郷土をさぐる会トップページ     第08号目次

清富地区小水力発電(後編)

竹内 正夫 大正十年二年十六日生(六十八歳)

本格的着工

前編で述べたように、昭和二十五年一月工事を進めながら組合を結成し、諸々の申請依頼等を終えいよいよ本格的着工となった。二十八戸はがっちりと固まった。北水社から見積書が来た。発電設備費(横軸型フランシスタービン水車出力十馬力、手動式調整発電機三相交流、五〇サイクル、二二〇ボルト、七・五キロワット)は取付けを含め六十五万円、外水路等労力奉仕七百人、配電工事費七十方円、外労力奉仕百三十人であった。
発電所の工事費は発電機を除き、組合と私個人とで折半の工事負担とした。
一戸平均の負担額は三万六千円位になった。お金の負担に支障のある方には出来るだけ多く出役して貰い、叉木材等を出す事が好都合の人は木材を出して貰い、時価に見積って負担金に振り当てた。
電柱自賄ということにしたが、幹線の柱だけは、揃ったものにしようと、当時農協の山林に手頃の木があるのに目をつけ、農協に相談したところ、快よく承知して貰い、皆んなで伐採から運搬迄一日総出で実施した。
四月末になり、雪も大方溶けた頃から昨年の秋に引続き工事に掛った。皆張切って大勢出てくれた。
作業は水路掘り、水車槽、木樋等大工の仕事、タービン室の石垣積み、掘削の深いところの棚造り、建物等、農作業時期直前にして、大変忙しい中で作業は着々と捗った。水車槽は水が満たんになると、二十トン位になるので、基礎を完全にしなければならないと思い、佐藤芳太郎さんにお願いした。重量約四百キロをカグラサンで巻上げて、杭を打つ作業だが、いざ始めてみると誠に捗らない。そこで又知恵を絞り、カグラサンの代りに馬力を使ってみることにした。少しばかり危険であったが、予想よりも首尾良くやれた。カグラサンの約三倍は捗った。
工事は着々進む、荻野電気の電工さんも大張切り、気がついてみると、他の工事もみるみる進み、水車槽も出来たのに、肝心の水車が来ない。手紙では不安だったので、札幌へ飛んで行った。会社にはこちらへ来るべき機械類がさっばり揃っていない。当時は何処も電灯に不自由していたので、注文が殺到していたらしく造るのが間が合わない状態だった。店先きで社長と大口論をやった。社長は店先では止めてくれ、何とかして点灯式迄には間に合わせるからと約束してくれた。凡ての作業は農作業との関係があるので、順調に進捗し、点灯式を五月二十五日に決めた。
水車等機械類が到着したのは点灯式の三日前であった。据付の工員も一緒に来て昼夜兼業の取付けであった。二十四日夕刻ほぼ据付けも終り、試運転をしてみることになった。他の作業が殆んど終了し、後は電工の内線工事が四、五件残っていた。
作業を終えた人が全員発電所に集まり、試運転を興味深く見守る中で、水槽に水が流し込まれ、しばらくして満たんになり余水路に水が流れた。
機械屋が徐々に調整弁を開く、配電盤の電圧計が五〇ボルト位を指すと、薄暗く点灯した。電圧が一〇〇、一五〇、二〇〇となると皆がついたついたと大はしゃぎ、恰も子供達が喜び叫ぶ有様と変らない状態でした。その内誰かが「俺の家にもついているか見てくる」と言って駆け出して行った。暫くして俺の家ついていないと不機嫌な、而も今にも泣き出しそうな顔で帰って来た。原因は電工さんが工事が終っているのに、安全器を切ったままにしていたらしく、今思えば滑稽な様だが、その当時の事としては無理のない事でした。
今迄家の中が眩しい様な明るさになったことはない。今ぱっと眩しい様な電灯がついたところを確めたい気持で走って行って、ついていなかった時の気持も察せられます。
発電機は木造の建物の土台の上に据付られ、軽いうなりをたて、静かに回転し、発電室は二〇〇ボルトの白熱球に二二〇ボルトを出しているので文字通り眩しい。胸がすく様な感じで皆喜んで我が家へ帰った。
点灯式、祝賀会
翌五月二十五日いよいよ点灯式、町長、助役、組合長、専務、町の商店のご主人も大勢お祝いに来て下さった。神主さんにお祓いをしてもらい、私がスイッチを入れた。点灯式は終り、小学校の運動場を借りて祝賀会をはじめた。田中町長の「ヨカチン踊り」、村上専務の「炭坑節踊り」、受益者や地区内全員招待していたので、地域の人達からもかつてない隠芸も出て大賑わい。酒は清酒も若干あったが、大方は天下ご免のドブロクだった。余りの嬉しさに常日頃酒を口にしない人も随分と戴いたらしく、夜帰り道が解らなくなり、川の中を泳ぐ様に帰った人もあったということでした。
