郷土をさぐる会トップページ     第10号目次

「郷土をさぐる」と私

郷土をさぐる会編集委員・会計 岩田賀平
明治四十三年十二月十日生(八十一才)

「郷土をさぐる」は遡ると、先史時代の縄文文化にまで及ぶのでしょうが、それは別としても、蝦夷地最奥のこの地に和人が始めて足跡を印したのは、今から百三十四年前の安政五年のことです。
当時既に探検家として知られていた松浦武四郎が、幕府の箱館奉行所御雇に登用され、命により(彼としては第六回目)蝦夷山川地理取調のため一月二十四日箱館を出発、チクベツブト(旭川)番屋に三月二日着。(登加知留宇知(とかちるうち)之日誌に拠る)
十勝越えの経験のあるアイヌシリコツネを案内人とし、アイヌ人夫を含む総勢十五人の体制を整え九日に出発。レリケウシナイ川(ソラチ川水系で上富良野町内であることは明らか)に止宿したのは十日、陽暦で四月二十三日に当り、富良野地方開発の端緒となった歴史的記念すべき日であります。
十一年後の明治二年蝦夷地が北海道に、そして、十一ケ国、八十六郡が画定されましたが、これらの名称の殆どが松浦武四郎の命名を採用したものです。
我が町の開拓は、二十年に植民地撰定、二十九年区画測量完了、三十年三重団体の入植に始まり、以来九十五年を閲して今日に至ったのです。この間の開拓の歩みのは、府県の単なる年数の単位としての百年とは比べられない重大な意義を感じます。
私達の父祖は住み馴れた故郷を後に、希望と不安を抱いて未知の朔北の原始の大地に裸一貫で入植。道を刈り分け、暗い草小屋に、いろり、吊かぎ、石油ランプ、しかも米と別れを告げて、麦、稲黍、そば、いも、南瓜が主食の生活。開墾の仕事は鋸と鉞(まさかり)で伐木、笹、茅を刈って火入れ、腕力だけが頼りの一鍬一鍬の荒地起しは、渡道を決意した時点から覚悟の上とは言え、今日一望何万ヘクタールの田畑の広がりを見るにつけ、到底想像の及ばない苦労があったでありましょう。私達は先人が尊い体験を通じて培われた開拓者魂を心の糧とし、更に後世にも伝える義務を感ずるものです。
どこの町でも、成り立ちから発展の過程、或は開拓秘話が町史に編纂されています。隣町でも三千頁に及び立派なものが刊行されています。しかし母村である我が町の町史八百頁は、内容的には充実しているとは申せ一寸物足りなさを感じて来た一人です。
私も老境に入り、一方貴重な存在の先輩の方々が年々他界されるにつれ、何かせき立てられる感じが募って来るのでした。
加藤 清さんが郷土館の仕事に就任されたのと、私が退職(嘱託も)したのは昭和五十三年、そこで二人コンビで一人でも多く現存の生き証人から、聞き取り調査を始めることにしたのでした。はっきりしたテーマや体系などの考えもなく、なんでも聞いておけば後で何とかなるだろうと言った具合でした。
五十五年同志の皆さんが集まって、郷土研究会を設立しようと言うことになり、十二月に名称は「郷土をさぐる」とし、会長金子さん以下役員も決って発足したのでした。取材したものと寄稿頂いたもので編集し、機関誌「郷土をさぐる」第1号発行の運びになったのは五十六年十月で編集スタッフ一同感無量のものがありました。
顧みますと、聞き取りテープからメモ書きに、ついで原稿用紙に綴り書きの順で進めましたが、初めに考えていたような簡単なものではなく、聞き違い言い違い、聞き漏らしだらけで再三電話や訪問を繰り返す有様で、御本人の意志を正確に表現することの難しさを痛感したのです。一方人間の記憶の不確かさを発見することも沢山ありました。また読者の立場からは読み易く、わかり易く、かつ面白いものであってほしいとの注文もあるのです。
文章家でない私には、とてもそんな芸当は努力しても望める業ではないことと、「郷土をさぐる」の原点は発足当初からの申し合わせに依って、史実に忠実であること、単なる解説や説明に陥ることなく、主人公のおかれた時代的背景や情景が文集に彷彿されるよう、文体、用語にも少しく留意したつもりです。従って文章の拙さのみならず、表現が土臭いとの謗りは甘受するつもりです。
茲に第十号発行の節目を迎えるに当たって、金子会長さん始め、加藤幹事長ほか編集委員の皆さんから頂いた御指導と、事務その他背後から御支援下さった多地さん、松永さん始め多くの方々が御協力を下さった事に対し、この機会に厚く御礼申し上げる次第です。誠に有難う御座いました。

機関誌 郷土をさぐる(第10号)
1992年2月20日印刷  1992年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一