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2章 先史から近世までの上富良野 第3節 アイヌ民族と上富良野

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1 アイヌ民族とその生活

 

 アイヌ民族の社会と文化

 北海道において、13世紀前後に擦文文化は衰退し、替わってアイヌ文化が成立するといわれている。12世紀末に本土より和人が蝦夷島南部に渡来し始めたころ、蝦夷島全域に先住していたのはアイヌ民族であったと考えられている。アイヌ民族については、さらに先住していた人たち(縄文人や擦文人)とか日本人との関係など、その人種系統に関して人類学上においていまなお諸説があり、確定的なことはいえない。

 また、蝦夷島を中心に居住するアイヌ民族は、当然そこに民族独自の社会と文化を形成したであろう。しかし、少なくとも、12世紀末より16世紀末に至る4世紀ほどの間の、日本本土の歴史では中世と画されている時代の、アイヌ民族の社会と文化の実態も明確にされていないのが実状である。

 それは、歴史学の立場からいえば、第1にアイヌ民族は文字をもたなかったために、アイヌ民族自身による記録が皆無であることによる。かわりに、この時代よりアイヌ民族と最も多く接触していたであろう和人の記録の中に、アイヌ民族に関する記事が散見し始めるが、余りにも断片的、かつ和人の動向に関連する一方的な記事であって、アイヌ民族の社会と文化の全貌を捉えるには到底至らない。

 他方、考古学の立場においても、研究の対象である遺物や遺跡が乏しいこと、あるいはより古い時代に関心が傾いていたことにょるものであろうか、アイヌ民族の社会や生活に関する研究は多くの成果をみせていない。近時ようやく「アイヌ考古学」の提唱とその成果、また考古学と文献史学の両者をふまえた研究などが、試み始められたという状況である。さらに、民族の伝統的な生活文化や伝承文化を究明する民俗学においては、アイヌ民族に関しての多彩な研究成果をみるのであるが、ただ映し出された諸文化の生成、展開、変化等の経過や状況、あるいは背景をたどることは難しい。

 以上のような諸学問の現状をみると、アイヌ民族の社会と文化の歴史的解明は、それにかかわる諸学問内での問題意識と個別研究の深化、さらに学問分野を超えた新しい研究方法の模索を合わせ、今後の大きな課題というべきであろう。

 

 アイヌ民族の生活

 近世期(16世紀末より19世紀半ば)の和人の諸記録をみても、アイヌ民族は狩猟・漁労・採集に基づく自給自足の経済生活を基本としていたことは明らかである。したがってそれ以前の中世期においても、アイヌ民族は同様の生活を営んでいたものと考えられる。アイヌ民族の日常的な生活を総括的に記した史料は極めて乏しい。またアイヌ民族は各地の自然環境・生態系に即応して生活を営んでいたために、その居住地域によって生活の態様はおのずから異なるであろう。そのためアイヌ民族の生活を普遍的に把握することは難しく、地域を考慮し、また限定して考察しなければならないことが多い。

 このような中にあって、上川盆地内のアイヌ民族の生活概況を簡潔に記録している珍しい文書がある。それは開拓使官員高畑利宜(たかばたけとしよし)の上川出張「復命書」(『新旭川市史』第6巻・史料1)である。この出張調査は明治5年(1872)のことであったが、ここに記されている上川アイヌ民族の生活状況は、基本的に変化の少なかったアイヌ民族の生活パターンからみて、おそらく時代を相当さかのぼっても変わらないものであろうと推測される。

 さて、この文書によって上川アイヌ民族の生活をなぞってみると、彼らは米穀は一粒もなくとも差し支えなく、主な食料は、ウバユリの根から粗製した澱粉を用い、冬季間は干鮭(からさけ:鮭を乾燥させた保存食)を、4月より11月までは狩猟した鹿肉を絶やさず食する。5月に八ツ目鰻(うなぎ)、6、7月ころ鱒(ます)、10、11月には鮭を漁獲する。この鮭の漁獲量は千四、五百石にのぼるという。冬季の雪中には穴熊(冬眠中の熊)ならびに融雪後は山野に出た熊を年間150、160頭も狩猟するという。その外に貂(てん)、狐、狸、獺(かわうそ)などの捕獲も少なくないという。この文書には植物性食料の採集について余りふれていないが、当然春のギョウジャニンニク、フクベラ、フキ、オオウバユリなどから、秋のクルミやドングリに至るまで、四季に応じた植物の茎葉・根菜・果実類を多く採集していたことはいうまでもない。

