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3章 明治時代の上富良野 第1節フラヌ原野の開放と農場の設置

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2 フラヌ原野の開放

 

 原野の開放

 道庁では殖民地の選定がなった原野をただちに開放するのではなく、道路、鉄道、港湾などの殖民地への交通アクセスの整備、物資流通の核となる都市の建設など、「移住環境」の整備にあわせて漸次、開放する政策を取っていった。そのために内陸部に位置したフラヌ原野の開放は、必然的に遅れをみることになる。

 例えばフラヌ原野は石狩国に属していたものの、明治26年3月24日の石狩国一円の土地貸下げが実施された際、フラヌ原野と接続地(北はビエ・ベベツ川に至る原野、並びにナイタイベ川より石狩川左岸に沿いヲキリカツト川に至る原野)は除外されていた(道庁告示第20号)。この理由について『北海道毎日新聞』(明26・9・14)は、「漸次区画割を施し小地積は隣地との境界及び道路敷地を定め接続地図を製し、整然区画割を為せる後(の)ち地理課より殖民課に引渡し、同課を経て之れが貸下げを為すの方針なりと云ふ」と報じられている。殖民区画の未施行が主な理由とされているが、1番の理由は交通アクセスの不備であったろう。

 しかし、明治26年に計画決定された十勝線の工事開始、旭川村市街地の発展がフラヌの諸原野開放の大きな要因となり、29年12月25日に貸下げの告示が出され開放となったのである。既に2月ほど前の『北海道毎日新聞』(明29・10・30)では「二原野の解除」と題し、

 

  十勝国十勝、上川郡〔空知郡の誤り〕フラヌ原野の内大地積を不日解除し、本年中に区画割に着手し、明春を待て之が貸下を為すの由なるが、今回解除となる二原野は地味頗ぶる豊沃のケ所なりと。

 

と、「不日解除」の報道がなされていた。

 29年12月25日に出された告示(道庁告示第220号)では、「明治三十年ヨリ貸下クへキ区画地」として十勝国フシコベツ原野、北見国上・下トコロ原野など34原野とともに、フラヌ原野の30年からの開放が告げられていた。そして翌30年2月7日に、各原野の出願手続についての告示が出され(道庁告示第23号)、フラヌ原野は殖民課滝川派出所にて4月1日以後受付、土地引渡し期日は5月1日以後とされた。道庁殖民課の滝川派出所にて受付とされたのは、フラヌ原野は当時、空知支庁管内の空知郡に属していたからであった。

 フラヌ原野はまとまった大地積をもち、「地味頗ぶる豊沃のケ所」と報道されていただけにフラヌ原野の人気は高く、「空知郡フラヌ原野区画地貸下の願書其筋に於て受理中なりしが、既に貸下出願数の区画数に達したるを以て昨十四日より出願の分は悉皆却下せりと云ふ」と伝えられている(『小樽新聞』、明30・4・15)。

 自作地を求める人々が滝川派出所へ続々と訪れたわけであり、申し込み開始から2週間ほどで満員となり受付が締め切られるという人気ぶりであった。おそらく開放が待望された殖民地であったからこそ、なおのこと人気があったのであろう。

 

 フラヌ原野の状況

このように好評で迎えられたフラヌ原野であったが、フラヌ原野の区画地の状況は以下の通りであった(『北海道協会報告』第11号、明30)。

 

 地勢 本原野ハ空知郡空知川上流ニアル一大原野ニシテ、空知川ヨリ北東「ヲプタテシケ」西麓ノ高原ニ至ル広野ヲ総轄ス。其中部ハ卑低ニシテ泥炭地ナレトモ東西山脚ニ漸昂ス。「フラヌ」其他ノ細流ハ同原野ヲ貫通シ、而(しか)シテ地勢地層ノ形状自ラ排水ニ便利ナリ。

 土性 河畔ノ地ハ肥沃ノ壌土ナレトモ、草原ハ黒色壌土ニシテ下層ハ砂礫若(もし)クハ粘土ヨリ成立シ、高層ノ地ハナラ多ク「フラヌ」「エアロカンベ」川ノ上流及ヒ渓間ニハトドマツ、エゾマツ、カバ、セン、イタヤ、オンコ等、河畔ハアカタモ、ヤチダモ、ハンノキ、カバ、クルミ、ヤチザクラ、ヂタケ等、内部ノ乾燥地ハナラ、アカタモ、イタヤ、カツラ、ソコロ、シナ、ヒキザクラ、クワ、ヂダケ等、半湿地ニハヤチダモ、ハンノキ、ヤチザクラ、タラ、エンジュ、サビタ等ヲ生ス。

