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今ふりかえる九十年の道のり

及川 うめよ 明治三十五年三月十四日生(九十歳)



明治三十五年三月十四日、宮城県栗原郡若柳町字上畑岡内谷川一一六―五番地において、父遠藤茂左衛門、母とりの二女として生まれた。
父は大正十二年十月五十九歳で死亡。母は昭和二十年七月に七十四歳で死亡し、姉は昭和六十三年に九十八歳で、弟は昨年(平成二年)八十歳で亡くなった。

宮城県から渡道
両親は出生地で農業を営んでいたが、二年程先に北海道に渡っていた父の兄から「北海道の土地は肥料もいらないし、何んでも取れて良いところだから来い」と誘われ、北海道に移る事になった。明治四十年三月、私が六歳の時だった。
青森港から小さな艀(はしけ)で沖へ運ばれ、縄梯子をよじのぼって大きな船(本船)に乗り移ったが、あぶない、あぶないと注意されながら、海に落ちそうで恐ろしかったのを覚えている。津軽海峡をわたって室蘭に上がり、そこから汽車に乗って下金山に着き、そこからは歩いて居住地へ向かった。やっと辿りついたところは、勇払郡占冠村字双珠別と言う村であった。その名の通り双珠別川と言う長い川が村を通っており、当時はほとんどの川に橋などなく、下金山駅から家に付くまで、曲がりまがって百三十回も川をこいで渡らなければならなかった。
川には魚が住んでおり、父は夜になると内地からもって来た投網を張っておき、朝見に行くと「ます・うぐい・どじょう」などが二、三匹入っていた。沢山とれた時は家のそばの沢水の流れをせき溜めて池を作り、そこに飼っておき、食べてしまうとまた網をしかけると言ったぐあいで、魚は毎日食べさせてもらった。
そこでは、一町歩(一ha)の荒地が払い下げられたが、ひとかかえもある松や桂などが生えているところで、両親は毎日鍬や鎌で笹や草を刈り、根っこのあいだ、あいだを開いては畑にした。
作物は、いなきび、裸麦、とうきびなどが主で、じゃがいもは自分の家で食べるだけ、五畝から一反歩ぐらいを作っていたが、新しい土地なので良くとれた。小学校に入る頃になってからと思うが、薄荷(ハッカ)も作っていた。あらく刻んだ薄荷の葉を大きな釜で蒸溜し、管を冷やして薄荷油をとり、出荷していた。
子供達は時どきこっそり盗んでは、目薬のびんに入れなめながら歩いたものだが、今思えば後になって買って食べたニッキ飴のようなものではなかっただろうか。
学校は(現在の双珠別小学校)数え年九歳の時に占冠市街の教習所と言うところに入った。生徒(児童)の数は四十九人で建物は、硝子もない障子の窓がついており、風が吹くとバッタンバッタンと音がしていた。
上富良野に移転
大正になって、上富良野で役場の基本財産である村有地が払い下げになると言うので、占冠の土地を売り、当時は荒地であった現在地(島津五)五町歩を百円で払い下げを受け、上富良野村に移って来た。
大正元年三月、小学校三年生の時だった。家はここから少し離れた富原で今の細川さんのいる所にあった。
ここでもこつこつと荒地を開いて畑にした。主に燕麦(馬の飼料)、小麦などを作り、後になって小手亡、えんどうなどの豆も作るようになったが、手亡景気などと言われた時期もあった。菜種を作り、刈り取ったあとにそばを蒔いたりもした。田んぼを作り初めたのは、やっと水が回るようになった大正九年頃からで、一年に一町歩ずつ、五年がかりで一戸分(五町歩)を田んぼにした。
上富良野に来て、学校も上富良野尋常高等小学校に入った。生徒の数が四百五十人、先生は七人で、校長先生も時々教壇に立っていたが、高田校長(四代校長・高田不二夫)は冗談ばかり言って面白い人だった。卒業するまでに林校長(五代校長・林駒太郎)、上田校長(六代校長・上田永二郎)と変ったが今でも学校には写真が飾られているのではないだろうか。受持ちは能登谷末蔵先生、松本繁先生だった。
