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2章 先史から近世までの上富良野 第5節 上富良野のアイヌ語地名

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3 山と地名

 

前富良野岳

  ヲッチシバンザイウシベ(戊午、山川図)。オクチシ・パン・サ・ウシ・ペ「峠の・川下の・前・にいつもある・もの(山)」と解釈する(佐藤)。オクチシ「高所の凹み(峰の鞍部)」(永田)。

富良野岳

  ヲッチシベンザイウシベ(戊午、山川図)。オクチシ・ペン・サ・ウシ・ペ「峠の・川上の・前にいつもあるもの」と解釈した(佐藤)。

富原五付近

  コロクニウシコツ(手控、戊午、山川図)。コロコニ・ウシ・コツ「蕗・多き処・の凹地」(永田)。

東中町有林内高地

  ニヨトイ(手控、戊午、山川図)。ニヨ「樹木多い」、トイ「土」(永田)。

上ホロカメットク山(上富良野・新得・南富良野の3町界)

  ペナクシホロカメトクヌプリ(道庁図)。ペナクシホロカメトックヌブリ(『道庁五万分の一実測切図』)。大正10年測図の『陸測五万分の一図』には上ホロカメットク山になっている。上と山を省いてホルカ・メトッ「後戻りする・深山」とも解釈できる(佐藤)。

  知里真志保著『地名アイヌ語小辞典』、ジョン・バチラー著『アイヌ・英・和辞典』によるとペナクシ・ホル・カ・メトッ・ヌブリ「十勝川・空知川本流の川上にある・後戻り川の・峰(十勝連峰)の端(深山)の・山」となる。これと対をなす、パナクシ(下)ホロカメットク山は、曲流している十勝川本流の川下(南富良野・新得町界)に所在している。空知川の水源も北から曲流しているいるが、石狩側には山名の伝承がなく、十勝側から望んだ山名であろうと思われる。

上ホロカメットク山の北側にある峰続きの山(現代は無名山)

  カムイメトクヌブリ(道庁図)。カムイメトックヌプリ(『道庁五万分の一実測切図』)。明治29年製版『陸測五万分の一図』は、カムイメトツクヌプリと記されている。カムイ・メ・ト・カ・ヌプリ「神(も)・寒い・峰の・上・山」と解釈してみた(佐藤)。

  前出の『地名アイヌ語小辞典』、『アイヌ・英・和辞典』によると、カムイ・メトッ・ヌプリ「神霊ある・峰(十勝連峰)の端(深山)の・山」。これも十勝岳を主峰として、十勝から見ての山名らしい。

十勝岳(ビエ岳、イワヲヌプリ、西ヲプタテシケ山、トカチ岳)

  イワヲベツ(ヌッカクシ富良野川)水源ビエ岳より落ちる(戊午)。(石狩岳の東に)トカチ岳。(ヲクツテシケの西南西に)ヒエノボリ(山川図)。松浦図にあるヒエノボリは、ヲタッテシケ(ヲプタテシケ山)の西南にある処から見て、十勝岳のことらしい(山田秀三著『北海道の地名』)。イワウ・ヌプリ「硫黄・山」。ピイエ川(美瑛川)の水源なるを以て、ピイエの川流濁りて脂の如し。

  故に「ピイエ」と名く。高橋図に西オプタテシケとあり(永田)。

  現十勝岳の位置に西ヲプタテシケ山、現富良野岳の位置に十勝岳(『明治二十六年製版陸測二十万分の一図』)。

  右の「高橋図」とは、シーボルト事件で獄死した幕府天文方高橋景安が、文政7年頃に作図した「蝦夷全図」と思われるが、国立国会図書館蔵の同図には「西オプタテシケ」の山名はない。すなわち、今の十勝岳は当時5つの山名を有していたわけである。そして、武四郎が十勝越えをしたときの案内者は上川アイヌであったためか、前記のうち上・下ホロカメットク、カムイメトック、トカチ岳、西ヲプタテシケなどは日誌に記述がないので、これらは十勝側から望んだ山名であることが窺える。やがて明治20年を迎え十勝にも測量隊が入るや、十勝連峰の主峰に「十勝岳」の名を冠したため、従来からの呼称であるビエイヌプリを、十勝岳の東北峰に「美瑛岳」として置き換えたものと思われる。