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2章 先史から近世までの上富良野 第3節 アイヌ民族と上富良野

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2 上川・富良野盆地とアイヌ民族

 

 アイヌ民族と鮭

 アイヌ民族の主要食材として鮭がある。鮭は魚体が大きく、その肉も多量であるとともに脂肪もあり美味である。その肉に限らず頭・卵巣・精巣・内臓から皮・ひれに至るまで、余すところなく食するし、また皮は靴の材料ともなった。その鮭を生食したり諸調理や冷凍したり(ルイペ)して食するとともに、また乾燥させて保存食としての干鮭(からさけ)を製した。この干鮭は、尾を離さずに3枚におろして内臓・頭・中骨をはずし、竿にかけて外気にさらし、さらに屋内の囲炉裏の上の干し棚で半薫製状に乾燥させたものである。十分に乾燥させているので腐敗せず、携帯・運搬にも便利であった。それを水炊きなどでもどして調理し、また狩猟・採集の際に持参してそのまま食したりして、年間を通じて重要な食料となった。のみならずこの干鮭は、和人との交易において主要な商品でもあった。

 このように鮭はアイヌ民族にとって価値ある食材・商品であるため、大量に漁獲する必要があった。ただ鮭は秋より初冬にかけての一定期間に、産卵のため群をなして河川を遡上してくるものであるから、河川内に柵(さく:テシ)や簗(やな:ウライ)を仕掛けたり、また岸辺において鈷(もり:マレク)で突いたり、たも網ですくうなど、簡単な漁法で捕獲することができた。しかも鮭の産卵は川底が小砂利できれいな湧き水が出る所でなされ、当然そのような場所の多い支流・分流の小河川をたどるので、またさらに漁獲は容易であった。加えて、より適切な産卵床を求めて上流へ上流へと遡上し、はるかなる内陸部においても鮭の捕獲は可能であったのである。

 生活上密接・重要な関係にあった鮭を、アイヌ民族はカムイ・チェプ(神の魚)と呼んでいたが、この鮭の捕獲に容易な河川の流域に居を構え集落(コタン)を形成していた。また専ら丸木舟を巧みに操り移動・運搬をなすなど、生活全般にわたって河川とのかかわりが深かった。そのためアイヌ民族の文化は河川文化と評されている。

 

 石狩諸場所と石狩川流域のアイヌ民族

 蝦夷島最大の河川である石狩川は、多くの支流をもち、流域には広大な原野・樹林をひかえ、その外郭には山塊が連なり、動植物の資源も豊かである。特に河口は近代に至るまで北海道最大の鮭漁場であった。それゆえ当然この石狩川流域には多くのアイヌ民族が居住していた。したがって松前藩成立の当初から河口域に商場が設けられ、藩の直接支配のもとに石狩川流域のアイヌ民族との交易が開始されていた。さらに17世紀末以降に、石狩川の下流・中流の本支流域に13カ所の商場が新たに設定された。ここで、旧来の河口域の商場は石狩場所として藩主占有の場所であることに変わりないが、ただ秋鮭漁獲の専用場所として、別に秋場所とも称せられた。他方新規の13カ所の商場は石狩十三場所と総称され、1カ所の藩主場所(トクヒラ場所)を除き、他の12カ所は家臣の知行場所であった。またこの十三場所すべては夏期に石狩川中・下流域のアイヌ民族と専ら軽物(主に獣皮)や干鮭の交易をなす場所で、別に夏場所とも称せられ、石狩場所と石狩十三場所とはその機能が分けられていた。そして秋・夏の場所とも18世紀前半には場所請負制に転化していたものとみられる。

