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― 各地で活躍している郷土の人達 ―
ふるさとは私のオアシス

和田 俊雄 大正十二年一月二十五日生

わが家の居間に、二枚の油絵が飾ってある。十余年前、退職を記念して購入したものである。
その一枚は、永らく世話になった古巣春の道庁≠フ画、愛称赤レンガ(国指定重要文化財)で、現在は文書館として、道民に開放されている。
もう一枚は、画名秋の十勝岳連峰≠ナ、富良野岳を手前に、三峰山、本峰、美瑛富士、トムラウシと連なる峰には冠雪、山麓盆地には農家が散在、近景には、実りの豆の鳰積み数個を配した絵で、西の丘からの位置かと思う。筆のタッチがまことに鮮細で自然そのままが表現されており、故郷を偲ぶにはピッタリのものと、即座に求めたものである。
日々、このふるさとの絵を眺めることで、心の安らぎと郷愁を感ずるのである。
また、同時に少年期、野や川の自然を相手に、遊び、学んだ当時が忍ばれ、あの友は、あの時は……と、かすかな記憶を手繰りつつ、懐しく回想され、心洗われる思いに浸される。
とくに、八年間通い続けた通学路、湧水の流れる小澤を渡り、カラマツ林を出ると盆地に下る、そこを登り上がると競馬場、その周りを時には友らと徒競走し、神社の境内を横切り学校に着く。この道を、四季にまつわる自然を語り、遊びで道草に時を忘れたこと、また、早春の朝、固雪を渡り歩いた思い出が、強烈に脳裏をかすめ一層情感を深めさせられるのである。
この地も、今ではすっかり開発され、古き姿を残すは、神社の境内のみである。時の変遷と年輪の重みが郷土の令機を綴っている。
毎年八月には、先祖詣でで欠かすことなく帰郷し、絵の生の自然に接することを生涯の喜びとしているが、幸い、何時も眺望に恵まれてきたことを幸運に思う。
「ふるさとは、遠くにありて、思うもの」まさに、ふるさとは、私の心のオアシスである。
九人兄姉の八番目、四男として生まれた私は、長姉(ヨシノ)の嫁入りは記憶になく、母に伴なわれて嫁ぎ先で知ったはど年が離れていた。しかし、苫小牧に住むこの姉に、私は一番世話になり、他界して十四年になるが、尊敬する姉であった。三男の兄は、小学校一年の夏、池で溺死したが、四才であった私の記憶にその一部が残っている。ほかの兄姉とは、生活をともにし思い出はあるが、最も深いのは弟(町村末吉)との行動がすべてであった。
学年も進み、尋常科卒業の時、中学校に進学したのは、高橋 登、土田恵一、藤井 繁、西條富男の四君で、みんな市街地の友であった。高等科卒業では、北向 清、畑中 進の両君が、旭川師範学校へ進学する。
こんなある日、長兄(松ヱ門)が、わが家の農場は兄弟四人が協同で経営するのを夢と思っている、(当時農耕面積二十五ヘクタール)互いに力を合わせて農業に参加してくれないか≠フ一言で、進学の望みを断ち、家業に従事することを決意する。
農民運動の推進者であった兄の立場と心境を思うと、当然のなりゆきとも察することができた。
時は流れ、政局は戦時色濃厚となる。しだいに私の心も動き、軍人を志望し、家人に隠れ、兵器学校を受験するが、不合格となる。このことが契機に、兄から進学が許され、青年師範学校(現教育大学岩見沢分校)に学ぶ。
戦局ますます急となり、最後の学徒出陣で、鉄道予備士官学校に入学するが、終戦により帰郷。その折、車窓から先ず目に映じた、十勝岳連峰の秀麗は、只々感動に胸熱く生涯忘れることのできない思い出である。
その後、復学し、卒業と同時に教育の道を歩むこととなり、故郷を離れる。
ふるさとを離れ、はや五十年を過ぎようとする。
その間、地方公務員生活三十四年、教育行政と地方行政を丁度半々の勤務となる。
その後、財団法人・北海道青少年育成協会で八年間世話になり、ようやく自由人となる。
そこで、私の歩んだ道程を、回想しつつ、勤務地毎に、印象に強くある点を記して見ることとした。
まず、旭川を拠点とした上川時代である。この時は、まさに戦後の混乱期、物不足に、その上、指針の大転換と、暗中模索で苦悩の多い日々を過ごしたものである。
最初、中富良野町で教師としてスタートしたのであるが、昭和二十四年教育委員会制度の発足により、道教委上川事務局勤務を命ぜられる。山中 峻局長(前視学)から社会教育を担当、特に、新生日本の再建を目指し、その担い手となる青少年教育に当たることが、私への特命であった。
