第1章 上富良野町の自然と環境 第3節 十勝岳火山の形成と噴火26-38p
2 十勝岳火山の噴火史
有史以前の噴火
現在活動している十勝岳の噴火史のスタートは、美瑛富士、鋸岳などの活動後、今から約3000〜4000年前になって、十勝岳頂上の北西斜面、前十勝岳の東側に新しく火山活動が始まったときからである。有史以前の活動により、グラウンド火口、摺鉢火口、北向火口などが開かれ、現在ではグラウンド火口の縁辺部を中心にして噴火活動が続いている。以下、十勝岳火山の噴火史及び噴火特性について述べる。
今から3000〜4000年前にグラウンド火口が開かれ、苦鉄質安山岩の砕屑物が噴出して、砕屑丘が形成された。同時に、溶岩流も北西斜面を流下して望岳台付近まで達している(グラウンド火口溶岩)。また、約3240年前には火山灰を噴出する噴火を起こしており(To−c火山灰)、十勝平野にまで降灰をもたらした。その後、何回かの爆発によって山体の一部が崩壊して、それが泥流を引き起こして北西斜面を流下し、おそらく美瑛川や富良野川にも流入したものと思われる。旭川土木現業所富良野出張所のまとめによると、この時期に富良野川では、少なくとも3回の大規模な泥流が発生したことが堆積物から確認されている。それぞれ堆積物の見かけの色から、白色泥流、紫泥流2、灰色泥流と名付けられており、堆積物中に含まれる炭化木片などの炭素14法年代測定により、それぞれ流下年代が推定されている(図1−11参照)。
2200年前には、軽石やスコリア(やや苦鉄質の軽石)を含む火砕流が発生し、山体を流下して少なくとも白金温泉付近まで達していることが確認されている。この噴出年代は、火砕流堆積物中のハイマツ炭化樹幹の、炭素14法年代測定によるものである。なお、以前は約2020年前に大量の火山灰を噴出する噴火を起こし、十勝平野の広い範囲に降灰をもたらしたと考えられていたが、最近の研究でその火山灰は樽前山起源であることがわかってきた。その後も小規模な火砕流や泥流が流出したために、グラウンド火口を造っていた砕屑丘は破壊されて直径700bの北西に開く浅い馬蹄系火口が残った。この時期にも一度、富良野川のかなり下流まで達した泥流堆積物が確認されており、紫泥流1(約800年前)と呼ばれている。
数100年前から火山活動は、グラウンド火口の北西部に集中して現在の中央火口丘(丸山)が造られた。中央火口丘溶岩流は、望岳台まで流下している。なお、この溶岩流直下のハイマツ炭化樹幹の炭素14法による年代は、紀元前280年を示す。グラウンド火口北壁上では、摺鉢砕屑丘が生じた。頂部には350b×250bの楕円形の摺鉢火口があり、火口壁には3枚の溶岩がスコリア層と互層して露出している。流出した摺鉢溶岩は、北西方向へ二手に分かれており、一方は白金温泉近くまで達している。
この摺鉢火口の北方約500bのところに直径150bの北向火口がある。この火口から西北西へ1枚の小規模な北向溶岩が流れた。また、望岳台の北東山麓からは焼山溶岩流が噴出しており、摺鉢溶岩を覆っている。摺鉢溶岩、北向溶岩、中央火口丘溶岩とも岩石は、紫蘇輝石、普通輝石と少量のカンラン石の鉱物斑晶を含む安山岩である。一方、十勝岳温泉郷の上流に位置する噴火口(通称安政火口)では、噴出物調査により、少なくとも推定数1000年〜2000年前にやや顕著な水蒸気爆発があり、噴気で漂白された岩片を含む火山灰を周辺に降らせたことが分かっている。
図1−11 十勝岳火山活動史
出典 旭川土木現業所富良野出張所『十勝岳と火山泥流』(平7)、石川俊夫ほか『十勝岳-火山地質・噴火史・活動の現況および防災対策』(昭46)、勝井義雄ほか『同・捕遺』(昭62)
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歴史時代の噴火史
