郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

2章 先史から近世までの上富良野 第2節 先史時代の富良野盆地

111-120p

3 上富良野の遺跡と遺物

 

 湧水と遺跡

 富良野盆地の北側に位置している上富良野は、盆地の北側の平坦な部分に市街地が形成されている。その西・北・東は、丘陵から山地へと高まりを増し、南の平坦な地は中富良野町につらなっている。東側・十勝岳山麓の多くの沢から流れ出た河川は、富良野川及びヌッカクシ富良野川などに集まり、また西側・留辺蕊山系からの河川も富良野川に注ぎ、南下して空知川に合流する。

 上富良野町の遺跡は、これらの小河川の近く、とくに湧水のある丘陵の縁に分布していることが多い。現在、「埋蔵文化財包蔵地調査カード」に登載されている遺跡は37カ所である。これらの遺跡を昭和42年に発行された『上富良野町史』及び、昭和48年の『上富良野町の遺跡』を参考にして、西側の島津から時計回りに紹介していくことにしたい。

 

  上富良野町先住民遺族跡一覧表 (平成7年4月1日現在)

番号

遺跡名

所在地

地目

所在地番号

1

東中1遺跡

10線北18号

1550−1、678−1、2216−56

2

東中2遺跡

6線北21号

3921−30、1361−4、1361−3

3

サッポロビール上富良野ホップ園遺跡

4線北25号

3917−1

4

旭野遺跡

旭野十人牧場

畑、宅地

1634−103と74、74

5

日の出1遺跡

3線北26号

1269−2

6

日の出2遺跡

3線北26号

901−1、803−2

7

清富1遺跡

細野牧場

3747−2

8

清富2遺跡

細野牧場

3747−128

9

江花1遺跡

西5線北22号

2198−1

10

江花2遺跡

西5線北20号

畑、宅地

2201−12

11

江花3遺跡

西3線北23号

2624−1、1163−1

12

江花4遺跡

西5線北22号

2198−16と12と9

13

島津1遺跡

西2線北21号

1960−1

14

島津2遺跡

西2線北22号

2516−1と2、1813−4

15

草分1遺跡

西4線北27号

617−3と2、3233−1

16

江幌1遺跡

西7線北28号

2851−1、先河川敷

17

江幌2遺一跡

西8線北28号

2257

18

清音3遺跡

松井牧場

3746−13

19

日新1遺跡

新井牧場

1587−309

20

日新2遺跡

新井牧場

1586−41

21

日新3遺跡

原野1605−5

畑、学校用地

1586−274、1834−59、2084−16

22

日新4遺跡

細野農場

1611−1

23

草分3遺跡

西3線北30号

835−1と2

24

草分4遺跡

西5線北30号

原野

3645−5、無番地

25

日の出3遺跡

基線北28号

畑、宅地

1305−1と3と6

26

日の出4遺跡

基線北29号

畑、田

1105−1

27

東中3遺跡

11線北19号

2584−1

28

東中4遺跡

10線北20号

2144−1

29

東中5遺跡

11線北20号

1765−1と2

30

東中6遺跡

8線北20号

3928−1、3933−5、524−1と27

31

東中7遺跡

6線北21号

3929−3、624−9

32

東中8遺跡

7線北20号

3922−4と14

33

東中9遺跡

6線北21号

畑、宅地

5156−2

34

日の出5遺跡

1線北27号

1268−1と22

35

静修1遺跡

静修1

4474−3

36

静修2遺跡

静修2

4507−3

37

草分5遺跡

西2線北32号

 

1433−1、1803−7、−20、2351−12352−1、−2、−3

 

 島津、江花地区の遺跡

 この地区の遺跡は6カ所、エバナオマエホロカンベツ川と富良野川にはさまれた250から300bほどの丘陵周辺に存在している。島津一遺跡、島津二遺跡、江花三遺跡は丘陵上に、江花二遺跡、江花四遺跡、江花一遺跡は、エバナオマエホロカンベツ川の左岸、道道中富良野上富良野線沿いに存在する。この道路に沿った中富良野町側にも新田中三遺跡、四遺跡などの遺跡が連なっている。