各家庭では、今まで目が暗い処に馴れていたせいか、六〇ワット白熱灯が眩しいと言われた。それもその筈末端の電圧は一〇五〜一一〇出ていたのです〈各家庭の使用電力は一〇〇ワット未満で、電力量が余るので、発電所、水門、学校前等には街灯を着けた。町の人達には今時山の中で街灯等勿体ないと言われたり、又北電の電灯よりずっと明るいと言われ我々関係者一同気分を良くした事もあった。
有線ラジオ導入
その頃市街地を中心に、あちこち有線ラジオが導入され始めた。電灯が好くついたのだから、いっそラジオも入れないかという話が出た。その気になればいとも簡単に入るのである。既に電柱が立っているのだから、これに線を共架すればよいのである。
ものの一時間程の相談で有線ラジオも入れることになった。急に山奥の清富が、街並みになったと、これ又得意にならざるを得なかった。何事かで部落の人達が集まれば、夢のようだ、それを思う度に既に他界された先人達に短期間でも、此の喜びを味わって貰いたかったの話が幾度となく出たものでした。
水利権認可の電気工作物設置認可の調査
さて六月に入って水利権申請に対する調査に、道の河川課と通産局から来られた。まだ調整段階と思って来られたのだが、もう工事は終り、然も電灯はついている。私達は好く早く電灯がついて喜んでいるけれども、河川課等の管理の立場からみるといけない事だった。がっちり叱られた。今迄喜び通しだったが肝を冷された。工事内容も一々当って、全く出たら目だと言う。工事の設計も駄目だという。工事を終ってしまって電灯もついているのだから、工事に設計を合せなさいと言われた。但し次の三点丈は是非役所のいう様に直さなければ駄目だと言われた。それは
一、主任技術者無しの運転は駄目だ
二、木樋の五百分の一勾配は落差が無駄になっているから、千分の一に
  して落差を有効にしなさい
三、放水路の五百分の一勾配は、水が走って土手を崩すから、もっと掘下
  げ落差を有効にするとともに、土手を守る柵を施工しなさい
と言われた。
出来上ってもう好く電灯も灯いていたゞけに、誠に不愉快だったので、「電灯は好く灯いているんだし、今はもう農業の方が忙しいから、これでいいんぢゃないですか、今迄でへとへと疲れているんだからもう手直しは出来ません」と、はね返してやったら、「そんな事言っていたら補助金が貰えないよ、私達が良いと言わなければ補助は出ないんだよ」と言われガクンとした。平謝りに謝って秋迄猶予して貰った。
水路の勾配は、土木工学で決っている事だと言われた。そこで昨年の設計測量で私に追求され、三〇センチ余りと言ったが、実際は一米の誤差を三〇センチと言って、後七〇センチは、木樋や放水路の勾配の中へ紛らした事が解明出来たのでした。
木樋は崩さずに地杭を打替える事は困難なので、既設の桁の上にもう一本桁を乗せて、高さを上げ勾配の修正をした。木樋五〇米余りで約四〇センチの
有効落差が増加した。排水路は、二五センチ掘下げる様に言われたのだが、水を通してしまった今となってはゼリーも使えない、水の中の砂利を洗い流す様にして水下に持って来て、どうにか投上げて一〇センチ余り掘り下げ、これで何とか勘弁して貰おうと腹を決めた。
補助申請
補助申請は役場にお願いしようと思った。だが役場では内容が全く解らないと言われ、直接道庁へ赴いた。補助関係は工務課であった。長い時間待たされた後、今迄の状況を説明し、是非補助金の恩恵を受けたい事を陳情し、申請様式の説明書を貰って帰った。内容をみると経営の計画迄書かねばならない、採算も考えての事なのだ。これでは他人に頼んでも無理だし、私が当初から考えていた、昼間の農産加工と両方でなければ経営は成立ない。
私の考え方を組合の方針とし、夜間は発電、昼間は水力を直接農産加工に使用する。そして農産物の利用の効果迄説明に加えた。
何日もかゝり申請書を作り道庁へ送った。
幾十日かたって道庁から呼出しがあったので早速参庁した。担当者は寺西という頭の美白なお爺さんだった。申請書を手にして、じつと私を見たり、申請書を見たり、交互に繰返し、約十分余りで、ぼつんと「これは誰が作ったのですか」と問われた。
「私です」と答えると、「動力利用のことが面白い、これだけ徴密な経営計画はあんたの処だけだ」、「これはこの通りやるのですか?」と問われた、「はいやります」と答えると「しっかりやって下さい」。それで用事は終りであった。
又幾十日が過ぎた。その頃中央に親ラジオが設置され、緊急要件は親器と親器で話が通じた。
