続・石碑が語る上富の歴史(その7)
中村 有秀 昭和十二年十一月二十八日生(五十一歳)
十勝岳大爆発災害関係の碑
大正十五年五月二十四日、午後四時十七分、十勝岳は大爆発し轟音を響かせ火柱とともに、噴火した火山岩は附近一帯を埋めつくし、その熱により春の残雪が解けて泥流となって、一部は美瑛川に添って流れたが、大半は富良野川の渓谷を猛烈な勢いで流下した。
富良野川に流下した泥流は新井牧場を襲い、平均毎秒十メートル、時速三十六キロメートルの早さで西二線、西三線北二十九号、三十号、三十二号をひとのみにし、鉄道線路も突破した泥流は三重団体に広がり、大量の流木と岩石、土砂、火山灰を残し、その余勢はまだまだ強大な力をもって、丸一山公園と市街地の間の富良野川を流下して行った。
その被害は、死者百四十四名、罹災戸数三百十五戸に及び田畑・山林・橋梁・河川の被害は甚大であった。
十勝岳大爆発に関する石碑は、上富良野町に次の九基ありますが、一つの事象にこれ程の碑があるのは例がありません。それだけ十勝岳大爆発の被害の大きさ、遭難者への慰霊と復興への決意がひしひしと感じられます。
昭和六十三年十二月十六日年前六時頃、十勝岳が小噴火し以後断続的に大小の噴火と火山性地震が発生した。この機会に大正十五年の十勝岳爆発に関する石碑の由来等について記します。
十勝岳爆発関係碑一覧
石碑名 建立場所 建立年月 1 十勝岳爆発『遭難記念碑』 西二線北三三号 昭和二年五月二十四日 2 十勝岳爆発『遭難記念碑』 明憲寺境内 大正十五年九月一日 3 『十勝岳爆発記念碑』 十勝岳山腹 昭和三年十月七日 4 十勝岳爆発『新西国三十三所観世音菩薩』 大雄寺境内 昭和五年五月二十四日 5 『十勝岳爆発惨死者碑』 専誠寺境内 大正十五年秋 6 『十勝岳爆発横死者血縁塔』 間信寺境内 昭和二年八月十三日 7 十勝岳爆発横死牛馬『追善記念碑』 西六線北二十八号 昭和五年四月十七日 8 十勝岳爆発を詠む『九條武子の歌碑』 十勝岳泥流跡 昭和四年七月九日 9 『泥流地帯』三浦綾子文学碑 草分神社境内 昭和五十九年五月二十四日
一、「十勝岳爆発『遭難記念碑』
建立場所 上富良野町西二線北三十一号
建立年月 昭和二年五月二十四日
◇建立に至る経過
大正十五年五月二十四日、十勝岳の爆発は開拓以来三十年営々苦労して築き上げた良圃美田を一朝にして泥土の海と化し、百四十四名の尊い人命が奪われた。
復興説と放棄説が対立し、羅災民を大いに動揺させたが、当時の村長、吉田貞次郎氏は『三十年の粒々辛苦の結晶たるこの土地を一朝にして見括ることは断じて出来ない。例え石に噛じりついても必らず復興してみせる。我々は今日から移住当時の昔に還って頑張り抜こう』と声涙共に下る力強い信念を以って激励された。この熱意が時の北海道庁長官中川建蔵氏を初め関係当局を動かして、万難を排して復興の計画はその緒についたのである。
歳月の進むにつれ、一度は憔悴の極に陥った羅災者もやがて心気一転、雄々しき復興の意気に燃えて道路河川の修復に、耕地の復旧に、あるいは産業の復活に、教育の進展に絶大な力を出したのであった。
羅災者一同及び関係機関は、千古未曽有の大災害を永遠に刻し、子孫に当時の悲愴な痛恨事を想起させ、将来の復興に対する村民の力を表徴すべく『遭難記念碑』の建立を考え、種々の協議の結果、上富良野市街地より約四qの地点(西二線三十二号、中沢牧場入口)に、泥流によって流されて来た大岩石は動かす事も出来ないので、そのま、台石として使うこととし、記念碑の建設計画と建立場所は決定した。
鏡石は更に上流四qの個所に、泥流によって流れ出した自然石を、在郷軍人会分会員、及び青年団員の手によって冬季を利用し雪上運搬した。
遭難記念碑建設に関する正規の諸手続き(建設費全部が十勝岳爆発義損金より支出のため)を経て、『記念碑』の題字は、救済の恩人である当時の中川健三・北海道庁長官に揮毫を願い、記念碑文は、百済文輔・北海道庁内務部長に依嘱して撰せられた。
彫刻及び建立工事は、上富良野村石工佐藤辰之助氏によって、昭和二年一月早々から作業が開始され、以来数ヶ月村民の復興への熱意に燃えての犠牲的精神と真剣な日夜の努力によって、五月上旬に高さ一丈(三m三〇p)に余る記念碑は、巍然として災害地を遠望し、しかもその復興を見守るように竣功を遂げたのである。この碑が公的機関にて建立された唯一の『十勝岳爆発記念碑』である。
◇記念碑除幕式
十勝岳大爆発一周年記念日の昭和二年五月二十四日、富良野原野は早朝より雲深く垂れこめ、人々としてそぞろに前年の大惨害を追憶させた。昼近くに空は次第に晴れ渡ったが、魔の十勝岳は遂に雲深く姿を没していた。
この日の午前九時より、上富良野村、美瑛村の両村主催により、『十勝岳爆発遭難記念碑』の除幕式が、春まだ浅い罹災地の現場である西二線北三十一号の記念碑前にて、北海道庁・上川支庁・旭川連隊区司令部・旭川営林区・各新聞社・村会議員・在郷軍人会員・青年団員・婦人会員・遺族等二百名の参列の下に挙行された。
上富良野神社生出柳次神官により修祓を行い、上富良野村長令嬢、吉田てい(当時九才〜現在清野てい)さんのいたいけな手により記念碑は除幕され、碑を仰ぎ見る人々は一年前の大惨事を思い起し、肉親との別れ、家屋・田畑・農具・家畜壊滅の絶望から復興への必死の苦労、日夜の救援活動等が心に去来し、静かなる十勝岳へと祈りと共に復興への力強く決意を行ったのである。
除幕された遭難記念碑は、
台石 高さ地上七尺五寸(二m四十七 p)
碑 高さ六尺六寸(二m十八p)
記念碑文は
十勝岳爆発遭難記念碑文
大正十五年五月二十四日十勝岳俄然爆発シ山腹ヲ決潰シ森林ヲ壌倒シ泥流氾濫横溢シテ百余ノ人命ヲ喪失シ巨万ノ財物ヲ滅尽セルハ実ニ不慮ノ天災ニシテ未聞ノ惨禍ナリ
皇上軫念ヲ労シ給ヒ特ニ救恤金ヲ賜フ官民亦一致協力艱苦ヲ冐シテ救援ニ努メ更ニ罹災救済会ヲ起シテ無告ニ泣ク者ヲ無カラシメ政府地方亦巨資ヲ投シテ復興其ノ緒二就キ人心初メテ安シ生業漸ヲ追テ旧ニ復セントス抑人事ノ禍福予測シ難シト雖有為ノ身ヲ以テ不慮ノ災禍ニ斃ルゝハ人生不幸ノ極ト謂フヘシ遭難者ハ皆是忠良ノ国民ニシテ前途ノ志望ヲ圓シテ一朝不帰ノ客ト為ル痛恨何ソ極マラン村民乃チ相謀ツテ追弔ノ典ヲ行ヒ以テ英霊ヲ祭ル今又碑ヲ建テ是ヲ石ニ勒シテ後昆ニ伝フ語ニ曰ク終ヲ慎シテ遠ヲ追ヘハ民徳厚キニ帰スト村民ノ此挙蓋天命ヲ畏レ人事ヲ尽ス者ト謂フヘキナリ