 上富良野町郷土館には、図2−3で示したとおり江花と書かれた土器や石器が残されているが、江花のどの遺跡から採集されたものかわからない。

▽島津一遺跡(登録番号F13−13) 所在は西2線北21号、坂弥和男の畑地、河岸段丘上で、100b×100bほどの範囲で黒曜石の剥片が採集される。以前は、石皿や石斧なども見つかっている。時期は特定できないが縄文時代の遺跡と考えられる。

▽島津二遺跡(登録番号F13−14) 所在は西2線北22号、瀬川孝作らの畑地、小さな沢沿いの緩斜面で、100b×100bほどの範囲で、土器、黒曜石の剥片などが採集されている。近くに湧水もあり、採集される資料の量も多い。縄文期の遺跡と考えられる。

▽江花三遺跡(登録番号F13−11) 所在は西3線北23号、芳賀幸一の畑地、舌状台地の先端部分で、台地の縁に湧水がある。

 100×100bほどの範囲で、縄文中期、晩期の土器、黒曜石の剥片などが採集されている。

▽江花二遺跡(登録番号F13−10) 所在は西5線北20号、村上誠の住宅地および畑地、エバナオマエホロカンベツ川の左岸の丘陵地で、現在、湧水を利用した池がある。付近100b×50bほどの範囲で、土器片、石槍、石鏃が採集されている。土器は縄文晩期のものと思われ、お墓が残っている可能性がある。

▽江花四遺跡(登録番号F13−12) 所在は西5線北22号、中田正の畑地、エバナオマエホロカンベツ川の左岸、湧水を囲む丘陵の緩斜面で、石斧、石鏃が採集されている。

▽江花一遺跡(登録番号F13−9) 所在は西5線北22号、升田武雄の畑地、エバナオマエホロカンベツ川の左岸、江花四遺跡の北側で、湧水を囲む緩斜面、縄文晩期と思われる土器片が採集されている。

 

 静修、江幌地区の遺跡

 市街地の北西、美瑛町に近い丘陵上の静修地区に2カ所、静修より低い200b台の丘陵地の江幌地区に2カ所、河川沿いに確認されている。

▽静修一遺跡(登録番号F13−35) 所在は静修一、大串彰の畑地、開拓川の右岸、標高340bの丘陵地である。

▽静修二遺跡(登録番号F13−36) 所在は静修二、佐々木信一の畑地、開拓川の左岸で、標高340bの丘陵地である。

 この両遺跡は、国営畑地帯総合土地改良パイロット事業のため、昭和61年に所在確認調査及び範囲確認調査を実施している。

 調査の範囲内及び周辺から石鏃、黒曜石の剥片などが採集されている。

▽江幌一遺跡(登録番号F13−16) 所在は西7線北28号、安達英子の畑地、近くの湧水からの小河川脇の平坦部、小範囲から黒曜石の剥片が採集される。

▽江幌二遺跡(登録番号F13−17)所在は西8線北28号、相良由二の畑地、丘陵の緑を小河川が流れるところで、丘陵上から遺物が採集されたというが、詳細は分からない。

 

 草分地区の遺跡

 市街地の北、北上する鉄道、国道の両側に広がる草分地区で河川沿いに4カ所の遺跡が点在している。

▽草分一遺跡(登録番号F13−15) 所在は西4線北27号、高士辰男の畑地、江幌完別川に画した段丘で、湧水の周辺から遺物が採集される。

▽草分四遺跡(登録番号F13−24)所在は西5線北30号、結城勘造の所有地、舌状台地で、湧水の周辺から遺物が採集されたという。また、西4線北30号、鉄道の西側からも土器が採集されたと『上富良野町史』にある。