 石狩十三場所においては、場所ごとにその周辺アイヌ民族は帰属させられ、各場所請負人によって交易や使役に強制されていたものとみられる。しかし秋場所の石狩場所においては大いに事情が異なっていた。19世紀初頭に当場所を調べた近藤重蔵らの記録によると(『近藤重蔵遺書』、『西蝦夷地日記』)、この場所ではあえて場所帰属のアイヌ民族を固定せず、秋鮭漁の漁期が至るといずこのアイヌ民族にも解放して自由に漁業を営ませ、その漁獲鮭を石狩場所の請負人が個別に「相対取引(あいたいとりひき)」をもって交易する、という特異な方法を採用していた。そして所定の漁獲量を確保すると、その石狩場所での漁業を他の場所請負人に許し(この場合その請負人は自己に帰属するアイヌ民族を使役したものであろう)、さらにアイヌ民族の自家食料分として漁獲することも許されていた。このような漁業形態がとれたのも、鮭の豊富な石狩場所であってこそであろう。

 しかしながら、以上のような解放的な石狩場所での漁業形態も、その後間もなく崩壊する。それは、従来場所ごとに異なる場所請負人によって差配されていたのが、1817年ころ石狩場所ならびに石狩十三場所すべてを、阿部屋村山伝次郎が請け負うに至ったことによって生じた。阿部屋はこの石狩川流域場所の請負独占を契機に、自己の最大利益の確保を目指して、河口域の石狩場所における漁業経営に集中していく。このため、それまで石狩川中・下流域の石狩十三場所に帰属していたアイヌ民族を、春より秋に至る間ことごとく石狩場所に強制移動せしめた。そしてこの行為は、本来石狩十三場所とは全くかかわりのなかった、さらに上流域のアイヌ民族をも巻き込んでいくのである。

 

 上川盆地のアイヌ民族

 石狩川をさかのぼり、峡谷をなすカムイコタンの難所を越えると、広い沃野を抱いた上川盆地に達する。四周をめぐる山岳・山地から大小多数の河川が盆地に注ぎ込み、その河川の多くは現在の旭川市域において本流の石狩川一本に合流する。またこれら河川の周辺には清列な湧水(メム)が数多く点在していた。この恵まれた水と、それに伴う原野や山林の多彩な草木、そしてそこに生息する多様な鳥獣と魚類、人間の生活にも豊かな諸条件を提供するものであった。

 この石狩川最上流域に居住するアイヌ民族は、ペニ・ウン・クル(川上に・住む・人)と呼ばれ、独自の生活圏を形成していた。

 しかしそれは必ずしも閉鎖的なものではなく、この上川盆地から本支流の水源をたどり、さらに峠を越えて、富良野盆地をよぎって日高・十勝へ、別途に北見・紋別へ、天塩へ、また雨竜へと、各方面へ通じる幾本ものアイヌ民族の通路があった。そしてそれら他地域のアイヌ民族が食料に窮した時、峠を越えて上川盆地内にやって来て糊口をしのぎ、生活の立ち直りを得た後に故郷に帰る者も多かった、と松浦武四郎は述べている(『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』第3巻)。また上川が豊かな食料に恵まれていたことを示唆している。

 その食料豊富の一例として、さらに松浦は次のようにも記している(前掲書)。上川では「其魚の多きこと筆紙の及ぶ処にあらず」と驚嘆し、石狩場所での強制労働を免れて一人コタンに取り残された老婆でさえも、鮭の遡上期にマクンベツ(枝川)やメムの辺りの川幅1、2間ほどの浅瀬の所で、30束ないし40束(1束20尾であるので600から800尾に当たる)の鮭を捕獲することができる。また、一般に上川のアイヌ民族は狩猟のため1軒で数匹の犬を飼育しているが、その犬が遡上する鮭を見るや川に飛び込んで背をくわえて持ち帰り、また川に飛び入り追い回して持ち帰り、数匹の犬でその捕獲する鮭は実に100束(2000尾)におよぶという。

 以上のような恵まれた環境のもとに上川盆地のアイヌ民族は、四季に応じて狩猟・漁労・採集をなし、自然と共生しつつ生活を営んでいたものであろう。そして彼らが自給しえない鉄製品や繊維製品などの必需物資は、自ら生産した獣皮や干鮭などの一部余剰物資をもって石狩川河口に赴き、和人との交易を通じて確保していたものと考えられる。