 用水 空知川「ナンワツカヒウカ」川ハ水質佳良ニシテ飲用ニ適スルモ、其他ハ濁水ニシテ硫黄質ヲ含有シ、且ツ内部ニ於テハ良水ヲ得難キヲ以テ、井水ニ依ラサルへカラス。

 交通 本原野ハ未タ道路ナク交通不便ナレトモ、上川地方ヨリ「ビエイ」原野ニ至ル迄ニ已ニ道路アリ。是ヨリ本年刈別(かりわけ)道路開通ノ企アルヲ以テ、旭川村ヨリ十里余ニシテ達スルヲ得ヘシ。但空知太、空知川ニ泝リ本原野ニ入ルノ道路ハ最モ必要ニシテ、且短距離ナレトモ其間険峻ノ箇所アリテ未タ道路ノ開通ニ至ラサルモ、他年上川鉄道延長シテ本原野ヲ通過スルノ際ハ大ニ運輸交通ノ便ヲ得ルニ至ラン。

 気候 原野ノ内部、高台ノ地ニアルモ北方ニ山ヲ負ヒ南方ニ面スルヲ以テ、上川地方ト大差ナカルヘシ。

 地積 本原野上中下ノ三部ヲ合シタル総面積ハ三千二百六十一万千七百五十坪ニテ、内樹林地千三百三十三万三十五坪、草原地千二百六十二万千坪、其他ハ泥炭湿地ナリ。本原野及ヒ「ケナチヤウシ」ニ跨リ札幌農学校学田地千万坪アリ。而シテ今春本原野ヲ区画シ貸下ケラルヽニ付キ、将来愈々墾闢ノ暁ニ至ラハ実ニ一大農村ヲ現ハスへシ。

 

 フラヌ原野の面積は上フラヌ、中フラヌ、下フラヌの3部を合わせた総面積3261万1750坪という広大なもので、交通に関しては、「他年上川鉄道延長シテ本原野ヲ通過スルノ際ハ大ニ運輸交通ノ便ヲ得ルニ至ラン」と、将来に原野を貫通する十勝線を控えていた。また、「札幌農学校学田地千万坪アリ」とされるように官設の農場が予定されていたことも、土地の肥沃さと将来性、安心感などを与えていた。札幌農学校の学田地は当初、殖民地選定されていたケナチヤウシ原野であり、一括して学田地に編入されたものであった。

 十勝線、札幌農学校の学田地などの予定も、フラヌ原野の人気を高める要因となったのであり、広大な地積や肥沃さなどに加えて将来の有望性も高く、「将来愈々墾闢ノ暁ニ至ラハ実ニ一大農村ヲ現ハスへシ」というのも、決して誇張ではなかったのである。

 

 「フラヌ原野の概況」

 先のフラヌ原野の区画地の状況は、『北海道毎日新聞』(明30・3・9)にても「本年貸下べき土地情況」として掲載・紹介されていた。その後も同紙に「フラヌ原野の概況」と題し、「空知郡フラヌ原野の情況を視察し、此程帰札せられたる某氏の談話」が掲載されている(『北海道毎日新聞』明30・4・29)。以下のように土地の実情を細かく観察し、その利用法まで的確に述べた談話である。

 

  同〔フラヌ〕原野は交通極めて不便にして目下、同原野に通ずるには上川郡旭川村よりす。此間凡(およ)そ十一里ありて旭川村よりビヱイ迄は平坦なれども、ビヱイよりフラヌ原野の間は地勢漸く高く謂所(いわゆる)高丘なるものにして、所々に沢あるを以て之を利用すれば放牧地として適当なりとす。

