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1章 上富良野町の自然と環境 第2節 上富良野の地形と地質 14-22p

2 富良野盆地の地形・地質発達史

 

 北海道の成り立ち

 本州の北方に位置する北海道は、弧状列島を成す日本の島々の中で、北東へのびる千島弧と南方へのびる東北日本弧のちょうど会合部に当たる。四方を海洋に囲まれ、近隣の地域とは海峡によって隔てられている。数々の離島を含めるとその面積は約8万平方`bに及び、日本全国土の2割強を占める。北海道の姿を、ランドサットなどの人工衛星によって映し出された映像でご覧になった方も多いであろう。北海道の輪郭を概観すると、半島や岬が四方に張り出していて、それらの間を比較的なだらかな海岸線がつないでいる。とくに、宗谷岬と襟裳岬によって形づくられる南北への張り出しが印象強い。このような大地形は、北海道創世の歴史の反映にほかならない。

 地球の表面は、厚さ30〜100`bに及ぶいくつかの巨大な岩盤(プレート)で構成されており、それぞれが長い年月の間に相対的に少しつつ移動し続けている。日本付近はこのプレートの収束域に当たり、一方のプレートがもう一方のプレートの下に潜り込む場となっている。いわゆるプレートテクトニクス理論で説明される、大規模な地球表面現象の一面である。現在北海道を構成している大地の誕生も、このプレートテクトニクスと密接に関連している。

 今から2億年前の中生代ジュラ紀の頃(表1−2、地質年代表参照)、現在の北海道がある場所は広々とした海であった。その海の底には、西側のユーラシアプレート(大陸プレート…比較的軽い大陸地殻を含むプレート)と、北東側の北米プレート(大陸プレート)に挟まれて、古い時代の太平洋プレート(海洋プレート…海洋地域を含むプレート。海底下で海溝へ向かって移動しながら少しずつ厚くなり、海溝で沈み込む。大陸プレートより重い)が存在していた。現在日本列島の下に潜り込んでいる現太平洋プレートは、その頃はまだ赤道付近にあって、日本へ向かってやっと拡大を始めたばかりであった。

 

 表1−2 地質年代表と富良野盆地周辺の発達史

新生代

第四紀

完新世

3万2千年前〜2万年前、最終氷期の富良野盆地では、エゾマツ・アカエゾマツを主として、グイマツ・ハイマツ・トドマツ・カバノキと少数の楡の仲間を混えた森林が発達していた。2万年前以降の最寒冷期になると、タイガが発達した。完新世に入り温暖な気候になると、基本的にカバノキやコナラ属、特にミズナラが主体の植生へと変化した。

更新世

末期

更新世末期〜完新世に、富良野盆地に堆積する沖積層として、三区礫層、鯨岡礫層、山部扇状地堆積物や、十勝岳火山群山麓の扇状地堆積物などが形成された。またこの時期には、富良野盆地中央部(ヌッカクシ富良野川の中・下流域)を埋積して、砂・礫などの粗粒な層と、粘土層および泥炭層の沼沢地堆積物の互層も形成された。

前・中期

百数十万年前に、大雪一十勝火山列の周辺で流紋岩質〜デイサイト質で粘性が高いマグマの大規模噴出が始まり、反復して火山活動をおこなった。この結果、大規模火砕流堆積物(溶結凝灰岩)で構成される台地が形成された。

第三紀

新第三紀

今からおよそ1500万年前、北海道の中央部に日高山脈が造られた。南から北上してきた現在の太平洋プレートが、千島海溝へ沈み込むようになり、火山活動により千島弧ができた。その後、現太平洋プレートの動きは次第に移動方向を西に変え、約1000万年前から千島列島が北海道に突き刺さり、日高山脈西部に衝上断層系をつくり上げた。鮮新世(約5000万年前以降)になって、富良野盆地を含む構造性凹地である、中央凹地帯が形成された。

古第三紀

オホーツク古陸と西方古陸は次第に接近して、今から約4000万年前についに衝突を開始し、古太平洋プレートは両側の大陸プレートの下に没した。陸塊に挟まれた地域では活発な火山活動が引き起こされた。この火山活動は、特にエゾ層群や日高層群などを変成させて、変成岩を主体とする二つの帯状の変成帯である「神居古澤帯」と「日高帯」を造った。

中生代

白亜紀

北米プレートとユーラシアプレートの接近が始まり、オホーツク古陸と西方古陸が出現した。陸と海溝の間の前弧海盆に、西方古陸から流れ込んだ砂や泥が厚く堆積し「エゾ層群」が形成された。その沖にある海溝では、「日高層群」と呼ばれる付加帯が形成されそいった。