さて、ここから歴史時代の噴火史に入る。江戸時代以降は、中央火口丘のみが活動を続け、主に火山砕屑物を噴出している。十勝岳北西の火口群を中心として、安政、明治、大正、昭和、昭和〜平成の各年代にわたり5回の顕著な噴火記録がある。本質的な噴火様式は苦鉄質安山岩マグマによるストロンポリ式噴火で特徴づけられる。しかし歴史時代の噴火事例をみると、十勝岳ではマグマの噴出に先行して、水蒸気爆発やマグマ水蒸気爆発が発生することが多く、それに伴って山体崩壊による岩層なだれや泥流が発生している。後に述べるように、大正15年(1926年)と昭和37年(1962年)噴火での災害は、この初期の爆発的な噴火活動によるものであった。以下、十勝岳火山の歴史時代の噴火について、噴火記録及び火山学的研究結果に基づき述べていく。
安政4年の噴火
安政年間の十勝岳の火山活動については、松田市太郎と松浦武四郎による文献に若干の記載がある。「…九尺位之焼穴アリ煙甚シ…」(松田市太郎『安政4年イシカリ川水源見分書』)という記述、あるいは「…(5月)二十三日……四ツ過ビビ(十勝岳)の麓へ出爰にて回頭せば山半腹にして火脈燃立て黒烟天を刺上るを見る…」(松浦武四郎『東西蝦夷山川地理取調紀行・石狩日誌』)との記述、さらには松浦が『東西蝦夷山川地理取調紀行・十勝日誌』に残したスケッチ図に噴煙が描かれている点などから、安政4年に十勝岳西斜面の中央火口丘付近から噴火していたことが推測されている。一方、大正15年の学術雑誌(柴原小市『地球』6巻3号)に掲載された報文には、アイヌ老翁の話を聞いた中富良野村法榮寺住職多屋(多家)広氏の口伝えで、アイヌ老翁が17〜8歳くらいの青年時代に泥流で3人が死亡し(夜半)、翌朝富良野原野一帯泥流と化したという内容が記されており、その年代は安政の頃と想像されている(同様の逸話は『十勝岳爆発災害志』でも紹介されている)。この報文には、1100b附近から西方に流れている3線の溶岩上の堰松7本の大幹の年齢が平均52年を数えたことも傍証として記されている。
ここで、通称「安政火口」と呼ばれ、国土地理院の2万5000分の1地形図にもこの名が採用されている旧噴火口について言及しておく。「安政火口」という名称は、安政4年の十勝岳噴火の記録があるために、この噴火が旧噴火口で起きたという印象を与える。しかし、松浦武四郎によって措かれた『十勝日誌』のスケッチから推定すると、この噴火は旧噴火口ではなく、グラウンド火口北西部の中央火口丘付近で起きた可能性が高い。また、旧噴火口付近の噴出物調査によると、鍵層となる遠来の火山灰層(樽前山の元文4年噴火によるものか、または北海道駒ヶ岳の元禄7年噴火によるものと見られている)が見つかっており、その層の上には旧噴火口起源と思われるような噴出物は見あたらないとされている。したがって今のところ、安政年間から現在まで、旧噴火口では顕著な噴火は起きていないと考えられている。大正15年の噴火直後に公表された多くの報告書には、「旧噴火口」または「ヌッカクシ火口」と記途され、「安政火口」の名称は使われていない。北海道防災会議発行の『十勝岳−火山地質・噴火史・活動の現況及び防災対策』で、なるべく安政火口の名称を使わない方がよいと指摘されたほか、気象庁編の『日本活火山総覧(第2版)』にも、旧噴火口で安政年間に噴火した証拠がないことが明記されている。
明治2年の噴火
明治時代の十勝岳の噴火活動については、次のような記録がある。「ケンルニ(十勝岳)山頂ニ大噴火口アリ周囲凡半里ニシテ常ニ黒烟ヲ噴出スルコト甚シ是石狩河畔ニ於テ到処望見セル所ニシテ年々大噴出ヲ為スコト数回ニ及時トシテ忠別近傍迄灰ヲ降ラスコトアリト云フ」(大日方伝三『北海道鉱床調査報文』)。このことから、十勝岳は明治2年9月に噴火し、噴煙が立ち昇って降灰があったものと見られている。
なお、『十勝岳爆発災害志』に、明治2年に爆発があったという談話が紹介されているが、その後上富良野町役場の入植時期の調査などと照会した結果、これは大正12年6月の中央火口丘付近の活動であったことが確認されている。したがって、明治2年頃の噴火活動を伝える記録は、今のところ大日方伝三による記述のみである。
大正15年の噴火
明治2年の噴火後、30年ほど比較的静穏であった十勝岳は、大正12年頃から再び噴気活動が激しくなった。『十勝岳爆発災害志』の記述によると、当時中央火口丘の火口付近では硫黄の採取が行われていたが、噴火の3年ほど前から噴気温度が上昇し、硫黄の生産量も増加したと記録されている。