  フラヌ原野は南西より東北に延長して其延長凡そ五里、幅員凡そ二里あり。フラヌ川二つに分れて同原野を貫流して空知川に入り其流れ急ならざれば小舟を通するを得べく、原野は上川より入口に当れる百万坪と空知川沿岸若干坪とは草原地なれども、其他は皆樹木地にして中央に面積凡そ百五、六十万坪の泥炭地あり。地味は概して肥沃にして水利の便最も宜しきを以て水田に適せり。開墾は樹木地にして湿地多き故甚た至難なり。(中略)交通不便なれども本年は空知太より同原野に通する道路を開鑿することヽなり、又ビヱイよりも仮道を築く由なれば是等の道路開通せは、目下に於けるか如き不便は除去せらるならん。樹林地には椴松、蝦夷松等の針葉樹多きを以て建築用材に乏しからず。移住後家屋の建築には不便を感するの憂(うれい)なからん。要するに同原野は四方山岳を以て囲繞(いにょう)せらるヽと雖とも、十勝に達する鉄道線路の予定地に当りあるを以て他日鉄道を敷設せらるヽあらば、交通上一層の利便を有するを得べく。而して地味肥沃にして水利に富み水田に適するを以て、良好なる殖民地として見るを得べしと。

 

 この談話では美瑛からフラヌ原野までの高丘は放牧地、原野中央の「泥炭地」は水田に適しているとし、樹林地にはトド松、エゾ松が豊富で建築用材に不足のないことが述べられている。また、「交通極めて不便」とされた交通問題に関しても空知太(滝川)、美瑛からの道路が計画・工事中であり、十勝への鉄道も予定されており「一層の利便を有する」見込であった。そして、地味が肥沃で水田に適するフラヌ原野は、「良好なる殖民地」と結論づけられていた。フラヌ原野の将来を有望視するのは、衆目の一致するところであったといえよう。

 

 開拓の進行

 待望のフラヌ原野の開放にともない、原野には続々と入植者が入ってきた。団体移住では地所の予定存置を受けていた三重団体が上富良野、石川・福井団体が中富良野に入植し、農場では栃木県の鈴木要三等が上富良野、福岡県の佐々木正蔵、近藤真五郎、神代寅二ほかによる筑後組合農場が下富良野に各農場を開設した。

 明治31年1月に報道された「フラヌ原野の状況」(『北海道毎日新聞』明31・1・22)には地勢、面積、貸下げと開墾などの状況につき以下のように報告されている。

 

  本原野は連山四方を圍繞しフラヌ、ヌツプタフシコフラヌ、及びナンワツカピウカの三川貫流し何れも空知川に注ぐ。此の処に市街予定地あり。地勢東西に狭く南北に広く其東北部を上フラヌ、中央部を中フラヌ、西南部を下フラヌと称す。土地沃饒にして農牧に適するを下フラヌとし、上フラヌは丘岡起伏し稍々(やや)痩薄なり。中フラヌは湿地若くは泥炭地多し。全面積の中泥炭地にて耕作せへからさるもの凡そ二百万坪もあるへし。面積は殖民地撰定時代の測量にては凡そ四千万坪の見込なりしか、其後小野技手の測量したる所に拠れは四千万坪に足らすと云ふ。而して札幌農学校学田地を除くの外悉く区画割を施し貸下せり。大地積貸下は佐々木某の四百五十万坪、三重県団体の三百万坪、鈴木要蔵氏(今は齋藤某の名義となる)百五十万坪、其他二、三十万位のものもあり。貸下は昨年五月中旬に開始し当時の見込にては三百戸位入込む筈なりしも、貸下を得たる後各地に散乱し現在開墾に従事するもの五十戸位に過きさるへし。大地積貸下者は三重県団体にて五十戸位の移住者あり。農学校学田地は目下小作人募集中なり。移住者の中徳島県田中八太郎氏は最も開墾に熱心し、成績の宜しきは本原野の第一に居る。

 

 ここでは三重団体が300万坪の貸下げを得て(実際は225万坪)、50戸位が30年中に移住していること、東中に田中農場を開いた田中八太郎が、「最も開墾に熱心し、成績の宜しきは本原野の第一に居る」ことなどが述べられている。なお、文中の佐々木某は佐々木正蔵で筑後組合農場のこと(佐々木農場とも呼ばれていた)、鈴木要蔵の地所は島津農場となる。

 その後、明治31年7月5日(道庁告示第154号)にも、「残区画地ハ自今貸付出願スルコトヲ得」とされ、すべての殖民区画地は開放を得たのであった。