▽草分三遺跡(登録番号F13−23)所在は西3線北30号、田村圭之進の畑地、標高240bはどの丘陵上で、先土器時代の石核と思われるものが1点、黒曜石の剥片と共に採集されている(図2−4)。

▽草分五遺跡(登録番号F13−37)所在は西2線北32号、平成4年、私道の造成の際に発見された。江幌完別川に注ぐ、湧水を源とする無名沢の左岸、平坦部で土墳墓が確認されている。縄文晩期の土器片、石槍、石斧が出土している。

 

 図2−4 草分3遺跡の石核

  ※掲載省略

 

 日新地区の遺跡

 市街地の北東、美瑛町に接する地域で、十勝山麓の裾野で、標高300b前後の丘陵地である日新地区で4カ所の遺跡が確認されている。遺跡は富良野川に面した丘陵に位置している。

▽日新四遺跡(登録番号F13−22) 所在は上富良野、細野農場、熊谷昭雄の水田地、富良野川に鰍川が合流する付近で、標高270bほどの丘陵の先端部である。開拓時代から多くの石器が採集されたことで知られていたが、現在は水田化されているために、詳細は分からない。

▽日新三遺跡(登録番号F13−21) 所在は原野1605−5、旧日新小学校の東側、片倉貞夫の畑地、富良野川左岸の段丘で、湧水の周辺から縄文晩期の土器片、黒曜石の剥片が採集されている。

▽日新二遺跡(登録番号F13−20)所在は上富良野、新井牧場、白井啓治の畑地、富良野川と小支流との合流点で、標高300bほどで、丘陵縁に湧水がある。ほぼ100b×50bの範囲で資料が採集され、現在、石斧、すり石などが残っている。

▽日新一遺跡(登録番号F13−19)所在は上富良野、新井牧場、藤山基の畑地、富良野川右岸、標高350bほどの緩斜面で、50bくらいの範囲から黒曜石の剥片が採集される。

 

 清富地区の遺跡

 市街地の東、美瑛町に接するところで、道道美沢上富良野線を行き、日新ダムの奥に清富地区がある。この奥まったところ、標高350b前後のところで遺跡が3カ所、確認されている。

 昭和41年に高橋稀一が調査し、小学校前の農業センター付近からも縄文晩期の土器を採集している。

▽清富一遺跡(登録番号F13−7) 所在は上富良野、細野牧場、渡辺秋雄の畑地、奥深い沢地形を作っているピリカ富良野川と本流沢が合流する付近の平坦部である。以前は、畑地から縄文晩期の土器片などが多く採集され、町の郷土館にも保存されている(図2−5)。お墓と思われる遺構も確認されていたが、層圧調整のため破壊された可能性が高い。

▽清富二遺跡(登録番号F13−8) 所在は上富良野、細野牧場、原田鉄一の畑地、清富一遺跡より本流沢を上流に上がった右岸で、石鏃、石槍、つまみ付ナイフ、石斧などが採集されており、一遺跡同様、縄文晩期のお墓があった可能性も高い。また、きれいに調整された石槍の存在などから縄文中期の時期にも人々の生活が考えられる(図2−6)

▽清富三遺跡(登録番号F13−18) 所在は上富良野、松井牧場内、竹内伊三郎の畑地、清富二遺跡の向かい側、本流沢の左岸にある。以前は、完全な形をした土器が出土したのをはじめ、多くの資料が採集されたと聞くが、層圧調整のため破壊された。

 

 図2−5 清富1遺跡の遺物

 図2−6 清富2遺跡の遺物

  ※ いずれも掲載省略

 

 日の出、旭野地区の遺跡

 市街地に近い日の出地区には、5カ所の遺跡が確認されている。市街地のある平坦部から丘陵に移る縁の付近に見られる。また、日の出地区の東、旭野地区の1カ所、東4線道路に面したサッポロビールのホップ園でも遺跡が確認されている。