大正15年に入ると、2月中旬頃から噴気活動が増し、直径2、3寸(6〜9ab)の砂礫を飛ばし、3月にはその度を強めた。4月の下旬には活動がますます激しくなり、火柱も立つような活動へと推移した。5月に入るとさらに活動が高まり、鳴動、地震、小爆発などが次々に発生した。新たな小火口も形成されたという。
5月24日、当日は雨模様で山頂一帯は雲に覆われ、南風が吹いていた。午後0時11分、中央火口丘の西側で1回目の水蒸気爆発が始まり、小規模な泥流が発生して北西6`bの畠山温泉(いまの白金温泉)まで流下した。この爆発直後に山を巡視した鉱夫らは、火口と推定される付近が、一部崩壊して噴気孔が多くできているのを認めたという。
1回目の爆発の4時間後、午後4時17分過ぎに大規模な2回目の水蒸気爆発がおこり、中央火口丘の西半分が崩壊して、引き続き火山弾、スコリアが噴出した。火口から2`bあまりの硫黄鉱山元山事務所では、爆音が相次いで3度聞かれたとも言われている。崩壊物は熱い岩層なだれとなって北西斜面を流下し、わずか1分たらずで元山事務所を襲った。この岩層なだれによる堆積物は、硫気変質を受けた火山灰を基質として、大小様々な火山岩塊、火山灰を含んでいる。層厚が1b以上分布しているのは北西斜面の標高1100b付近までで、望岳台付近では層厚が数10abになり、さらに山麓地帯では急に薄くなっている。
写真 大正15年、2度目の噴火
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大正噴火と泥流
岩層なだれは残雪を急速に融かして、大規模な泥流を誘発した。
泥流は望岳台付近で2手に分かれ、美瑛川と富良野川を流下しており、堆積状態と物質の観点から第1次泥流と第2次泥流に区分されている。これらは、相互に一連の現象である。岩層なだれは積雪に達して急速に雪を融かし、第1次の泥流を形成した。第1次泥流は、岩層なだれの堆積域から漸次変化し、上流から下流にかけて約1500bに渡って堆積しており、末端は1000b以上の幅に拡がっている。この堆積物は岩塊、火山灰、硫黄などの混合物で、雪解けの水で膠質状態になり、表面は黒色をなしていた。第1次泥流の先端は5b内外の低い階段となり、第2次泥流に続いている。
第2次泥流は第1次泥流の末端から下流に発達している。第1次泥流域で多量の積雪から生じた水は、泥流の物理的性質に変化を与え、岩層なだれの一部を第1次泥流堆積物として置き去り、残りの部分を伴って極めて流動性の高い第2次泥流となった。この泥流は緩やかな傾斜地を流れ、下流に行くに従って扇状(最大幅2.5`b)に拡がった。泥流が流れる際、支流が離合した結果、狭長な森林帯が泥流の暴威から免れている。山腹での泥流のおもな流路は、中央主流と左右両支流で、前者は約100bの幅を持って勢いが最も強く、古い溶岩流上に堆積したグラウンド火口のスコリア流堆積物の平滑な斜面を真っ直ぐに流れ、後者は第1次泥流よりやや下流で中央主流から左右に別れたのである。左の支流は富良野川上流を超えて元山事務所を襲い、富良野川に沿って北々西に流れた。右の支流は美瑛温泉を破壊し、さらに下流の畠山温泉を倒壊流出した。中央主流は標高700bの地点で溶岩崖を下り、2分され、一方は右支流と合して美瑛の谷に落ち、一方は元山事務所を通過した左支流と合して富良野川を奔流した。泥流は幅15b位の狭い谷では谷底から40b以上に達し、平坦地でも立木は8〜15bの高さまで泥流を浴びていた。樹幹の泥流に面していた方は幹皮を全く剥がされ、樹心も八つ裂きにされて土砂をその間に止めていた。泥流の縁辺では樹木は下流に向って一様に倒され、多数の樹木は泥流と共に下流に運ばれた。
泥流の流下した跡を見ると、削剥された部分が多く、新しく堆積した物質はむしろ少なかった。
泥流の要因と状況
第2次泥流は泥水であり、この多量の水は積雪の急速な融解によってもたらされたということに多くの意見が一致している。『十勝岳爆発災害志』によると、この年は平年より降雪が多かった年で、西達布で冬季の積算降雪量が平年より百数10_も多かったと記録されている。当時積雪は標高600bから1400b付近にあり、山麓で20〜50ab、元山事務所付近で1b以上あり、とくに谷間には多量の積雪があった。泥流の通過した区域の平均積雪を1bとし、雪の平均密度を0.5とすれば、融雪により約300万立方bの水が得られ、これが2次泥流として下流へ流下したと考えられている。急速な融雪の熱源として、様々な研究者により意見が述べられてきた。現在では、結局次の2つの要因が最も重要な熱源と考えられている。
