郷土をさぐる会トップページ     第08号目次

樺太の思いで(後編)

数山 勇 大正十年一月八日(六十八歳)

楽しみと悲しみ

前号で記したように、昭和十七年十二月横須賀海兵団より砕氷艦乗員として樺太へ渡る。前号では特に樺太の四季について記したが、今回は生活についで記憶を綴ることにした。
明けても暮れても海上と艦上の生活が続く。入港すると上陸、一番の楽しみは外出であった。外出は右舷組と、左舷組に分れており、右舷が本日外出すれば明日は左舷が外出出来る。又外出には他にネズミと油虫外出があり、更に特別に機雷発見外出等がある。此の外出は右舷、左舷にかゝわらず二日続いて許可されるのである。外出出来ない残り組は、当直と物資の積込み作業を担任する。物資受入れは、公用兵主計兵の兵隊が入港すると同時に行われるのである。
外出者は外出を終って艦に帰る頃になると、引き潮になり水位が下るので、板橋が急な下り坂に変り足元が危ない。それでも此の時ばかりの外出と飲んで帰る。艦を繋いだ岩壁で小用をすませて帰るのが常で、門限では当直将校が兵隊の動作を見守り乍ら帰りを待って居るのである。
酒は飲んでも飲まれるな。自分自分の名札を取って室に入る。此の時ばかりは緊張の一瞬で、酔いと楽しさが一気に吹き飛ぶ。或る日我が班のA下士官が、大好きな酒で快く酔って帰って来た時の出来事である。何時もの通り岩壁に小用を済ませたまではよかったが、打寄せる夕波に酔ったまゝ海中に転落した。夜十二時の当直兵は知っていたが助ける事が出来ない。私はその夜藤田と共に当直だったので、十二時過ぎまで一升の焼酎を飲み干して居た。
室に帰って待っていたがA下士官は帰らない。その中藤田は酔って自分の吊床を吊らず、A下士官の床で寝てしまったのである。ところが朝になっても藤田は起床して来ないのである。行ってみると口から泡を物凄く吹き出し、苦しみもがいている。早速当直将校に知らせ、看護兵にカンフルを打たれ一日苦しみながら休んだ。一方朝食が終り昨夜のA下士官の捜査である。
「カッタ」に乗り組んだ水兵が、海中を錨で引いていると、足が掛り死体が上ったのである。
A下士官の吊床を利用した藤田には、A下士官の苦しみと、魂の思いが乗り移ったとしか思えない事件であった。又同じくして我が班に又もや自殺者が出た。昔も現在の学生のように、軍隊にもいじめが毎度の事であった。
志願兵で十九才の兵長には、苦労や辛抱が出来なかったのであろうか、或いは仲間に従いて行けなかったのか、朝起きると吊床が空っぽである。起床五時三十分、艦内は暗い、急いで当直将校に知らせる。直ちに警笛が響き渡る。総員に捜査の命令が伝わる。私は朝食の準備中であったが、その時機関兵の一人の仲良しが、艦底で当直勤務中、大きな火の玉が二回も飛び回ったと言って驚いた様子で走って来たのである。
その夜中兵長は海峡に飛込み自殺をしたのであった。兵長は友人や家族に申訳ない旨の書置きを手箱に残していた。三日三晩の捜査にも兵長は遂に発見されず悲しい出来事が連続した。
岩壁に咲く一輪
港桟橋、駅の二階には見張り番所がある。これは船の出入りの看視所であり、硝子張りの窓から湾内が一望出来る見晴らしの良いところである。
そこには一人の女性が何時も出入りの船を眺めて居た。我が艦は相変らずその場所に横付けする。すると小窓を開き手を振ってくれる一人の女性事務員が居た。
或る日、我が班の藤田氏が「今日の外出は俺に付合ってくれ」と言う。何時もの付合っている時とは少し訳が有りそうな気がしていると、一枚の名刺を見せ「これだ」。鍵谷博子の名である。その時藤田氏は、二曹に昇任し、士官仕立てのほやほやの服であった。当日は初めて着る真白な下士官服に金ボタンが輝き、嬉しさいっぱいである。つまり二階の女性、博子にプロポーズの日であった訳だ。
「おい俺ナ、あの娘の親の家へ初めて行くので一緒にたのむ」と言う。これまで一度も話した事がない。初めてなので驚いたが、仕方なくお付合いをする。
午後一時からの外出が待ち遠しい。落付かない気持で居たのだろう。香水を使ったらしく香ってきた。
足も軽く桟橋を通り、栄町を通って坂道を登って行く。坂の中程に小じんまりとした、明るい感じの家が緑の樹に囲まれて建っている。石段を上ると表札が目に入った。鍵谷とある。
藤田氏と博子は打合せが出来ていたのだ。二人は長い間の恋仲らしい。知らぬは私ばかりであった。
座敷に通された。両親に挨拶し乍ら、お付合いの許しをお願いする。両親は、真面目そうな彼を大変喜んでくれた。私も一緒にご馳走になり、その夜は二人で親の奨め通り泊らせていたゞいたのである。父親は、学校の教員であった。その後彼は、上陸の度毎、お泊りしていた様だった。