家の手伝いをさせられるので、二週間も三週間も続けて学校を休む事もあり、心配して先生が訪ねて来ると親は「あと三日したらやるから――」と言う有様で良く学校を休んだ。勉強がみんなに遅れるのが嫌で家で本を読んだり、復習をして行ったものだが、休みやすみで卒業したのでひらがなはわかるけど漢字はあまりわからない。
東二線から学校に通う友達が九人もいて、みんな長着物を来て、夏は下駄、冬は足に赤ケット(薄地の毛布で赤や肌色のものを適当な大きさに切ったもの)を巻きつまごやわらじを履き、腰から下半分は雪だらけになりながら一年生だってみんなと歩いたものだ。
学校では大きな長いストーブで三尺の薪を焚いていたが、ストーブの回りに棚があり、その中に履物を並べて、凍らないように一日中ストーブを燃やしていた。
その頃、下駄一足が五銭だったが、それが買えなくて三銭五厘で台だけ買って来てぶどう蔓で鼻緒を綯(な)って(山ぶどうの蔓の皮をむき木槌などで叩いて、やわらかくしてから細く裂き縄のようによりをかける)すげてもらって履いたものだ。東中から通う人もみんなわらじやつまごをはいていた。初めてズックの防寒靴を買ってもらったと言っても黒い運動靴のようなものだったが、その時は本当に嬉しかった。
街での買物は、○一さんに行くと何んでも買えた。
今の○一雑貨店、○一呉服店、○一金物店が軒続きで、丁度旭川の市場みたいになっており、そこで全部買物が出来た。荒物屋で初めて、こもに包まれた一匹まんまの塩ますを見た時は、こんなに大きな魚がいるのかと驚いた。
店は○一さんと、福屋さん(薬局)、○大小林さん(呉服屋)、福屋さんの向いに後藤雑貨屋さんの四、五軒ぐらいしかなかったが、今では大きくなって広くなりすっかり変ってしまったので街へ行っても歩けなくなった。
長い道のり
大正十一年二月十一、忘れもしない紀元節の日に、隣に住む、北村吉間(きちま)さんのお世話で、すぐ隣だった及川重次郎(明治三十六年役場吏員、町史参照)の長男重蔵と二十一才で結婚した。夫は怪我のため、足が不自由で水田に入る事ができないので牛や馬を飼育していた。それで働き者の嫁がいいだろうと言うので白羽の矢が立ったらしく、舅には何かにつけて「三ふらの(ふらの、中ふらの、上ふらの)にないみったくなしだけども、力もちで働くから―嘘だと思ったら弁当しょって回ってみろ」などと言われたが、私も負けないで「来た時の年にもどしてくれたら何時でも帰るから―嫌なら暇ちょうだい」と口答えをして舅と喧嘩をしたものだ。吉間じいちゃんは「俺がそばにいるんだから、何んでも相談に来い」と言ってくれたが、そのじいちゃんも昭和二十年の二月十一日に七十四歳で亡くなってしまった。
嫁に来た時は、両親と夫の兄弟十人の大家族だった。とにかく働く事ばかりで、子供も一男五女と六人生んだがみんな母乳で育てた。その頃は分家した者も三年間は本家に来て一緒に働く時代だったので親は働け働けで、日中は分家の子供達みんなが本家に集まり、爺ちゃん婆ちゃんが芋やかぼちゃのおやつを食べさせて育ててくれた。
子供達もそれぞれにかまどを持って幸せに暮しており、今では十二人の孫と曽孫が十一人、今年中にまた一人増える予定なので楽しみにしている。
一昨年は米寿のお祝いで、孫達が温泉に連れて行くと言ってくれたが遠出は好まないのでみんなが家に集まり、男孫は買物、孫嫁さんがご馳走づくりと一日中盛大にお祝いをしてくれた。写真も沢山写してもらい、お母さん(長男の嫁)がアルバムを買って貼ってくれたので大事にしている。本当にうれしかった。
