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名誉町民「和田松ヱ門氏」を語る

長沼 善治 明治四十年八月二十日生(八十五才)

まえがき

和田君の波乱に富んだ青年時代を通じ、終戦迄の半生を親友の横山政一君が、前号「郷土をさぐる第九号」で述べているので、私は戦後の混迷する社会から今日の豊かな社会を導いてきた和田君の業績を讃えながら、又氏が小学校の農業の授業で「農は国の大本なり」と教えられ、農業を一生の仕事にと決意し、それを貫いた信念と実行力を常に尊敬し、魅せられて行動を共にして来た友人の一人としてその足跡を記してみることにします。
なお、このまとめには横山君と同様に、氏の日記や自費出版の「土に生きる」などから引用したので表現の上で、本人の供述的になっている点は予め了承いただきたい。

戦後混乱期の活躍
昭和二十年戦局は益々苛烈を極め、大陸、太平洋全域に広がった戦線からは玉砕、転進の報道。国土では連日のように主要都市が空襲爆撃を受け遂には地球上、人類初の原始爆弾が広島に、次いで長崎に投下され、全国土が焼土化されようとする情勢でありました。
国をあげての国民総動員体制下に置かれ、あらゆる団体が改編された時、彼は大政翼賛会の上富良野翼賛壮年団長となって、銃後防衛の先頭に立っていました。又、食料増強の非常態勢で農業組織の産業組合改組に一年有余に亘る紛争を続けた農業会が、六月漸く妥結し設立総会が開かれ、和田君が常務理事に推されました。この時、就任は無報酬を条件に受託したと聞き、国の窮状に立ち上った明治維新の志士の様な気持で命を預け働いている姿には面目躍如たるものがありました。親友としてご苦労であるが村の為に頑張ってくれと念願したものでした。
このような窮迫した情勢で私達は竹槍を持っても「一億一心火玉で戦う」の本土決戦を感じたのです。
昭和二十年八月十五日正午、天皇陛下の玉音放送が流されました。この日和田君は農業会の会議で富良野に出かけたが、その会議は中止となり、戦争に負けたとするには自分の耳を疑いながら、無条件降伏の放送に慟哭の思いで無念の涙を飲み、その夜は友人と上富良野神社の社前に伏し「国敗れて山河あり」と日本の再建を心に固く誓ったと話してくれました。
終戦となり戦争は終ったのですが、これ迄の緊張感は破れ一挙に虚脱状態となった世相に、物資不足と食料難の為正に無警察状態となりました。闇売り、闇買い、果ては強盗まがいの者迄横行、上富良野にも食料を求めて旭川や札幌、小樽、赤平、芦別の方から国鉄の超満員の客車や貨車に乗込み、食糧強制買出しに大挙して、集団で農業会が管理する政府米倉庫に押しかけ明け渡しを迫りました。
和田君はこれを制止し政府米の引渡し要求の説得に当ったのですが、食べ物が無くなった人達の窮状を必死で訴える声には、違反とは思いつつも澱粉工場で製造中の澱粉を分け与えることを決断し、責任の一切は私に有ると決意実行したのでした。その他地元住民にも許可なしで配給し、住民の動揺を防ぐため農産物の出荷、物資の調達に日夜奔走されたのです。
日本再建は物資経済のみでは不可能であり、日本古来の精神文化を高揚する事が根本で有るとの強い信念を持って、十一月には戦後解体した日の出部落の住民組織を再建し、日の出連合部落会を発足させ、十二月には村内同志に呼掛け農村建設同志会を組織し、和田君が会長となり会の運営を通じ、北海道農村の再建のリーダーとして、北海道農村建設聯盟に参加、理事となって活動に一層の力を入れておりました。