ジュラ紀

現在北海道がある場所は広々とした海であった。その海の底には、西側のユーラシアプレートと、北東側の北米プレートに挟まれて、古い時代の太平洋プレートが存在していた(2億年前頃)。

 

 白亜紀に入り、1億4000万年前頃になると、海洋プレートの古太平洋プレートを東西から挟み撃ちするように飲み込みながら、北米プレートとユーラシアプレートの接近が始まった。この古太平洋プレートと両側の大陸プレートとの押し合いにより、それぞれの大陸プレートの先端に陸塊(オホーツク古陸と西方古陸)が出現した(図1−8参照)。このような環境下で、陸と海溝の間の前弧海盆に、西方古陸から流れ込んだ砂や泥が厚く堆積した。現在この堆積物は、浦河−夕張−天塩にまたがる地域で、「エゾ層群」と呼ばれる地層として見ることができる。また、その沖にある海溝では、付加帯が形成されていった。付加帯とは、海洋プレートが海溝に沈み込むときに大陸プレートとの接触ではぎ取られ、陸側へ押しつけられるようにして生じた堆積体である。この付加帯は、「日高層群」と呼ばれる地層として見ることができる。一方オホーツク古陸からも、同じ時期に砂や泥が盛んに前弧海盆へ流れ込み堆積した。この堆積物は、現在サロマ湖南岸から留辺蘂付近にかけて見られる「涌別層群」という地層である。

 その後オホーツク古陸と西方古陸は次第に接近して、今から約4000万年前、新生代古第三紀の中頃に、ついに衝突を開始した。したがって、古太平洋プレートは両側の大陸プレートの下に没することになったのである。プレートの衝突によって生ずる様々な作用により、陸塊に挟まれた地域では活発な火山活動が引き起こされた。この火山活動は、とくにエゾ層群や日高層群などを変成させて、変成岩を主体とする2つの帯状の変成帯を造った。

 これが現在、宗谷から日高へ南北に連なる、北海道の背骨とも言うべき地質構造となっており、「神居古澤帯」と「日高帯」と呼ばれている。

 東西の大陸プレートは、それぞれの先端の古陸が衝突した後も巨大な圧力をかけ続け、2つの変成帯や周辺の地層を褶曲させ、隆起させて、北海道の中央部に日高山脈を造り上げた。新第三紀の今からおよそ1500万年前のことと見られている。一方この時期になると、南から拡大してきた現在の太平洋プレートが、千島海溝へ沈み込むようになり、構造地質的に見て、ようやく現在のシステムに近づいてくる。この現太平洋プレートの千島海溝への沈み込みによって引き起こされた火山活動が千島弧(千島列島)を生み出したと見られる。

 その後、現太平洋プレートの動きは次第に移動方向を西に変えたと考えられている。この太平洋プレートの動きが西向きに方向転換することによって、約1000万年前から、今度は千島列島が北海道に突き刺さり衝突するという、2つめの大きな衝突現象の場が形成された。この衝突の力によって、日高山脈西部に衝上断層系を造り上げることになる。この東西方向の広域的な圧力は現在までも続いており、後に述べるように、富良野盆地を形成する力にもなっているのである。こうして、億年単位の時間をかけたプレートの移動と、それがもたらした2つの巨大な衝突現象、そしてそのような変動の場で発生した大規模な火山活動などの壮大なドラマによって、北海道の原型が造られたのであった。

 

 図1−8 白亜紀後期(9千万年前)の北海道周辺の構造地質学的模式図

   出典 松井愈ほか『北海道創世記』(昭59)

  ※ 掲載省略

 

 中央(道央)凹地帯

 北海道の北部地域を西と東に2分して、凹地の列がほぼ直線上に南北に連なっている。この凹地列は、北から頓別低地、名寄盆地、上川盆地、富良野盆地と連なり、幅は数`b〜20`bで、南北に延長200`bに達する中央凹地帯と呼ばれている(図1−9参照)。中央凹地帯は、神居古澤変成帯に属する西の天塩山地、幌内山地、夕張山地と、北部日高変成帯基盤台地に属する東の北見山地とに挟まれており、新生代新第三紀鮮新世以降(約500万年前以降)に形成された構造性凹地と考えられている。すなわち、先に述べたような東西からかかる巨大な圧力によって生じた凹地というわけである。

