ラベンダーの由来
片井 昭治 昭和二年十一月十六日(六十三歳)
上富良野郷土をさぐる会より、ラベンダーの観光を担当している私に、その由来を書くようにと話があったので、ラベンダーに関係することについて調査した内容と、私の知っている範囲について書いてみました。
ラベンダーとは
フランス原産のシソ科の多年生草木で、地中海沿岸では古くから香料植物として、栽培されている。
その爽快な香気は主成分の酢酸リナリルによるものである。ラベンダーは真性ラベンダー、スパイクラベンダー、ラバンジンの三種類に大別され、ラバンジンは前二者の交雑による交配種と見なされている。わが国で栽培されているものは、すべて真性ラベンダーであり、オーデコロン等の高級化粧品香料に使用されている。
ラベンダーと曽田香料株式会社
ラベンダーと言えば曽田香料株式会社の実績が、高く評価されなければならない。
曽田香料は昭和十二年春フランスのアントワン・ヴィアル社からラベンダーの種子五キログラムを入手し、これを北見、千葉、倉敷の各農事試験場に配付して、栽培を委嘱するとともに、昭和十三年七月に曽田香料札幌工場でも試験栽培を行った。
これらの試験栽培の結果フランスの特産と考えられていたラベンダーも、わが国では北海道が生育に適していることがわかり、昭和十四年札幌に〇・五ヘクタール、翌十五年には札幌市郊外南ノ沢と岩内郡発足村(共和町)に農場を確保し、ラベンダーの作付を行い、これらの農場には蒸留場を設け、昭和十七年からラベンダー油の生産を開始した。
しかし、第二次世界大戦が始まり食糧増産の至上命令により農場は転作を余儀無くされたが、優良品種の選抜保存という最小限の生き残り策を考えて時期到来を待つことにした。そして終戦後、ラベンダーの作付を再開したのである。
上富良野町とラベンダーのはじまり
上富良野町とラベンダーのつながりの発端は、『農業朝日』という雑誌の一編の記事に、『香料作物ラベンダーは初夏の傾斜地にうすむらさきの花を開き、なかなか詩情に富んでいる作物』という記事、『北海道新聞』にも『ラベンダーは北海道に適地作物である』との記事を見た上富良野町東中在住の上田美一氏、太田晋太郎氏、岩崎不二男氏等が協議し、昭和二十二年八月に曽田香料札幌工場に上田美一氏が訪問し、佐野工場長とラベンダー栽培について話合いが行われた。
一方会社では調査を行い適地と認められたので、九月には太田晋太郎氏、岩崎不二男氏等二十一名が栽培することを決め、昭和二十三年度より委託栽培の契約を結んだ。しかし琴似で育成した苗七千本が輸送中時間がかかり過ぎ、また間作の導入やら活着不良等で失敗した。
翌二十四年四月二十日、更に一ヘクタール余の苗の送付を受け、東中の契約農家に配付作付を行った結果、これがしっかりと根を下ろした。
昭和二十五年には早くも採油することになり、吉河嘉逸宅に設置した簡易蒸留器により曽田香料伊丹工場長の指導を受け採油を行った結果、九リットルの精油を得た。油の量も多く、油の質も予想以上の良質であった。これで農作物として採算がとれると自信を得、上富良野町の特用作物とし拡大しようと関係者が相計り、曽田香料によって昭和二十六年六月に上田美一氏宅(東八線北十九号)にボイラー式蒸留工場を設け、蒸留抽の生産を開始した。
昭和二十七年には耕作者二十八名、面積も十二ヘクタールと増加した。
こうして東中から起ったラベンダーは、傾斜地で表土流失の防止にもよく、またわりとやせた土地でもよいということがわかり、全町的に作付をするようになった。そこで作付者が一緒になって、生産技術の向上と農業所得の向上を図ろうということで、昭和三十年三月二十七日にラベンダー耕作組合を設立し、初代組合長に吉河喜冶氏、副組合長に岩崎不二男氏、物井経也氏、顧問に上田美一氏、太田晋太郎氏を選任した。その後会長として昭和三十二年には長沼善治氏、昭和四十四年に上田美一氏、昭和六十一年に前川光正氏となった。その間東中・島津に蒸留工場、江花・旭野・日の出・豊里にそれぞれ簡易蒸留場を設置した。