 

 上川アイヌ民族と石狩諸場所

 石狩川河口域とともに中・下流域に石狩場所や石狩十三場所が設定されたことを契機に、その場所周辺のアイヌ民族の生活は変貌を余儀なくされたことは既にふれた。そしてその変貌はより上流のアイヌ民族にも及んでくる。そもそも十三場所の最上流場所は上カハタ(樺戸)場所であって、その場所領域は松浦武四郎にょると、樺戸川口より雨竜川口に至る間の石狩川流域とされている(『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』)。したがって十三場所帰属アイヌは、石狩川河口より雨竜川口に至る間に居住するアイヌ民族であって、それより上流域に居住する、すなわち雨竜川口よりカムイコタンの間のアイヌ民族(松浦は「中川蝦夷」と呼んでいる)、ならびに上川盆地のアイヌ民族は含まれていなかったのである。

 ところで、まず河口域に石狩場所(秋場所)が成立し、藩主または同場所請負人によって鮭漁業が開始されるや、上述のように、石狩場所の漁業をいずこのアイヌ民族にも解放して直ちに個別に交易するという形態をとった。その過程で中川や上川のアイヌ民族も当然この新規の漁業と交易に参入したものとみられる。それは従来の交易において、その交易のためのみに交易品を携えてはるばる石狩川河口に赴くよりは、新たに現地石狩場所で漁業を営み、その豊富な漁獲鮭をもって直接交易をなしうる道が開かれたからである。

 他方、石狩十三場所(夏場所)も開設され、中・下流域のアイヌ民族はそのいずれかの場所に帰属され、従来よりの自己の生産物(軽物)による交易は、場所ごとに、その対象も帰属する場所請負人に限定されることになったことも触れた。ここで、十三場所の帰属から免れていた中川・上川のアイヌ民族の旧来の交易は、どのようになったのであろうか。和人交易において中川・上川のアイヌ民族は、従来石狩川河口に赴いて、その場所を占有する藩主と独自に交易していたはずである。それゆえ十三場所設定後も、身分的帰属に至らないまま、藩との交易は継続され、十三場所の1つである藩主場所(トクヒラ場所)が管掌するものとして扱われ、そしてまたその交易も、一般の交易方法にならい、上川アイヌ民族の居住する上川盆地内で交易が執行されるようになったとみられる。それは、当時場所領域内のアイヌ民族が居住する地方の現地に、交易場所であり交易品保管場でもある「番屋」が置かれていたのが一般であったが、19世紀初頭に近藤重蔵が上川地域を調査した際に作成した絵図『石狩川川筋図』中、左岸のチュクベツ(忠別)と右岸のビビ(比布)に、その番屋の存在が明記されていることによって判明する。

 以上のようにして、石狩場所ならびに石狩十三場所設定後の上川アイヌ民族は、秋期には河口域の石狩場所に赴いて鮭漁とその交易に従事し、一方で従来より継続する、自ら生産した獣皮や干鮭等をもっての軽物等交易は、上川盆地内の番屋において行なう、という生活に変化したといえるのである。

 

 上川アイヌ民族の石狩十三場所帰属

 しかしながら上記の生活も、石狩場所ならびに石狩十三場所のすべてが阿部屋の請負に帰するに及びさらに一変した。阿部屋が一手請負を獲得した当時の藩もしくは知行主に納付する運上金は、石狩場所(秋場所)が2250両、石狩十三場所(夏場所)の合計が678両であった(『新札幌市史』第1巻・通史1)。これによっても請負人の収益は石狩場所の方が圧倒的であったとみなされる。したがって阿部屋はこの石狩場所における漁業経営に集中していくことになる。

 ただしかし、その漁業経営を脅かす現象も進行しつつあった。

 それは経営に不可欠な漁業労働力の減少であった。この労働力は全面的にアイヌ民族に依存していたのであるが、そのアイヌ民族の人口が急速に減じていた。石狩十三場所に帰属するアイヌ民族は、文化7年(1810)の3027人をピークとして以降減少に転じ、阿部屋の一手請負開始当初の文政元年(1818)には2204人という激減ぶりである(『新旭川市史』第1巻・通史1)。