翌二十一年の新年を迎え、村内の有志に呼びかけ自由懇話会を発足、代表世話人となり率先して会の推進役に当りました。この集りには村の中心的人達が参加して毎月一回眞保食堂に集まり、毎回三十余人の人々が談論に夜の更けるのも忘れ、闊達愉快な放談会になり、親睦と交流を図る意義深いものがあり永く続けられました。
この放談会の他に、虚脱状態の青年に希望を与える目的で、翌二月から公民館で「青年講座」を開講しました。毎月一回のこの講師には、元産青連や翼壮の幹部、北大講師等和田君の旧知の人々を招き、謝礼には自家生産の澱粉や食糧を持ち帰って貰いました。集った青年は毎回二百人余に達する盛会な講座でこれは二ケ年程続けられました。
終戦で応召された中堅職員が遂次復員、復職し、農業会の運営に支障がないと思うようになり、常勤役員三名は無駄な冗費になると考え、昭和二十一年三月十六日辞職届けを出し、自家の経営に専念された事を聞かされ、私は和田君の精廉潔自な人柄と愛郷の精神を再認識し、良き友を得た事を誇りとしていました。
この年四月には戦後初の民主選挙が告示され、衆議院議員候補として農民の推す斉藤勝己氏の応援に候補代理として、徒歩で峠を越え富良野沿線の町村を遊説に歩かれたのです。
八月十四日上富良野小学校を会場に管内代表が集まり、全町村に農民同盟結成が急務である事を決議したのです。それには七月二十日北海道農民大会で和田君が実行委員に選ばれ、十五日間上京運動した経過報告を行ない、新農村建設には農民の結集こそ緊要なる事を訴えたのでした。八月十六日には上富良野農民同盟創立総会が開かれ、執行委員長に当選されるや相継いで村の食糧調整委員会委員長、管内の同副委員長に選出され、青年時代より抱いていた農民運動の実践に向い精力的に活動を始められました。
しかし同年十一月二十五日戦時の翼賛壮年団長の職に在った理由で、公職追放の指定を受け一切の社会的地位を奪われることになったのです。
苦悩の公職追放時代
日本の再建、北海道の農村復興にかけた情熱は、公職追放令の発布によって打ち砕かれ、失望の底に叩き込まれ意気消沈しているのではないかと案じましたが、和田君は泰然として「我が郷土には十勝岳の大自然があり、自然を愛し、人を愛し、農業を愛する仕事が沢山有ることに気付いた」と日の出部落の住民会長となり、次いで酪農共同組合を再編、組合長となって農業の畜産混同経営と、多頭化による合理化専業化の推進を図ったのです。
昭和二十二年四月には道議会議員選挙の告示となったが、上富良野以南で同志の中から一人擁立を決められた和田君は、止むを得ず義弟の石川清一氏を推したが、追放の身での選挙戦には言い知れぬ苦労があったのです。開票の結果農民党の石川氏の他同志四人が当選、予想外の戦果の陰には和田君の力によるところが多く感謝をしたのでした。
戦後解散となった道澱粉工業協同組合の再建を願い、上富良野澱粉組合を創設、組合長となり自主運営を図りました。更に富良野沿線七ケ町村の澱粉業者が加入し、富良野地方澱粉協同組合を創立し理事となっています。
次いで北海道協同紡績株式会社の出資参加を奨め、羊毛出荷の斡旋を行う等氏の事業は大きく広がりを進めていました。
追放解除で再び脚光を
昭和二十六年六月三十日公職追放が解除となりました。
この六ケ年の間には、村造り、酪農の振興、澱粉業者の大同団結、寒地衣料の解消等、楽しい仕事に精魂を尽す事が出来た事を嬉しく思うと言われたが、私なりにこの間を振り返って見ると、かつての同志は衆、参議院議員、道議会議員、協同組合連合会役員の地位を占めている。こうした現実を見る時、和田君のお気持ちを察するに余りあるものがあり、お慰めする言葉もなかったのです。