大正十五年十二月十五日
北海道庁内務部長正五位勲四等 百済文輔撰
記念碑の除幕後、神官の祝詞と主催の上富良野村長・吉田貞次郎氏、美瑛村長・熊倉兼次氏の式辞、澤田牛磨北海道長官、北崎 巽上川支庁長の式辞に続き、遺族総代・伊藤常右衛門氏が涙ながらに弔辞を朗読される。引に続き参列者一同玉串を奉し、午前十一時に『十勝岳爆発、遭難記念碑』の除幕式は閉じられた。
午後零時三十分より、聞信寺において上富良野、美瑛両村及び、上富良野仏教団主催にて惨死者百四十四名の霊を慰むべく、荘厳なる一周年追悼法会が執行された。
この一周年追悼法会での上富良野村長・吉田貞次郎氏の祭詞を再録します。
祭 詞
昭和二年五月二十四日十勝嶽爆發罹災一週忌ヲ迎フルニ當リ内外多數貴紳ノ来臨ヲ辱フシ茲ニ追悼ノ法會ヲ擧クルニ至リ萬感交々胸庭ニ生返リテ哀痛ノ情今更新ナルヲ覺ユ
遭難死歿シタル百數十ノ靈位ハ其ノ生前何レモ夙ニ北海道開拓ノ壮圖ヲ懐キ遠ク租先墳墓ノ地ヲ捨テ本村ニ移住シ朔北ノ野ニ風雪卜闘ヒ瘴癘ヲ冐シ多年ノ努力遂ニ地ヲ耕シ産ヲ作シ子孫安住ノ根據ヲ作リタルモノ或ハ天然ノ遺利ヲ採取シテ産業ノ隆運ニ貢献シタルモノニシテ共ノ功業ハ永ク本道ノ歴史ヲ飾ルヘキ人物ナリ其ノ他幼少ニシテ今次ノ災厄ニ遇ヒタルモノ、如キハ即チ悼ミテモ尚餘リアリト云フヘシ
然リト雖モ天變地災ハ素ヨリ之レ人智ノ及ハサル所ニシテ火山爆發ノ災禍會々多數ノ英魂ヲ奪フ所トナリタリト雖モ變災後ニ於ケル世間ノ同情ハ全ク空前ノ異例ニシテ巨萬ノ國帑義損金等欝然トシテ山積シ一ケ年ヲ經ル今日ニ於テハ罹災地全般ノ復興方策既ニ定マリ罹災民夫々生活ノ安定ヲ得テ更生ノ意氣以テ着々事業ノ進捗ヲ圖リツゝアリ正ニ碁年ニシテ復興ノ實績上リ再ヒ昔日ノ美田良圃ヲ見ルニ至ルヘシ英靈以テ瞑スヘキ哉
昭和二年五月二十四日
上富良野村長 吉田貞次郎
記念碑除幕式関係の経費は全額義損金の中より支出されたが内訳は次の通りである。
記念碑建立費 二百八十五円五十銭 記念碑除幕式典費 二十四円七十三銭 雑費 二十二円五十践 <合 計> 三百三十二円七十三銭 (現在に換算して約三十万円と推定される)
二、十勝岳爆発『遭難記念碑』
建立場所 上富良野町西町明憲寺境内
建立月日 大正十五年九月一日
明憲寺の境内に入り少し歩を進めると右側に巨大な石碑が十勝岳を背景に目につく。十勝岳爆発の『遭難記念碑』で数段の台座の上に、高さ九尺(二m九十七p)の碑身が大きく見える。
この碑は、明憲寺近藤義憲師(開基住職)の首唱の下に、真宗大谷派北海道教区寺院説教場は爆発による横死者の霊を弔うべく『遭難記念碑』の建立を決し、真宗大谷派関係者の義損金によって被害地の高田信一氏所有地に建立された。しかし、被害地も復旧し、例年読経にも不便なので昭和二十五年に明憲寺境内の現在地に移設安置された。
碑身の右側面に『題字大谷光暢御書』(真宗大谷派第二十四世法主)、左側面『大正十五年九月一日建設』『真宗大谷派北海道教区寺院説教場』と刻まれている。
台座の正面に銅版が埋め込れ、遭難死者百四十四名の姓名が五段に分けて刻まれている。
『遭難記念碑』の建立年月日について、十勝岳爆発災害志(昭和四年三月二十五日発行)と上富良野史(昭和四十二年八月十五日発行)に相違がある。
〇『十勝岳爆発災害志』には
遭難の百ケ日に相当する大正十五年七月十七日午前十時を期し、除幕式を執行し引続き同所附近の専誠寺において、横死者追弔会を謹修した。
注・専誠寺は爆発当時西二線北二十八号にあった。
○『上富良野町史』には
台座も碑身も加工石によっているが題字は大谷光暢書、大正十五年九月一日建設……
と記されているが、筆者は碑身に刻されている大正十五年九月一日を建立月日とす。
遭難死者百四十四名の氏名、関係は次の通りですが、佐川姓十二名、若林姓十一名、菊地姓九名、分部姓及び熊谷姓が六名等の様に家族、親戚での犠牲があります。
この災害で一家全滅されたのは新井牧場の佐川政治氏一家があり、家族九人が泥流のために無惨な最後を遂げたのです。佐川政治家の供養にと大雄寺にある『三十三所観世音菩薩二十七番』に弟佐川庄七氏が施主となって観世音菩薩像がある。
死亡者及行衛不明者調
(上富良野村)
氏 名 年齢 職業 本籍地 戸主トノ続柄 氏 名 年齢 職業 本籍地 戸主トノ続柄 伊藤みどり 七〇 無 上富良野村 伊藤常右衛門母 小松田研造 三 同 同 同 同 伊藤 清人 一四 無 上富良野村 伊藤八重治三男 酒井 ハル 一六 農 同 酒井太三郎二女 伊藤 せい 七一 同 同 伊藤初三郎母 酒井アサイ 七 無 同 同 五女 岩崎重治郎 七三 同 岩手縣 戸主 佐川むめの 七七 同 同 佐川岩治母 堀江 實 七 同 上富良野村 堀江源作長男 佐川さはの 四三 農 同 同 妹 千葉己佐吉 五八 農 同 戸主 佐川 鶴蔵 一八 同 同 佐川清助二男 千葉 テン 五四 同 同 千葉己佐吉妻 木下タケ 二二 同 同 木下和三郎妻 千葉コユミ 一六 同 同 同 五女 木下 實 五 無 同 同 二男 小野寺フミ 九 無 山越郡八雲村 小野寺丑蔵五女 菊地萬兵衛 三二 農 同 戸主 大澤數馬 一五 農 上富良野村 大澤治雄弟 菊地 キワ 四八 同 同 菊地政美母 小田島ヒデ 五 無 同 小田島養助長女 菊地たつの 二三 同 同 同 妻 若林小い志 六八 同 同 若林助右衛門母 菊地 ハナ 一〇 無 同 同 妹 若林つね 三八 農 同 同 妻 菊地 和子 一 同 同 同 長女 若林ヒサ子 一〇 無 同 同 四女 菊地宇藤次 五一 農 岩手縣 戸主 若林マサ子 八 同 同 同 五女 菊地 ナミ 三〇 同 同 菊地己蔵妻 若林 儀治 六 同 同 同 二男 菊地 金治 五 同 同 同 二男 若林 勵子 四 同 同 同 六女 菊地 長治 一 同 同 同 三男 分部 しう 七一 同 同 分部牛松妻 喜多 房子 一八 同 上川郡當麻村 喜多久吉五女 分部富士子 二八 農 同 同 長男妻 喜多 博愛 一三 無 同 同 四男 分部 治 一一 無 同 同 孫 篠原ちやの 二四 農 上富良野村 篠原久吉妻 分部 初子 五 無 上富良野村 分部牛松孫 篠原 澄子 