戦時中の人口(市街一町内編)
山岡 寛 大正七年七月二十六日生(七十二才)
私が上富良野町へ始めて来たのは昭和十八年四月一日でした。村の森林組合技手として民有林六千八百町歩の経営と造林のお世話や伐採の手続き、そして間伐の指導等が主な仕事でした。
住宅は役場住宅(図面番号五四番)をお借りし、林さんと言う助手と二人での自炊生活でした。
当時の一町内と言うのは踏切り以東ガンピ川(ヌッカクシフラヌイ川)までの区域、即ち二十五号道路の両側で、本町一、宮町一、旭町一、新町一、東町一、大町一・二、南町一・二、緑町一・二・三の各丁目及び桜町全域を包含する広範な地域を一町内と言っており、及川写真屋さん辺りを二町内としておりましたが、一町内と二町内はおおよそ、学校、神社を境界としていた様で正確な区画線はなかった様に思われます。
また、小学校の西側辺りから線路まで(高坂、竹山、山田さんの裏手から、高橋さんの辺り)は大正末期頃まで、原始林の面影を残していた貴重な場所で、終戦時頃までは沢状で、檎の大木が数本残っており、湧水の見られる葦や笹原でした。
当時の記憶を辿り乍ら家屋の配置を画いて見ましたが、全部で六十八戸となり、現在大町住民会百八十五戸、南町住民会百二十四戸、緑町住民会百六十五戸、本町一丁目町内会四十四戸、宮町一丁目町内会三十五戸、旭町一丁目町内会三十九戸、新町一丁日東西で八十五戸、東町一丁目町内会三十戸、計七百七戸となり、正確な比較と言えない区域も一部ありますが、当時(戦時中の昭和十八年頃を基準として)の六十八戸、現在(平成二年四月一日を基準として)の七百七戸、約五十年近い年月を経過しておりますが、実に十倍以上に増えております。
当時の家屋の様子は、柾屋根がほとんどであったと記憶しております。たまにトタン茸もありましたが、公共の建物か金持ちの家に限られ、駒井さんの家は茅葺き屋根でした。屋根柾は機械柾と割柾の二種あり、割柾は厚く反り返らないし長持ちするが値が高かったので、機械柾と称する薄手のものが多く使用されており、二、三年経つと反り返って火災予防上極めて危険な有様でした。
当時の道路は勿論砂利敷で、島津の用水路が二十五号道路南側沿いに勢いよく流れており、昭和の始め頃に三人の子供さんの尊い生命が失われ、その供養のため水神さん(水難予防鎮魂碑)を建て祭っております。現在の中学校寄り、宮町一丁目の神社角の祠(ほこら)です。
現在の中学校は戦後六三制施行後ですから勿論当時はなく、この場所は祭典の奉納行事の草競馬を催したので競馬場と言っておりましたが、主に燕麦等が耕作されていた畑でした。また緑町一帯も三好豊さんが持主でしたが、一面のカヤ原で、戦時の食糧不足から食糧の生産に適した場所は一反歩が千円もすると、当時の村助役だった本間庄吉さんが金子浩村長に言っていたのを覚えております。当時年収千円の人は村内に何人かしかいなかった時代ですから……。
当時、避病院と称する伝染病の隔離施設があり赤痢などの発生と共に使用されていましたが、その場所は現在の自衛官募集事務所(平成十三年現在ケアハウス ハイムいしずえの位置)の処で暗いイメージでした。
そして思い出されるのは、出征兵士を送る場所として上富良野神社は幾多の兵士の武運長久を祈り、満州に北支にそして南方にと出征して行きました。
再び故郷に生きて帰れなかった多くの戦友のことを想うと、当時が昨日のことの様に感ぜられ感慨深いものがあります。
以来五十年、幾多の変遷を経て今日の姿がある訳です。当時一町内に住んでいた人で子、孫と繁栄している家庭も多くありますが、故人となった人や、転居した人、消息不明の人も多く、十年も経つと記憶も薄れ永久に解らなくなると思い、記録にとどめておきたいと、拙文で不十分なものですが、参考になればと、敢えて書き留めた次第です。
尚、この記録の記述に当って、岡 実氏、酒井亀寿氏の指導助言を戴きましたことを感謝します。
(平成二年五月記)
番号 | 氏名 | 職業 | 現況ほか |
1 | 大島鍋太郎 | 登記官 | 分部さんの日石スタンド |
2 | 新井与市郎 | 収入役 | 開拓初期の戸長時代の庁舎があった。 |
3 | 熊谷一郎 | 役場員 | |
4 | 伊藤正勝 | 獣医師 | 元農会事務所、診療所 |
5 | 飛弾野(不詳) | 役場使丁 | 留萌移転後伊藤政信さん |
6 | 高橋貞之亟 | 造林苗木 | 現山崎建設倉庫 |
7 | 高坂新三郎 | 運搬業 | 現自衛官木村貞恒宅 |