心に残っている事と言えば、戦時中、夫の兄弟は兵隊や徴用にとられて、女ばかりが残され、私が働き頭になって田んぼを作った事。今のようにいい田んぼでなく、固いとこやらぬかるとこやらで、馬にプラオを引かせて耕すのに、体の小さい女の私には大変な仕事だった。あちこちとんでしまうので「お前のおこしたところは、蛙の腰かけがある」と舅に笑われたものだが、あの頃のつらさは忘れられない。
その頃、婦人会の人達が幼駒の運動場(今の町立保育所のあたり)に集まり、竹槍訓練をさせられていたので姑も白い割烹着に国防婦人会のたすきを掛けて、毎日のように出かけていた。わしは嫁だから働くだけだったが、茨城県から中学生が一ケ月」交代で援農に来てくれて、その人達も若いのに馴れない仕事で本当に気の毒だった。みんなにも苦労をかけたから働けるだけ働かなければとの一念で力のある限り一生懸命に働いた。
今一緒にいる長男が学校を卒業して働くようになってから機械を入れた。体は小さいが耕転機もちゃんと使うようになり、最近では田んぼも改良されて楽になったが、それでも夕方息子の帰りが遅いと、何か事故でもあったのではないかと心配になり、又自分の苦労した時の事が思い出されて「あそこは深いからぬかっているんではないか、こっちは固いから手間取っているんではないか」と気になり、遂見に行っては、息子に「心配しないで、夕飯食べたら寝てればいい…‥」とおこられる事も度たびだ。それでもやっぱり気になって――。
今は毎日、朝は四時に起きてご飯と味噌汁を作る。昔からのくせで自然に目がさめてしまう。少しでも体を動かす事が健康のためと思い、自分で出来る事はしたいから、お母さんには「意地悪でするんでないから」と言ってさせてもらっている。日中は家の回りの草むしりやら、野菜の手入れをしたり、夜は九時ごろに寝る。
お陰で今は縄をなう事もないし、俵をあむ事もない、貧乏はしたけどもこうして食べさせてもらって楽をさせてもらい幸せだと思っている。
九十歳になった今まで、医者にかかった事はない。
好き嫌いなく何んでも食べるからこうして健康で長生きしていられるのだと思う。これからどうなるかなぁーと心配しているけど。
舅は昭和四十年に姑は四十三年に亡くなり、夫も五十一年に先き立たれたが、上富良野に住んでかれこれ八十年、いろいろな事があり、長い道のりだった。世の中が平和で、いい時代に生かしてもらって有難いと思っている。
二年前、弟が病気になり、見舞のため子供達に連れられて宮城県へ里帰りをした。あちこち見せてもらい、山形ではテレビに出たおしん≠フ十六代目と言う旅館に泊って来た。
昨年、孫の結婚式に来てくれた弟の嫁がこんな歌を詠んでくれた。
青函トンネル 白寿の姉が 待っている

開拓詩 忍んだ白寿の 手の温み

耐え忍ぶ 苦労もあった 明治妻
白寿を迎えるまで元気でいられるかどうかわからないが、息子夫婦やみんなに大事にしてもらって、元気に暮している今の幸せを有難く思い、これからの一日一日を送りたいと思っている。
― 註 ―
うめよさんのお宅に二度おじゃまをして、口述筆記を致しました。
驚くほど記憶もはっきりしており、苦労話をする時にも「みんながそうだったから―。ハッハッハー」と笑い飛ばす、可愛い笑顔が印象的でした。
頭が良くって、気配りがあって、そして何よりも健康で、本当に素敵なおばあちゃん。正に「平成を生きる明治の女性」。尊敬してしまいます。沢山の事を教わりながら楽しく取材をさせていただきました事を感謝いたします。
編集委員記

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一