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十勝岳温泉を開発した故・会田久左エ門氏

金子 全一 明治四十一年五月十一日生(八十二才)

若し会田久左エ門氏なかりせば今日の十勝岳温泉はなかったのではないかと思う。
今でこそ三十数分で立派に舗装された綺麗な道を簡単に凌雲閣まで行き、露天風呂より見る富良野岳、三峰山、上ホロカメットク岳の山々、安政火口より流れるヌッカクシフラヌイ川、特に秋の紅葉に感嘆しない人はいないだろう。最近露天風呂ブームで何処の温泉にも露天風呂があるが、或る「日本の露天風呂」という本の中に日本の三大露天風呂の一つとして凌雲閣を絶賛してあった。
私の知る限りでも以前週刊朝日の毎週連載の「私の好きな宿」で、或る芸能人が凌雲閣の事を書いていたし、偶然飛行機の中でみた機内誌に凌雲閣の露天風呂が出ていた。又テレビでも十勝岳殺人事件で木の実ナナが刑事になって凌雲閣で大立廻りをやっていたし、草笛光子の道内旅行でも凌雲閣が写っていた。古くは映画「野麦峠」の峠越えも凌雲閣の近くの崖尾根でロケをした。我々が考えている以上に一般に広く知られているのに驚いている。
昨年秋、露天風呂に入っていたら、旭川から来たらしい中年の婦人が、海水着を着て入っていたが、山に一寸雪のかゝる頃が紅葉の一番見頃だと盛んに説明していたので、余程此の辺の景色が好きなのだと思った。又この五月連休に来客があったので望岳台へ回ろうとしたら未だ通行止めであったので、早いと思ったが凌雲閣まで行って露天風呂に入ってみると、沢山の人が町外から来ていた。一三〇〇米の高地の温泉と自然の景色に魅せられて、だんだんと訪ずれる人も多くなったのであろう。
露天風呂に入りながら建物を見上げる時、決して立派とは言われないが山を愛した一人の男の、血のにじむような足跡が思い出され、敬愛の念を禁じ得ない。
会田久左工門氏は明治三十八年山形県新庄に生れ、父と共に夕張に移住、次に小樽、帯広と移り、その間スキーや農機具の製作に取り組んだ。昭和十三年満鉄に就職、終戦で奥様の里である江幌の須貝さんの所へ引き揚げて来た。本人も話していたそうだが農業はあまり好きではなく、若い時今の芸大、昔の美術学校志望であったそうだが、家庭の事情で就学出来なかったとのことである。凌雲閣の中に彼の書いた油絵や客間の床柱の彫刻、又工事も大半自分で行う等大変器用な人であった。
昭和二十一年敗戦で物資もない時であったので、故山本逸太郎氏他数人で大成木工株式会社を設立、彼は誘われて工場長になる。大成木工は多くの人に働く場所を与え皆に喜ばれたが後に廃止になった。
昭和二十五年、彼は絵が上手なので看板屋、次いで現在の上富印刷を始めるが、その間にだんだんと山に魅せられて行くのである。
昭和五年ハンネスシュナイダー氏により、初めて十勝岳でのスキー講習会がありニセコと並んで有名になった。十勝岳や三段山をもつ吹上温泉や白銀荘は今から考えると大変お粗末なものであるが、高松宮や李王殿下、西本願寺の法主もお出になり、又毎年北大生の合宿や中谷宇吉郎博士の雪の研究で非常に有名になった。ところが戦後はリフトがなければスキー場に非ずでだんだんとすたって来た。吹上温泉もなくなり白銀荘でかすかに昔をしのぶ有様である。
その時会田氏はすっかり山に魅せられてしまって、現在の所に温泉を開発せんとしたのである。
会田氏にとって十勝岳連山は自分の庭を歩いているようなものだ。前には安政火口に行くのは吹上温泉まで自動車で行き、そこから火山岩の間を上下しながら今の凌雲閣の所に辿りつき、そこから先きは今の道を通って安政火口(旧噴火口と大正時代は言った)に行った。その頃会田氏も加わって数人で出掛けたが、帰りに現在の凌雲閣と吹上温泉の中間まで暫く戻った所、噴火口で休んだ時大事な時計を忘れた人がいてこれは大変なことになったと思っていたところ、会田氏は「私がとって来ましょう」と一人で引返し皆が吹上温泉に着く頃に追いつき、その早いのにさすが山男だと一同感心したものである。
彼はどちらかと言うと無口で人と議論したりするタイプではないが、胸に深い情熱を持って十勝岳温泉開発に取り組んだ感じがする。