 以上みてくると、アイヌ民族は近代初頭に至るまで、狩猟・漁労・採集と、自給自足の自然経済に立脚した経済生活を原則としていたことが判明する。

 

 アイヌ民族と交易

 しかしながら、新城常三の「北方との商品流通」(『中世水運史の研究』塙書房・1994)によると、昆布、鮭、鰊(にしん)、数の子などを中心とする北方海域産の水産物商品が、中世期を通じて本土各地に流通し、時代の経過とともにそれに関する史料出現の頻度が増していて、流通量とともに、公家・社寺・武家より町人へと消費階層の拡大もうかがえる。著者はそれら商品のすべてが北海道産とは限らない(特に鮭)としながらも、しかし多く(特に昆布・鰊または数の子など)はその生育条件から「直ちに北海道など北方に結び付けることが可能である」としている。このような蝦夷島産を中心として拡大する商品は、閉鎖的な中世社会の本土より渡来した少数の和人たちによる生産とはいいがたく、むしろその原料もしくは一次加工品(原初的な乾物の段階)の多くは、先住していたアイヌ民族より入手していたものではないかと考えられる。これをアイヌ民族の側からみると、鉄製品や繊維製品の一部などの自ら生産しえない必要物質は、自足を超える自己生産物をもって和人と交換し需要を満たしていたと思われる。

 つまりアイヌ民族の経済生活は、自給自足の自然経済をあくまで基本としつつ、しかし反面、当初より交換経済に一部依存することによって成り立っていたといえよう。このことは、前節で述べた通り、アイヌ民族の社会に先行する擦文社会において、既に広範な展開をみせていたことでもあった。

 それでは、アイヌ民族はどのような商品を交易していたのであろうか。断片的な史料で推し量ってみると、交易商品について、中世においては直接具体的な例証は多くみられないが、上記したように水産物を主体として提供し、逆に鉄・繊維製品等を受け取っていたとみられる。近世初頭(17世紀初期)に来日したイギリス人セリースの「日本渡航記」(『新異国叢書』6)には、伝聞ながら、アイヌ民族は銀・砂金をもって、和人から鉄・鉛、米・綿布などを購入するとあり、また同時期に蝦夷島に渡来して布教活動を行なったイエズス会宣教師アンジェリスの「蝦夷国報告書」(『北方文化研究報告』第4輯)によれば、乾魚・鰊などをもって絹・木綿の衣服に米等と交換するとある。この段階で金・銀(アイヌ民族の産出とすることには疑問)が加味されながらも、中世以来の交易品をうかがうことができる。

 さらに18世紀初期に幕府巡見使が調査した記録「松前蝦夷記」(『松前町史』史料編・第1巻)には、より明細に直接アイヌ交易にかかわる商品が列挙されている。そこには、

 

 蝦夷地より積み戻る商品(アイヌ民族の移出品)

  干鮭(からさけ)、干鯡(ほしにしん)、干鱈(ひだら)、串鮑(くしあわび)、串海鼠(くしなまこ)、昆布、膃肭臍(おっとせい)、魚ノ油、干鮫(ほしさめ)、塩引鮭(しおびきさけ)

 蝦夷地へ積み出す商品(アイヌ民族の移入品)

  米、糀(こうじ)、古着類、糸類、針、酒、木綿と染、鍋、椀(わん)と打敷(おしき)、茶碗、まさかり、鎌、なた

 