また昭和三十六年には上富良野町ラベンダー耕作組合蒸留場新設十周年記念式典、昭和四十三年には上富良野町ラベンダー耕作二十周年記念式典、昭和五十三年上富良野町ラベンダー耕作三十周年記念式典がそれぞれ行われた。
増反、栽培管理、採油向上等の研修研究等を行い最盛期には、栽培面積八十五ヘクタール、全国生産量の八十%を占めた。
北海道とラベンダー
全道的にも順調に伸び、富良野沿線は勿論のこと、空知・後志地方にも栽培面積が拡大された。昭和三十三年に、北海道農務部が奨励特用作物に指定し、本町に耕種改善モデル圃場を設置し振興を図ったこともあり、最盛期昭和四十五年には全道二百三十五ヘクタール、精油生産量も五トンに増大した。
しかし昭和二十五年、戦時中中止になっていた天然香料の輸入が再開されたことから、海外からもラベンダー油が入手できるようになっていたため、この輸入品に対抗するためには、栽培技術の向上、収油率の改善、そしてなによりも、ラベンダー油そのものの香料的品質が優れていることが必要になった。
曽田香料では会社の圃場で品種選抜試験を行っていたが、昭和三十六年二月に国において本格的にラベンダー栽培にかかる試験研究を実施することに決定し、北海道大学農学部、国立農業試験場、北海道農務部、道立農事試験場、北海道農協中央会、曽田香料株式会社が協力し、長尾正人氏(北海道大学名誉教授)を会長に、北海道ラベンダー技術者協議会(後に北海道ラベンダー協議会となり、事務局長は佐々木春雄氏)が発足した。試験項目には、優良系統選抜・肥料・病虫害・除草剤・間作適否・増殖方法・省力栽培等各試験を行った。この成果は、優良品種として「おかむらさき」「ようてい」「はなもいわ」を選抜した。
これらの品種の普及に努め、国産ラベンダーの名声を高めることができた。
しかしこのように新しい品種の育成と手厚い指導があったにもかかわらず、わが国の高度成長による工業化が進み、合成香料の著しい発展による天然香料需要の減退と、農家の機械化などで農業形態に大きな変遷があったため、昭和四十五年をピークに減反の一途をたどるようになった。
本町においても昭和五十二年に曽田香料が、ラベンダー油の買取の中止により農業作物としての生産は終りとなった。
『(註)曽田香料はラベンダー作物の他、昭和四十二年より「青シソ」の栽培をも行って現在のラベンダー蒸留設備(昭和六十三年倍本に新設)を利用して、食品関係の香料を生産している』
ラベンダーと観光のはじまり
農作物としてのラベンダーは前に述べたように逐次減りつつあるとき、耕作組合は、生のまま切花またドライフラワーとして、東京方面に出荷していた。昭和五十一年には、国鉄のポスターとして全国にラベンダー畑が紹介され、また昭和五十二年には東中の吉河さんの耕作するラベンダー畑が北海道新聞に掲載され、それ以来観光客が訪れるようになった。このように農作物としての生産は中止となったが、観光資源として見直し、永く保存しなければならないとの機運が盛り上り、全国的に積極的にPRを進めることとした。そのためには、民間の圃場に頼ることはできないので、町営圃場が必要であると考え、町及び観光協会が昭和五十四年に金子全一氏所有の土地を借り上げ、町青少年団体協議会(会長上田修一氏)の青年男女六十名の労力奉仕により、約〇・八ヘクタールにラベンダーを新植した。
昭和五十五年には、日の出公園の整備とともに一・五ヘクタールを造成し、観光の拠点として整備を始めた。
昭和五十六年には、上富良野町制施行三十周年にあたり「町花」「町木」を制定したいということで、町民よりのアンケート並びに町内の各界の代表、学識経験者からの意見を聞いて「町花ラベンダー」「町木赤えぞ松」が選定され、社会教育委員会(会長 安藤嘉浩氏)より町長が答申を受け、十月一日付で告示した。
また各諸団体もラベンダーを主体にした、観光誘致及び町おこし事業を積極的に努力した。
まず商工会婦人部は、昭和五十一年より町を花で飾ろう運動を起し、翌五十二年には深山峠(現在ドライブイン深山園)、五十三年には、駅前、深山峠にラベンダーを植栽した。また商工青年部は昭和五十五年深山峠報徳に、昭和五十七年には町花記念ラベンダーということで、市街地内街路桝にまた深山峠に植栽し、町の美観に努力した。