 この現象は、請負人の苛酷な使役と生活上の放任とともに、天然痘の流行によって生じたものであった。

 ここに、労働力としてのアイヌ民族のこの人口減少を補完する目的をもって、軽物交易に関してのみの関連はあったとはいえ、本来十三場所とは無関係の上川ならびに中川のアイヌ民族を、十三場所に編入して帰属化するに至ったのである。そして阿部屋は、軽物交易を無視し、石狩川流域の全アイヌ民族を徴発して、石狩場所における漁業経営に投入すべく強制移動を謀るのである。

 この徴発は建て前として春(鰊場出稼ぎ)より秋(鮭漁)にかけての漁業期間中、労働に堪えうる壮・育・少年層の男女を対象とするものであった。労働に堪えない老人・病人・幼児に食料を与えるのは無益として、居住するコタンに放棄された。ただ上川のごとき自然に恵まれた所では一部辛うじて生き延び、晩秋にわずかな労働の対価物を携えて漁場より帰郷する家族を迎えることができた。このような条件の整っていない地域では、残留者は死にまかせ、漁場の家族も帰る家なく、よって中・下流の多くのコタンは無人と化し、場所すらも解体していると松浦は語っている。

 またこれら故郷を失った多数のアイヌ民族は、請負人が漁場に建てた雇蔵(やといぐら)と称する粗末な小屋に、幾家族も詰め込まれ、「実に牛馬を飼ふの所置にもまさりし」という状態に追いやられていた(『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』第9巻)。この状況のもとに石狩川流域のアイヌ民族はさらに人口を減じ、安政3年(1856)の阿部屋作成の人別帳では658人としている。

 しかし翌年松浦武四郎が実査したところ29人が既に死亡しており、実数は539人であった。そのうち上川のアイヌ民族は264人である(『新旭川市史』第1巻・通史1)。

 

 幕府・明治政権とアイヌ民族

 以上のように、阿部屋の一手請負を契機に石狩十三場所の実体は消滅して石狩場所に集中され、そのもとで石狩川流域のアイヌ民族は苛酷な収奪をあびることとなった。そこではアイヌ民族伝統の生活はもはや望みえなく、加えてその社会崩壊の危機に見舞われていた。

 安政元年(1854)アメリカやロシアと和親条約を締結した幕府は、翌年蝦夷島を直轄して再度その経営にあたった。そして石狩場所における阿部屋の乱脈な経営とアイヌ民族に対する圧制を処断して請負人を罷免し、幕府直営の場所とした。ここに石狩川流域のアイヌ民族は、阿部屋の直接支配から解き放たれるに至ったのであるが、しかし彼らの本来的生活を回復しえたわけではない。なお継続して場所での漁業に、改めて幕府(箱館奉行所)の差配を受けて春より秋にかけて従事するとともに、また役所や旧請負人たちの一部使役も課せられていたのである。

 幕府を打倒して明治新政権が成立するや、明治2年(1869)蝦夷島を北海道と改称して国・郡の行政区画が設定された。ここにおいて名実ともに国家権力の行使されうる日本国領土となった。そして同化策を受けつつあったアイヌ民族は、族籍を「平民」として位置づけ明確に日本国民の一員に編入されるに至った。ここで、近代国家を目指した明治政権は、土地制度においても私有権の確立を根幹とした。この展開によって、今まで自由に山野を占有して営んできた彼らの生活は排除されることになる。このような私有権確立の方向とともに、さらに自然の用益権の設定や資源保護の思想をもって、河川や山野の利用も閉塞されていく。かくして、アイヌ民族の伝統的な狩猟・漁労・採集を基本としていた生活は完全に閉ざされ、さらにその生活を基盤とするアイヌ民族の社会もその崩壊は決定となり、伝統的文化の保持も困難な状況を迎えることになったのである。