会田氏が今の凌雲閣の上の砂防ダムの辺りに湯を見付けたのと、更に旧噴火口よりお湯をパイプで引く事で現在地に温泉旅館を建てようとした。今ならリゾート開発とか町おこしで色々と援助を得られたかも知れないが、当時は個人の営利事業と見られてそうはいかなかった。
大正初期まで旧噴火口で硫黄の採掘をしていたが、その後平山鉱業所が十勝岳新噴火口で当時何ケ所もあった噴気口をそれぞれ石で囲って硫黄をとり、今も残っている直線コースをトロ軌道と鉄索によって下げていた。これは大正十五年の爆発で三十数人の犠牲者が出て中止になった。従って今の凌雲閣までの道は、翁温泉(今のバーデンかみふらの)の辺りより上は殆んどなくて資材を運ぶ会田氏の苦労は言語に絶するものであった。僅かに自衛隊の好意により道も少しは直して貰ったが、リヤカーでセメント等を運ぶのにばんば競走の優秀な馬を三頭も駄目にしたそうだし、場所に依っては樹木にワイヤーを縛って巻き揚げたそうである。
又現在地は夏の景色は素晴らしいが、冬に吹き上げる風はものすごく、皆が心配したが彼の信念は動かず、初めは風で窓硝子が割れることもあったようである。又火口より引いたビニールパイプもよく破損して修理の苦労も並大抵ではなく、砂防ダムの所に見付けた湯も大雨による岩石の落下で駄目になる等会田氏の苦労は大変であった。
現在の湯元はその後ボーリングによるもので今は湯の心配はないようだ。
彼は大変器用な人でもあったので、昭和三十六年頃より殆んど自力で自衛隊の好意により刈り分け道路を作って貰い、又同じ満洲で苦労し裸一貫身一つで引き揚げて来たスガノ農機の初代社長、故菅野豊治氏の授助を得て、昭和三十八年遂に温泉旅館開館の運びに至ったのである。
十勝岳温泉と言う名前も彼が固執したものだ。私達は十勝岳よりフラノ岳に近いのでフラノ岳温泉と思ったが、今になってみると十勝岳は元来上富良野の山として先人が、育てて来たのであるからそれでよかったと思う。そうでないと美瑛の丸山温泉は白金温泉でなく十勝岳温泉になっていただろう。
やがて十勝岳温泉開発の先駆者たる会田氏の功労は町にも認められ、昭和四十八年自治功労章が贈られた。そして国民宿舎カミホロ荘もでき自衛隊の協力を得て道路も良くなりやがて道々に昇格して完全舗装になる。又バーデンかみふらのが建設され国民保養地、次いで望岳台に連がるスカイラインも着々完成されつつある。
最近リゾート開発で各地に大手企業による大資本が投下される反面、自然破壊が心配されている時、国立公園でもあり登山も手軽に出来、自然が保存されている十勝岳、フラノ岳連峰を含む十勝岳温泉は益々皆に愛されるであろう。
この様に山に生き、山を愛した会田久左工門氏は昭和三十九年十二月二十八日、安政火口の湯元の見廻り中に倒れ、町の病院に運ばれる途中惜しくも逝去された。当年六十九才、まだ前途ある身で悼ましき限りである。しかし彼は生前死んだら遺骨は山にばらまいて欲しいと言っていたそうだから、山で死んだ事はさぞや本望であったことだろう。
凌雲閣の完成とそれにつれて道路も立派になり、安政火口やフラノ岳に行くのが非常に近くなり十勝岳へ行くのも馬の背を通って大変楽になった。
子供の時から登山にスキーに親しんで来た我々として、十勝岳に対する故会田久左エ門氏の偉大な情熱と功績を称えると共に、深く御冥福を祈る次第である。最後に今も安政火口入口に建立されている会田久左エ門氏の歌碑を紹介します。
● 風に叩かれ 吹雪に 耐えて
         岩に根をまく 松の幹

● 負けるものかと 夜空に 問えば
         月がほほえむ 十勝岳
この歌は湧出温泉の発見により温泉事業を行うことになり、昭和三十七年七月宿舎建築に着手したが、道路が完備していないので資材の荷上げと工事に大変苦労したとき、また集中豪雨による湯源設備の流出等があったときの心を詠ったものである。
尚、この碑は十勝岳開発に全精力を傾注し生涯を閉じた会田久左衛門氏をたたえて、関係者が設立したものである。

機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷  1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一