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十勝岳爆発災害の心得について

高橋 寅吉 大正三年五月十六日(七十五歳)

災害は忘れた頃にやって来る。備えあれば憂いなし。後悔先に立たず、経験は宝なり、最後の頼りは自己自身。等々の諺を引用しながら、爆発・噴火騒ぎを続ける十勝岳山麓の町、上富良野の住民として、是非この事丈はしっかりと心に留めておいて貰いたい。又この事は、子・孫・代々記録に残して伝えて行くべきだと思い投稿した次第です。
天災は山の爆発だけではありません。何時何処でどんな形で何が起るか分りませんが、十勝岳の爆発という宿命的な自然の脅威を身近に感ずる地元に住む者としては、先ず第一に若し十勝岳が爆発して泥流が発生しても、大正十五年の時の様に一四四人の尊い犠牲を出す様な事は二度とない様にする。その為には、何をさておいてもいち早く確実な情報を知り、敏速に避難行動を取る事です。
私共は常に山の動静を見守り、いざという場合はその状況に応じ、自分の身は自分で守るという鉄則を忘れない事。特に大切な事は泥流等が発生した時、山が見える場合は即座に状況を知る事が出来ますが、天候が悪く大正十五年の時の様に雨雲で山が全然見えない場合、又夜間、深夜の場合、或いは今日の如く防災対策が完備されている中でも、不幸にも万一其の時情報伝達機が作動しなかった場合、最終的には其の状況を知る事の出来るのは、人間の神経、感で異状昔を判断する外はないという事です。
次の記事は、経験のない情け無さ、後悔先に立たずの一例です。
悲惨な事故のあった大正十五年五月二十四日午後四時頃、大音響と共に十勝岳が爆発、泥流が発生しその爆音に続いて山鳴り高音が次第に北に異動しているのを感じ、その時危険を感じたという人が、今も市街地に二、三人居ります。私の兄は当時駅に勤務しており、其の事に気付いて急いで駅前大通りの自宅に知らせに戻り、今山の音が北方向に移動している、(火口は駅の真東で泥流が草分の原野に流れ出た。沢は市街地の北約四粁の地点)何か変った事が起きるかも知れないので、貴重なものはまとめておく様に言ってすぐ駅に戻った。
その直後裸馬に乗って「水だ、水だ」と叫びながら表通りを走り抜けた声に驚いて、外へ飛び出し今馬の来た方向を見ると、北に実直ぐに延びている旧国道の二十七号の角(現在の西保育所の近く)の、大きな白壁の家が土煙りを上げて飛ばされる瞬間でした。其の後は「山へ逃げれ」の声で、町中大騒ぎとなったわけで、それまで市街の人は誰一人、五〇〇米の目の先まで泥流の来た事を知らなかった訳です。
せめて誰かゞ早く気付いて緊急処置が出来たら、時間的にも余裕があり、あの様な大勢の犠牲者を出さなくて済んだものと悔まれてなりません。幸いに市街地は小高くなっており、西側が川沿いで低くなっていたので、泥流、流木は市街地住宅の西北をぐるりと廻り、丁度当時明憲寺山と、市街地○一呉服店との間の江花行きの道々が改修されたばかりで高い土堤となって、堤防の役目を果して泥流と流木の殆どが止められ、此の付近は見渡す限り流木の山でした。道路下南側は泥流が川から溢れ、中富良野町近くまで両側の田畑を荒して治った訳です。
次いで第二の例。経験は宝なりですが、それは泥流で一番被害のあった新井牧場の沢の出来事です。
この沢では十数戸の人家が全部流され、一家全滅も数戸あった所です。其の中間に住んでいて泥流に対し過去の経験を生かし、八十歳の曽婆を背負い、五人の子供と馬まで連れ、寸秒の差で一家全員が無事避難出来た人がおります。この事については、貴重な体験談として記録発刊された事に敬意を表し、今だ余り知られていない泥流の実態を多くの人に披露して、大事な参考として貰いたいと思い、体験談を発刊された方の承諾を得ましたので、最後に登載させて貰います。