追放解除となるや、住民会、酪農協同組合、農民同盟等の役職が復活し、農畜産加工協同組合長に推され、翌二十七年には北海道バター会社の役員、上川人工授精所運営委員会副委員長となり再び忙しくなりました。
八月には突然衆議院解散となり上川農民同盟は労農提携で同志の芳賀 貢君を推すことになりましたが、和田君は左派社会党からの出馬を報道で知ることになりました。農民同盟臨時総会で右派社会党へ所属変更を討議すべく臨んだのでしたが、「留萌、稚内の地区労の選対会議の決定が終り時間的に無理な事態にあるので賛成してくれ」と言う結論でした。
思想的に左派には反対であるし、義弟の石川君が現職で改進党の河口陽一君の責任者であることからも複雑な立場にあって、しかもこの決定を左右する立場に追い込まれました。芳賀 貢氏は蒼白な顔で「和田君が賛成してくれなければ俺は出られない!何とか頼む!」と哀願され、遂に意を決し「それじゃ芳賀君と一緒に死んでやる」と答え、この選対の出納責任者として選挙資金集めに奔走し見事当選をなさしめたのでした。
昭和二十八年、上川農民同盟常任執行委員、道酪農協同組合上川支部長、北海道農民政治力結集特別委員会副委員長となります。翌二十九年はクローバ乳業会社旭川工場委員長、富良野地方澱粉協同組合理事長、三十年一月には上川農民同盟執行委員長、北海道農民同盟委員長と益々重責を担うことになり、六月二十八日から六十日間ソ連農業博覧会見学と欧州農業視察に道農業六団体代表の一人として参加され、帰朝後は農民同盟やバター会社の要請を受け全道各地に講演をされたのです。
昭和三十一年六月、参議院選挙から道農民連盟の推す候補者の落選から、協同党支持の盟友が道同盟を離脱して、十月農村連盟を組織したので、分裂阻止のため調停斡旋の臨時総会を開き委員長の退任となりました。
その後、酪農業と澱粉事業に専念、昭和三十四年四月には道議会議員選挙に無所属で立候補しました。結果は落選、その上選挙違反の摘発を受け苦衷の涙を飲まれたのでした。
昭和三十八年八月、町議会議員当選、四十年十月、町文化連盟を創立し選ばれて会長となりました。
四十一年六月に全国酪農協会主宰のヨーロッパ酪農視察団に参加、十八日出発から七月十五日帰町まで約一ケ月間欧州七ケ国四、五〇〇qを探して「この視察で私は北海道農業、特に酪農業に一層の自信を持つ事が出来た」と益々農村建設に力を注ぐ決意を新たにされ、その願いを果すべく四十六年八月町長に立候補、当選されたのでした。
私は和田君の永年の努力がやっと実った、益々活躍する時が来た、町長職はご苦労も多いが町民のために活躍して欲しいと心から願ったのです。
町長時代の業績のかずかず
町長就任以来、町づくりの基本は人であり、人間性豊かな人づくりをモットーに教育施設(学校の耐火防音構造校舎の新改築、富原球場他)の整備充実を重点に、町立病院、老人身体障害者センター、葬斎場、郷土館、公民館分館、児童公園、保育所、部落集会場等の建設をはじめ、多年懸案であった地籍調査事業、住居表示事業に国道バイパス事業、白金潅漑排水事業、農林地一体化事業、農業構造改善事業(土地改良基盤整備、林地開発)等に着手、夫々完成に向け進める外、五十年、五十六年の豪雨洪水による大正十五年十勝岳爆発以来の大被害を復旧させ、しかもこの財政運営に当っては健全財政を堅持しながら着実に推進している状態をみて、町民の信頼の念を一層深くしていました。
こうした町長としての実績が認められ、北海道知事から昭和五十七年十一月二十七日、北海道社会貢献章(自治功労)を受賞されました。
当時計画されていた公共下水道が、昨年から供用が開始され、また特別養護老人ホームも入居者から喜びの声が聞かれるのも和田君の先見の明有りと言いたい。