8 | 竹山小一郎 | 農業 | 現長男善一さん |
9 | 山田 要 | 運搬業 | 現長男 進さん |
10 | 西山武雄 | 学校使丁 | 校舎内住居となっていた |
11 | 牧野 勝 | 学校長 | 現プールの処にあった |
12 | 久保吉一 | 文具店 | 現長男吉昭さん営業 |
13 | 田中(不詳) | 現鈴木康正さん | |
14 | 北原 稔 | 薬局 | 現岡本クリーニング店 |
15 | 千秋 薫 | 役場員 | 現二男幸二さんが新築 |
16 | 泉川丈雄 | 代書業 | 現さち子美容室 |
17 | 成田雄三郎 | 柾製造 | 現大橋呉服店 |
18 | 酒井亀寿 | 労務 | 現ニュートキワ駐車場 |
19 | 渡辺鶴吉 | 工場工員 | 現寺田正勝さん新築 |
20 | 西山太平 | 労務 | 現千葉たまよさん |
21 | 杉本ツメノ | 労務 | 長男吉美さん大町二丁目 |
22 | 朝倉一泰 | 農材工業 | 現木津建設工場 |
23 | 後藤勲三 | 洋服店 | 現在地に夫人健在 |
24 | 大屋正信 | 運搬業 | 現黒木 久さん |
25 | 関根甚三郎 | 警察官 | 長男正雄小棒市で校長 |
26 | 佐藤忠次郎 | 役場員 | 現警察官合同宿舎 |
27 | 木村(不詳) | 産婆 | 現生出常雄さん |
28 | 佐藤倉吉 | 農業 | 現打越金物店 |
29 | 浦島久太郎 | 野菜苗 | 現若林薬局 |
30 | 松浦市兵衛 | 柾製造 | 現三男勝一さん |
31 | 松浦徳太郎 | 糀製造 | 現孫徳治さん牛乳店経営 |
32 | 松浦正孝 | 農業 | 現松浦 弘さん |
33 | 西口孝二 | 学校教員 | 二棟三戸住宅が、二十九年台風で住宅屋根が吹飛び取壊されグランドとなる |
34 | 皆川忠男 | 〃 | |
35 | 及川幸男 | 〃 | |
36 | 中尾安五郎 | 農業 | 現町教育委員長の之弘宅 |
37 | 菅原 敏 | 鉄道員 | 現松野成夫さん |
38 | 加藤末蔵 | 労務 | 現杉本英一さん |
39 | 谷口豊作 | 運搬業 | 現三女信子さん |
40 | 岡 清蔵 | 養豚業 | 国道路線直線化で移転 |
41 | 藤森源蔵 | 左官業 | 現中沢自動車整備工場 |
42 | 佐藤道信 | 天理教会 | 現加野商店 |
43 | 林 勝次 | 労務 | 現生出マンション |
44 | 生出柳冶 | 宮司 | 現宮司は三代目明臣さん |
45 | 瀬川イネ | 労務 | 現二男敬蔵さん |
46 | 千葉熊治 | 労務 | 現生駒クリーニング |
47 | 大橋初蔵 | 仲介業 | 現長男初夫さん |
48 | 安田久治 | 産業組合 | 現出戸忠和さん所有地 |
49 | 高橋 勇 | 労務 | 現古屋義男さん |
50 | 岩田賀平 | 農会 | 現在は緑町マンションの二棟八戸ですが、当時は役場職員住宅で平屋建の一棟六戸の所謂棟割り長屋で、またハーモニカ長屋とも呼ばれていました |
51 | 磯松利作 | 役場員 | |
52 | 自髭一雄 | 役場員 | |
53 | 谷口守人 | 役場員 | |
54 | 山岡 寛 | 森林組合 | |
55 | 安藤義男 | 獣医 | |
56 | 菅原タヨ | 現仲条和夫さん | |
57 | 村上源吉 | 柾製造 | 現自衛官六角隆二さん |
58 | 杉本高三郎 | 仲介業 | 現在は林下さんのアパート |
59 | 鈴木養之進 | 仲介業 | |
60 | 熊谷(不詳) | 現佐藤邦介さん | |
61 | 福地利八 | 労務 | 福地名儀の土地建物あり |
62 | 神林延之助 | 労務 | 現吉田友之さん |
63 | 千葉兵三郎 | 農業 | 現目黒芳弘さん |
64 | 三好 豊 | 農業 | 現夫人ナミさん |
65 | 蒲生金太郎 | 会社員 | 現大町一丁目で寝装店 |
66 | 井内半治 | 果樹園 | 現長男道治さん |
67 | 田中安五郎 | 農業 | 現長男元一さん |
68 | 駒井(不詳) | 現上富農協駐車場 |
機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷 1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一