1、放出された熱い岩塊・火山灰
2、噴出された熱水蒸気・ガス及び熱水
泥流は、爆発後25分あまりで火口から25`b下流の上富良野原野に達した。泥流の平均速度は時速約60`bであるが、引きがねとなった岩層なだれは時速約160`bという高速のものであったと見積もられている。途中で針葉樹の原生林をなぎ倒し、多くの木材を含む泥水となって建物、橋、鉄道などを破壊した。
旭川土木現業所富良野出張所では、富良野川沿い(当時の集落周辺)の大正泥流の流下状況を、体験者の聞き取り調査を中心に分析し、泥流の速度、波高、勢力から大きく3つの程度に分け、該当する地区をそれぞれ当てはめた。
T、速度は毎時40〜60`b以上で波高は5〜7b程度、家屋を土台からひっくり返すような流れ…鉱山地区〜日新地区
U、速度は毎時20〜30`b以上で波高は1〜3.5b程度、家屋を押しつぶすような流れ…草分地区〜三重団体東地区
V、Uより速度、波高とも小さく、家屋は持ちこたえられるような流れ…三重団体西地区〜市街地区
旭川土木現業所富良野出張所は三重団体の東地区と西地区の違いに着目し、東地区の方が山が迫っているために流下幅が狭く、西地区より速度、波高、勢力が強かったものと考察している。
上富良野市街地北西の草分、日の出地区の低地は、大正泥流の氾濫域である。富良野川を流下した泥流は麓の農地、集落を襲ったが、この泥流堆積物は、厚いところで1b以上堆積している(図1−12、1―13参照)。数abの安山岩質亜円礫、亜角礫を多く含み、基質はシルト(16分の1_b〜256分の2_bの粒子)混りの細砂、粗砂からなる。旭川土木現業所富良野出張所が大正泥流堆積域の農地で行ったトレンチ調査によると、現在の作土の下には、部分的に安山岩質の岩塊や礫を含む砂礫、シルト質砂で構成される大正泥流堆積物が数10abの厚さでたまっている。その下には大正泥流の堆積以前の水田土と思われる有機質土が30abほどの層厚で埋没しており、そのさらに下の層位には富良野川とその支流が運んできた火山灰質の粘土(256分の1_bより細粒の粒子)や砂礫などが堆積している。
約3カ月半の活動の休止期のあと、中央火口丘では北西に開く馬蹄形の爆裂火口が残されたが、同年9月の噴火で、爆裂火口内部に楕円形の火口が造られた。これは大正火口または新噴火口とよばれている。また泥流流出後に、火山弾3000立方bが火口
の周辺に放出された。この火山弾は、暗黒色多孔質のカンラン石斑晶を含む紫蘇輝石普通輝石安山岩(珪酸54l)で、中央火口丘溶岩とよく似ている。一方火山灰は、南南西の風にのって、火口から北北東の方向へ降灰した。その後も断続的に小噴火があり、だんだんと活動が衰えて昭和3年12月に静穏に復した。
図1−12 大正15年噴火による泥流分布図
数字は『北海道農事試験場報告』(昭15)による調査地点での層厚(cm)を示す。
分布域の輪郭は石川俊夫ほか『十勝岳1火山地質・噴火史・活動の現況および防災対策』(昭46)を引用
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図1−13 泥流堆積物のトレンチ調査結果
出典 旭川土木現業所富良野出張所『十勝岳と火山泥流』(平7)
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昭和37年の噴火
