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2章 先史から近世までの上富良野 第2節 先史時代の富良野盆地

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4 上富良野町と先史文化

 

 遺跡発見の可能性

 北海道の先史文化の概要及び富良野盆地の概要を述べ、続けて上富良野町の遺跡の紹介を行ってきた。これまで述べてきた内容でも分かる通り、上富良野町内での本格的な発掘調査がないため、個々の遺跡の詳細を把握することができない。そのために富良野盆地内における上富良野町の先史文化について、個々の内容を詳しく論じることができないのは残念である。

 過去に一度、町道の改良工事のために発掘された日の出五遺跡の場合も、生活の内容を表す遺構もなく、出土遺物も極端に少なかった。そのようなことで、今日までの開墾過程で採集され、残された資料及び富良野盆地内の市町で発掘された遺跡の資料を参考に考えざるを得ないことは、最初に述べた通りである。

 この富良野盆地は、北海道のほぼ中央に位置し、南北に縦長の平地をもっている。東側は北海道でも有数の高さを持つ十勝岳があり、西側には夕張山地が伸び、その夕張山地の西に石狩川が北から南に下り、空知平野を造り出している。北海道の背骨のように南北に連なる山地の懐に抱かれたように富良野盆地は位置している。このようなあり方はこの盆地だけではなく、北に位置する上川盆地、名寄盆地も似たあり方といえる。

 北海道の先史文化の変遷と広がりを概観したとき、山に囲まれたこれらの盆地は、それぞれの文化の変遷のなかで、中心的な役割を果たしたと考えられる場合は少ない。一般的に海に面した、あるいは平地を流れる河川の流域といった大きな広がりをもつ場所の方が、遺跡の数や規模がはるかに大きく、人の行き来、ものの移動についても頻繁であり、変化に対しても敏感に反応していると考えられる。

 これに対して盆地内でも、同じように変遷を経てはいるが、盆地内部での独自に変化したというよりは、外からの影響によって変化したと考えられる。この度重なる変化の過程からも、盆地の内外とはとぎれのない交流があったことは間違いない。この交流は前にも述べているが、今日、富良野盆地とその外側とを結んでいる4つのルートが基本となっており、このルートの原形は、すでに縄文時代から存在していたと考えられる。このルート、すなわち盆地外の東西南北からは、人的交流をはじめ、多くのものがこの盆地にもたらされ、行き来している。

 上富良野で、現在まで確認されている遺跡は、40数カ所である。これらの遺跡の存在は、岩谷朝吉、其田良雄、高橋稀一らにょって確認され、さらに北海道教育委員会の埋蔵文化財包蔵地一般分布調査で、カード登録されたものである。多くの町村と同じように埋蔵文化財に対する専門的な知識を持つ人がいない上富良野で、その後、組織的な分布調査が行われていない。同じ盆地内でも富良野市は、専門家の杉浦重信の精力的な調査によって100カ所を超す遺跡が見つかっていることを考えると、上富良野の場合も、綿密な調査が行われれば、現在の倍の遺跡が存在してもおかしくはないし、今後も発見される可能性は高い。

 

 先史時代から歴史時代へ

 これらの遺跡や遺物から見ると、上富良野では、ほぼ今から1万年前から、人々の生活が展開していたと思われる。まだ明確な資料は少ないが、美瑛町北美瑛遺跡あるいは富良野市東麓郷の遺跡などで、先土器時代の遺跡が調査されており、東麓郷で見つかった石器の黒曜石は、網走管内白滝村のものであったことなどから考えると、今から1万年前頃、上富良野の野山では先史時代の人々の活動が繰り広げられていたと考えられる。

 この先土器時代の後、土器が作られるようになる縄文時代の遺跡は多く、先にも述べた通り、上富良野の遺跡のほとんどが、この縄文時代の遺跡であり、中でも縄文の終わり頃の遺跡が最も多い。縄文の終わり頃の遺跡が多いことは、北海道全体の傾向であり、盆地内でも同じように多く見られる。今後の調査によっては、富良野市無頭川遺跡で見られたようなお墓群を伴う大きな遺跡の存在も考えられる。

 しかし、次の続縄文時代になると遺跡の数、規模ともに小さくなっていき、擦文時代、そしてアイヌ民族の時代になると集落としての生活の跡は見られなくなる。そして、明治30年代、三重団体など、人々が入植したときは、ここ上富良野で生活していた人はいなかった。このことは、最初にも述べた通りである。

 縄文時代には、人々の生活の跡が多く見られるのに、擦文時代やアイヌ民族の生活の跡がなぜ明瞭ではないのか。このことは、縄文時代と擦文以降、アイヌの人たちの生活環境に変化があったことによる。この変化は、大きく見れば津軽海峡以南が、稲作を基盤とした社会の成立とその発展による商品流通の拡大によって生じたと考えることができる。北海道全体が、津軽海峡以南との流通のなかに徐々に組み込まれ、その商品生産地として、先にも述べた通り、富良野盆地がその役割をもてなかったことが主たる原因といえる。

 このようなことで、続縄文時代の終了から、約1000年の間、上富良野の地、いや富良野盆地全体にわたって集落を作り、生活の拠点としての痕跡が見られず、主として獣を追っての狩場としての役割に変化していくことになった。

 十勝山麓に広がる広大な土地は、このようなことで、明治30年以降の開墾のときまで自然のままであった。この自然の大地との100年にわたる取り組み、それこそが上富良野の歴史の中心と見ることができる。