第三は、十勝岳は恐ろしい危険な山である反面、この山は自然の大きな造形の贈りものであり、十勝岳は日本で自慢出来る山岳美、最高の山でもあります。四季を通じ常に私達に物心共に大きな自然の恵みを与えてくれる我が町の象徴、母なる山であり感謝の気持でこれを見守り、愛し、明るい町づくり、楽しい町づくりに励んで貰いたいものと思います。
その為にも十勝岳の性格、爆発の様子、状況等を充分知って、上手に山と交き合い、山を活用して行く事だと思います。
なぜあの様な恐ろしい泥流が発生したのかという事から、大正十五年爆発の前後の山の様子、活動の状況変化、貴重な災害体験記録を始め、昭和三十七年六月、昭和六十三年十二月の爆発記録等も主要事項部分を抜粋してまとめてみたいと考えております。
今回は先ずこの三回について、変化した山の様子を関係機関、研究所で発表された資料を参考にしてその略図を見て貰う事に致します。
大正十五年五月二十四日
十勝岳爆発の原因(泥流発生)  (調査団調書より)
 一、湖水決壊説 
 二、硫黄燃焼説 
〇三、熱湯噴出説   (含む地下水)
〇四、熱 泥 説   (含むマグマ噴出)
〇五、瓦斯噴出説   (含む水蒸気爆発)
〇六、融 雪 説   (含む大雨)
 七、融雪水堰止説 
〇八、崩壊物スキー説 (滑走、転下摩擦力)
〇九、山岳一部欠壊説 (山崩れ)
以上の原因説中、結論説は無し。
但し、地元として推定出来る説は○印のもので、不幸これ等が合流の為、大泥流となったと思います。(素人高橋説)
記事の最後になりましたが、前記の貴重な遭難体験記録、著書の主要部分の転記を致します。
題誌『過跡』   著者 佐々木義男
   現住所 旭川市春光六区三条六丁目一二八
   発 刊 昭和六十三年十一月吉日
父親は十勝岳の山鳴りについて、毎夕食時に口癖のように内地(本州)の津波と、火山爆発を例にとり挙げ、
  ・川の増水、或いは異状出水の場合は高地に逃げる
  ・火山灰や、岩石が飛び降る場合は、家の中に入り壁や柱の蔭に身
   を寄せる。
  ・子供達はばらばらにならず、必らず一緒に固まり、小さな者を庇い、
   互いに助け合う。
と耳にタコが寄る程の躾の繰り返しで、その実効の日が思いがけなく短日のうちにきた。
爆発当日(五月二十四日)学校は休校、先生は本校研究会に出席していた。前夜からの雷鳴を伴う降雨は、あたかも馬穴で水をまけるように続いている。
しかし、両親、祖母、姉兄の五人は、我が家前で水田の手起しに忙しい。農耕は勿論、泥塗みれになるので衣類も最低。従って、ぼろ衣、脚絆、素足それに蓑、編笠という粗末な服装が当時の水田農作業の実情なのである。
家には小学五年の姉を頭に子供五人と曽婆さんの六人は、稲妻、雷鳴の伴う降雨に脅え、閉じ籠る。
自宅裏フラヌイ川の増水は刻一刻と低地の雑木林から野菜畑に浸水を初めている。母屋より十五、六米離れた川岸凸地に風呂小屋があり、またその上手十米位の川沿いにある精麦水車小屋の状況を時々監視するのが当日の役割りであったが、正午頃に至るも降雨量は増しても減少することはなく、川は一層激流に変貌していった。
十二、三米内外の川幅となった流れは、丘陵に建て、ある風呂小屋の土台部分の柱の根元を洗い始め、川水は褐色から灰色と渦巻く濁流となり、古木や生木の柳を根こそぎ押し流してくる。
この光景に子供ながら体が縮み、無気味な中に不安が漂ってきた。
鍾を返し、雨の中無中で走り、危険を親に伝えた。
しかし稼働中の父親の返事は「分った」の一言、いかにも素気なく意外でもあった。
農作業は依然黙々と続けられている。昼食に来た父は川沿い付近を見巡り、風呂小屋と精麦水車小屋の冠水に策が無いと半ばあきらめもあったのか、風呂小屋が流される危険が高まった時に連絡をすることゝなった。昼過ぎの降雨は継続的であったが、午前の猛威的雨量が川の氾檻を更に煽ったようだ。

     ☆避難行