 

 空知川上流域とアイヌ民族

 石狩川上流域の上川盆地におけるアイヌ民族の状況は以上のごときものであったが、それではその南に連なるように広がる富良野盆地と、アイヌ民族とのかかわりはいかなるものであったであろうか。

 富良野盆地には富良野川やベベルイ川などが多くの支流を合わせながら、現富良野市域で空知川に合流している。その空知川は石狩川の1次支流であって、現滝川市と砂川市の市界域で石狩川と合流する。したがって、アイヌ民族は河川を中心に生活圏を構成するという一般的観点からすれば、広くみて富良野盆地は石狩川流域中の空知川流域生活圏に属すると考えられるであろう。

 しかしながら松浦武四郎が安政4年(1857)にトミハセ(トック出身・下カハタ小使)やシリアイノ(上川メム出身・トクヒラ乙名)らの案内で空知川を調査した際、空知川のカムイコタンの難所を越えた少し先のシヨキコマナイ(ソーキプオマナイ川)までたどりつき、ここよりさらに上流のシリケシヲマフ(尻岸馬内、現芦別市と富良野市との境)までの間は、誰も知る者がいない、と記している(『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』第9巻)。

 したがって石狩川中流域の雨竜・空知のアイヌ民族の行動範囲は、空知川流域に関しては、ほぼソ・ラプチ・ペッ(滝が・ごちゃごちゃ落ちる・川)、通称空知大滝からそれに続く下手のカムイコタン辺りまでで、ここで途絶えているといえる。すなわち富良野盆地は、空知川流域生活圏と異にしていたといえるのである。

 ところが、この空知大滝を越えたシリケシヲマフよりさらに空知川上流域については、「却て上川の土人等は能くしり居るよしなり」と聞き、また上川出身の案内人シリアイノも、そのシリケシヲマフまで一度来たことがあるという。さらにチュクベツ(忠別)出身のシリコツネ(上サッポロ乙名)は、軽物交易品を求めて、上川より空知川上流域に狩猟のため毎年のようにやって来ており、またこの上流域をたどって十勝へも数度越えたこともあり、そのため上流域の地名もよく知っている、ということで、松浦はこのシリコツネよりの聞書きをもって空知川上流域について記載しているのである(前掲書)。要するに、富良野盆地を含める空知川上流域の状況は、上川のアイヌ民族が最も熟知しているということである。

 

 富良野盆地とアイヌ民族

 上記のように、富良野盆地に上川のアイヌ民族が盛んに狩猟のため赴いていたが、また他方で十勝のアイヌ民族も富良野盆地へやって来ていた。安政5年(1858)松浦武四郎が上川より富良野盆地をよぎって十勝へ越える途次、サツテキベベルイ(ベベルイ川の支流カラ川)を過ぎて山岳部に差しかかる付近で、橇(かんじき)の跡と一昨夜ころ宿泊した跡とを見付けたが、案内の上川アイヌは即座にそれを「トカチ土人の跡」と答えている(『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』第5巻)。また別に、十勝のアイヌ民族と、とりわけ上川のチュクベツ(忠別)、ビビ(比布)、ベベツ(辺別)のアイヌ民族とは、「相互に山中にて出合て山猟し、往来もなして有来りしとかや」(『近世蝦夷人物誌』)とも記されており、おそらく両者は、空知川の源流と十勝川の支流佐幌川の源流とを通じて、共に富良野盆地に入り込んでいたことは明らかであろう。

 このような富良野盆地における他地域のアイヌ民族の行動が記されているにもかかわらず、松浦の2回の調査過程で、そもそも富良野盆地に在住のアイヌ民族に関する記録は、一切認められない。これらのことから推察して、本来富良野盆地には、アイヌ民族が定住していなかったといえるのである。

 