 最北の頓別低地には、中新世〜鮮新世の地層を不整合に覆って、第四紀中期更新世から完新世までの層が分布する。名寄盆地は、智恵文丘陵で分離された北の美深盆地と、士別丘陵や西士別丘陵で区分された狭義の名寄盆地、それに南の剣淵盆地とに3分して見ることができ、各盆地は北北西−南南東方向に右雁行配列している。盆地の西縁には名寄断層、東縁には智恵文断層が南北に走っており、地層を著しく変形させ、褶曲構造を引き起こしている。

 これらのことから、名寄盆地は右横ずれを伴う変位によって形成されたと推測されている。

中央凹地帯南部の2つの盆地、すなわち上川盆地と富良野盆地は、元々は単一の構造凹地であり、それが溶結凝灰岩などの鮮新世〜前期更新世の膨大な火砕流堆積物によって埋められたものであったらしい。その後に、中期更新世以降の活構造運動や侵食、削剥作用を受けた結果、美瑛付近の溶結凝灰岩台地が地形的な高まりとして残り、盆地が南北に2分されたものと考えられている。

 

1−9 中央凹地帯を構成する盆地・低地の連なり

出典『日本の地質一北海道地方』(平2)

※ 掲載省略

 

 富良野盆地の形成

 中央凹地帯最南端の富良野盆地は、東西6`b、南北32`bの地溝型の盆地である。西進する千島弧の西端に位置し、東縁を溶結凝灰岩の麓郷台地を切る活断層、すなわち麓郷断層で切られている。また西縁にはナマコ山や鯨岡など、地塁上の丘陵列が、西方の芦別山地山麓から1`b〜1.5`b離れて南北に6`bの長さで連なっている。この丘陵は、40度ほど東に傾く溶結凝灰岩と、その上位の同じく東に傾斜する砂礫層(クサレ礫層)とからできていることが確認されている。夕張山地山麓に広がる数段の傾斜面、段丘面は、南北に延びる数条の活断層によって転位、変形を受けている。このことが、富良野盆地が千島弧の西への衝突による圧力を受けて形成された盆地という性格を如実に示している。

 北海道開発庁作成の地質図幅『下富良野』による富良野盆地の東西断面では、盆地の西で、中生代ジュラ紀〜白亜紀前期に海底で堆積した「空知層群」と、それ以後に空知層群を覆って堆積したエゾ層群が、東から西へ古い順番に現れてくることは前に述べた(図1−6参照)。もともと海底で水平に堆積したはずの地層が著しく起立していることは、プレートの衝突によって形成された富良野盆地の構造発達史を物語っている。

 

 大規模火砕流による堆積物

 北海道中央部の旭川〜美瑛〜富良野地域と、十勝川上流域から新得〜帯広付近の十勝平野までの広い範囲に、火砕流堆積物で構成される台地が広がる。上富良野の市街地から十勝岳を遠望すると、手前に海抜300bから700bの平坦な台地が広く発達している。この、大雪−十勝火山列の周辺に広く発達する火砕流堆積物については、これまでにいくつかの火山地質学的研究がなされている。それらによれば、この地方の火砕流の活動は新第三紀鮮新世に始まり(約300万年前)、その後の前期更新世にかけて、流紋岩質〜デイサイト質で粘性が高いマグマの大規模噴出が反復したらしい。その総体積は500立方`bを超えると見積もられている。

 これまでの研究によると、旭川〜美瑛〜富良野の火砕流堆積物は、下位から(つまり古い順番に)雨月沢火砕流堆積物、美瑛火砕流堆積物、十勝火砕流堆積物の3つに区分されている。雨月沢火砕流堆積物は、辺別川上流の雨月沢を模式地として、旭川の西方〜南方など、広い範囲に分布する。紫褐色〜灰色の流紋岩質の強〜非溶結凝灰岩である。ここで溶結とは、軽石、火山灰その他の火山砕屑物が、高温状態で堆積した際に部分的に再溶融が起こり、押しつぶされてくっ付き合う現象である。この過程を経てできた凝灰岩を溶結凝灰岩という。強く溶結しているものは、遠目に見ると溶岩のように見える場合が多いが、注意深く観察すると、軽石片や気泡がつぶれ、形が細長く変形しているのが分かる。雨月沢火砕流堆積物の軽石中には斑晶は少なく、造岩鉱物は主に石英、斜長石、斜方輝石である。美瑛火砕流堆積物は、白金ダム付近や美瑛駅西側の石切場などが模式地で、美瑛〜旭川にかけて広く分布する。灰色の流紋岩〜デイサイト質の溶結凝灰岩である。