二 無 同 同 孫 分部トシ子 三 同 同 同 同 菅原あきの 四〇 農 同 菅原寅右衛門妻 分部美枝子 二 同 同 同 同 鈴木長兵衛 七五 無 宮城縣 鈴木亀松父 若林 きく 三七 農 同 若林仲次郎妻 久保木いよの 二七 農 上富良野村 久保木為榮妻 若林 チヨ 一五 無 同 同 長女 久保木鐵雄 二 無 同 同 長男 若林ウメ子 一二 同 同 同 二女 高橋カツ 一〇 同 同 高橋長助長女 若林 八重 一〇 同 同 同 三女 高橋トミヨ 一〇 同 同 高橋仁三郎五女 若林 とめ 六 同 同 同 四女 佐藤勝美 五 無 同 佐藤勇次郎孫 川村 繁雄 二九 農 同 戸主 細谷りゑ 一八 農 同 紺祥祐三長女 吉田 とき 六九 無 同 吉田貞次郎母 伊藤キクノ 三一 同 同 伊藤常右衛門弟妻 片倉トシエ 一三 同 同 片倉伊右衛門二女 伊藤眞一 六 無 同 同 甥 片倉 政男 一一 同 同 同 三男 伊藤重子 一 同 同 同 姪 片倉登志雄 七 同 同 同 四男 佐川政治 四二 農 同 戸主 片倉マサキ 四 同 同 同 三女 佐川きちよ 四一 同 同 佐川政治妻 松永四郎 二一 農 同 戸主 佐川ちはる 一六 同 同 同 二女 田中 ひさ 六八 無 同 田中勝次郎母 佐川 正 一四 無 同 同 長男 田中タツエ 二六 農 同 田中常七妻 佐川吉美 一一 同 同 同 四女 田中 榮子 四 無 同 同 二女 佐川とくゑ 九 同 同 同 五女 高田美枝子 六 同 同 高田信一長女 佐川ともゑ 五 同 同 同 六女 高田るり子 四 無 同 高田信一二女 佐川里代 二 同 同 同 七女 高田 勲 二 同 同 同 長男 佐川かねよ 六二 同 同 同 母 田村 しを 六九 同 同 田村定次郎養母 田村武夫 七 同 同 田村 勘四男 田村 やす 七三 同 同 田村平太郎母 田村鐵夫 五 同 同 同 五男 向山 たけ 二三 農 同 向山庄作妹 藤倉永雄 三一 同 栃木縣 平山鉱業所鉱長 熊谷つきよ 三一 同 同 熊谷菊次郎妻 古瀬榮一 二八 同 小樽市 熊谷よねよ 八 無 同 同 二女 平山為市 三〇 同 大分縣 熊谷正市郎 五 同 同 同 長男 平山スギ 二二 無 熊谷フヂ子 三 同 同 同 三女 岩本 悟 一九 同 平山鉱業所坑夫 熊谷とめよ 二五 農 同 熊谷建治妻 小澤勇四 二六 同 山口縣 熊谷 健男 五 無 同 同 長男 山田 彌一 四〇 同 大分縣 松藤アサノ 二〇 農 中富良野村 松藤理一郎二女 榎谷源次郎 二一 同 同 船引 まよ 三五 同 上富良野村 船引藤兵衛妻 高橋作太郎 二四 同 福島縣 船引 かな 六九 無 同 同 母 高橋福衛 二二 同 同 船引ミツエ 一〇 同 同 同 長女 阿部 勤 二六 同 同 船引 春吉 七 同 同 同 三男 阿部式次 二四 同 同 船引ツカ子 二 同 同 同 三女 阿部平四郎 二二 同 同 相良ハル 一八 農 中富良野村 相良右馬治長女 佐藤儀市 三五 同 同 藤山 庄三 四九 同 上富良野村 戸主 佐藤頼衛 三〇 同 同 藤山 ミヨ 四五 農 同 藤山庄三妻 佐藤喜七 二七 同 同 藤山 清勝 一九 同 同 同 三男 佐藤丑之助 二四 同 同 藤山 花子 一六 同 同 同 長女 佐藤亀重 二二 同 同 藤山 トメ 一一 無 同 同 二女 菊田盆次 二七 同 同 藤山 喜八 九 同 同 同 六男 鈴木三郎 三〇 同 同 藤山ミドリ 七 同 同 同 三女 宍戸傳太郎 三〇 同 同 藤山 愛喜 五 同 同 同 七男 西澤信吉 二一 同 同 藤山 武司 三 同 同 同 八男 尾形福市 二五 同 同 小松田エサ 三五 農 同 小松田亀蔵養子 木許彦太郎 二四 同 大分縣 小松田マサエ 八 無 同 同 孫 岩木ナミ子 二四 同 上富良野村 平山鉱業所炊事婦 小松田研吉 五 同 同 同 同
小計 百三十七名
(美瑛村)
氏 名 年齢 職業 本籍地 戸主トノ続柄 丸谷吉之助 五三 温泉経営 旭川市 戸主 丸谷 政幸 二三 同 同 丸谷 吉幸 二五 同 同 畠山 三郎 五六 同 上川郡~樂村 戸主 畠山 トラ 四三 無 同 畠山三郎妻 畠山 次郎 六 同 同 堀田ミヨキ 一七 同 美瑛村 湯治客
小計 七名
合計 百四十四名 内死者百二十三名 行衛不明者 二十一名 氏名不明の者 十二名 小學校児童 二十一名
三、『十勝岳爆発記念碑』
建立場所 十勝岳白銀荘より泥流の見える丘
建立年月 昭和三年十月七日
十勝岳爆発の大惨害後の昭和三年、三ヶ年の歳月は鼓々として撓はぬ人々の努力を促して、災害前にも勝る復興を見、今や被災地に希望に燃ゆる声々が満ち溢れていた。
一方、十勝岳の活動も沈静状態になり、科学者の研究も一段落を告げた形になったので、爆発以来の関係深い中村左衛門太郎博士(東北帝国大学教授)、門上浄照師(間信寺第一世住職)、柴原小市教諭(北海道庁立旭川中学校……現旭川東高)が主唱者となり、長期間にわたっての救援・観測・研究のこの地での記念と、平山硫黄鉱業所及び丸谷温泉の惨死者は現地で火葬に附されたが、この残骨残灰を収容し墓標を兼ねた堂宇と記念碑を建立しようと、十勝岳研究者に訴えたところ、各関係者及び上富良野・美瑛・旭川市の有志の賛意を得て実現を期す事になる。
吹上温泉の飛沢清次氏を建設委員とし、昭和三年七月下旬着工し九月中旬に元山事務所付近の丘(吹上温泉の白銀荘から泥流に出る小高い展望の地)白樺の林中に、資材運搬・作業に苦労をしながら竣工した。
堂宇は五坪の広さで、その中に高さ一丈に近い記念碑が建設され、東京帝国大学名誉教授小藤文次郎理学博士の筆による『十勝岳爆発記念碑』の文字は厳かに霊感を与えた。
昭和三年十月七日、午前十一時より硫黄山の白煙は、事もなげに秋晴れの青空に立ち昇っている十勝岳山腹で除幕式と追悼会が行われた。
この『十勝岳爆発記念碑』の堂宇は、『記念堂』とも呼ばれ夏の登山者の休憩所とし、冬は山岳スキーの利用すべくストーブを取付けられていた。
昭和七年三月十二日、当時の北海道庁長官、佐上信一氏が登山し、大吹雪に遭いこの記念堂に避難し
『吹雪して あやめも分らぬ 吹上の
空に聳ゆる 大十勝かな』
の即興の歌を記念堂の柱に記されてあった。