 富良野盆地の景況

 それでは、なぜ富良野盆地にアイヌ民族は定住していなかったのであろうか。

 その要因としてまず第一に考えられるのは、鮭の問題ではなかろうか。アイヌ民族と鮭との関係は密接なものであり、その鮭の捕獲に至便な河川流域にコタンを形成していたことは前述した。

 その鮭の生息が空知川上流の本支流域には乏しかったのではないかと思われる。そしてその鮭資源の乏少をもたらしていたのは、鮭の遡上を阻止する空知大滝の存在であろう。幅7、8間、高さ5間ほどのものを筆頭に大小7筋が重なった滝という。石狩川中流域のアイヌ民族すら、その往行を拒絶されている箇所である。

 安政4年(1857)の閏5月18日(陽暦の7月9日)ここにたどりついた松浦が、果敢に遡上を試みる鱒・鯇(あめのうお:やまめ)・チライ(いとう)を目撃した。「上り得る魚は十度廿度の中に漸々一疋ならでなし。別てもチライ・鯇が能く上り得る様に覚ゆ。鯇は少し最早赤色有しが、多分鱒は上り得ずして落るもの多し」(『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』第9巻)と語っている。大型サケ科のチライも遡上するが、成功度は10分の1か20分の1であり、鱒はほとんど遡上しきれないという。これからみると、富良野盆地では、遡上を妨げられ大量に鮭を獲得することは不可能であったと思われる。

 第2に富良野盆地の平地部は、今でこそ豊かな米作地帯を形成しているが、開拓以前は一大湿地・泥炭地であったことである。

 明治19年(1886)に実施された殖民地選定事業の報告によると、盆地の平地部は、上フラヌ原野で半湿地、中フラヌ原野では「大乾燥ノ候卜錐トモ歩ヲ入ル、能ハサル深湿地」であり、「原野中湿地及泥炭地相連リテ地積ノ大半ヲ占メ」ており、また下フラヌ原野も一部の乾燥地を除いて半湿地・湿地が広がっていた。

 このような状態であったから、そこを流れる多くの河川の水は大方濁水であり、また一部硫黄質を含んでいた(『北海道殖民地撰窟報文』)。以上のような富良野盆地平地部は、河川に依拠するアイヌ民族にとって居住は不適格であったといえよう。またその河川状況は、たとえ空知川を遡上してきたとしても、鮭の産卵・生息には不適当でもあったといえる。

 

 周辺アイヌ民族と富良野盆地

 上記のように、富良野盆地には、その自然的制約に基づき、アイヌ民族は定住していなかったと考えられるのであるが、といっても富良野盆地はアイヌ民族と無関係であったとはいえない。既にふれたように、上川や十勝のアイヌ民族がこの地域を抜渉(ばっしょう)していたことは明白であり、また事実、後節で示すように、この地にも多くのアイヌ語地名が残されているということは、富良野盆地とアイヌ民族とのかかわりを如実に物語るものであろう。

 それでは、周辺地域のアイヌ民族は何を求めて富良野盆地にやって来たのであろうか。先述した上川アイヌのシリコツネが毎年のように富良野盆地に来たのは、「御軽物取り」のためといっている(『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』第9巻)。あらためて軽物とは、ここでは、熊・鹿・狐・貂等の獣皮に熊胆、あるいは鷲・鷹の羽根等の猟獲物の交易品で、その交易は藩の独占となっており、場所請負制下ではその集荷を請負人が扱っていた。漁場経営に集中した請負人は、アイヌ民族が場所を離れることを恐れて軽物狩猟を抑制していたが、他方、藩は財政確保のために強制していた。そのため、日常的食料確保のための狩猟を除き、アイヌ民族の軽物狩猟は、春より秋に至る間の河口域における請負人の漁業・使役の終了後、すなわち冬季が主とした狩猟期であったと思われる。明治2年のことであるが、晩秋に石狩より帰郷した上川総乙名のクウチンコロが、兵部省の不当な指示に抗議のため再び石狩に赴く際、「急ぎ往復せざれハ其山猟ニ出ずる期を誤」ると、急遽出発したというが(『石狩国上川見聞奇談』)、冬期の軽物狩猟を重視していることを知る。またこの冬季の鳥獣の羽毛は冬毛で、良質であり高価でもあった。