 斑晶はやや多く、造岩鉱物は主に斜長石、石英、黒雲母、角閃石、斜方輝石である。十勝火砕流堆積物は、十勝川上流地域や富良野市郊外のナマコ山などが模式地であるが、富良野盆地周辺に広く分布し、上富良野町内でもあちこちで露出している。灰色〜灰白色の流紋岩質の溶結凝灰岩で、溶結の程度は場所によって様々である。特徴的に大型の石英斑晶(直径5_b前後)を多量に含むほか、斜長石、アルカリ長石、黒雲母、角閃石、斜方輝石といった造岩鉱物が含まれる。

 これら3つの火砕流堆積物は、富良野市から奈江、二股青葉、日新、美園を経由して美瑛へ向かう道沿いに、数カ所の露頭で見ることができる。露頭の岩石は前述したように淡灰色なものが多く、石を細かく見ると黒い黒雲母やガラスのような無色〜淡紺色の石英などの鉱物が含まれているのが分かる。白くて長方形の鉱物は斜長石である。岩石全体は様々な程度で溶結している凝灰岩である。また、上富良野の市街地から白金温泉へ抜ける道の途中の日新ダム付近では、道路脇の金網越しに潜結した十勝火砕流堆積物の露頭が見られる(写真参照)。ダムサイトを渡って対岸に行き、右手の山道を上がると、太い柱状摂理が発達する露頭を見ることができる。石英や黒雲母の斑晶が目立つ溶結凝灰岩であるが、上の方は溶結していない凝灰岩になっている。

 前に述べたように、十勝火砕流堆積物の層は著しく傾斜していたり断層で切られたりしていることから、この大規模な火砕流噴出の活動が終わった後も、東西からの圧力によって活発な活構造運動が展開されたことが分かる。また、十勝岳北麓の白金温泉付近には、カルデラ断層崖が認められる。

 

 写真 日新ダム付近の道路沿いに露出する十勝港結凝灰岩

  ※ 掲載省略

 

 河川による堆積物

 十勝岳とその周辺の火山群山麓では、十勝火砕流堆積物を覆って、扇状地が広く発達している。この扇状地は、河川の営力により上流の火山噴出物が侵食、運搬されて溶岩塊や火砕物が山麓に堆積し、緩やかな斜面を形成してできた地形である。扇状地の堆積物を観察すると、十勝岳火山群の噴出物や十勝火砕流堆積物などの中にあった火山岩塊、火山礫、砂質の火山灰などが多く含まれているのが分かる。上富良野町内では、ヌッカクシ富良野川沿いの自衛隊演習場周辺に、比較的大きな扇状地が形成されている。

 また、さらに下流の市街地周辺では、十勝火砕流堆積物分布地域の河川に沿って、砂礫からなる沖積低地が形成されている。砂は大部分が十勝火砕流堆積物から供給された火山砂で、石英粒子を多量に含んでいる。礫は十勝岳火山群の噴出物や十勝火砕流堆積物中にあったもので構成される。

 富良野盆地に堆積するその他の沖積層(更新世末期〜完新世に堆積)としては、三区礫層、鯨岡礫層、山部扇状地堆積物などが見られる。三区礫層は、富良野市三区鳩の沢や盆地南西部の富良野市富良野〜鯨岡付近の山麓に分布し、標高400〜500bの著しく開析された扇状地を造る礫層からなる。鯨岡礫層は、分布地域は三区礫層とほぼ同じで、三区礫層より低い標高250〜350bの緩傾斜の扇状地を造る礫層である。山部扇状地堆積物は、盆地南部の富良野市山部周辺と、中、北部の盆地縁辺部に細長く分布する。沖積面より一段高い扇状地上の平坦面を造り、主に砂礫層からなる。

 富良野盆地底の地形は、北半部と南半部とでは違いがあることが指摘されている。北半部では沖積低地が広がり、段丘地形がほとんど認められないのに対し、南半部は芦別山地から流下する諸河川が形成した解析扇状地や段丘地形の発達がよい。この南半部の段丘面は、高度や開析度などから時代の異なる6つの地形面(最高位段丘、高位段丘、中位段丘、低位段丘上位、低位段丘下位及び最低位段丘)に区分できることが確認されている。

 

 泥炭層

 富良野盆地中央部を埋積して、更新世末期〜完新世に堆積した、砂、礫などの粗粒な層と粘土層、及び泥炭層の互層が認められる。

 河川勾配の緩いヌッカクシ富良野川の中、下流域では、粘土層や泥炭層の沼沢地堆積物が形成されている。

 泥炭地の記載については、先の『上富良野町史』でも取り上げられているように、当時の東北帝国大学農科大学助教授、時任一彦が道庁の嘱託を受けて調査した『泥炭地調査報告』(「殖民公報」第39号及び第45号)に詳しい。この調査の目的は、泥炭の種類や性質及び分布を調べ、農耕の適否を鑑定することであった。

