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3章 明治時代の上富良野 第1節フラヌ原野の開放と農場の設置

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1 殖民地の選定事業

 

 田内捨六・藤田九三郎の調査

 明治15年に札幌県では札幌・根室間の道路予定路線を選定するために、田内捨六、藤田九三郎の2人が調査に派遣された。これは前年の内田瀞、田内捨六の第1回に次ぐ第2回の調査であった。第1回は日高、十勝、釧路、根室方面の調査であったが、第2回は空知川を遡って富良野のツナシベツに至り、それから滝川に戻り旭川を経由して富良野盆地を南下するものであった。

 これらの調査結果は『日高・十勝・釧路・根室・北見諸州巡回復命書』(北海道大学付属図書館北方資料室蔵)としてまとめられたが、上富良野に関しては詳細な記述は別になくわずかに、「フラノ川ハ空知川ノ支流ニシテヲプタテシケ山ニ発源シ、西流空知川ニ合ス。此水源ニ温泉アリ噴出スル。高サ五、六尺就テ浴スへシ。奥ニ硫黄山アリ」と記されているのみである。

 ここにフラノ川の水源がヲプタテシケ山(十勝岳)であり、温泉と硫黄山があることも記述されており、これらは後々に注目されることとなる。

 

 フラヌ原野の調査

 明治19年1月に北海道庁が設置され、殖民事業を推進するために殖民地の選定が行われるようになった。これは道庁にて、「全道ノ原野ヲ跋渉シ地勢、地積及土壌ノ性質ヲ視察シ、若クハ水害ノ有無、交通・運輸ノ関係等ヲ調査シ、之カ地図ヲ製シ有志者ノ便ニ供ス」ものであり、「本道ノ殖民事業ヲ経営スルノ基礎」として位置付けられた事業であった。選定事業はこの年(19年)の8月から開始され、22年まで全道の主要原野を対象にして実施され、およそ8億6660万坪の選定がなされた(『北海道殖民地撰定報文』〔明24〕の「緒言」による)。

 この折にフラヌ原野の調査と選定も行われたのである。フラヌ原野の選定事業は20年に開始され、主任技手として選定に当たったのは柳本通義であった。『故柳本通義自叙伝』によると20年5月に、技手の通義、副手1人、測量工夫7人でもって札幌を出発し、丸木舟で石狩川、空知川を溯上してフラヌ原野に入っている。フラヌ原野での調査の模様を紹介しておくと以下の通りであった。

 

  …愈(いよいよ)無人の堺に進み行きフラヌ河々口に達し爰(ここ)に露営を張りフラヌ原野の位置方向を探査す、然(しか)るに沿岸より樹木欝蒼密生し荊棘(けいきょく)繁茂し川底は流木を以埋り泝上最も困難を極め毎日流木を切り僅に通路を開きつゝ溯り川口より五、六里の地に露営を移して調査を始む。

  内部原野は開闢(かいびゃく)以来人跡到らず、樹木欝蒼昼猶暗く草木欝生して人より長く、沼地あり低湿地あるも咫尺(しせき)を弁せされば、喬木に攣(よ)ぢ上がり漸(ようや)く原野の大勢を一瞥して之れが方向を定め、フラヌ川を仮基線とし荊棘を刈り測器を使用して原野を横断して実測するに、東西二里余に亘る原野の横断は一日で了らず、夜に入り引揚るに切り開きたる線路を松火の光にて辿り帰営し、翌日事業進行し原野の終点即ち山麓に達し、数条に横断して実地調査を為すに数日を要せり。

 

 樹木が欝蒼と密生した原野を測量して歩くのには相当の困難をともなうものであり、その様子がここにはこと細く描かれている。

 柳本通義はこの調査中に父の急病の報を聞きいったん札幌に帰り、再び美瑛経由でフラヌ原野へ戻って来ているが、調査自体は10数日を要していたようである。その後は空知川を遡り調査を続けるも、ルーマソラチノ川の合流地点で豪雨による増水のために進路を阻まれ、食料を失う危険もあって引き返している。さらに下流の空知川沿岸、雨竜、奈井江、樺戸、美唄の諸原野を調査して、終了したのは11月中旬であったという。

 

 フラヌ原野の撰定報文

 柳本通義はこの調査後、「製図及事業報告書調製に従事」することになるが、フラヌ原野は広大であるために全体を上フラヌ、中フラヌ、下フラヌの3原野及びケナチヤウシ原野、以上の4カ所に分けてまとめられた。そして各面積は、

  上フラヌ 1083万9000坪

  中フラヌ 1539万7500坪

  下フラヌ  637万5250坪

  ケナチヤウシ  270万4750坪

 

 地図 フラヌ原野区画図

  ※ 掲載省略

 

であった。そのうち上フラヌ原野の殖民地状況については、『北海道殖民地撰定報文』に以下のように報告されている。

 