然しながら間もなく終戦を迎えた。二度と行く事の出来ない異国となってしまった樺太に、手紙さえ出せない。待つ人、待たれる人、あんなに愛した仲、結婚の許しまでいたゞいた二人だったのに、今でもあの二人の顔が瞼に映り忘れ得ぬ思いで出ある。
博子の鍵は開いたのであろうか?・・・
艦橋火災と二人の犠牲者
昭和二十年終戦も間近かな六月頃であった。起床間もない六時頃、私は一人調理室で、朝食の準備をしていた時である。バリバリバリと、大音響と共に火柱が立ち昇って、もの凄い火勢がペンキに燃え移り、悪臭となって煙と共に吹き出して燃え上っているのである。早朝であったが起床して居た水兵科の気転で、早速三、四台のポンプで一気に消し止める事が出来た。幸い水だけは海水で間に合う。
火の消えた艦橋を眺めると真黒に焼け焦げて見る影もない。直ちに大湊へ修理に回航しなければならない。その折、火災の責任問題が大きくもち上っていた。此の時は、当直将校が艦橋の当番であった。
丁度交替の頃、火災が起きたのであった。然しこの当直将校は責任をのがれ全責任が一方的に一兵士に科せられたのである。大湊に入港すると、すぐ横須賀へ行かされ、彼に退鑑命令が出た。待っているのは軍法会議である。彼は一遍の手紙を持たされ淋しく去った。罪無き人が責任を負わされたのであった。
艦は大湊要塞ドックで修理を終り、近日中に出港の予定となった。
悪い事は続くものである。又しても問題が起きた。明日樺太へ帰る前夜、外出先きで一入の下士官が過ちを犯した。この下士官は、大湊に住んでいたので多くの友人も居た様だ。外出で飲み歩き、大分酔い、その勢も手伝ってか、その頃好きであった女の所へ遊びに行った。彼女は最早人妻となっていた。家へ入る事を断られるのもきかず上り込み、人妻に手を出したらしい。その人妻は電話で主人に連絡、帰宅した主人によって警ら隊に知らされ、引渡されたのである。永年の功績も階級も剥奪され、軍法会議に付されたのであった。ところが此の下士官は結婚しており、樺太に妻が待っていたのである。火災で大湊に回航した事も知らずに待っていたのである。
この春大泊に来た妻は、まだ子供もいない若い美人だったが、我が夫の犯した罪など夢にも知らず、修理が終って大泊港に帰った時も待っていたのだった。この時は本当のことを告げれない人事係は、下士官はある基地に転出した事を知らせて、実家に帰るように奥さんに奨めた模様であった。
実に哀れな出来事であり、火災がもたらしたこの二人の人生は、終戦を目前に夢儚くも、嵐と荒波に消え去ったのである。
千人針
「千人針にも一筋の、真心こめます弾除けは、生きて勲を立てるため」と唄われた。その千人針を出征の時親戚のおばさんが丹精こめてつくって載いたのである。
千人針は寅年の人には、自分の年令だけ縫って戴いたものだ。寅は千里行って千里帰るといういわれである。又死戦を越えて五戦で五銭玉、苦戦を越えて十戦で十銭玉が同じく千人針の中に縫い込まれたものである。
私の千人針は今も大切にタンスの奥にしまってある。五銭玉と十銭玉は取り出し、車のキーと一諸に私を守ってくれているのである。
積込み人夫
北の港には、毎年きまって働きに来る出稼ぎ女が訪れる。十人から二十入の若い女性ばかりだ。
つまり渡り鳥であり、浜の荷役積込入夫である。当地の男は殆ど老人しか残っていない。女は背に箱を担いで鰊を運ぶ。一枚の板の上を上手に歩く。
船が入港すると今度は石炭運びである。箱一杯百キロ程もある重いものを、一日五・六十トンも運び込むのである。生の身欠練をかじりながらよく喋るが言葉は悪い。体格は太く気性は男勝りが多いが、よく顔を見ると実に美人が多い。やはり秋田の方の東北の女である。ある日兵隊が負けじと荷役を担いだが、女には負けたようである。
慰問に来た芸人
春から夏になると決って芸人が渡って来る。
大泊劇場は、何回か入った事のある劇場であった。
当時来たのは歌手の「渡辺はま子」と「東海林太郎」であった。渡辺はま子の唄は忘れたが、東海林太郎の唄は相変らず「赤城の子守唄」であった。
あの頃はこの二人の歌手も若々しかった。又「美ち奴」という歌手が来て、「ツーツーレロレロツーレロ」を唄い大人気であった。今もあの時が懐しく浮んで来る。
モノレン島上陸
日本名「海馬島」である。周囲七キロの美しい島、西能登呂岬を廻って、まもなく海峡の左手に二丈岩灯台が見えて来る。本斗郡海馬島である。
静かな夏の日曜日、沖に投錨、カッタ二・三隻に分乗して上陸する。夏は緑と花の島であり特に美しい。浜辺には遠浅の海岸の岩間に、タコの子が蜘蛛の子を散らした様に遊んでいる。
