貝村字奈江)、山本仁三郎(石川県、富良野)、前田三平(富山県、札幌郡野幌)。
13戸のうち12戸が石川県出身であり、前住所は千歳郡漁村が8戸と最も多い。おそらく、ここの加越能開墾会社の農場へ移住した人々であったと思われる。島津農場では32、33年で合計50戸を誘致したわけであるが、農場では旅費、着後1カ月間の食費を貸与し、1反歩3円から4円の開墾費を支給して小作人の確保と開墾の進捗をはかっていた。しかし、「小作人ハ明治三十二年度、三十三年度ノ両年共気候不順ノ為メ農作物ノ収実僅少ニシテ、小作人等糊口サヘ凌(しの)クコト能(あた)ハサリシ為メ、三十三年十二月ニハ五拾戸移入ノ小作人、三十九戸迄モ無断退場シ僅力拾壱戸現住セリ」という状況であったという。この時期の天候不順と凶作は深刻なもので、三重団体においても大きな影響を受けていたが、小作戸離反の別な原因として考えられるのは、島津農場では他農場のように開分け制度をとっていないことであった。
農場と小作の入場者と交わした「開墾小作契約証」は、以下の通りであった(島津農場関係資料)。
第一条 小作居小屋一棟相成度事。但、居小屋ノ修繕ハ小作人ノ負担トス。
第二条 御貸与ノ何反歩ノ地積ハ満四ヶ年ヲ以テ全地成功可致候事。
第三条 開墾料ハ開墾ノ難易ニ依リ壱反歩ニ付金弐円ヨリ金四円迄ノ支給ヲ請フ事。
第四条 小作料ハ開墾料受領ノ年及翌年ノ弐ヶ年ハ無料ノ事。
第五条 小作料ハ地味ノ良否ニ依リ壱反歩ニ付金五拾銭ヨリ弐円、毎年九月三十日迄ニ三分金、十月三十一日迄ニ七分金上納スル事。
第六条 小作料ハ三ケ年毎四隣ノ景状ニ依リ増減スル事。
第七条 地主ノ承諾ヲ得スシテ他ノ土地ヲ小作シ又ハ小作地ヲ転貸セサル事。
第八条 小作人出稼等ヲ為ストキハ行キ先キ并ニ日数ヲ事務所ニ届出ツルコト。若シ日限ニ至リ帰家セス何等ノ申出ナキトキハ、契約違背者トシテ立退ヲ命セラルヽモ苦情申間敷事。
第九条 毎年小作地全体ニ関スル道路、橋梁、排水等ノ修繕、掃除ハ小作人ニテ為ス事。但、修繕、掃除ノ区域、方法ハ事務所ノ指揮ニ従フ事。
(以下、第十、十一条省略)
農場の経営
富良野農場では開場早々から困難に直面したのであるが、34年3月に長沼農場管理者であった海江田信哉を富良野農場管理者とし、経営立て直しをはかることになった。そして小作の退場者続出によりこれまでの開墾地までもが荒蕪化し、成功検査にも支障の出る恐れがあったので、経営方法を小作方式から直営方式へと変更することになる。
すなわち、「明治三十四年度ヨリハ官庁ニ対スル起業方法ニ準拠シ、牧草ヲ播種シ第七師団ニ売却ノ方針ニ決シ四月ヨリ着手セリ」と、第七師団へ納入用の牧草栽培に切り替えることにしたのである。牧草は栽培が最も簡便で販路も確実なものであった。牧草地は35年までには100町歩となり、36年5月には札幌興農園より牧草収納器としてヘーモーア、ヘーレーキ、テッター等が購入されておりこれは、「本村ニ於ケル輸入農具使用ノ始メナリ」とされているが(『島津農場概要』)、器械の導入により生産力の増大と省力化につとめている。牧草栽培は造田化に入る明治42年まで続けられたが、36年には210余町歩に増大し、この方針転換は効を奏し農場は苦境を脱することができたのである。こうして38年には農場貸付け地の成功を終え、翌39年5月7日に473町8反歩の付与を受けることとなった。
ただその一方で、まったく小作方式を廃止したわけではなく、35年3月にも岩見沢方面で富山、石川、愛媛県人25戸を募集している。しかしこの年も不作で8戸の退場者を出して小作人の不安定な状況が続き、ここで小作募集をしばらく中止せざるを得ない状況に追い込まれることになる。だが、39年5月に成功検査を受け、全部が付与許可となり苦境を脱することになり、この頃より小作も徐々に増加をみるようになってくる。
表3−1は32年の創業以来、大正元年までのおける毎年の農産額と小作戸数の推移を示したものである。35年までは農産額は確かに低迷しており、経営は苦しかったようである。36年以降は次第に農産額も伸びていき、39年からは1万円台に達して安定を得るようになる。42年から取り組み始めた造田化の成果もあらわれるようになり、大正元年には2万円を超えるようになる。主要作物をみると裸麦、小麦、燕麦、小豆が収穫高が多くなっており、米も年々伸びていっていた。
農場の収支をうかがうと43年の場合、収入は小作料が3625円85銭であった。支出は事務所の経費、諸税など2567円73銭であり、1058円12銭の収益を上げていた。大正2年も小作料が約4000円といわれている。小作制に移行してからは農場の収入は小作料のみであった。また、大正2年までの投資総額は5万9900余円(固定資本2万5000円)、収入総額は3万1700余円であり、2万8200余円の赤字であったことになる。