ラベンダー祭
商工会は、観光客の誘致と町の活性化を図るべく、現在のラベンダー祭の前身である第一回北海ホップ祭り(商工会長 仲島徳五郎氏)を、昭和五十三年九月三日に、島津公園で行ったのが始めで、以後五十五年第三回より、北海ラベンダーホップ祭りと改称した。
昭和五十七年七月に町花指定記念かみふらのラベンダー祭りを町内各団体で実行委員会(会長 和田松ヱ門町長)を組織し、盛大に行った。以後実行委員会が中心となり、回数を重ねるごとに訪れる観光客も多くなり、町の一大イベントとなった。催物の中でもラベンダー結婚式を六十年より実施し、申込みも年平均七十組以上も寄せられている。また昭和六十年度事業として、商工会は「地域小規模事業活性化推進事業」を取り入れ、商工会むらおこし実行委員会及び特産品開発小委員会を組織して、斬新なアイデアによる試作品作りに努力を続けている。
ラベンダーと観光協会の活動
観光協会も昭和五十二年より、ラベンダー育成事業として、各団体に毎年補助しその育成に努めた。
また浜 厳氏(東中)より、町特産の農作物かラベンダー等の持株のオーナー制度も面白いのではないかとの発案があり、「第一企画」(本社東京)にラベンダーオーナーが全国的にPRできるか、募集はどうかとレポートを提出させ、協会の中にプロジェクトチーム(委員長 管野 稔氏他六名で組織)を作り、検討の結果、用地は深山峠田浦 博氏、日の出は入江 直氏の協力を得て、宣伝を行えば可能ではないかとの結論に達した。
昭和五十九年度より実施の方針を決め、会長 酒匂佑一町長外副会長及びミスラベンダーを同伴し、旭川市記者クラブを訪れ、その宣伝方を要望した。昭和五十九年四月より、各新聞社・放送局・雑誌社を通じて第一回募集を始めたところ、七月二十五日迄に二一四三名、昭和六十年一月末日までに一、一五三名の会員となった。その頃よりポプリ・ハーブ・スパイスという趣好がはやり始め、NHK日曜日趣味の園芸で知られる広田?子さんのハーブブック、ジャパンハーブソサエティ、日本エアシステム機内のPR誌、誠文堂発行「ガーデンライフ」、放送局等により全国各地に、遠くはアメリカ在住の方々よりも申込みがあるようになった。会員は平成二年まで延四、七七二名となっている。
観光宣伝は、昭和五十四年大雪山観光連盟(会長旭川市長)と共催で、ラベンダーキャンペーンを行った。東京銀座数寄屋橋、東京ソニービル前庭にラベンダー六十鉢を展示し、東亜国内航空(現日本エアシステム)のスチュワーデスの協力で、都民にラベンダーの生花を直接観賞してもらい、観光パンフレットと一緒にラベンダーの花束を配り宣伝を行った。また同時に大阪に行きキャンペーンを行った。これが最初で以後毎年、東京、大阪を主体に大雪山観光連盟と共催で行っている。
昭和六十三年より北海道物産展と併せて、神戸・横浜へ、町単独としては、昭和六十三年より広島球場にてラベンダーナイターとしてキャンペーンを行っている。
ラベンダーのイメージアップを図り、そのPRのため曽田香料では、昭和三十四年より四年間、ラベンダー花売娘を募集し、札幌の大通公園付近をフランス、プロバンス地方の花売娘の風俗衣装を真似て作った服を着てラベンダーの花を配った。当時ラベンダーが殆ど知られていない時だけに市民に珍しがられ、新聞、テレビなどで紹介された。また昭和四十三年に行われたラベンダー耕作二十周年記念行事で、農協女子職員の皆さんが、ラベンダー花売娘を再現して町内をパレードした。
昭和五十六年八月十七日(商工会会長一色正三氏)主催の渥美二郎ショーと併せて、第一回ミスラベンダーを選出した。以後商工会及び観光協会で毎年続けられている。現在ラベンダーキャンペーンガールは、全国各地をまわりラベンダーと本町の観光の宣伝に努めている。
また「ラベンダーの香りをどうぞ」と昭和五十年より連合婦人会が交通安全や年間行事として、深山峠を通過するドライバーに、ラベンダーの花束または匂い袋を渡し、交通安全と観光のPRを行っている。
