郷土をさぐる会トップページ     第09号目次

続・戦犯容疑者囹圉記(その8)

故 岡崎 武男 大正七年七月五日(昭和四十三年没)

囹圉記の意囹圉(れいご)=「牢屋」の意 漢語的に表現したもの。故岡崎武男氏(元農協参事)が第二次世界大戦で憲兵曹長として、タイ国バンコックで終戦を迎えてから、戦犯容疑者として投獄・ビルマ国ラングーンでの戦犯審理、そして昭和二十二年八月の帰国するまでを短歌や日記等で綴った時記・実話である。特に敗戦の戦犯容疑として一切の書物が禁じられた中で、マッチ棒位の鉛筆を獄窓の鉄枠の中に隠し、毎日支給されたたった三枚のチリ紙の中から一枚ずつを残し、また護衛兵の捨てたタバコの包装紙等に苦心して書いたものがこの囹圉記である。獄中での所持品検査の際は、窓外に投げたことも幾度かあり、当時の身分を考えるとその危険は正に生命を賭けた苦心苦労の毎日であったことが伺える。復員するときは戦犯で処刑された戦友の遺書と共に「リュック」の底に隠し持って帰国したのであった。本書はこの故岡崎武男氏の体験実話を弔いの意で敬意を表しつつ、第一号から連載を致しております。(編集者注)
囹圉記(13)
自 昭和二十一年六月 一日
至 昭和二十一年七月十五日
六月一日
○判決 モールメント憲兵隊関係
  井手大佐       八年
  東 大尉       八年
  憲兵下士官 三名 六年
    〃     一名 一ケ月
    〃     一名 無罪

六月二日
日本本国への第一便の便りを書くことを許されたが、用紙は制限されたPOWのマーク入りである。
書きたいことも書けない。情けないことだが今日まで健在でラングーンに居ることだけでも知らせることができる。有り難いことだ。
「この便り、どうか私の生きてるうちに配達して下さい」

六月三日
また脱走兵が出た。若い兵隊のようだ。食糧難もこれまで苦しめられては逃げたくもなる。昨晩炊事場の流水口を利用して脱走したらしく、脱走兵は夕刻飛行場付近をはいかい中捕獲されたらしい。

六月五日
嬉しくも 母の老顔 健やかに
    我が家にありし 夢を見にけり

六月七日
今日は久し振りに連合軍のシャツが支給された。
背中にPOWのマークの入ったものだが、このシャツも我が国の賠償の計算に入ると思うと無駄にはできない。

六月十日
いましめの 永き獄舎に 年すぎて
   針仕事をも いつか覚えぬ

六月十一日
復員情報もあれこれと入って来た。真偽不明ではあるが、ビルマの日本軍の復員船も遠からず来ることであろう。我々の復員は何時のことか。

六月十二日
日と共に 呼び出されゆく 戦友の
   足重くし て吾は淋しく

六月十三日
空晴れて 補助憲兵は 移り行き
元ラングーン部隊で対印度工作に任じていた光機関と称する特務機関が、我々と一緒に収容されていたが今日出獄して行った。これからは一般部隊と共に労役に服し乍ら復員を待つだけである。

六月十七日
日たちて 二階の部屋に 替れども
階段登る 気力さえなし

六月十八日
二、三日前バンワン刑務所より蜂田大尉以下三名、空輸で此処へ送られて来た。その情報によれば、六月十一日バンワン刑務所に収容中の泰憲兵は、全員乗船帰還したとのことであった。
一同何となく明るい気持になる。気の早いものは縫物などで復員準備をしているものさえいる。

六月十九日
五月五日絞首刑の判決のあった上野大尉の死刑が、昨夜半執行されたと伝えられて来た。
一日謹慎して安らかに昇天されんことを祈る。

六月二十日
○判決 捕虜収容所関係  大西軍医中尉  絞首刑
   収容所長大尉   七年
   軍曹   一     三年
   兵長   一   十三年

六月二十一日
一日の食糧十オンスの生活も三ケ月続き、この頃身体の衰弱が目に見えて来た。
何もなす気力もなく、小便のため上下する階段も精一杯である。
我々に支給される糧秣は、生命を保つに必要最少限度の量であるとのことだ。バンワン刑務所を思えば此処はまさに地獄である。

六月二十二日
昭和十九年の今日は内地より出陣してラングーンに到着した日である。
今までの二十九年の人生に辛いことは随分あったが、現在の飢餓の辛さ程ではなかったと思うも生地獄である。昼食の分配のとき炊事場に行った者が大きなドブねずみを捕まえて争奪戦となったが、今はねずみも高級糧秣なのである。

六月二十五日
今日も又一日を如何にして過ごそうか。退屈の辛さは多忙の辛さの比ではない。

六月二十六日
戦争中に敵軍に捕われた日本軍の俘虜が、乗船準備のため此処に収監されるので二棟宛合併し我々はせまいところへ詰め込まれた。俘虜までが我々より優遇されて帰還するとは敗軍の哀れさである。