とある。ここに見える「蝦夷地」とは、松前藩によって確定されたアイヌ民族の居住地域で、原則として和人の居住や自由な渡航は許されていなかった。したがって上記の商品は、アイヌ民族と和人との相互の交易品とみなすことができる。ここで、アイヌ民族の移出品は、膃肭臍を除いて他はすべて漁労による収穫物であり、不思議にも狩猟に関した商品は欠落している。しかしアイヌ民族の交易品のうち、熊、鹿、貂、狐、獺、猟虎(らつこ)等の獣の毛皮や内臓(熊胆(くまのい)など)、また鳥類、特に鷹・鷲類の羽根や生体(鷹狩に使用)等々は終始主要商品であったのであり、狩猟に基づく収穫物も当然加えておかなければならない。また移入品中の米は、主食として食するというより、糀と共に濁酒の原料として用いられたと、他の史料に記録されている。

 以上、アイヌ民族の交易をみてくると、彼らが入手した商品は、自ら生産しえない鉄製の生産用具を除いては、自らの生産物より利便性のある衣料品や食器類ならびに酒などの噂好品に過ぎなかった。そしてそれらを入手するために提供した交換商品は、彼ら本来の生業によって獲得する産物の一部を、自らの必要量を多少超過して生産し、それを交換品に当てていたものとみられ、決して大規模な交易とはいいがたい。要するに、交易が拡大する中にあっても、その交易を貫徹せんがために、伝統的な狩猟・漁労・採集による自給自足を基本とする生産形態を、商品生産を目的とする生産形態に変革せざるをえないという段階には至っていなかったと考えられる。それゆえ、「津軽一統志・巻第10」(『新北海道史』第7巻・史料1)をみると、17世紀半ばのシャクシャイン蜂起の折、松前藩は藩権力に従わない石狩大将ハフカセに対し交易中止を宣告した。それに対しハフカセは、松前藩は松前藩、我らは我らと、藩がアイヌ民族に干渉することを拒絶し、昔より我らは米や酒などを口にせずに魚や鹿をもって生活しており、交易など無用であって、例え商船が来航してもただの1人も通さず追い返す、と豪語して、アイヌ民族にとって交易は必ずしも要しない立場を主張しているのである。

 

 アイヌ民族と和人の接触

 上述のように、アイヌ民族の社会と文化が形成された当初より、アイヌ民族は生活の一部としての交易を通じて和人と接触していた。その和人の蝦夷島渡来の経緯をみると、大きな契機は12世紀末の源頼朝による奥羽征討にあるという。このとき敗走する平泉の藤原氏一党が集団で蝦夷島に逃れ渡ったとする(『新羅之記録』)。また鎌倉幕府は犯罪人を流罪として蝦夷島に放逐するなど(『吾妻鏡』)、かくして和人の蝦夷島定住が始まったといわれている。

 他方、鎌倉幕府は13世紀初め、津軽半島の十三湊(とさみなと)に進出した津軽安藤氏を蝦夷管領(かんれい)(あるいはその代官との説もある)に任じ、蝦夷島をも含む北辺域の統轄を命じた。十三湊は当時確立された日本海海運の北端の湊として繁栄し、安藤氏の交易活動は北陸若狭におよんでいた。この過程で、本土では産出しない蝦夷島の産物が、安藤氏の交易活動の中に組み入れられていくことは当然でもあったであろう。そのとき安藤氏は基本的に、珍重される蝦夷島商品を、その地に定着した和人を通じて掌握していったものと思われる。つまり蝦夷島の和人は、商品を主として生産するアイヌ民族と、それを求める安藤氏もしくは安藤氏関連の本土商人との間にあって、いわば仲介貿易の役割を担っていたとみられる。

 これら和人は、十三湊に近い渡島半島の西南部沿岸に定着し、アイヌ民族との交易を通じて次第に在地豪族として成長していくのである。しかし、昔は松前より東は鵡川、西は余市の辺りまで和人が住んでいた、という記載(『新羅之記録』)があるのをみると、当初和人は積極的にアイヌ民族の居住地域に進出し、商品を