昭和37年(1962年)、33年あまりの休止期の後、十勝岳は噴火を起こした。この噴火に先立ち、約10年前から様々な異常現象が認められ、それらは噴火の直前になって非常に活発になったことが記録されている。昭和27年の8月に、摺鉢火口の西側山腹にあった弱い噴気地帯に活発な噴気孔が生じ、次第に成長した。これは、「昭和火口」とよばれた。昭和29年頃から、今度は大正火口の噴気活動が著しくなり、しばしば噴気孔から火口底へ溶融硫黄が流出した。昭和34年の6月と10月には、火山性地震が明瞭に観測され、11月には昭和火口の噴気孔が小爆発を起こして、小泥流が約100b流出し、噴気孔の直径は15bに成長した。また、昭和36年8月には旧噴火口で弱い水蒸気爆発が発生した。昭和37年に入って、大正火口の噴気活動がさらに激しくなり、火山ガスの濃度、温度が上昇して、硫黄の自然発火なども観測された。5月末〜6月にかけて有感地震がたびたび観測されたほか、大正火口の北西1.2`bに設置された地震計には、多い日で1日に41回の火山性微動も記録された。
さらに噴火直前の6月27〜29日には、大正火口東壁上に長さ10b前後の亀裂が10数条形成されており、その一部からは噴気活動も認められた。以上のような異常現象は、大正15年の噴火活動前の状況に非常によく似ており、地下でマグマが出口を求めて上昇し始めたことを示していた。
6月29日午後10時過ぎ、ついに噴火が始まった。この噴火は、本格的噴火に先立つ水蒸気爆発であり、噴出物は既存の山体が砕かれて火山岩塊や火山灰として放出されたものであった。
大型の岩塊は北方に、火山灰は南東の十勝岳頂上から前十勝沢の源流部に降下した。放出された火山岩塊のために、大正火口近くの宿舎に泊まっていた硫黄鉱山の職員や気象庁技官に16名の死傷者が出た。
1回目の噴火終了からおよそ3時間後の6月3日午前2時45分に2回日の噴火が起こり、噴煙が高く上がってその頂部は1万2000bの高さまで達し、火山灰は東方へ流された。北海道東部一帯は、灰褐色の火山灰の雲におおわれ、降灰にみまわれたが、火山灰は中部千島方面まで及んでいることが分かっている。
この第2回目の噴火ではストロンボリ式噴火を伴い、主として新しいマグマが灼熱した火山弾や、火山灰となって放出されている。
火山弾は、火口から北方へ最大1.5`bの距離まで到達し、それらの総量は210万立方bと推定されている。これらの噴出物は、暗褐色〜黒色、多孔質で、カンラン石斑晶を含む紫蘇輝石普通輝石安山岩(珪酸53l)であり、新期十勝岳火山群の溶岩流及び大正噴火の火山弾と極めてよく似ている。一方、第2回日の噴火による火山灰は、その噴煙が成層圏に達し、かなりの高速で東北東へ運ばれており、十勝岳からトムラウシ〜津別〜斜里〜羅臼〜千島列島へ主軸をもつ降下火山灰として堆積した(図1I14参照)。その噴出物体積は7000万立方bと推定されている。昭和37年噴火は、短期間の噴火で終わったことと、非常に多くの火山灰を持続的に放出したことが特徴となっている。
この一連の噴火は、大正火口南側のグラウンド火口南西の内壁にそった北西〜南東方向の弱線にそって行われており、この方向に火口列(第0、T、U、V火口)が開いた。そのうちで62−U火口が最も大きく成長して多くの噴出物を放出し、新噴石丘が形成された。一方、大正噴火で生じた大正火口は、火口壁の崩落と新噴出物によってかなり埋積された。
図1−14 昭和37年噴火による降灰分布図
出典 勝井義雄ほか『岩鉱』44巻(昭38)
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昭和63年〜平成元年の噴火
昭和63年12月に始まる噴火の前に見られた現象では、以下の内容が報告されている。昭和37年の噴火活動直後は、地震活動が低調で表面活動も穏かに推移していた。ところが、昭和43年5月の十勝沖地震発生直後から火山性地震が急増し、一連の地震活動が昭和44年末まで続いた。表面活動も地震活動の活発化と平行して活発になり、62−0火口や62−T火口からの噴気が再開するとともに62−U火口の噴気量が増加し、色も薄黄色となった。この一連の活動を死産のような噴火として議論した研究者もいる。この活動も昭和44年末には衰退し、しばらく平穏に経過したが、昭和49年4月から11月にかけて地震活動がやや活発化した。この活動期には、62−T火口東壁に旺盛な噴気活動を示す2条の亀裂が出現し、昇華硫黄の集積もみられた。また、62−V火口の噴気活動が再開したが、この活動も昭和5年には衰退し始めている。昭和5年以降の地震活動は10数回/月と定常的な状態で推移していたが、昭和55年頃から増加する傾向を示し、昭和58年2月と5月には99回/月及び28回/月を記録した。その後は、62−T火口西緑の地温上昇、同火口東壁の噴気再開、昭和60年の小噴火と表面活動が活発化する推移をたどった。昭和60年5月の小規模な活動により、昭和37年噴火でできた火口の東壁に小噴気孔が形成された。