六月二十七日
俘虜約七百五十名入所す。戦争中に於ける所謂国際法上の俘虜である。今までペグーに於いて労役に服していたと言う。彼等は思想的にも悪化し、自暴自棄になって始末がつかないようだ。
敵の俘虜になるのを恐れて自決した者も目の当りに見たが、それとこれとどのように考えたらよいものか。

六月二十八日
国家興亡の波に乗り、獄生活の体験も将来の祖国再建のために尊い試練であらねばならぬ。食糧の不足・日用品の欠乏に耐え、またあらゆる物を活用している。これこそ無より有を生せしめている生活である。獄生活といえども唯徒らに送ってはならぬ。
夕刻連合軍の被服ズボンが支給された。

六月二十九日
一日支給されたズボンの改造に暮らした。針はワイヤーロープの針金を拾って来て、ローソクの火で焼いて自作したもの。糸は被服のミシン糸を抜いたものである。このようなことがあると一日中退屈せずに送ることができる。

六月三十日
炊事員も交替制にして今日全員替った。食糧不足のため常に問題になるのは炊事員のことである。多勢の炊事を引受けるため、つまらぬことまで問題化して騒がれる者も少なくなかった。炊事勤務も決して気楽な仕事ではない。

七月一日
吾れもし帰還せば……。
就職の道にも我々戦犯者には色々な制限や障害があるようだ。さりとて力のない者に何ができようか。
全く淋しい前途である。

七月四日
俘虜出獄乗船す。
俘虜の居た間は彼等の残飯を貰い受けて助かったが、今日からまた減ってしまう。

七月五日
下士官の将校に対する態度が悪化し、遂に司令官の耳に入って注意された。敗戦によって階級を無視し軌道を逸した者も少なくない。
人間最後の生死をさまようようになると、その人間の本能が益々表面化して来るものだ。
今日は誕生日だ。

七月六日
今日は久し振りに晴天である。日中解錠されたので退屈しのぎに戸外を散歩した。青々と茂った大木の木陰に若芽の草が風にゆれ、思わず郷里を思い出す。今頃は郷里も良い時期だが……。

七月七日
ダヴォイの歩兵部隊数十名入所す。何れの容疑で投獄されたのか皆疲れた様子で我が身も顧みず気の毒になって来た。

七月九日
今日の糧秣は連合軍の乾麺包一包を一日分として配給された。一包の乾麺包はビスケット四枚である。
一食に二枚食べて我慢せねばならない。

七月十日
夕刻、英人兵二十名程が夫々ショベルやツルハシを持って刑務所の片隅を掘起し始めた。何をするつもりか解らないが、戦争中のざんごうに似た防空壕のようなものを細長く掘って日暮れと共に引き揚げて行った。彼等の訓練に使用するためのものか解らないが余り気持ちの良いことではない。

七月十二日
終戦司令部より米・味噌を僅かばかり差し入れてくれた。

七月十四日
夕刻になってから、去る四月二十七日判決を受けた弓部隊の市川少佐以下四名の、死刑を執行する旨の宣告があったと伝えられて来た。
夜が更けるに従って独房の四士から告別の言葉が流れて来る。四士の声も明日は絞首台の露と消え、銃声の煙と化してしまうのだ。

七月十五日
夜が白々と明けた頃、独房続きの絞首台のある建物から、英人軍人軍属MPが続々と戸外に出て来るのが窓から見えた。市川少佐の絞首刑を執行した様子である。これから緑川大尉以下三名の銃殺刑が執行されるのか、英軍MPが右往左往している。二、三日前英軍が掘ったぎんごうがこれに使用されるのだが、見ればざんごうから約二十五メートル位離れたところに真新しい白木の柱が三本建てられている。二階に居る我々の監房の窓からは丸見えである。
カメラマンや色々の人種の者が集まって来る。間もなく三十名の英人兵が執銃してざんごうに入り、他の二十名位の者が独房から緑川大尉以下三名を連れ出して来た。三士は日本軍将校の軍袴をはいているが、上被は軍服なしの白シャツ一枚で両手を捕えられて独房から出て来た。
我々も二階の監房に整列して窓から注視した。
刑場に入り十メートル位の間をおいて建てられてある柱の前に並べられた。この時三士は同時に天にも轟く大声で天皇陛下万歳を三唱した。それと同時にこれに呼応して独房の窓からも万歳の声が聴こえて来た。既決者が三士に送った告別の万歳であったのだ。
三士は上半身白布に覆われ、両手を柱のうしろ手に縛られて直立し、間もなく三十名の英人射手の一斉射撃を受けて遂に昇天された。
時に七月十五日午前六時三十五分(推定)。白い靴下を鮮血にそめて、静かに倒れてゆく三士の姿に我々は目を覆った。誰もが沈痛な青ざめた顔に、語ろうともせず唯々黙祷を捧げるのみであった。
一日謹慎の日を送った。
夕刻南軍曹独房に移された。
−次号に続く−

機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷  1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一