又春の季節は海馬の交尾期であり、安全地帯ということで沢山集まって来る。村長の話しによると、この季節には海の色が真赤になる位、雄同志が雌を奪い合う戦いが始まるということである。なにしろ一頭の体重が「一トン」位あるのは普通であり、豊原博物館には剥製で「三トン」もある大物が飾ってあるのを見た事がある。又この海馬は一日に鮭を十尾も食べるという、漁師には目の敵である。真に海の怪獣だ。冬は流氷に乗って千島方面から流れて来るのも見た。
時には海馬退治の為何回か射撃も実施された。当時村長は我々の上陸を大変喜び、婦人会や青年を集め歓迎し、又帰りは海山の幸を沢山船迄運んで送ってくれた。
今も忘れる事の出来ない思い出である。
なつかしい二人の出逢い
世の中は広い様で狭いものである。青年学校時代の同期生で、私より一年先に徴兵で横須賀に入団、その後南方戦線の水上母艦要員で戦っていた友、上富良野静修出身の山中藤三郎君である。彼は、魚雷攻撃を受けたが、幸い生残りとなり、千歳丸にのるべく樺太の大泊りに来たのである。
夕暮れの港に宗谷丸が舷窓に映って来た。私は夕食の準備も大体終る頃、連絡船が近づいて来るのを一人甲板に出て、客の姿を眺めるのが常であった。
ところが客の中に、裏白な夏服の下士官が、帽子を振って私の方へ合図している様子である。間もなく我が艦に乗船して来た男が、私の大の仲良しである山中藤三郎君であった。彼は私が樺太に居る事を姉からの便りで知っていたらしい。彼はその時は千歳丸に乗船すべく来たが、その千歳丸は現在警備に出て不在、その帰港までを待つ間に私に逢いに来てくれたのだった。
一人配置の調理室で、私は彼に好きな料理や酒を御馳走し、つきぬ話しに更けた。又彼がいる間外出で街を案内し、よく飲み歩いたのだった。
しかしその彼も一昨年の六十一年、六十六才で亡くなった。又或る日、外出し浜通りを歩いていると、江幌出身の小原末子に出逢った。同じ郷里の人に出合う事は珍らしく大変懐しいものである。
柴田早苗の兄
私の斑には私の一年先輩の柴田早苗の兄が主計科にいた。なぜ早苗を書いたかといえば、早苗は小樽出身で、戦後ラジオ番組で藤浦 洗さん等と共に「二重のとびら」の人気番組に出演していたタレントであるからである。戦後まだテレビのない時代の楽しい思い出の一つでもある。この妹の早苗は、兄によく便りを書き、私も度々見せて貰ったものだった。
その柴田は上陸の時には、何時も一緒に大泊一番の雑貨店(長沢商店)に連れていってくれた。この商店の奥さんは、大の海軍好きで私達の上陸を心待ちしていてくれたのである。寒い冬の日などは真赤にストーブを燃し、ムロからビールを出してきて飲ませてくれたりした。その奥さんは後妻で、先妻の子で美人の娘が一人と、自分の子供が二人居り、又女中も一人居た。この奥さんは私達にサービスは良いのだが、なぜか私達が外へ遊びに出るとご機嫌が悪い。
この店の前には映画館や篠田病院があり、病院には愛子という若い看護婦がいた。この愛子も又友達になって欲しいとの事で私達の上陸を心待ちしていたらしい。ある日、偶然にも愛子と出逢った。三・四人で懐山の港を見下す高台に遊びに登った。その時雑貨店の娘に見られ、この時も奥さんのご機嫌はすこぶる悪く、こんな事も何度かあった。
こんな楽しい日々はいつの間にか過ぎ、やがて柴田は士官への昇任と同時に大泊りを離れ、南方戦線に行く日が来た。この時奥さんは、お別れパーティーを催してくれ、記念写真も写したりしてくれた。
それから一年を過ぎたある日、私は再び雑貨店を訪ずれた。柴田は、南方に於いて戦死した報が奥さんに届いていたのである。私は早速奥さんの家族と一緒にお寺に赴き追悼会を行ない、又記念写真を写した。私はこの写真を妹の早苗さんに送って上げた。
大泊りの外出を思い浮かべると、あの雑貨店の奥さんを思い出すが、私達を、我が子の様に可愛がってくれた奥さんの気持に今も感謝している。
    あゝ樺太

北の樺太 春には錬
      秋には鮭が 季節を運ぶ
あの川この川 想い出の
      昔話しを 懐かしむ
  呼べど届かぬ 夢の郷里

冬の樺太 海岸通り
      寒さで海も 泣いている
波のしぶきが 寂しく叫ぶ
      沖を行きかう 連絡船に
  呼べど届かぬ 真岡の港

夢の樺太 還らぬ今は
      険に浮かぶ 豊原通り
行ってみたいな フレップの岡へ
      想い出尽きぬ あの大泊
  呼べど還らぬ 異国なり

機関紙 郷土をさぐる(第8号)
1990年 1月31日印刷  1990年 2月 6日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一