▽日の出三遺跡(登録番号F13−25) 所在は基線北28号、高田剛の畑地、この場所は、開拓当時から多くの出土物が発見されるところとして知られていた。コルコニウシュベツ川に面した段丘の裾で、湧水の付近、100b×100bほどの範囲から各種の遺物が見つかっている。この遺跡は、昭和43年に富良野工業高等学校郷土史研究会のメンバーによって調査され、研究会の機関紙『学田』第1号に報告されている(岩部和男・小川義宏・田中忠重「上富良野町高田遺跡表採遺物」)。調査では、縄文晩期の土器片をはじめ、石鏃、石槍、ナイフ、スクレイパー、石斧などの石器類が多数採集されている(図2−7)。この他「包蔵地調査カード」には、縄文中期の土器、有舌尖頭器の採集も記されているので、先土器時代にも生活の場になっていた可能性がある。

 また、古くは周辺から鹿の骨が散乱していたと伝えられているので、アイヌの人たちの狩猟の場になっていたのかもしれない。

▽日の出四遺跡(登録番号F13−26) 所在は基線北29号、西山幸治郎の畑地、段丘の裾で、コルコニウシュベツ川とにはさまれた場所で、以前、石鏃などが採集されているが、詳細は分からない。

▽日の出五遺跡(登録番号F13−34) 所在は東1線北27号、丸田繁の畑地、小さな沢の出口の南側で、小高い丘陵になっている部分が遺跡の中心と考えられている。この遺跡の一部は、町道旭日道路改良工事のために、平成5年9月、横山英介を担当者に迎え、町教育委員会が発掘調査を実施している。発掘によって得られた資料は、土器片、石鏃、黒曜石の剥片など、300点ほどで、縄文晩期のものと報告されている(横山英介『日の出五遺跡』上富良野町教育委員会)

▽日の出二遺跡(登録番号F13−6) 所在は東3線北26号、石川洋次の畑地、市街地から緩やかに上がった丘陵地、以前は大きな広がりがあったと思われるが、現在は80b×70bほどの範囲から縄文中期、晩期の土器、石鏃、スクレイパーなどが採集されている。

▽日の出一遺跡(登録番号F13−5) 所在は東3線北26号、和田松ヱ門の畑地、ヌッカクシ富良野川が平坦部に流れ出る北側に位置する。山麓に湧水があり、その付近から石槍などが採集されている。

▽旭野遺跡(登録番号F13−4)所在は旭野十人牧場、林信義の畑地周辺、道道吹上上富良野線に平行して流れるヌッカクシ富良野川に面した段丘にある。湧水の周辺から遺物が採集されている。この遺跡は、昭和43年に富良野工業高等学校郷土史研究会のメンバーによって調査され、研究会の機関紙『学田』第1号に報告されている(辻芳男「上富良野旭野、林遺跡発見の遺物」)。調査では、縄文早期の土器が採集され、中富良野町本幸一遺跡の土器との類似性が述べられている(図2−8)。また、無頭川遺跡で出土し、杉浦が集成している石錨と名づけられた石器が見られることから考えると晩期の資料の存在も予想される(杉浦重信「北海道の錨石について」『無頭川遺跡』)。

▽サッポロビール上富良野ホップ園遺跡(登録番号F13−3) 所在は東4線北25号、ホロベツナイ川右岸の段丘で、ホップ園の事務所などの建物が建つ付近、現在は、湧水を利用した池が近くにある。縄文晩期の土器、黒曜石の剥片などが採集されている。また、東3線北25号でも土器、石器が多く採集されてと伝えられているので、大きな広がりを持った遺跡であったと思われる。

 

 図2−7 日の出3遺跡の遺物

 図2−8 旭野遺跡の遺物

  ※ いずれも掲載省略

 

 東中地区の遺跡

 市街地の南側、十勝山麓の裾野で、中富良野町と接する東中地区で9カ所の遺跡が確認されている。丘陵が平坦部に近づく縁の部分に遺跡が多く見られる。

▽東中九遺跡(登録番号F13−33) 所在は東6線北21号、岩山昌由の宅地及び畑地、段丘を切って流れる小さな沢の出口の平坦地で、付近に湧水もある。畑地などから石斧、黒曜石の剥片などが採集されている。