郷土館の建設に当っては、郷土開拓の歴史的資料を収集保存し、先人の遺跡、生活の歴史を後輩へ伝える資料館として、次代を継ぐ子弟の貴重な教材資料に活用されることを念願し、大正八年建築の旧役場庁舎の原型を復元し、町の文化財としても意義ある建造物とする提案をされ、開基八十周年記念事業として建設されたのです。
町長勇退後も情熱を燃して
三期十二年町長職の大任を終えて、張り詰めた緊張感より開放され、重責を降りた様な気分になり、晴耕雨読の境に入るのかと思っていたら、和田君は予ねてから考えていた北海道七観音像の建立を実現したいと、その構想を次の趣意書に依り説明してくれました。
退任後休養の暇もなく、富良野聖観音建立期成会の会長となり、八十余歳と思えない矍鑠として、情熱を燃やして愛郷の理想に向って懇志依頼に奔走する姿は、只々畏敬の念を以って見守るばかりでした。
北海道七観音像建立
この観音像は広大な北海道の中心に位置し、四方山岳に囲まれながら幾多の苦難と闘い、試練を克服して今日の進展に貢献され、すでに故人となられた多くの父祖先輩を偲び、その業績に心から感謝と慰霊の誠を捧げ、遺徳を永遠に讃えるとともに富良野地方の平和と安全及び繁栄を祈願し、当地方の守り本尊「富良野聖観音像」を、開基八十八年記念事業として建立し、次代を担う青少年の健全育成の為、祖先崇敬と郷土愛の思想を継承して明るい社会の建設を念願するものであります。
製作者五味光洋氏
清純、高潔な未来永劫を象徴する白い聖観音像で、さわやかに香るラベンダーの自然にも美しく溶け込む像となることを願い、お若く寛ろがれているお姿を製作したものです。作者は五味光洋氏によるもので、日々流転と共に自ら「放浪芸術の仕掛人」と称している。師と仰ぐ五味康祐流硬質なロマンを受け継ぎ、この思想が製作の源泉となっています。五味光洋の魂は、そこから更に昇華し五味芸術を結集する筈であります。
大雪山連峰を眺望し、その麓に開ける富良野盆地の北部に位置する国道二三七号線沿いに建立され、開眼法要は昭和五十九年十月二十五日に催されました。尊前を荘厳し、彿式に依り聞信寺住職・門上美義氏が導師となり、有縁の人々が参席する中で上富良野仏教団に依り恭しく仏説阿弥陀経を読誦して、広大の仏恩を謝し開眼法要が厳修されました。その後富良野聖観音像奉賛会に依る聖観音祭りが毎年開催されています。今後も和田君の愛郷の精神が永久に受け継がれてゆく事と信じます。
名誉町民顕彰と叙勲
昭和六十一年一月一日付けで、名誉町民の顕彰を受けられた事を聞き、私は本日迄の功績を知っている者として、我が事の様に喜び早速電話でお祝いを申し上げた次第であります。
平成二年十一月三日、勲五等双光旭日章が受章になり、同月十二日宮中新宮殿春秋の間に於て天皇陛下に拝謁を賜り、感激の中に記念撮影をして、東京事務所に戻り一泊し、翌日帰郷したと連絡を受けました。十二月二十四日は公民館で盛大な叙勲祝賀会が開催され私も出席、この席上で安井吉典代議士の祝辞の中で、戦前・戦後の功績から見て低く過ぎると述べられたが、私も全く同感であり内申書の内容を充分理解されなかった為と残念でならない。
以上和田君の社会の為に尽された概要を羅列してご功績を讃えましたが、今後和田君には益々ご健康に留意され、長生きをして、君が青年時代から情熱と愛郷の理想に向って邁進された町が、これからも隆々発展していく姿を見守りながら余生を送って下さい。

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一