昭和63年の噴火前、62−T火口東壁の噴気帯における噴気温度は昭和59年頃から噴火活動までの約4〜5年間、300℃以上の高温状態が続いた。
地熱異常は、噴気活動の活発化と顕著な表面現象が見られた62−T火口東壁のほかに、噴気活動の再開が観測された62−V火口、活発な噴気活動を示す62−U火口及び大正火口東壁にも認められた。また、前十勝岳南西側斜面(通称「振子沢」)、大正火口の西側斜面部分(磯部鉱業所跡付近)にも狭い範囲ではあるが、90℃前後の高温域が認められた。昭和63年2月中旬から群発地震活動が活発となり、12月5日には噴煙は黒灰色に変わってきた。
噴火の概要
噴火の概要は次の通りである。十勝岳は昭和63年12月16日に62−U火口から小規模な水蒸気爆発を起こしたのを皮切りに、一連の噴火活動がスタートした。12月19日にはマグマ水蒸気爆発を起こし、この噴火で火砕サージが発生した。火砕サージとは、火山ガスと火山灰との混合流体であり、爆風のような挙動をするものを言う(分類上は広義の火砕流の一種として扱われることが多い)。その後平成元年3月5日まで合計21回(気象庁の発表)に及ぶ一連の噴火を繰り返した(表1−4参照)。この一連の噴火は水蒸気爆発からマグマ水蒸気爆発、さらにマグマ噴火へと移行し、小型ではあるが火砕サージと火砕流を頻発するのが特徴であった。その噴火様式はブルカノ式(火道を栓状に塞いだマグマを、下からの圧力で吹き飛ばすような噴火)に類似していた。高温の火砕流や火砕サージが噴出したため、この熱で積雪が局所的に溶け出し、火砕流や火砕サージの先端部分に小規模の泥流が発生した。また、火山灰は主に火山の東南東〜南東方向に降灰した。噴出した火砕物の総量は約74万立方bと見積もられており、風下に堆積した降灰と、北西山麓に堆積した火砕流・火砕サージ・小泥流とは、それぞれの総量がほぼ同程度であった。
各噴火の噴出量は小さいものであった。通常なら個々の噴出物を分離して噴出量などを求めるのは極めて困難なのであるが、今回の場合降雪期の噴火であったことが地質学的調査の上では幸いし、個々の噴出物がこの間に降った雪によって分離されていた。
各噴火の様式、観測された現象、火山地震学的情報、噴出量等について、表1−4にまとめてある(気象庁公式発表外の、1月13日と1月23日を含む)。また、一連の噴火を見ると、微小な1月23日の噴火が正午に発生していることを除けば、午前10時から午後18時までの間に発生した噴火がないことなどから、この噴火活動では地球潮汐と噴火の関連性なども指摘されている。今後の火山噴火の特性を解明する上では興味深い現象であった。
この噴火では、地元の上富良野と美瑛町に十勝岳噴火災害対策本部が設けられ、12月24日深夜に白金温泉など泥流危険地域の一部に避難命令が出された。直接的被害は発生しなかったが、地域社会に深刻な影響を及ぼした。平成元年5月19日に開催された火山噴火予知連絡会では一連の噴火活動を総括し、将来の予測も含めて次のような統一見解を発表している。
十勝岳は昨年12月16日より本年3月5日にかけて21回の噴火を繰り返した。噴火は小規模であったが爆発的噴火を特徴とし、火砕サージや小型火砕流を伴うこともあった。地震、微動、火映、火山ガスなどの観測資料によると、12月16日から2月8日までの期間に比べて、2月8日以降現在までの期間においては火山活動レベルの低下が認められる。しかしながら、この期間においても3月5日に小型火砕流を伴う爆発的噴火が発生した。また、4月には特殊な波形をした地震の群発が観測された。噴出物の調査によると、今回の噴火による総噴出物量は数10万立方bであり1926年及び1962年の噴火に較べて数10分の1程度である。噴出物は主として既存岩石や特殊な再溶融物の砕屑で構成されており、新しいマグマ物質は極めて少ないと考えられる。一連の火山活動がこのまま低下を続けるか、あるいは次の新しい活動に引き続くかについては、なお引き続き活動の推移を監視する必要がある。