記念堂も永年の風雪で、現在は全くなく記念碑のみが建っているが、これも六十有余年の歳月で風化が進んでいるので、文化財として位置づけ、その保存を策する時が来ていると思われる。
四、十勝岳爆発『新西国三十三所 観世音菩薩』
建立場所 上富良野町中町大 雄寺境内
建立年月 昭和五年五月二十四日
十勝岳温泉により富良野川流域が泥流に埋没されとき大雄寺周辺にも泥流が押し寄せ、庫裡の床下に泥流が埋った。幸い床下のみであったので爆発災害の救援に上川支庁管内の各町村の青年団員が大雄寺の本堂に宿泊し、常時五、六十名が復旧活動にあたった。
昭和五年、爆発で埋った庫裡の土台替及び座敷の新築と併せて伊藤常右衛門発願により十勝岳爆発横死者追善供養のため、西国三十三所から新西国三十三所として三十三名の願主一体宛の寄進をすることになる。
昭和五年五月二十四日の爆発記念日に『新西国三十三所観世音菩薩』の碑と、『三十三の観世音菩薩』が境内に建立安置された。
『観世音菩薩』碑の左側面には次の様に刻まれている。
大正十五年五月二十四日十勝岳大爆発
横死者菩提ヲ永久弔ハンガ為三十三身ノ観世音菩薩ヲ建立ス
昭和五年五月二十四日
発起人 伊藤常右二門
裏面には『大雄寺初世 瀧本全應代』、右側面に『石工佐藤辰之助』と刻字され、建立後六十年の歳月を得た今日も鮮やかに一字一字が読まれる。
『観世音菩薩』碑の右側に三十三身の観世音菩薩の石像が境内の奥の白樺林に続いており、これも佐藤辰之助氏の作である。
この白樺林は、十勝岳爆発の泥流が境内に流れ込んだ所に自然に生えて出来たものである。大正十五年より六十余年、白樺の原生林は見事に成長し、過ぎし幾星霜を無言に語っている。
三十三身の観世音菩薩の一身一身の台座三十三所に番号と施主が刻字されてある。『二十七番為 佐川政治家 施主 佐川庄七』とあるが、佐川政治家の一家九人の全員が犠牲となったので、弟の佐川庄七氏が兄一家の慰霊にと寄進建立されたものである。
番 号 | 施 主 | 番 号 | 施 主 |
一番 | 伊藤常右工門 | 十八番 | 堀井 ミサ |
〇 二番 | 福屋 キヨ | 十九番 | 伊藤廣五郎 |
三番 | 西谷 イワ | 〇 二十番 | 松原リヤウ |
四番 | 大澤 治雄 | 二十一番 | 山本 リス |
五番 | 梶尾初五郎 | 二十二番 | 片倉伊右工門 |
六番 | 佐川 清助 | 二十三番 | 為松永四郎・片倉伊右エ門 |
七番 | 山口 ヤソ | 二十四番 | 伊藤八重治 |
八番 | 菊地 日蔵 | 〇二十五番 | 舷引藤兵衛 |
九番 | 菅原寅右エ門 | 〇二十六番 | 分部 亀吉・田中 常七 |
十番 | 喜多 久吉 | 二十七番 | 為佐川政治家・佐川 庄七 |
十一番 | 久保木為栄 | 〇二十八番 | 益山 由次郎・河村 秋雄 |
○ 十二番 | 菊地 政美 | 二十九番 | 堀江 源作 |
○ 十三番 | 酒井 鋭・酒井 基直 | 三十番 | 守田 勇造 |
十四番 | 北川 スヱ | 三十一番 | 小野寺丑蔵 |
十五番 | 熊谷菊次郎 | 〇三十二番 | 田村 岩蔵 |
十六番 | 熊谷 健治 | 三十三番 | 土肥 マサ・庵本 種枝 |
十七番 | 藤山 義克 |
「筆者注 ○印は大雄寺檀徒外の守護者
『三十三所観世音菩薩』とは
大乗仏教の代表的な菩薩として、インド・中国以来日本においても非常に信仰されている。
その信仰に深い関係のある経典は姚秦の鳩摩羅什の訳出した『妙法蓮華経』中の普門品である。
そこには、一心に『南無観世音菩薩』と唱うることにより、七難の苦厄を救い給う大慈大悲の菩薩であると説かれている。
すなわち、世間の音声を観ずるものという意味で、観世音と名づけられたとする。
この菩薩の基本的な形態のものは聖観音であり、その形相は左手に未開敷蓮華を持ち、右手は花弁を開く相を示している。しかも多くは坐像でなく立像である。
大慈大悲の菩薩といわれるこの観世音は普門示現であり、あまねく衆生の苦悩を救済するために出現することが特徴とされる。
この観世音菩薩の像を安置する三十三ヶ所の霊場を三十三所という。三十三観音、三十三番札所ともいう。
平安時代の末に畿内近傍(現在の近畿地方)に起ったが、巡礼が盛んになるにつれて各地に生じ、区別のため地方名を冠するに至った。
西国・板東・秩父の三十三所観音が全国的な尊崇を得ている。
大雄寺境内に建立された『新西国三十三所観世音菩薩』は近畿地方の西国三十三所の本尊による。
五、『十勝岳爆発惨死者碑』
建立場所 上富良野町栄町 専誠寺境内
建立年月 大正十五年秋
この碑は、大正十五年五月二十四日爆発により犠牲になった百四十四名の霊にと、大正十五年秋皇霊祭に和寒村の佐藤円治知行次代人が寄進し、題字は旭川市願成寺第一世住職の『藤光雲師』の書によるもので、『仏弟子 藤光雲』と刻されている。
『惨死者碑』は大正十五年秋に、上富良野村役場に百四十四名の霊にと届けられ役場裏庭に碑身のまゝ置かれていたが、昭和三十七年十月一日専誠寺境内に台座を附して建立された。しかしこの碑には変還がある。その後、この碑は専誠寺境内より役場裏庭に戻り、そして昭和六十三年八月三十一日午後三時三十分頃、ヌツカクシフラノ川の共和橋(二十五号道路の市街から丘町への橋)で工事中の小渡工務店の作業員が土砂の中よ
り発見した。
役場及び工事関係者もこれに驚き、直ちに現地にて供養が行われた。
『十勝岳爆発惨死者碑』は、役場及び関係者の協議により、昭和四十二年発行の上富良野町史にも記してある専誠寺境内に、昭和六十三年十一月二十二日に再び建立安置され、酒匂町長も参列しその供養が行われた。(真宗高田派専誠寺は十勝岳爆発により流失、三重団体罹災地の大部分に檀徒を有していたので寺院の復旧は容易でなかった。)役場裏庭→専誠寺→役場裏庭→ヌッカクシフラノ川にて発見等、この経過について役場退職者、現役の古参職員、専誠寺関係者を訪ねたがその理由は判然としない。
『十勝岳爆発惨死者碑』の題字を書かれた『藤光雲師』とは慶応二年八月、真宗出雲路派本山の毫摂寺(福井県武生市)に、第二十二世喜慶上人の第二子として誕生。母は明治天皇の御妃昭憲皇太后の姉君(一条忠香公の長女で輝子姫)。