 確保していたものとみなされる。そしてその商品確保の方法は、後世における一般的な和人の交易方法から推しても、決して対等・公正なものではなかったと考えられる。それは不等価交換であり、またアイヌ民族の自由な取引・流通を侵害するような一方的な交易である。このような前提なくして、15世紀半ばに東西のアイヌ民族の多くが蜂起したという、いわゆるコシャマインの蜂起は考えられない。

 この蜂起によって和人勢力の大半は壊滅的状況に陥り、かろうじて上ノ国に拠を構える蠣崎氏によって鎮圧された。アイヌ民族の蜂起はなおその後1世紀余りの間断続的に続くのであるが、その間和人勢力は安藤氏の在地代官としての蠣崎氏によって再編成統一化が進行し、また和人の居住地域も上ノ国より函館近辺に至る間の沿岸部に集約固定されていった。そしてこのような情勢になるにしたがって、アイヌ民族との交易はアイヌ民族自身が蠣崎氏の居所松前に赴いて交易をなす、という方法に変っていったものと考えられるのである。

 

 松前藩とアイヌ民族

 16世紀末葉に豊臣秀吉が、引き続き17世紀初頭に徳川家康が共に天下統一を果すや、蠣崎氏は従来の安東氏(津軽安藤氏は秋田に拠を移して檜山安東氏と称していた)の統轄から離脱し、秀吉・家康から直接に蝦夷島主として公認された。ここに姓を松前と改め、江戸幕藩体制の下に編入されて松前藩が成立するのである。このとき松前領主が家康より受けた公認証書ともいうべき黒印書状(北海道開拓記念館蔵)は、

 @本土より松前へ出入りする者は、松前領主の許可なしにアイヌ民族との直接交易はできないこと。

 A松前領主に無断で蝦夷島に渡海して、商売はできないこと。ただしアイヌ民族はどこへ往来しようと自由であること。

 B和人のアイヌ民族に対する理不尽な行為は厳禁のこと。

 以上の3条に違犯する者は厳罰に処すこと、という内容であって、すべてアイヌ民族との交易・対応にかかわるものであった。

 ここでは、アイヌ民族を和人と峻別して「異民族」と、同時にそのアイヌ民族の居住する地域を和人が自由に往来できない「異域」と幕府は認識し、またそのことを松前藩に強制したことが知れる。このような認識の上に立って幕府は松前藩に、アイヌ民族との交易ならびにアイヌ民族居住地域への和人往行に関する、いわば許認可権を付与したのである。したがって松前藩は、アイヌ民族に対し、またアイヌ民族の居住地域に対して、直接支配を行使する権限は本来もっていなかった。ただ封建領主として自己の権力を貫徹しうる対象は、原則として、中世後半期を通じて固定しつつあった渡島半島西南部の和人居住地域とその和人たち、に過ぎなかったといえる。

 さて松前藩は早速、和人居住域と、異域であるアイヌ民族居住域とを明確にした。すなわち和人居住域を亀田から熊石に至る渡島半島西南部の地域に限定して「松前地」(和人地ともいう)と称し、この松前地を除いた全島をアイヌ居住域として「蝦夷地」(アイヌ地ともいう)と称した。そして境界の亀田・熊石の両所に番所を設けて、和人・アイヌ民族の往来を厳しく取り締まった。なお蝦夷地は極めて広域なため、亀田から東へ太平洋・オホーツクの沿岸を経て知床岬までを東蝦夷地、また熊石から日本海沿岸・オホーツク沿岸と巡って知床岬までを西蝦夷地と称して区分した(後に進出した樺太を北蝦夷地と称す)。

 次いで松前藩は、独占権をえたアイヌ民族との交易に関し、新たに交易の場として東・西蝦夷地の沿岸各処に商場(あきないば)を設定した。

 そしてこの商場の多くを藩主自ら確保するとともに、一部を上級家臣に知行として給付した。ここに藩や知行主は、自ら交易船を仕立てて占有する商場に赴き、その商場近辺に居住するアイヌ民族と交易をなし、その利益が彼ら藩や家臣団の主要財源となった。