それからは、連合軍総司令部(GHQ)の管理下で、徹底したデモクラシー教育を米人指導者により長期研修が再三にわたり受講させられたものである。
デスカッション、サマーキャンプ、レクリエーションなど新語が続出、その体験学習と指導に忙殺、また、GHQより貸与のナトコ映写機で、民主教育の情宣活動に、休日返上で動きまわったのも懐しい一時期であった。それも、若さのお蔭と思う。
昭和二十七年講和条約が締結され、独立独歩となるが、この間に得た知識、体験は私の大きな糧と自信になったことに感謝している。
当時の若者たちが現在、首長・議員など多方面で要職につき活躍していることを知り、頼もしく感じている。まさに、上川時代は、私の次へのステップの充電期間であったとも言える。
釧路の生活が始まる。霧の都とロマンチックな誘いに意気揚々と赴任したが、内陸育ちの私には、夜通し鳴り響く霧笛には、ほとほと悩まされたものである。土地の人は、あの音が子守歌替わりと話してくれたが、私どもには、音色がわびしく、何とも騒音としか聞こえず、馴れるまでが大変であった。
この地方は、アイヌ文化の宝庫であるとともに、特別天然記念物、マリモ・タンチョウの生息地として、世界的に知られている。その保護対策が当教育局の特殊事業でもある。
その一策として、丹頂鶴自然公園が建設された。昭和三十三年のことである。当時の文化庁、道教委の文化財予算は皆無に等しい時代で、財源確保には随分苦労したが、善意の募金、企業・団体などの支援で、マリモ国道の一隅に開設された。
私は今も感動していることは、管理人の高橋良治君との出会いである。彼のタンチョウにたいする情熱と愛には唯々頭の下がる思い。元来、非常に警戒心の強いタンチョウに、名前をつけ呼び寄せて、我が手から餌を与え、さらに、人口孵化に成功するなど、その実践資料は貴重なものである。
昭和四十二年、日本動物学会が札幌で開催のおり、研究発表し深い感動を与えたことで労が報えたものと賞賛を贈った。
昭和三十六年、道教委社会教育課に転じ教育行政最後の場となる。
転勤間もなく、本省から稲垣課長が着任し、道立青年の家建設構想づくりが始まる。私は一ケ月中央青年の家に派遣され、帰庁後直ちに予算獲得に奔走するも、四月議会(一定)で見送られ、六月議会(二定)で計上される。通常年で政策予算が二定でつくことは珍しいことと話題になったほどである。
道政は、町村金五知事時代に替っていた。
青年施設第1号の落成を見届けて、道庁に出向する。このとき、蛯子副知事の面接には少々驚きいった。
道立自治講習所の勤務で、興梠所長に迎えられ、改めて自治講の永き伝統とその業績の説明を聞き、更に、修了生名簿を見せられ、まさに、本道地方自治を担っている方々の多きを知り感銘した次第。
行政マンの登竜門であることを確認する。前進藤所長も九期生で、机を並べての勤めに少々肩のはるおもいであった。
現所長は九州男児で剣道八段の範士、豪放磊落な気質は生徒にも慕われ、私も教務全般を任され、新学習体制を整備し久々教師気分で楽しく勤めさせて頂いた。三百人余の所生を送り出したが、今ではそれぞれ幹部職員で活躍、誠に頼もしいかぎり、郷里では、植田耕一、山内雄二、樋口康信の三君と共にあったが、山内君の死は残念至極である。
最後、総務部青少年対策事務局。途中から婦人対策が併合される。
町村道政二期目に入り、経済の上昇とともに、知事は人づくりを重視され、なかでも、時代の担い手青少年の育成を道政の重要施策の柱にあげる。
これまでの体制も改善され、道・道教委・道警の三機関一体による、総合対策本部が設置され、行政の一元化が図られた。まさしく全盛期時代が築かれたのである。
このことは、その後、総理府に青少年対策本部が設置される先駆的役割を果すこととなる。
具体的に、関係部局の事業ならびに予算調整など機能の効率化を図り、その結果、大がかりな新規事業を実現する運びとなったのである。
その一つに、「北海道中堅青年海外派遣事業」(青年ジェット)が開道百年記念事業として実施されたのである。
青年・指導者、百三十名を四十日間、本道開拓ゆかりの地、米国に派遣し、ホスト・ファミリーの暖かい歓迎をうけ、大陸を横断し、国際親善・交流を深め、国際性をたかめる体験学習は、まさに大事業であった。