幼年の頃より学を好み、京都・東京に遊学し、和・漢・仏の学問を研鑚、また書道を長三洲先生(明治天皇の書道の御指南役、その気品高き書画は明治随一と称せられている)より面授され先生の遺風を継承し、その書風発展に貢献され、府立一中(現日比谷高校)、哲学館(規東洋大学)にて教鞭をとり、資性豪放・括淡・剛毅の性格であった。
出雲路派本山の毫摂寺にあっては、実に三十有余年の長きに亘り宗務総長として兄君である第二十三世善聴上人を助け、その後、因縁熟し大正十一年(五十七才)別格別院願成寺住職(現、旭川市五条十九丁目)として移住し、念仏弘通の傍ら神儒仏三数調和の中道を主唱して中道会館及び偕行杜(七師団)において書道を教授し、旭川での初期の書教育功労者である。
十勝岳爆発三周年追悼法要が、昭和三年五月二十四日上富良野、美瑛両村主催で明憲寺で行われたが、追悼法要後の講話に、藤光雲師が『無常な人生の真理なり』と題して行なわれたとあります。
昭和七年嗣子光遵連技に住職を譲り、北海道、樺太を巡教、昭和十七年五月二十三日、七十七才にて逝去される。
願成寺の現住職は、第三世『藤光悦師』が継がれている。
藤光雲師は、別格別院願成寺住職とともに気品高き書風での揮毫は数百点にのぼり、市内及び道内各地に点在しているが、代表的な碑は次の通りである。
○愚仏上人句碑(願成寺境内)
○荒井功一氏銅像顕彰碑(層雲峡)
○第七師団転地療養所建設記念碑(層雲峡)
○旭山公園門柱(東旭川)
○神楽神社大鳥居奉納者氏名碑題額
○摩周湖歌碑
○中愛別開拓記念碑
真宗出雲路派とは
親鸞を開祖とする浄土教の一宗派を浄土真宗といい、法然房源空の樹立した宗旨に親鸞が名づけた呼称である。
真宗は十派によって形成されているが、その一つに真宗出雲路派があり、十派の本山及び上富良野の寺院は次の通りです。
本願寺派(本山京都市)…………間信寺(上富良野) 大谷派(本山京都市)……………明憲寺(上富良野) 高田派(本山三重県津市)………専誠寺(上富良野) 出雲路派(本山福井県武生市)…別格別院・願成寺(旭川) 仏光寺派(本山京都市) 輿正寺派(本山京都市) 木辺派(本山滋賀県中主町) 山元派(本山福井県鯖江市) 誠照寺派(本山福井県鯖江市) 三門徒派(本山福井県福井市)
尚、この碑を寄進された『和寒村佐藤円治知行次代人』について、旭川市願成寺及び和寒町役場に照会したが子孫等を含めて消息を確認することができなかった。
六、『十勝岳爆発横死者血縁塔』
建立場所 上富良野町本町聞信寺境内
建立年月 昭和二年八月十三日
聞信寺第二世住職、門上浄照師(昭和三十二年一月三十一日逝去享年 七十七才)は、十勝岳大爆発の犠牲になった無縁死体が仮埋葬のままにあるのを見て仏教者として忍びず、村当局の了解を得て、村内の有志・檀徒の喜捨によって無縁塔として横死者血縁塔を建立、一周年のお盆の昭和二年八月十三日に無縁仏十二名の納骨式を執行された。
『十勝岳爆発横死者血縁塔』の文字は吉田貞次郎村長の揮毫によるもので、総丈八尺四寸(二m七十二 p)に達し聞信寺境内左側に巍然として建碑された。
『血縁塔』の名は、無縁仏として仮埋葬された犠牲者の来世で血縁ある様にとの門上浄照師の心暖い配慮が察せる。
血縁者の右側には『大正十五年五月二十四日罹災』、左側には『昭和二年八月十三日建碑』と刻字されている。
塔の裏側には無縁仏の法名が次の通り刻まれているが、年令は推定であり、年令不明もある。
法 名 | 年 齢 | 法 名 | 年 齢 | 法 名 | 年 齢 | 法 名 | 年 齢 |
釈妙子 | 五十才 | 釈妙霊 | 十三才 | 釈順子 | 二八才 | 釈寂定 | 不明 |
釈妙安 | 三十才 | 釈妙行 | 八才 | 釈頓悟 | 不明 | 釈無学 | 不明 |
釈妙智 | 十六才 | 釈妙雪 | 十才 | 釈法城 | 不明 | 釈妙孝 | 十二才 |
七、十勝岳爆発横死牛馬『追善記念碑』
建立場所 上富良野町西六線北二十八号
建立年月 昭和五年四月十七日
十勝岳爆発により一四四名の尊い人命とともに、家畜も被害を受けた。
農耕馬、軍用馬の産地であった上富良野であるが、馬は農・林業の貴重な労働力であり、財産であった。
『馬二十五頭』と『牛三頭』が泥流の波に呑まれその犠牲となった。その他の家畜は、豚一〇頭、鶏六〇三羽、兎三羽がある。
昭和五年四月十七日、爆発で横死した牛馬の『追善記念碑』が西六線北二十八号に飼主・牛馬商・村内有志によって建立された。
この牛馬供養の碑身は、自然石に額をとってほりこんだもので、六段積み上げの台座の上にあって見上げる位大きく、その下に伊藤七郎右工門、伊藤藤太郎他七十六名の寄進者の名が刻まれている。
この碑の横に、大正十一年八月十七日創立の『馬頭観世音』がある。四坪の堂に三面石仏の馬頭観世音が安置されている。伊藤藤太郎の発起で伊藤七郎右工門他十数名の世話人の名がある。
馬頭観世音のお祭りが毎年四月十七日に盛大に行われており、その祭日に合せて『横死牛馬追善記念碑』が建立されたと推察できる。
八、十勝岳爆発を詠む『九條武子の歌碑』
建立場所 十勝岳山腹泥流跡の這い松の中
建立年月 昭和四年七月九日
『たまゆらに けむりおさめてしずかなる
山にかへれば 美るにしたしも』
この歌は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第二十一代法主、大谷光尊氏(明如上人)の次女で、九條良致男爵(貞明皇后の弟)と結婚されたが、四十二才の若さで生涯を閉じた歌人で有名な『九條武子』の短歌で、大正十五年の十勝岳爆発とその被害に心を痛めて詠まれた。
― この短歌はどこで詠まれたのか ―
一般的に歌碑・句碑等は歌人、俳人がその地へ行って詠まれたのを記念して建立されるが、この歌は『九條武子』が仏教婦人会総裁をしていた関係で、昭和二年九月四日旭川で開催された北海道仏教婦人会大会に出席のため来道された時のものである。
大会が終了の翌日、昭和二年九月五日旭山公園への行き帰りに、中天高く呼き上げる遥るかに眺望され、又は十勝岳爆発の被害状況を聞き、遭難死者の霊安らかならんことを祈り、十勝岳の鎮静化を心から念じこの歌を詠まれた。
九條武子は十勝岳爆発に関し次の歌も残している。
◎あきらめの ため息ならず 火の山は
憤怒の息を 大空にはく