 この松前藩によるアイヌ民族との交易方法の転換は、アイヌ民族に大きな影響を与えた。従来のようにアイヌ民族自身が交易のため松前に赴く必要はなくなったとはいえ、逆に交易の場が商場に固定され、また交易相手も知行主に限定され、アイヌ民族側の自由な取引や流通の可能性は完全に封殺されるに至った。ここに交易は知行主側の一方的な主導にゆだねられていくことになって、アイヌ民族の憤懣(ふんまん)は急速に高まっていくのである。

 このような状況を背景として起ったのが、寛文9年(1669)のシャクシャインの蜂起であった。シビチャリ(静内)の首長シャクシャインの反和人・反松前闘争の檄(げき)に広範な東・西蝦夷地の同族が呼応して蜂起した。シリフカ(岩内近辺)の首長の語るところによって蜂起の要因をみると、

 

 @交易の交換比率が当初より半分以下に逓減したこと

 A和人がアイヌ民族の鮭漁場に侵入して大量に漁獲するので食料に窮していること

 Bその上さらにアイヌ民族の漁獲鮭を安く買いたたくこと

 C事情を藩に訴えようとすると毒殺すると胴喝(どうかつ)されること

 

 以上の状況のもと最早逃れることもできず蜂起に及んだ(『津軽一統志』巻第10)、というものであった。和人側の行為は不当・不法な交易のみならず、アイヌ民族の生産をも侵害して生活をおびやかす実状に至っていたのである。

 幕府をも震撼(しんかん)させたこの蜂起は、松前藩の和睦と偽ったシャクシャイン謀殺を契機に鎮圧された。この経験により松前藩は、アイヌ民族に対する政治的支配を一挙に強化した。それは、藩主に対する忠誠、謀反人の密告、蝦夷地通行の和人に対する供応、和人の提示する交換比率と交易条件の容認、公的労役の従事等々を、神仏に誓約するという起請文(きしようもん)を提出させて、一方的に受諾を強制しているのである(『蝦夷蜂起』)。ここにおいて、黒印書状に明記されていたアイヌ民族に対する幕府の姿勢は、松前藩によって無視されていることをみるのである。

 

 場所請負制とアイヌ民族

 松前藩成立後、藩権力の対応によって悪化の一歩をたどっていたアイヌ民族の生活は、さらに逼迫(ひっぱく)した状況に展開する。それは商場における交易が場所請負制に転換することによってもたらされた。商場交易はその商場を保有する藩や知行主が自ら直接交易に従事するのが建て前であった。しかしこの商行為は武士にとって不慣れで煩雑でそして危険を伴うものであった。他方、本土における流通や商況を把握して松前に集まる商人にとっては、商業利益拡大のため商場交易への直接参入を強く望んでいたに相違ない。このような両者の利害が一致するところから、藩・知行主は一定の賦課金を徴収することによって商場交易を商人にゆだね、逆に商人はその賦課金を負担して商場交易の一切を請け負うという、一般にいう場所請負制に18世紀前半より移行していく。ここに武士側は交易に全く手を染めずに確実に一定収益を確保し、商人側は自分が請け負う商場において自由な交易の道を獲得したのであった。なおこの場所請負制展開の過程で、従来の商場は場所と、また交易を請け負う商人は場所請負人と、それぞれその呼称は変っていく。

 藩・知行主と請負人との間で請負契約書が取り交わされているが、そこにはその請負場所で産出する産物の品目や質・量等を参酌して決定されたであろう運上金(うんじょうきん)(請負人が納付するいわば請負料)、ならびに別に納付する現物の高が相互に確認されている。それとともに、請負人に対して、アイヌ民族に「非道」な行為はしないよう明記され、また場所経営に当たっては「勝手次第」(自由裁量にゆだねる意)であることを保証しているのが通例である。

 しかし前者の、幕府の指示をうけたアイヌ民族に対する「非道」行為の禁止も、それを要請する藩自体が破っていることでもあって、請負人に完全に無視されているのが実状であった。さらに後者の「勝手次第」の保証により、請負人は場所経営の範囲を超えて、その場所のアイヌ民族、ならびに本来アイヌ民族の居住地である場所地域一帯に対しても、請負人による思いのままの私的支配が拡大行使されていったのである。