(『十勝岳の火山活動に関する火山噴火予知連絡会統一見解』平成元年5月19日気象庁)
なお、噴火後に行った堆積物調査により、北西山麓に堆積した火砕流、火砕サージ、小泥流は、噴火後5年間でその総量の4分の3が侵食により流失したことが確認されている。
写真 平成元年の噴火
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表1−4昭和63年〜平成元年噴火の記録
噴火日時 |
噴火の様式桝 |
噴火時の現象記録* |
爆発地震振幅* (micron) |
空振振幅*** (mb) |
爆発後の微動*** |
噴出量(u)** |
地球潮汐*** |
|
降下火砕物 |
火砕流+ 火砕サージ |
|||||||
昭和63年 |
|
|
|
|
|
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|
12月16日05:24 |
水蒸気爆発 |
爆発音 |
12.9 |
未計測 |
39分後,やや顕著 |
14,000 |
|
満潮(小潮) |
12月18日08:38 |
マグマ水蒸気爆発 |
爆発音 |
13.6 |
末計測 |
直後,顕著 |
61,000 |
|
満潮(小潮) |
12月19日21:47 |
マグマ水蒸気爆発 |
爆発音・火柱 |
16.1 |
末計測 |
直後,最大規模 |
64,000 |
20,000 |
満潮(大潮) |
12月24日22:12 |
マグマ水蒸気爆発 |
火柱.火映 |
5.6 |
1.10 |
微弱 |
47,000 |
139,000 |
満潮(大潮) |
12月25日00:49 |
マグマ水蒸気爆発 |
火柱・火山雷・噴石 |
22.0 |
0.99 |
直後,最大規模 |
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満潮(大潮) |
12月30日05:27 |
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6.9 |
1.25 |
微弱 |
1.000 |
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満潮(小潮) |
昭和64年 |
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1月1日02:12 |
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火柱・火映 |
なし |
なし |
なし |
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満潮への変化率大 |
平成元年 |
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1月8日19:38 |
マグマ水蒸気爆発 |
火柱・火映・噴石 |
21.2 |
0.94 |
中規模 |
5,000 |
38,000 |
干潮への変化率大 |
1月13日22:29 |
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末計測 |
0.07 |
ハーモニック微動 |
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干潮への変化率大 |
1月16日18:55 |
マグマ水蒸気爆発 |
爆発音 |
11.9 |
2.68 |
中程度 |
21,000 |
80,000 |
満潮(大潮) |
1月20日03:21 |
マグマ噴火 |
爆発音・火柱.噴石 |
14.7 |
3.75 |
直後,顕著 |
10,000 |
10,000 |
満潮(大潮) |
1月22日00:14 |
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0.4 |