◎けむりはく 十勝の嶽の 上にして
まさをき空は いよよすみたり
◎十勝嶽 けむりををさめ 横雲の
動かずてあれば 目にはろばろし
◎あなけうと 十勝の嶽の 吐く煙
巨岩のごとも むらがりのぼる
これらの歌は九條武子の歌集『裏染』(昭和三年十一月発行)『自孔雀』(昭和四年十二月発行)にて発表された。
― 歌碑建立のいきさつ ―
十勝岳を霊山として仏教的に開発をしたいと明治の末頃から永年にわたって念願し、そして着々と実践されていた上富良野町聞信寺先代住職 故門上浄照師がこの歌碑建立に大きくかかわっていた。
門上浄照師は、十勝岳を精神教化の霊場とすべく大正十年には十勝岳中腹に太子堂を建て、大正十三年には俳人、長谷川零餘子の句『鬼樺の 中の温泉に来ぬ 橇の旅』の句碑建立、昭和二年には俳人で旭川市慶誠寺先代住職である石田慶封師(俳名雨圃子)の句碑『秋晴や 雪をいただく 十勝岳』の建立、安政火口の下流のヌッカクシフラヌイ川の三つの滝に聖徳太子の三経義疏から名をつけた。
九條武子が来旭の折に、今なお噴煙を上げている十勝岳と爆発による悲惨な災害を聞いて歌を詠まれた事を知った門上浄照師は、ぜひ歌碑の建立をと考え申し出たところ『たまゆらの……』の揮毫を御拝受した。この直筆の揮毫は歌碑と同じ大きさで、現在も聞信寺に大切に保存されている。
昭和二年八月末に来道され九月上旬に帰られた九候武子は、翌年の昭和三年二月七日、四十二才の若さで永眠された。九條武子の突然の死を知った門上浄照師は『たまゆらの……』の歌碑を十勝岳に建立しようと考え、檀徒の方々へ援助と協力をお願いした。
昭和四年七月、九條武子の兄で西本願寺法主である大谷光明猊下が、北海道開教百年記念法要に来道される事を知った門上浄照師は、本山に九條武子の歌碑建立とその除幕式に猊下の御臨席を賜りたい旨の文書を提出していたところ、六月八日に本山より電報にて歌碑建立の許可と除幕式出席の連絡が入った。
早速、旭川中学校教諭(現道立旭川東高等学校)の柴原小市氏(大正十四年〜昭和六年九月まで在職で物理・地学学者で昭和四年発行の十勝岳爆発災害志に観察記録が掲載されている)と相談、旭川地区は柴原教諭、富良野地区は門上浄照師で寄附を募ることを決め、六月十一日に両者で十勝岳に登り、歌碑の建立場所の選定を行った。
歌碑建立には門上浄照師の熱意にうたれた檀信徒の方々、仏教青年会の労力奉仕による歌碑運搬、登山道路改修に旭野地区の人々の奉仕活動もあって、十勝岳の泥流跡の岩山を台座にした歌碑が完成した。
― 歌碑の除幕式 ―
昭和四年七月九日、九條武子の兄で西本願寺法主、大谷光明猊下をお迎えして除幕式は行われた。
上富良野市街から中茶屋までは元飛沢病院長の飛沢清治氏(中町飛沢尚武氏の父)が購入したばかりのフォードの乗用車で行ったが、その初乗りが光明猊下であったという。
中茶屋からは馬九頭で十勝岳に向う。光明猊下は矢野辰次郎氏の馬に乗られたが、乗馬が達者で歌碑の近くまで馬で行かれた。
大谷光明猊下ご臨席の中で九條武子の歌碑は、柴原小市氏の令嬢、千津子さん(当時八才)の手によって除幕された。
『たまゆらの けむりおさめて しずかなる
山にかへれば 美るにしたしも』
の歌碑が十勝岳の噴煙を仰ぎ見るなかに建立された。
九条武子年譜
明治二十年(一八八七) | 十月二十日。京都西本願寺で生れる。父は本派本願寺二十一代法主大谷光尊(明如上人)母は大谷藤子。武子と名づけられる。兄に大谷光瑞、孝慈、光明、尊由、姉に文子がある。 |
明治二十四年 | 四歳。京都府師範学校付属幼稚園に入る。 |
明治二十七年(一八九四) | 七歳。京都府師範学校付付属小学校に入学。同級に三宅やす子(加藤弘之博士令嬢)がいた。この年日清戦争起こる。 |
明治三十一年(一八九八) | 十一歳、小学校の尋常科を卒業。その後は学校に通わず西本願寺内で家庭教師について学ぶ。 |
明治三十三年(一九〇〇) | 十三歳。十九世紀の終わる年。父光尊氏病みて伏見桃山の別荘「三夜荘」に静養、看護と慰安のため父の許で暮らし、夢多き少女時代に二十世紀(一九〇一〜二〇〇〇)を迎える。 |
明治三十六年(一九〇三) | 十六歳。一月十八日父光尊(明如上人・五十四歳)逝去。 |
明治三十七年 | 十七歳。日露戦争起る。兄光瑞師の運動に協力、義姉大谷慈子(光瑞夫人・貞明皇后の姉)と共に仏教婦人会の創立に当る。 |
明治四十二年(一九〇九) | 二十二歳。九月 九条良致男爵(貞明皇后の弟)と結婚、大谷武子から九条武子となる。十二月夫に伴われてヨーロッパに渡り、兄光瑞師夫妻と共にロンドンに住む。 |
明治四十三年 | 二十三歳。ロンドンで夫良致男爵と別れ義姉慈子夫人とヨーロッパ諸国を見学、シベリヤ経由で秋深き十一月日本に帰る。 |
明治四十四年 | 二十四歳。仏教婦人会の総裁であったであった義姉慈子夫人逝去。亡き義姉に代って、全国を巡回伝道につとめる。 |
明治四十五年(一九一二) | 二十五歳。この年七月三十日 明治天皇崩じ、大正と改元される。 |
大正二年(一九一三) | 二十六歳。この頃佐々木信綱博士の竹柏会から発行される短歌雑誌「心の華」に、秋の夜という匿名で歌を発表する。 |
大正三年(一九一四) | 二十七歳。兄大谷光瑞師が法主を引退。光明師の長男光照氏が新法主となる。 |
大正八年(一九一九) | 三十二歳。亡き義姉慈子夫人と共に計面した仏教主義の女子高等女子専門学校が設立される。 |
大正九年 | 三十三歳。六月 処女歌集「金鈴」が竹柏会から発行される。この年十二月夫九条良致男爵帰国、東京築地本願寺内に住む。 |
大正十二年(一九二三) | 三十六歳。九月一日 関東大震災で築地の家を焼かれ、淀橋区下落合の借家に移る。悲惨な被災者を見て、社会事業に再起する。 |
大正十三年 | 三十七歳。東京真宗婦人会長、六華園長等として細民救済や児童愛護に活躍。十月 過労から発病、京都で母の看護により静養。 |
大正十五年(一九二六) | 三十九歳。十二月大正天皇崩じ、昭和となる。 |
昭和二年(一九二七) | 四十歳。七月「無憂華」出版。年末まで細民街巡回して医療救済、教化等の奉仕をつづける。 |