この事業は、一部改善されたが、今日も継続されていることはすばらしいことである。
さらに、地方青年の家の増設、青年開発会議など多種にわたる事業が展開されたのである。
堂垣内道政になって、さらに新しく「道民の船」事業がスタートした。
成人(二十才)を対象に、五百人余の市町村代表を、約一ケ月の日程で、船内研修に主点をおいた集団訓練を通じ、連帯性を高め、併せて、東南アジアの青年との交流で、国際性の涵養を図る、新成人の門出に期待してのものである。
また、婦人会館の建設、婦人の海外派遣事業が実施されたが、新しい事業のほとんどの企画に、直接かかわることのできたことに、生き甲斐と満足感にみちている。
さらに、これら事業に参加した多数の人達が、地域社会の推進者として、積極的な働きをし、明るく豊かな町づくりに、貢献されることに、期待と願いを託しているのである。
いよいよ、道庁を退ぞくにあたり、あらたに「青少年基金」を創設、この仕事を持って、道青少年育成協会で第二の職場を過ごさせていただいた。
道民から寄せられた善意は、最終的に約二億円の蓄積にたっし、その基金をあとの者に委ね、わが責務から開放される。いまは、永久に残るであろう基金の発案に愛着と誇りを感じている。
顧りみると、私の道は、青少年育成と婦人対策一筋の航跡であったと言えるのかもしれない。その中で、多くの人とのかかわり、先輩・知己を得たことを最高の幸せに思っている。
昨今の世相は、経済、物質優先の傾向は依然としてねづよく、心理面の軽視が要因で起きている、社会・家庭問題が潜在化していることに開眼しなければならない。
情報化社会、各種マス・メディアに埋没しがちな社会の現状をよくみつめ、今こそ、人間性の回復、近隣愛の創造に、全力を傾注すべきときにあることを、強く感ずるのである。
私の好きな言葉「温故知新」を信条としてる。
それゆえに、ふるさと上富良野町が恋しくなる。
大自然に育まれた素朴な人柄、それに、ラベンダーの町、花を愛する心ほど清楚なものはない。
ある日、役場を訪問し、素晴らしい花壇に迎えられ、心晴れ晴れしたことを思い出す。
家庭に、職場に、街路にも、花を飾る。人はそれを求めて、必ず集まってくる。そのような、ふるさと、上富良野町を夢みている。
今日も、また、東の空を仰ぎ遥拝し、ふるさとの平和と隆盛を祈念する。
和田俊雄氏の略歴(編集委員記)
大正十二年八月二十五日 上富良野村日の出にて、和田柳松、はるの四男と
            して生れる(長兄に元町長和田松ヱ門氏)
昭和十二年三月     上富良野尋常高等小学校を卒業し家業に従事する。
            上富良野青年学校に学び、昭和十六年五月宮城広
            場にて天皇陛下の御親閲を受ける。
昭和十八年四月     北海道青年師範学校(現北海道教育大学岩見沢分
            校)に入学。
昭和二十年四月     鉄道予備士官学校に入学、終戦により八月末に帰
            郷す。直ちに復学し九月末に卒業。中富良野青年
            学校数論。
昭和二十二年四月    中富良野中学校教諭となる。この間に中富良野市
            街地青年団結成、中富良野町青年連盟理事長に就
            任。
昭和二十四年四月    北海道教育委員会上川事務局に転勤。
昭和三十一年十二月   北海道教育委員会釧路事務局社会教育係長、教職
            員係長になる。
昭和三十五年十月    北海道教育委員会社会教育課、事業係長と初代青
            少年教育係長となる。
昭和三十八年九月    北海道庁に出向、北海道立自治講習所講師
昭和四十二年五月    北海道総務部青年対策事務局主幹
昭和五十三年六月    北海道庁を退職
昭和五十三年七月    財団法人北海道青少年育成協会参事、青少年基金
            部長
昭和六十一年三月    財団法人北海道青少年育成協会を退職
現在「札幌・上富良野会」の副会長として札幌市在住の上富良野出身者と共に、故郷との往来を楽しみにし、故郷の静かなる発展を祈念しています。

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一