 その状況をみると、交易において、請負人はアイヌ民族に対し自己の利益率の高い特定商品を多量に要求してくることになる。

 それに対応するため、在来の自然と共生しつつ営んできたアイヌ民族の経済生活は、ゆがめ損なわれてくることになる。さらに決定的となったのは、請負人が豊富な漁業資源に注目し、請負場所において本来の交易のほかに漁業経営にも着業したことである。

 この漁業の主体は全島沿岸に広がる春鰊漁と秋鮭漁であった。両者はともに産卵のため一定期間に沿岸回遊あるいは河川溯(そ)上するもので、その漁業は短期間に大規模な漁法で一挙に漁獲するものであり、したがって大量の漁業労働力を必要とした。この労働力として、端的に場所近辺に居住するアイヌ民族を徴発するに至るのである。

 

 収奪されるアイヌ民族

 ここで場所請負人は、交易商品を含め、漁業労働力を安定的に確保する必要上、場所ごとにアイヌ民族の人別帳(にんべつちょう)(戸口簿)を作成し、そこで把握された者を一方的にその場所に帰属するアイヌと固定して、場所領域以外との通行や交易、もちろん居住も許さなかった。元々場所(旧商場)は流域に多くのアイヌ民族が居住する河川の河口域に設定されていたが、場所帰属の対象として、その河川水系のすべての本支分流に依拠して居住するアイヌ民族を包含していった。またそれゆえ、河口域の請負人が直接漁業を営む漁場のみならず、その河川本支流一円を含めて請負人の差配する領域となった。

 かくしてアイヌ民族は、身分的に場所請負人の隷属民と化した。

 そして労働に堪えない老人・病人・幼児は本来居住する集落(コタン)に放棄され、それ以外の男女のことごとくを、早春より晩秋にかけて河口域の場所本拠近辺に拉致(らち)して漁業や場所経営の諸労役を強制し、従わない者は暴行を受け、また死にいたらしめた。

 女性の多くは既婚・未婚を問わず場所の和人のもてあそびの対象とされた。そのため出生率は極度に低下するとともに、この苛酷な状況の下に、和人より感染した天然痘や梅毒などの病気によっても、多くのアイヌ民族は廃疾・死亡して急激な人口減少をもたらしていた。これらの請負人側の暴状は、当時の和人の記録、特に松浦武四郎の多くの「日誌」をみても枚挙にいとまがない。以上のような場所請負制の展開によって、アイヌ民族の諸生活は破壊され、家もコタンも、のみならずアイヌ民族の伝統的な社会も文化も、崩壊の一途をたどっていくことになるのである。

 蝦夷地における場所請負制の展開の過程で、幕府の基本的な蝦夷地観の転向がなされたことも付け加えておかなければならない。幕府は松前藩の成立に当たり、アイヌ民族を「異民族」、その居住地を「異域」と認識し、交易以外はアイヌ民族の意にまかせて干渉しない、との基本姿勢であったことは先述した。ところがカムチャツカより千島列島を南下してきたロシアが、18世紀末に日本に開港を求めてきた。時に蝦夷地では国後・目梨(めなし)のアイヌ民族が場所請負人飛騨屋の桎梏(しっこく)に堪えかねて蜂起する事件も起った。これらの動向から蝦夷地の危機と受け止めた幕府は、一転してアイヌ民族の和人同化と蝦夷地の日本領域化に転換する。そのため狩猟・漁労・採集に依存する経済生活から農業主体に、また風俗・習慣の日本同化策を唱導していく。他方蝦夷地を区分して諸藩を配置し、公権力によって防備と支配の体制を確定した。当然この間再度にわたり蝦夷地は幕府直轄領となった。しかしながら場所請負制は、一部地域を除いて、廃止されたわけではなく、アイヌ民族の疲弊とその社会の崩壊は抑止されたわけではなかった。