   地理

  北ハ美瑛(ビエ)高原ニ接シ、東ハ「オプタテシケ」ノ高峰雲間ニ聳ヒ山麓ヲ西方ニ布(し)キ高原ヲナシ、西ハ「ヱホロカンベ」ノ渓澗「フラヌ」川其山麓ヲ繞(めぐ)リ原野ヲ限リ、南方空知川ニ向テ奔流シ「ヌツプタフシコフラヌ」川ハ「オプタテシケ」山腹ヨリ発シ原野ノ東方ヲ流ル。地位漸ク高ク草原ハ川脉ニ沿フタル樹木ニヨリテ遮キラレ断続数区ヲナス。高原アリ、樹陰アリ、泉流アリテ牧畜事業ニ適スルノ良美ノ地ナリ。

   面積

  千八拾三万九千坪。

    内

   三百弐拾九万三千坪  樹木地

   七百五拾四万六千坪  草原

   土性

  「ヌツプタフシコフラヌ」川ニ接スル草原ノ成層ハ、粘質壌土礫石ノ積層ヨリ成リ黒色ノ表層僅々四、五寸ニ過キス。下ハ粘土及礫石ニシテ往々外面ニ礫石ノ顕ルヽモノアリ。高原山麓ニ於テハ沖積層ノ古代ニ属スルモノナリ。半湿地ハ壚質土ニシテ其成立沖積層ナリ。

   植物

  土地高燥ニシテ山麓接スル地ハ楢樹多ク「フラヌ」川ノ上流「ヱホロカンベ」川ノ渓澗、低山ハ椴松(トドマツ)、蝦夷松(エゾマツ)、樺木(カバ)、刺楸(セン)、楓(イタヤ)ノ巨木アリ。平原ノ半湿地ハ梻(ヤチタモ)、赤楊櫰槐(ハンノキエンジュ)ノ類ニシテ草原ハ蘆(ヨシ)、蕨(ワラビ)、冬款(フキ)、敗醤(オミナエシ)、萩、艾(ヨモギ)、旋花(ヒルガオ)、小薊(アザミ)、草藤(クサフジ)ノ雑草混生シテ成長最モ繁ク、牛馬放牧ニ適ス。

   排水

  土地高燥ナルト下層沙礫ナルニヨリテ排水ヲ要スル地ハ草原ト河岸ノ間ニ在ル半湿地ナレハ、小渠ヲ「フラヌ」川ニ開通シ伐木開墾ニヨリテ排水ハ充分ナリト云フベシ。

   運輸

  「ヱホロカンベ」川ヨリ「チュッペツ」ニ至ル間ハ高原平野ニシテ其距離僅カニ十余里ニ過キサレハ、中央道路ヲ開築スルニ当テハ車馬往来ニ便ナル平坦ノ良道ヲ設ケ、運貸ハ都(すべて)テ道ヲ「チュッペツ」ニ取ルニ若(し)カス。

 

 これによれば上フラヌ原野は北は美瑛高原、東は十勝岳山麓高原、西は富良野川、南はヌツプタフシコフラヌ川を範囲とするもので、面積は1083万9000坪とされていた。そのうち樹林地は329万3000坪、草原は754万6000坪であった。

 全体的に土地高燥なる草原が多く、「牧畜事業ニ適スルノ良美ノ地ナリ」というのが上フラヌ原野の特質であったといえよう。さらに「別表」によると、上フラヌ原野はすべてが「直ニ開墾シ得可キ地」とされ中フラヌ、下フラヌ原野のように湿地、泥炭地の「大改良ヲ要スル地」がないのも特質であった。上フラヌ原野の開墾が他の原野より早くに着手され、また牧場が多く開かれたのも以上の特質と関係をもっているのである。

 

 殖民地の区画

 殖民地の区画は明治22年に樺戸郡新十津川村に入った、奈良県吉野郡十津川村移民の移住地にて初めて実施されて以来、各殖民地でも行われるようになっていた。区画は大画、中画、小画の3種に分けられ、

  大画     900間四方         地積81万坪

  中画     300間四方         地積9万坪

  小画     150間×100間      地積1万5000坪(5町歩)

となっていた。区画に当たって900間の四方の区画線が設けられたが、その1区画が大画であった。大画の内部は300間四方に9区画され、その1区画が中画となる。中画も縦150間、横100間、地積1万5000坪の6区画され、この1区画が小画であった。

 すなわち、大画は9中画、54小画となっており、小画が農家2戸分の貸付け地とされていたので、大画は54戸分の地積となっていたわけである。実に合理的な区画と貸付け法であり、北海道の散居的な農村景観はこのようにして形成されたのである。

 また、殖民区画地の中には中心部に市街地が設定され、商工業地域に当てられていた。市街地は農村部の物資の集散・流通の役割をもつとともに役場などの公共・行政機能をになう計画都市であったのであり、これも北海道独特の市街地の景観をつくり出すこととなった。その他にも区画地には学校、墓地、薪炭用や防風用の役目をもつ樹木地などの公共用地も確保されており、機能的にも完結した殖民地空間が形成されていた。

 フラヌ原野の殖民地区画は、中央部の鉄道線に沿って南北に基線が設定され、そこを基点として東方向には東1線から10線まで、西方向には西1線から6線までが南北に縦断して設定されていた。また、下富良野市街予定地に0号が置かれ、これを基点として北に向かい北1号から31号まで、南に向かい南1号から6号まで東西に横断して設定されていた。