0.31 |
微弱 |
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満潮(大潮) |
1月23日12:17 |
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末計測 |
0.04 |
なし |
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満潮(小潮) |
1月27日01:44 |
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爆発音・火映 |
26.8 |
3.67 |
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満潮(小潮) |
1月28日05:18 |
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火映 |
4.9 |
0.67 |
なし |
121,000 |
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0 |
1月28日06:11 |
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14.7 |
0.42 |
微弱 |
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0 |
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1月28日07:00 |
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12.8 |
0.33 |
微弱 |
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0 |
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2月1日18:18 |
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火映 |
12.6 |
0.58 |
4分後,顕著 |
5,000 |
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満潮(大潮) |
2月4日00:38 |
マグマ水蒸気爆発 |
爆発音 |
36.9 |
0.71 |
直後,顕著 |
45,000 |
10,000 |
満潮(大潮) |
2月6日09:37 |
マグマ水蒸気爆発 |
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8.4 |
0.76 |
4分後,顕著 |
16,000 |
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干潮(大潮) |
2月7日23:54 |
マグマ水蒸気爆発 |
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10.1 |
0.64 |
かなり微弱 |
41,000 |
36,000 |
満潮(大潮) |
2月8日04:02 |
マグマ水蒸気爆発 |
爆発音・火柱・噴石 |
31.9 |
0.89 |
最大規模 |
満潮(大潮) |
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3月5日05:22 |
マグマ水蒸気爆発 |
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21.5 |
0.77 |
顕著 |
10,000 |
39,000 |
干潮(大漸) |
出典 *気象庁『火山噴火予知連絡会会報』(平1)、**宮地直道ほか『火山』35巻2号(平2)、***岡田弘ほか『火山』35巻2号(平2)