上富良野中学校では、昭和六十一年より三ケ年間修学旅行先の函館で、ラベンダーの匂い袋とパンフレットを配りキャンペーンを行った。また上富良野高校も昭和六十三年より修学旅行に京都へ行き、駅前においてラベンダーの里かみふらのの横断幕を拡げ、自分連で作ったドライフラワーの花束にメッセージをつけて、キャンペーンを行っている。
このように町内の各団体の努力と、マスコミ、ラベンダーオーナーによる口こみ、北海道観光連盟、JR北海道、各写真家、旅行業者等の宣伝によって全国的にラベンダーが知られ、近年四十万人以上の観光客が訪れるようになった。
振り返れば、ラベンダーを農作物として導入し苦労した諸先輩、また観光にとラベンダーを呼び起した諸団体のご苦労に感謝するところであります。
参考資料 曽田香料七十年史 ラベンダーに関する試験成績集 ラベンダー耕作組合資科
富良野沿線のラベンダーのあゆみ
年 代 | 記 事 |
昭和23年 | 上富良野町においてラベンダー栽培開始 |
昭和25年 | 上富良野町東中において、簡易、蒸留器による蒸留開始(吉河嘉逸宅) |
昭和26年 | 上富良野町東中にラベンダー蒸留場設置(上田美一宅) |
昭和27年 | 中富良野町においてラベンダー栽培開始 |
昭和29年 | 富良野市においてラベンダー栽培開始 |
昭和30年 | 上富良野町江花に蒸留場設置 上富良野町ラベンダー耕作組合設立(初代組合長 吉河嘉治氏) |
昭和32年 | 富良野市麓郷に蒸留場設置 上富良野ラベンダー耕作組合長長沼善治氏となる |
昭和33年 | 美瑛町においてラベンダー栽培開始 |
昭和34年 | ラベンダーPR、ラベンダー花売娘札幌大通りで行う(曽田香料主催で4年間行う) |
昭和36年 | 上富良野町ラベンダー耕作組合蒸留場新設10周年記念式典行われる 島津、旭野に簡易蒸留場設置 中富良野町新田中に簡易蒸留場設置 |
昭和38年 | 上富良野町江花に簡易蒸留場設置 |
昭和39年 | 富良野市ラベンダー耕作10周年記念式典行われる |
昭和40年 | 耕種改善モデル圃場設置(北海道農務部農業改良課) 東中(西田、江森、岩田、堀町) 島津(志賀、本田) |
昭和42年 | 中富良野町新星ラベンダー蒸留場設置事業により島津蒸留場設置 |
昭和43年 | 上富良野町地域特産農業推進対策 上富良野町ラベンダー耕作20周年記念式典行われる(会長長沼善治氏) |
昭和44年 | 上富良野町地域特産農業推進対策事業により東中蒸留場設置 上富良野町ラベンダー耕作組合長上田美一氏となる |
昭和49年 | 乾燥花の生産はじまる |
昭和50年 | 交通安全ラベンダー香り作戦始まる(連合婦人会) |
昭和53年 | 上富良野町ラベンダー耕作組合30周年記念式典が行われる(会長上田美一氏) 第1回北海ホップ祭り(ラベンダー祭の前身)が島津公園で行われる(実行委員長仲島商工会長) |
昭和54年 | 住吉公住団地にラベンダーを植栽(0.8ha)(金子全一氏所有地) ラベンダー全国キャンペーンを東京、大阪で行う |
昭和55年 | 第3回北海ラベンダーホップ祭が行われる(島津公園)(実行委員長一色商工会長) 日の出公園にラベンダーを植栽(1.5ha) |
昭和56年 | 上富良野町の町花ラベンダー、町木赤えぞ松と制定される(56101告示) 第1回ミスラベンダー選出される(商工会主催) |
昭和57年 | 町花指定記念かみふらのラベンダー祭りが行われる(日の出公園)(実行委員長和田町長) |
昭和59年 | 第1回ラベンダーオーナーを募集開始(深山峠田浦博所有地)(観光協会) |
昭和60年 | ラベンダー祭りにラベンダー結婚式が行われる |
昭和61年 | 上富良野町ラベンダー耕作組合長前川光正氏となる |
昭和63年 | ミスラベンダーをラベンダーキャンペーンガールと変更(観光協会) |
平成 2年 | 第13回観光大会(釧路市)で「花と緑の北海道運動」で表彰((財)北海道観光連盟) |
機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷 1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一