▽東中二遺跡(登録番号F13−2) 所存は東6線北21号、高松克年の畑地、丘陵の裾野、デボツナイ川が平坦地に流れ出る地点の南側である。付近に湧水があり、現在はその水を利用して池を作っている。ほぼ100b×100bほどの範囲から、数多くの遺物が採集されている。郷土館に展示されている採集遺物は有舌尖頭器と思われる石器2点のほか、縄文晩期の土器、石鏃、石槍、つまみ付きナイフなどがあり、いくつかの時期が重複した遺跡と思われる(図2−9)。また、旭野遺跡で見つかっている石錨が4点も採集されていることは注目すべきことである。この遺跡には、縄文晩期のお墓群が残されている可能性が高いと思われる。

 

 図2−9 東中2遺跡の遺物

  ※ 掲載省略

 

▽東中八遺跡(登録番号F13−32) 所在は東7線北20号、吉河逸夫の畑地、開拓時代から土器が採集された。丘陵の裾、小さな沢状の地形の平坦なところで、水田を造成したとき、ほとんど破壊された。近くに湧水がある。

▽東中六遺跡(登録番号F13−30)所在は東8線北20号、太田信夫の水田地、丘陵の裾、沢から出た扇状地状な場所で、近くに湧水もある。現在は水田になり破壊された可能性が高いが、開墾当時はカマスに入れて捨てたほど遺物が出土した。採集されている石鏃、石槍などから縄文時代の遺跡である。

▽東中七遺跡(登録番号F13−31) 所在は東6線北21号、吉河文夫の畑地、丘陵の裾の平坦地、東中六遺跡の南側である。

 ほぼ100b×50bほどの範囲から土器片、黒曜石の剥片などが採集されている。また、東9線北20号の湧水付近でも、土器や石器が採集されたといわれている。

▽東中四遺跡(登録番号F13−28) 所在は東10線北20号、広瀬元司の畑地、ベベルイ川に面した微高地で、現在は水田になっているために詳細は分からない。

▽東中五遺跡(登録番号F13−29) 所在は東2線北20号、奥田司の畑地、開拓時代から土器や石器が多く採集されたところとして知られていた。しかし、遺物が多かった水田部分は破壊されていると思われる。現在は水田と畑地になっている低い舌状台地とに分かれており、畑地部分からはブレイド状のものが採集されている。

▽東中三遺跡(登録番号F13−27)所在は東2線北19号、泉竹一の畑地、現在、ヌノッペ幹線用水路になっている河川が作り出した沢状地形の平坦なところから黒曜石の剥片が採集される。また、東12線北18号の松本正夫の畑地で、3つの土器が重なって出土したことが『上富良野町史』に書かれている。

 この東中三遺跡は、中富良野町の境界に近く、縄文早期の土器などが出土している中富良野町本幸一遺跡は、ヌノッペ幹線用水路に沿って1.5`bほど上流に上ったところである。

▽東中一遺跡(登録番号F13−1)所在は東10線北18号、市丸晋一の畑地および山林、丘陵の縁に湧水がある。丘陵から平坦な部分にかけて分布が見られたが、低い方は水田の造成のときに破壊されたと思われる。この遺跡は、昭和43年に富良野工業高等学校郷土史研究会のメンバーによって調査され、研究会の機関紙『学田』第2号に報告されている(中河信明「上富良野町東中市丸遺跡表採遺物」)。この調査では、縄文中期、晩期と思われる土器や石器が採集されている(図2−10)が、「包蔵地調査カード」によると、縄文早期から晩期にいたる土器が採集されたところで、上富良野町の遺跡の中では最大規模の遺跡と考えてよいと思う。

 

 図2−10 東中1遺跡の遺物

  ※ 掲載省略