十勝岳噴火口は、新井牧場の山間からは回りの景色と調和し、絶景を醸し出す所に位置していた。
爆発当日、隣の親爺さん(佐々木留治)が役場の用事から帰り、新道から自宅へ辿る旧道変形丁字路の小高い処で、何げなく足を止め、ふと十勝岳を見た処、雲低く薄暗い山間の火口付近の大空が穴があいたように雲が切れ、青空が覗いたかた思った瞬間、百雷の大音響と共に火口からの大爆発。続いて一瞬何か一条の帯が下降に線を引いた様に映ったという。
あっ爆発だ。と気付きとっさに、爆発だ、洪水だ、早く逃げろと大声の連発で自宅に駈けた。
この大声は勿論五十米余りの近接距離で作業中の家族にも聞こえた。姉(長女)が泥んこの姿で飛んで来る。「爆発だ、早く逃げるのだ」姉の張りつめた声と誘導は適切敏速で妹弟を連れ出し、前山高台へ……。兄(長男)は馬を索けと、それぞれに業務分担を命じながら飛鳥のように駈け込む父親、「俺は曽婆さん(当時満八十五才。目が悪かった)を連れ出す…。早く早く前の山に逃げるのだ…。爆発だ、水が来る。早く早く」。
当時ストーブの横で寝ていたこともあって、何が何だか解らなく、姉にどやされ短靴に下駄履きのまゝ外へ出ようとした。姉の何を寝ぼけている、「靴、靴」と鋭い気合でやっと寝ぼけから覚め、日頃父親から言われていた爆発時の避難について思い出した。姉ふくよ十九歳は妹千代子四歳を背負う。すぐ上の姉よしみ十二歳は、妹あさ子六歳の手を引く。妹サカヱ八歳は、身軽に飛び出し玄関先に出た。後日履物騒動で一番手が掛ったと姉の言もあったが、その後の行動は早かったようだ。
自宅前道路を一目散に前山に駈け登った。前山には斜めに通作のための山道があり、その中復位で立ち止まり、姉妹の到着を待った。一番上の姉は妹を背負い、息も絶え絶え、ここまで来れば大丈夫、血の気を失った姉妹は大息を吐き立ち止った。
この時上流に何とも言い表せない、耳をつんざくゴーという物凄い連続轟音、ふと学校方向を見た瞬間、山間一杯に原油の様な泥が学校の上手に横に延びる丘陵に激突し、反転ダイビング(ジャンプ)して、丘陵の教員住宅は勿論、百米余下流の学校に直撃し、あっと言う一瞬で泥流に呑まれて消えた。
この瞬時の出来事は時間にして二、三秒間、丘陵上の教員住宅の先生家族が子を抱き山手に走る姿、その後から母親が続く姿も当然消えた。
原油の様な泥流は高さにして十米余、後続濁流の露払いの役とも思われ、約六、七十米その後方、泥流と直角に数百年の自然原生森林を成した大木を根こそぎ巻き込み、縦になり横になりそして二つ三つに折れ、その濁流と生木に交る岩石が、五、六十米あるいは七、八十米の高さで押し流されてきた。泥流の速さは、学校と我家の距離七、八百米を七、八秒余、あっという間に面前を過ぎた。勿論我家は最初の泥流に瞬時にして巻き込まれ消えた。十二、三秒のこの出来事は、平和な自然環境を一瞬にして破壊した。一条の山間い、流失現場の跡には、大人三、四人で手を繋いでも抱えきれない大木が根をそがれ、幹は折れ、あるいは擦切れ、木肌に岩石が喰い込む状態で、突然できた山岸に無残に打ち寄せられている。
ふと我に戻る。震えが止らぬ。姉妹は互に身体を寄せ合い姉の顔を覗き込む。姉は青褪め、体を震わせ、呼んでも返事はなく口を開かなかった。
…脅えは続く…(注)姉の脅えは、両親、祖母の姿が見当たらないことに一層恐怖と不安に引き込まれていたからである。
無言の脅え…、ふと右側をみると兄福治十七歳は、馬と共に耕作の山の雑木林の麓に、脅える馬のくつわを持ち立っているのを見つけ、あそこに「あんちゃん」がと指を差した。姉妹はその方向に視線を向けたが何の反応もなく無言。
