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百歳(ももとせ)の祝い

大場 もよの 明治二十三年八月五日生(百歳)

おもいで
わしは宮城県で生れて、小さい時から働いてきたもんだ。大人といっしょになって農家の手伝いをした。
夏は暇な時はござを織り、冬はむしろ織りをして、夜なべして働いてきた。その頃、穴のあいたぜんこで一銭もらったら大した金だった。むしろなんか十枚でたった二銭もらうだけだ。みんなお金をためて、学校に行くためのものを買ったり、自分の羽織にする布一反を買った。
学校は四年の学校へ通った。その上の学校もあったけど、遠くて行けんかった。だけど毎日、本を読んでたから勉強になった。今も、やさしい字だけなら読めるから、その時勉強していて良かったと思う。
北海道へは十八の時来た。比布に三年間いて、二十五銭の「でめん」で働いた。四日稼いで、やっと一円になる位だった。残念に思うことは、家を置いて北海道へ来たこと。帰るつもりで働いていたけど、親が二年先にこっちへ来ていた。そのあと姉さんたちと一緒に来て、そのまま住み着くことになって、家がそのままになってしまったことが残念だなあ。
その後十九才で嫁にいった。姉妹で兄弟のとこに嫁さんにいったんだ。
あと、昔おもしろかったといえば、若い時、踊りを踊ったこと。わしら田んぼから三組、山からも三組出て、神社で踊ったのはおもしろかった。優勝した時はうれしかったなあ。これが一番楽しかったことだ。(平成元年三月発行『ラベンダーハイツ五年の想い出』より)
道程(みちのり)
明治二十三年八月五日(一八九〇年)宮城県栗原郡松尾村栗原九十八番地で、父菅原貴之助、母ふみの三女として出生した。
明治二十九年四月(一八九六年)松尾村の小学校へ入学明治三十三年三月(一九〇〇年)小学校四年の義務教育を卒業して、家業の農業を手伝う。
明治三十九年四月(一九〇六年)十六歳のとき、日露戦争が終って北海道の開拓が叫ばれ、北海道へ行けば『箒で掃く程、銭が儲かる』と風評が流れていた時代のことである。父母は祖母と姉と私の三人を残して北海道へ渡った。
明治四十一年(一九〇八年)十八歳、一家は上川郡比布村へ入殖することにしたので、内地を引上げて来る様にと北海道の父母より連絡があった。祖母と姉妹で力を併せ家の始末をして渡道した。
北海道はまだ未開の地で、一鍬々々開墾することは容易でなかった。内地は気候も良く屋敷も広かったが、比布は茅茸の掘立小屋で部屋も二間程で台所も居間も一緒になっており、上り口は土間であった。
部屋の中程に大きな囲炉裡があり、炊事も暖房も夏冬通して焚火である。薪が豊富なことがせめてもの慰めであった。
姉たねよは翌年同県人の大場惣吉と結婚した。
大正二年(一九一三年)二十三歳 大場惣吉、たねよ夫婦の奨めで惣吉の弟大場栄助と結婚した。
本籍は宮城県栗原郡玉澤村大字大澤字八澤大澤二十番地父大場永十郎母さの五男明治二十三年四月十二日生、同じ歳で、兄弟と姉妹の結婚となった。
入地したのは上富良野村字ベベルイ時岡牧場(後に中富良野村幸田農場)で耕地は石礫が多く十勝岳山麓のため吹き降が強く、秋は霜も早く立地条件が悪いため苦労が多かった。此処で長女、次女、長男が産まれて一家は五人となった。
大正十年(一九二一年)三十一歳 上富良野村西二線北二十号に島津農場の小作権を譲り受け此処へ移った。水田と畑で、まだ造田可能な面積も有ったし、何と言っても、市街地に近くベベルイから見れば天国の様に思えた。
大正十五年五月二十四日(一九二六年)三十六歳 この年は小寒く春から農作業が遅れていた。小雨がふっていたので畑に入れず、朝から籾蒔をしていた。午後四時すぎ、突然水が増え、泥と流木が川上から押し寄せてきた。取るものも取らずに家に帰り子供達と裏の高台に逃げた。主人は馬を小屋から出すのがやっとであった。見る見るうちに低い処は流木と泥流に埋まってしまった。
ベベルイから出て来て五年、三女も生まれて漸やく軌道に乗って来た矢先のことである。
四人の子供と家族六人は住宅が小高い処にあったので流失はまぬがれたが水田は壊滅してしまった。
翌二十五日は雲一つない晴天で、真正面に十勝岳が見えて爆発による泥流の跡と、噴火口の形が変ったのがはっきり見え、噴火の恐しさを身を以って体験した。引続き爆発があると言う噂も飛び交った。
この年は残った畑で作物をつくったが食べるのにやっとこの状態であった。村では災害の跡地を放棄するか?復興するかと、意見が出ていたが、私の家は小作地でもあり適地に移転することに決めた。
幸い第二安井牧場(現在旭野一部落)に大正十二年に離農した丸藤寓蔵さんの土地十五町歩が売権に出ていたので、兄惣一の支援を得て自作農として昭和二年春入地した。丸藤さんが出たあと近所の人が借りて平坦な処だけ耕作していた。耕地は四町五反歩位で他は荒地になっており、全々開墾されていない処も五町歩程あった。隣は上川嘉蔵さんの二代目松太郎さん、その隣は千葉酉治さんの二代目壽治さん、山一ツ越えて上川さんの分家忠太郎さん、この三軒とも東北出身で、千葉さんは私共と同じ宮城県出身だったので気心もお互いにわかり、親戚の様な付き合であった。年令もほとんど同じで、お互いに助け合い競争心も手伝って良い作を穫る様になった。
傾斜地が半分あったが娘達が手伝う様になって、手間も出来て、耕地も十二町歩位に広げた。
第二安井に来てから男子三人が出生し、娘二人を嫁に出し、順調であった我が家も、長男と続いて昭和十七年六月二十四日苦労を共にして来た主人と、永遠の別れになってしまった。享年五十三歳であった。
大東亜戦争が激しくなり悲嘆にくれる暇もなく、銃後の増産に精を出す毎日であった。終戦の翌年、昭和二十一年七月一日家督を二男元一(十八歳)に移譲した。
昭和四十一年四月(一九六六年)七十六歳 離農することになった。此の地へ入植して四十年の間に三人の娘を嫁に出し、後継者に嫁をもらい、二人の弟息子をそれぞれ独立させた処であるが当時の隣家は代が変りほとんど離農をしていたし、我が家の耕地は傾斜が多く、大型機械を入れることが出来ない処だったので、農業をやめることに未練は感じられなかった。
東明区へ新築し転居した。農家は毎日が忙しく、働いても、働いても次々と仕事がある。
市街へ来てからは、孫が育ったあとは大変楽をさせてもらった。
若い頃は考えても見なかった世の中になった。
昭和五十九年四月一日(一九八四年)九十四歳 ラベンダーハイツ(特養老人ホーム)が開設され、最初の入所者としてお世話になった。
平成二年一月六日 健康を悪くし小玉医院に九ケ月入院したが快復し間もなく退院した。
平成二年八月五日(一九九〇年)百歳 誕生日に一族郎党六十余人がニュートキワ会館に集まり、百歳の祝賀会が開催され酒匂佑一町長よりご祝詞をいただいた。
(註 「道程」は口述筆記です、記憶がしっかりしていられるので驚きました。敬称を略した処がありますが御了承下さい。編集者)

機関誌 郷土をさぐる(第9号)
1991年2月20日印刷  1991年2月25日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会会長 金子全一