昭和三年(一九二八) | 四十一歳。一月 震災以来の過労から発病、一月十七日青山の磯辺病院に入院、一月二十七日敗血症と診断される。二月七日夜七時二十三分合唱、念仏を唱えつつ四十一年の美しき生涯を終る。 |
昭和三年二月十三日 | 東京築地本願寺で葬儀。諡名「厳浄院釈尼鏡照」三月 京都東山大谷祖廟に葬られる。 |
昭和三年十一月 | 歌集「薫染」が出版される。 |
昭和四年十二月 | 三回忌の記念として歌集「白孔雀」が吉井 勇氏の編集により出版される。 |
九、『泥流地帯』三浦綾子文学碑
建立場所 草分神社境内
建平年月 昭和五九年五月二十四日
「外は闇だった。
星光一つ見えない。まるで墨をぬったような、真っ暗闇だ。あまりの暗さに、外に出た祐一は……」
の書き出しの三浦綾子著『泥流地帯』は上富良野の開拓、十勝岳大爆発とその後の復興に、貧しさにも親の不在にも耐えて明るく誠実に生きる、祐一・耕作兄弟を中心に人生の試練を描き、生きかたを問いかける『上富良野』と『十勝岳爆発』を題材とした本格的な感動の長編小説である。
十勝岳爆発災害復興六十周年記念としての『泥流地帯』文学碑の建立由来については、『郷土をさぐる』第四号にて文学碑建立期成会長であった、故高橋静道民(当時の上富良野町文化連盟会長)が詳細に記してあるので紙面の関係で省略するが、昭和五十九年五月二十四日建立除幕式に三浦綾子先生から寄せられた録音テープを再録掲載しておく。このメッセージに三浦綾子先生のキリスト教の信仰からの心が伝わってくる。
大正十五年五月二四日を想うとき
三浦 綾子
ご参席の皆様、私、三浦綾子でございます。
本日は誠に感概深い私達にとって忘れることの出来ぬ日でございます。
大正十五年五月二四日、十勝岳のあの大爆発は一三七名(注・美瑛町七名を含め一四四名)の尊い命を奪いました。私はこの事実を知りました時に、何んとも言えない思いに襲われました。
人一倍正直に、そして真面目に勤勉に開拓した人々が何故にこの様災難に遭わなければならなかったか……私はつくづくとそう思いました。そして小説を書くことを思い立たせていただいた訳でございます。
小説を書くに際しまして上富良野の役場の皆様、そして災害に遭われた方々の甚大なご協力によりまして「泥流地帯」が出来あがりました。
私は、その取材の最中に幾度、胸をつまらせたことかわかりません。どれほど、どんな大きな希望を持って、この『上富良野』にやってこられた方々が、その希望が実現してようやく三十年、苦労が報われたと思われた頃、せっかく耕した田も畑も……建てた家も…そして何よりもかえがたい命も失われたということ…。これは亡くなった方、そしてそのご家族、また友人、凡ての人にとって言い難い辛いことであったと思います。
私は『泥流地帯』の小説の中で、当時の村長、吉田村長の告別の言葉を『爆発災害志』から引用してかせていただきました。
「大正十五年五月二十四日午後四時十勝岳霊猛威ヲ振ヒテ本村開拓ノ功労者百三十七名ヲ奪ヒ田畑其ノ他ノ損害無慮三百万円ヲ算スルノ一大惨害ヲ呈スルニ至レリ天変地異洵ニ測知スルヲ得ストイエドモ何スレド其レ悲痛ノ極ミナル唯々天ヲ仰イデ浩歎セサルヲ得サルナリ」――
おそらく吉田村長は血を吐く思いで、この弔辞を読んだことと思います。そしてその後、人々は復興問題に直面するわけでした。復興すべきか、復興せざるべきか、村を二分してこのことに議論をかわしたわけでしたけれど……。それから六十年、今の『上富良野町』を見て、その時の災害の跡を感ずることが出来る人はいるでしょうか……。すばらしい上富良野町として発展しております今の姿を見るにつけ、今日までの復興に力を入れた方々のご苦労を思う……私は思うのでございます。
今日ここに、何んの罪もなく命を奪われた一三七名の方々の遭難の祈念と、そしてその後復興に力を尽くされた方々の祈念として、ここに碑が建立されることになりました。これは、おめでたいと言うべきか……ことよりも、もっと違う言葉で言い表わさなければならないように私は思います。
そして、その言葉は何んという言葉であるべきか私はわかりません。私達一人ひとり、言葉にならない言葉がきっとあるのだと思います。
ただ願わくば、この碑によって……あの日の惨劇が……あの日天に召された一三七名の方々の家霊が……祈念せられ……また、その意志を継いで絶望することなく、それはそれは大変な中で復興に尽した方々の、その辛い苦しい復興の努力を讃える碑として、凡ての人に祈念していただきたいものと思うものでございます。
本日、私は以前より計画されておりました『週刊朝日』の仕事でヨーロッパに渡っております。丁度、この日は若しプログラムが順調に進みますならばローマに到着する予定の日でございます。ここに参席できませんでしたことを深くお詫び申し上げます。
そして上富良野町の方々が今後も一層この碑にこめられた『上富良野魂』というべきでしょうか、その魂を受け継いで生生発展なされますよう心からお祈りしたいと思います。
これは私事でございますけれど、私共は昭和三四年五月二四日結婚いたしました。この日で満二五年を迎える訳でございます。五月二四日に結婚いたしました私が、五月二四日に災難に遭われた方々のことを小説にさせていただいたというご縁も不思議に思うものでございます。
心から御霊安かれと祈り、また上富良野町凡ての人々の上に神の大きな励しと慰めがありますように心からお祈りいたします。
最後に聖書の言葉、「よろこぶ者と共によろこび、泣く者と共に泣け」という言葉をお贈りしたいと思います。
「よろこぶ者と共によろこび泣く者と共に泣け」
(ヨーロッパへの取材旅行前に録音したものを転載させていただきました。)
三浦綾子先生年譜
大正十一年(一九二二年) | 四月二五日旭川市に生まれる。 |
昭和十四年(一九三九年) | 旭川市高等女学校卒業。四月、小学校教員となる。以後七年間勤務。 |
昭和二一年(一九四六年) | 太平洋戦争敗戦までの国家の欺瞞や教育の過ちに気づき、三月に教員を退職。六月、肺結核を発病、後脊椎カリエスを併発し、以後十三年間闘病生活を送る。 |
昭和二三年(一九四八年) | 同じく結核療養中の幼ななじみ前川正と再会。その深い愛情と人間性を通じてキリスト教の信仰に目ざめる。 |
昭和二七年(一九五二年) | 病床で小野村林蔵牧師より洗礼を受ける。 |