しかし何か安堵感が湧いた…。半面、父母と祖母の姿がないことに気付いた。どうしたのだろう。泥流に呑まれたのか、急に不安が募り体が堅くなり震えが一層増してきた。その時、泥流から僅か山寄りに離れた傾斜面の丘陵畑の中腹に、父は曽婆さんを背負い、その後から母が押し上げ、祖母は父の前帯を引き必死に駈け登っているのを発見した。同時に姉も見つけ、「あそこあそこ」と指差し、「よかった、よかった」の連発。特に姉は不安から安心への精神的苦痛の解放が涙に変り、こらえようと土堤に手を掛け、大きく肩を振るわせていた。
早く迎えに…姉の甲高い声に我を忘れ、通作道路横の薮を飛び越え、両親の元へ手を振り「ここだ」と叫びながら夢中で山を駈け下りた。
逃げるのに無我夢中の両親と祖母は、泥流の通過には何も気づかなかった様だ。
父親は、息も絶え絶えに「皆居るか…どこに」、「大丈夫、あんちゃんも、馬も」続け様に伝え終えたとき、父は体力も気力も限界であったと思う。一方安心も手伝ってか、ガクンと膝を地面についた。
真青な顔、口唇は薄黒く大きな息づかい、母も祖母も同様であった。
曽婆さんは父親の背中で済まなんだと繰り返し感涙にむせぶ。
無事を確かめあった家族対面であった。父親が意外に早く元気を回復し、父は「喉が乾いて息が切れそうだ」と死の恐怖の解放から微笑を含め語りかける。母親も祖母も同様…、「よかった。よかった。全員助かったのだ…馬も元気に」と口々に家族が互に漏らし、その喜びは例えようのないものであった。兄は、脅えた馬が落着かず、ばたばたするため手を放せず、家族と離れた処にいた。
兄は、姉妹が両親、祖母、曽婆さんの名を呼んでその無事に万歳を叫んでいた事も後で知った。
泥流は両親、祖母が逃げのびた場所から僅か下、後方十米位を横切り、一歩遅ければ泥流に巻き込まれたことを思うと、五十数年経た出来事であっても今なお背筋に冷水をかけられるような恐怖に包まれる。
こゝで両親、祖母の避難状況に触れてみることにする。
田圃から駈け込んだ父は、曽祖母を背負った。
母と祖母は箪笥に手を掛けたが、父からその余裕はない早く逃げるんだと叫ばれた。
曽祖母を背負う帯探しで、若干時間的にまごつきがあったようだが、父母と祖母三人の呼吸が合った行動と物欲を捨てたのが命拾いとなった。…母親は、最初箪笥に手を掛けた時、その横に耕作用の地下足袋(手作り)二十足を掛け、その足袋に現金三〇〇円を入れてあったのに気が遣なかったとあとあとまで苦病んでいた。耕作用地下足袋は、当時手製で冬期間女の内職の一つで、稼働者一人当り一夏に三足から四足が準備された。
父親は曽祖母を背に無我夢中で駈け逃げた。それが精一杯で恐怖の泥流が、どの様な造形と変化で通過したものか全く判らないと言う。
当時、孫が飛んで来るのを見た祖母が、大丈夫と言うなり引いていた手を突差に緩めたため、父親は曽祖母を背負ったまゝ、腰から尻餅をついた。
後押しの母親も力尽き、体力の限界であったように思われる…。
その時、父が我に帰ったのであろう…。ゴーとする音の方向を見た時は、相当下流で小山のように動く物で、泥流とか濁流の実感がなかったと言う。
運命を分けた数秒間、足元十米下方に、新たな脅えを感じたと説明していたのを記憶している。
=以上、爆発当日及び避難行、抜すい=
十勝岳山麓に住む人の心得
一、生きて活動している山と上手につき合う。
  (火山を知り、火山を活用、火山と暮す)
一、観測所、防災施設、防災無線等による防災体制を認知、正確情報を確認。
一、自己防衛、(轟音、爆音、地鳴り、音の移動)常識、神経で状況確認する。
  (特に山が見えない、夜間、情報未確認の場合)
一、事故発生認知、避難情報発令の場合の緊急避難、敏速行動。
  (高所指定)(日常避難訓練、家族申合せ)
一、泥流(山津波)発生は積雪の有無に関係は少ない。
  (爆発の規模種類による)
「備えあらば 憂い無し」

機関紙 郷土をさぐる(第8号)
1990年 1月31日印刷  1990年 2月 6日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一