 第39号の「富良野泥炭地」に関する記述によると、富良野泥炭地は中富良野町付近にあって、その面積は、当時の鉄道の東側に300万坪(約1000万平方b)、西側に80万坪(約260万平方b)あったとされている。自生泥炭は、生成場所の栄養度によって、低位泥炭(富栄養)、中位泥炭(中栄養)、高位泥炭(貧栄養)に区別される。一般に、河畔にある泥炭は概ね低位泥炭に属し、河岸から原野へ向かって高位泥炭に漸次変化する。富良野泥炭地の大部分は低位泥炭に属するもので、「ヨシ」が密生し、その間を「イヌスギナ」が埋める「ヨシ・イヌスギナ」泥炭を形成していたらしい。高位泥炭と呼べる地域は極めて少なかったが、その地域では「ヤチヤナギ」「ミズゴケ」などが繁茂していたという。低位はもとより、高位であっても全体的に卑湿であった。時任は、泥炭中に多量の土砂が混入していることに注目し、明らかに泥炭地周辺の河川がたびたび氾濫して泥土を沈積させたことを示すと述べている。そして、高位泥炭域に養分に富む泥土が沈積することにより、通常は入り込めないはずの低位泥炭植物も繁茂できる環境となり、高位泥炭植物との混合植生が形成され、結果として農耕地としては好都合な土地条件になっていることを指摘した。また、元来泥炭は鉄分に富む性質があるが、富良野泥炭地の場合、水源地に多量の硫化鉄があったために一層鉄分に富む泥炭であった。『殖民公報』第45号の調査報告によると、中富良野北限の泥炭は充分分解の進んだ蘆(あし)泥炭であり、農耕に適したものであることが述べられている。そして、排水の設備を十分に整えれば、良田になるであろうと予想した。

 原野の中央部を観察すると、ミズゴケが多く繁茂する典型的な高位泥炭となっており、泥炭の性質が極めて粗硬であった。このため、排水を行うと泥炭層が著しく収縮して地盤沈下が生じ、逆流して排水が困難な状態になると予想された。部分的には農耕の見込みが全くない場所が存在すると記述されている。なお、時任は報告書の中で、泥炭地の利用法として、農耕地として開墾するばかりではなく、燃料や防臭用粉末の原料とするなど多面的に利用することも説いている。

 

 富良野盆地における植生変遷

 中富良野町の字文小学校建設の際、地盤調査のために50b深のボーリング調査が行われ、採取したコアの花粉分析がなされた。

 炭素14法という放射性元素年代測定法により泥炭層の年代測定をした結果、地下8bの泥炭は約1.2万年前の層、地下16bの泥炭は約3.2万年前の層であることが分かった。

 最近の花粉分析などのデータによると、更新世末の今から約3.2万年前〜2万年前、最終氷期の富良野盆地では、エゾマツ、アカエゾマツを主として、グイマツ、ハイマツ、トドマツ、カバノキと少数の楡の仲間を混えた森林が発達していたらしい。2万年前以降の最寒冷期になると、タイガが発達するようになり、グイマツ、ハイマツ、トドマツ、カバノキと、わずかなトドマツを混えた森林が存在し、林床にはツツジの仲間が茂っていた。イメージとしては、現在のサハリン北端の植生に近いという。

 完新世に入り温暖な気候になると、基本的にカバノキやコナラ族、とくにミズナラが主体の植生へと変化した。その比率には時代的な細かい増減が見られ、約6000年前の温度の高潮期(ヒプシサーマル)から、その後の若干の寒の戻り(ネオグラシエーション)への移り変わりに伴う変化や、さらに細かい寒暖の繰り返しに対応する変化を示している。1万年前頃の富良野盆地では、最終氷期の末期から増え始めたカバノキが急増し、その後に増え始めたクルミなどと混合した林が形成された。ススキのようなイネ科の草本も多かったらしい。8000年前頃になると、カバノキやクルミに代わって、森林の主体がミズナラを主とするコナラ属に変化した。この時に現在見られるような、トドマツを交えた針葉樹と広葉樹が混合した林の原型が成立したと見られている。

 その後、ヒプシサーマルが終わって若干温度が低下した約5000年前頃、ハンノキやヤチヤナギ、ゼンマイ科のシダが増加して、ミズナラ、トドマツ、クルミはそれ以前に比べて減少し、カバノキが若干増加して、現在見られるような植生へ変遷したものと分析されている。