 ところで、上富良野へ初期入植した古老の語るところによると、富良野川上流の十勝岳の裾野は大きな狩猟の舞台であった。「鹿ばかりでなく熊の巣でもあっ」て、見事な「鹿の角は、どこででもひろえた」という(『上富良野町史』)。このように富良野盆地の特に東部に連なる十勝連峰の山麓から山岳部にかけては、アイヌ民族の狩猟対象である鳥獣が豊富に生息していた。これら鳥獣捕獲のため、上川や十勝のアイヌ民族が、主に冬期間富良野盆地に入り込んでいたとみられるのである。

 

 富良野盆地の「アイヌ道」

 富良野盆地で狩猟を展開していたアイヌ民族のうち、その主体は上川のアイヌ民族であったであろう。それは、上川盆地と富良野盆地を分けているのは、十勝火砕流によって造られた溶結凝灰岩の300b前後の低い台地であって、上川盆地より富良野盆地への移動は極めて容易であったからである。十勝からの移動には、2000b級の諸峰の間隙を越えてこなければならなかった。そのためであろうが、十勝のアイヌ民族のうち、富良野盆地を通過して上川盆地に入り、そのまま美瑛川と辺別川の合流点付近に定着する者もいた。「此処の土人等が先祖は、多くトカチ蝦夷の子孫の由」と松浦は聞き、阿部屋人別帳を実査したところ、以前当処に居住していたアイヌ民族は13戸・49人であり、その大半が十勝出身であった。しかし実査した安政4年(1857)の時点では、石狩場所に連行されて一人も居住していないと記している(『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』第6巻)。

 上富良野へ初期に入植した人々は、時に十勝へ往行する上川のアイヌ民族と接触したり、またアイヌ民族と思われる人が住んでいたとみられる昔の小屋や住居跡を実見している。しかしそれらは往行や狩猟のための一時的な小屋であろうとする一部古老の話が正解と考えられる。ただアイヌ民族が歩いた小道跡は、まだ明瞭に残されていたと語る。

 アイヌ民族の通路には、上川・十勝を結ぶ幹線的なものがあったという。その道は、古老によると、基本的に「まず高い見晴らしの良い所から目で方向を定め、一直線に山を越え坂を越えて居るのが特徴」であり、加えて「泉のわくところに一連のつながりを持って進んで居る」。ただしその間の「湿地と笹薮は禁物」であったという(『上富良野町史』)。そして実際にその路線は、富良野盆地の湿地帯である平地部を避け、狩猟場でもある東部山麓地域をたどっていた。

 上富良野へ入植する三重団体の一部4人が、空知川をさかのぼって富良野盆地に入り、その平地部は湿地で歩行困難のために布札別川上流を経て東部山地をたどり、ベベルイ川上流域で道に迷い2日間さまよった。その時偶然十勝へ赴くアイヌ人と会い、「アイヌ道」を行けば目的地の草分にたどりつけることを教えられた。その「アイヌ道は上から見てもわからぬが、よくうつむいて下の方を見れば笹や萱の下に足あとがある」とのことで、それをたどり無事到着したという。なお、出会った男の「アイヌは足にあきあじの皮をはいていたがメノコは素足であった。女がハダシで歩けるのは道があったからで、この道は、はるかに十勝の新得に及んでいた」とある。また別に、入植者が魚釣りのためカラ川をのぼり原始ケ原から空知川上流を2週間程過ごしたが、「帰る道はアイヌの道があったので、これを出てくれば心配なかった」とも語っている(前掲書)。

 以上のように、踏み分け道に過ぎなかったとはいえ、富良野盆地には上川から十勝へ通じる幹線道路ともいうべきものがあり、これを基幹として、上川や十勝のアイヌ民族は山野を駆け巡って狩猟し、また往行していたことを知るのである。