昭和三四年(一九五九年) | 前川正の死後知り合ったクリスチャンの三浦光世と結婚(五月二十四日)。当時光世は旭川営林局勤務。 |
昭和三六年(一九六一年) | 旭川市内で雑貨店開業。 |
昭和三九年(一九六四年) | 朝日新聞社一千万円懸賞小説に「氷点」が入選。朝日新聞朝刊に十二月から翌年十一月まで連載される。雑貨店閉業。 |
昭和四〇年(一九六五年) | 「氷点」を朝日新聞社より刊行。 |
昭和四一年(一九六大年) | 小説「ひつじが丘」を主婦の友社より刊行。 |
昭和四二年(一九六七年) | 随筆集「愛すること信ずること」を講談社より刊行。 |
昭和四三年(一九六八年) | 小説「積木の箱」を朝日新聞社より刊行。小説「塩狩峠」を新潮社より刊行。 |
昭和四四年(一九六九年) | 自伝小説「道ありき」を主婦の友社より刊行。中短編集「病めるときも」を朝日新聞社より刊行。 |
昭和四五年(一九七〇年) | 小説「裁きの家」を集英社より刊行。自伝小説「この土の器をも」を主婦の友社より刊行。 |
昭和四六年(一九七一年) | 小説「続・氷点」を朝日新聞社より刊行。「光あるうちに」を主婦の友社より刊行。 |
昭和四七年(一九七二年) | 「愛すること信ずること」を講談社現代新書として刊行。エッセイ「生きること思うこと」を主婦の友社より刊行。小説「自我の講図」を光文社より刊行。小説「帰りこぬ風」を主婦の友社より刊行。エッセイ集「あさっての風」を角川書店より刊行。 |
昭和四八年(一九七三年) | 小説「残像」を集英社より刊行。光世・綾子対談集「愛に遠くあれど」前川正との往復書簡集「生命に刻まれし愛のかたみ」を各々講談社より刊行。「塩狩峠」新潮社文庫版を刊行。光世・綾子合同歌集「共に歩めば」を聖燈社より刊行。短編集「死の彼方までも」を光文社より刊行。 |
昭和四九年(一九七四年) | 自伝小説「石ころのうた」を角川書店より刊行。光世との共著のエッセイ「太陽はいつも雲の上」を主婦の友社より刊行。「旧約聖書入門」を光文社よりカッパブックスとして刊行。 |
昭和五〇年(一九七五年) | 歴史小説「細川ガラシャ夫人」を主婦の友社より刊行。 |
昭和五一年(一九七六年) | 小説「天北原野」上・下を朝日新聞社より刊行。小説「石の森」を集英社より刊行。 |
昭和五二年(一九七七年) | 小説「広き迷路」を主婦の友社より刊行。小説「泥流地帯」(北海道新聞日曜版に連載、昭和五一年一月四日号〜九月十二日号)を新潮社より刊行。「あさっての風」角川文庫版、「裁きの家」集英社文庫版を刊行。小説「果て遠き丘」を集英社より刊行。「残像」集英社文庫版、「新約聖書入門」を光文社よりカッパブックスとして刊行。 |
昭和五三年(一九七八年) | 「果て遠き丘」集英社文庫版を刊行。文庫版の「氷点」「続・氷点」「積木の箱」(以上、各上・下巻)、「病めるときも」「天北原野」(三巻)を朝日新聞社より刊行。短編集「毒妻の季」を光文社より刊行。エッセイ「天の梯子」を主婦の友社より刊行。 |
昭和五四年(一九七九年) | 小説「続・泥流地帯」(北海道新聞日曜版に連載、昭和五三年二月二六日号〜十一月十二日号)を新潮社より刊行。エッセイ集「孤独のとなり」を角川書店小説「岩に立つ」を講談社より刊行。「石の森」集英社文庫版「石ころのうた」角川文庫版を刊行。 |
昭和五五年(一九八〇年) | 歴史小説「千利休とその妻たち」を主婦の友社より刊行。「道ありき」「生命に刻まれし愛のかたみ」を新潮文庫版「ひつじが丘」を講談社文庫版より刊行。 |
昭和五六年(一九八一年) | 小説「海嶺」上・下を朝日新聞社より刊行。「愛に遠くあれど」講談社文庫版、「この土の器をも」(「道ありき」第二部)新潮文庫版を刊行。画文集「イエスキリストの生涯」を講談社、「わたしたちのイエスさま」を小学館より刊行。 |
昭和五七年(一九八二年) | 五月、直腸癌手術。「氷点」「続・氷点」「病めるときも」角川文庫版、「光あるうちに」「泥流地帯」「続・泥流地帯」新潮文庫版を刊行。「わが青春に出合った本」主婦の友社、「自我の講図」講談社文庫版、小説「青い棘」を学習研究社より刊行。 |
昭和五八年(一九八三年) | 「帰りこぬ風」新潮文庫版、「死の彼方までも」講談社文庫版を刊行。「三浦綾子作品集」第一巻を朝日新聞社より刊行。小説「水なき雲」中央公論社、エッセイ「泉えの招待」日本キリスト教団出版局、「愛の鬼才」新潮社、エッセイ「藍色の便箋」小学館、「毒麦の季」講談社文庫、「生きること思うこと」新潮社、「孤独のとなり」角川書店、「海嶺」朝日新聞社より刊行。 |
昭和五九年(一九八四年) | 「北国日記」主婦の友社より刊行。取材で東南アジア・ヨーロッパへ旅行する。「泥流地帯」文学碑が上富長野町に建立される。(五月二四日) |
昭和六〇年(一九八五年) | 「白き冬日―短歌に寄せて」学習研究社、「ナナカマドの街から」北海道新聞社。 |
昭和六一年(一九八大年) | 「聖書に見る人間の罪―暗黒に光を求めて」光文社、「嵐吹く時も」主婦の友社、「雪のアルバム」小学館、「草のうた」角川書店。 |
昭和六二年(一九八七年) | 「ちいろば先生物語」朝日新聞社、「夕あり朝あり」新潮社。 |
昭和六三年(一九八八年) | 「私の赤い手紙から忘れえぬ言葉」小学館、「小さな郵便車」角川書店、「対談銀色のあしあと」いのちのことば社。 |
平成元年(一九八九年) | 「それでも明日は来る」主婦の友社、「生かされてある日々」日本基督教団出版局、「あのポプラの上が空」講談社、「あなたへの囁き愛の名言集」角川書店、「われ弱ければ―矢島揖子伝」小学館。作家生活二五年記念三浦綾子展(札幌・旭川) |
三浦綾子夫妻が『泥流地帯』文学碑前での写真は、作家生活二十五周年記念三浦綾子展が平成元年十二月七日〜十二日まで旭川丸井今井で開催され、筆者も見学に行き、『泥流地帯』コーナーに展示されておりましたのを秘書の八神さんにお願いし送付いただき掲載させていただきました。
機関紙 郷土をさぐる(第8号)
1990年 1月31日印刷 1990年 2月 6日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一