小作戸の生活状態も一年間の収入は平均で350円とされ、他の農場に比べ良好であったようである。北川石松、北伊三郎、本間形治、多湖九蔵、北村吉間などは資産の多い優良小作に挙げられていた(『上富良野島津家農場』)。
小作戸数の方をみると、37年から40戸を数えて定着率が安定したことをうかがわせるようになる。42年からは牧草地を小作に貸与したことより増加し60戸となり、大正元年には水田の造成によりなお増えて79戸となっていた。小作戸の出身県の内訳をa『北海道農場調査』(大2)、b『上富良野島津家農場』(大3)からうかがうと、以下のように富山県出身者が最も多く、次いで岐阜、石川、愛媛県の出身者が多かった。
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a |
b |
富山県 |
25戸 |
27戸 |
岐阜 |
15 |
16 |
石川 |
12 |
14 |
愛媛 |
8 |
9 |
その他 |
10 |
13 |
合計 |
70 |
79 |
『北海道農場調査』による農場の面積は田20町歩、畑300町歩、林地63町8反歩余、合計383町8反歩余となっている。
表3−1 島津農場の農産額と小作戸数
年 |
農産額 |
戸数 |
米 |
大麦 |
裸麦 |
小麦 |
燕麦 |
大豆 |
小豆 |
明32 |
1,029円 |
21戸 |
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明33 |
1,561 |
33 |
|
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|
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|
|
明34 |
748 |
17 |
|
|
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|
明35 |
1,519 |
34 |
|
|
|
|
|
|
|
明36 |
3,460 |
35 |
|
|
|
|
|
|
|
明37 |
4,050 |
44 |
|
|
|
|
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|
明38 |
8,150 |
47 |
|
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|
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|
明39 |
11,030 |
46 |
|
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|
明40 |
11,940 |
55 |
|
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明41 |
8,739 |
49 |
30石 |
17石 |
170石6斗 |
132石1斗 |
447石 |
36石1斗 |
168石 |
明42 |
12,585 |
60 |
63石3斗 |
10石 |
367石9斗 |
376石7斗 |
680石 |
46石2斗 |
46石 |
明43 |
14,638 |
62 |
123石2斗 |
19石 |
330石4斗 |
414石7斗 |
550石6斗 |
38石7斗 |
251石2斗 |
明44 |
16,580 |
62 |
130石 |
15石 |
440石 |
650石 |
655石 |
42石 |
360石 |
大1 |
21,705 |
79 |
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出典 農産額・戸数は『殖民公報』第77号(大3)、米以下の主要作物は島津農場資料(海江田家蔵)。
写真 島津農場での牧草刈り作業
※掲載省略
農場管理人海江田信哉
島津農場の管理人であった海江田信哉は、慶応元年(1865)に鹿児島県鹿児島郡下伊敷村の士族の出身であった。明治17年に屯田兵に応募して江別兵村に移住したが、27年に札幌郡篠路村茨戸(現札幌市)に開場した前田農場の管理人となる(『上富良野志』)。前田農場は旧加賀藩主前田利為が、堀基から買収して開いた農場であった。ここでの経営手腕がかわれて島津農場の管理人に抜擢されたものと思われる。
当初は長沼農場の管理人であったが、34年3月に富良野農場の再建のために転任してきたのであった。この年の5月には志賀久兵衛も、管理人を補佐するために来場している。37年8月から翌年12月まで日露戦役により召集となり、農場監督は湯地定基、山口岩熊に嘱託されていたが、復帰後は農場再建につとめ、特に造田化に顕著な実績を挙げることになる。
写真 島津農場管理人海江田信哉と家族
※ 掲載省略