清富も山奥だが電気があり、ラジオがあるので緊急時には間に合った。ある日役場から緊急要件があるので、急ぎ清富のマイクに出る様にとの連絡が入った。急いで学校に行きマイクに出ると、清富発電所に補助金の内定通知が支庁からあった、その金額は四十万円だと言われた。本当に嬉しかった。河川課から調査に来た時は、相当感情を害することがあり、訂正施工も一〇〇%指示通りには実施していなかった。制度では半額助成となっていても、申込み件数も相当多く、予算をはるかに超えているとの噂もきいていたので、三十万円位頂ければ最高と思っていた処だった。
早速マイクを部落放送に調整して貰って、組合員の皆さんに補助金四十万円の内定通知を受けましたと、叫ぶ様な調子で二、三回放送致しました。
発電所造りには、次々と予想以上の好条件なことが出来て、何もかも首尾良く出来上りました。
事の始り頃は、竹内正夫に騙されるな、等と陰口を言われているのを聞いて腹立だしく思った事もあったのでしたが、それはもう何処かえ消失せてしまいました。
運 営
こうした喜びの中で、早くも秋を迎え、風が吹くと落葉が流れて来る時期になり、こゝで予想しなかった難事が待っていた。それは落葉がタービン水車の羽根にぎつしりつまって水車が止まってしまうのであった。夜中にその様な状態になると暗く危険なのでやむを得ず放水して運転を停止しました。
そんな事が二、三度有ったら需要者の中から、何とかして欲しい、小さい子供のいる家庭では、子供が真暗になったら恐ろしがって気違いの様になる子供も居るとの事です。北海水力電業社に問合せたが、小規模発電の場合は如何とも出来ない。手作業で取除くより方法がないという事です。仕方がないので目の細かい芥除器を取付け、その芥除器に引掛った落葉は、私と家内と交代で除去に夜中も起きる事にしました。霜が降り落葉の真盛りに風が吹くと、一時間もたない状態で、全く寝る時間のないことも一秋に三・四日位はありました。
組合からは、技術の方も経営の方も一切頼むと言われ、主任技術者を置かなければ運転してはならないと言われているので、主任技術者の資格取得のため、札幌の主任技術者養成講習会に出向いて受講しました。この講習会は、工業高校電気科の課程を六十日間の詰込み講習を受講させた後、認定試験を行うもので、電気理論、発電工学、電気取締法、電気工作物規定、それに数学があってなかなか容易ではなく、受講者の中にはノイローゼになり、自殺騒ぎ迄起きる場面もありました。
経営の方では、北電の電気に変る迄、十一年間毎日二十四時間運転し続けたのでしたが、当初は十年余りで北電の電気導入に変るとは考えられず、まだまだと自家発電を続けなければならない心算りだったので、発電所の償却積立には気を配り、十年償却の予定で積立てを行い、又少々積立てが出来た頃から資金利殖も考え、組合員に少額でも資金の貸付けも行いました。
こうして五、六年はまたたく間に過ぎ、市街付近から農村電気導入事業が進み、年々何処かの地区で電気導入がなされました。その都度有線ラジオが増加し、その親器の所へ中央の線が張られた。その線路の支持柱が稲架木の様な柱に路線の曲りが多いので、雪に押されたり、或いは馬が触れたりすると傾いて、部落間の線と中央の線が接触して、他部落の連絡事項が全町に流れることが度々でした。その頃は休電日が多かったが、休電の日でも有線ラジオがやゝ低く流れて来る。どうしてか?と思われた事が随分あったと思われる。これは清富発電所が無休だったので、清富の親器のラジオが混線して全町に流れていたのでした。
電気は文化のバロメーター等と言われたその頃、清富の電気のラジオが全町に低くでも流れているのだ等と噂さされ、何かい、気分になったり、又転勤して来られる小学校の先生が、避地四級、電気も水道も無い事に成って居るのに、電気も水道(簡易)も有ると言って大喜びして下さる姿を見て、発電所造りの苦労の報いを感じたものでした。
昭和三十年を過ぎるとテレビが導入され始めた。
テレビを導入するとなれば、今の自家発電の電気では全々足りず、電圧の一定しないのも障害になる。
発電所も老朽化して来て居り、此の際北電々気導入に踏切ろうかとの運動が始ったのは三十五年であった。北電の電気となると、今迄の自家発電の組合員だけでなく開拓者、赤点灯者、部落全員五十八戸で今迄の二倍を越す戸数になった。
この運動の主力となったのは、村上国夫君、金盛一郎君でした。
農協が事業主体となり、自家用受電式で、この頃の避地の電気導入はこの方法が多かった。
北電との話しが順調に進み、工事費の負担額が算定され、二戸当り十三万余であった。今迄の自家発電組合員の人達は十年間発電所の償却積立を積み、且つ利殖を行い、又配電線路の電線約三トンが、買入れ当時の二倍単位の価格で負担金に算入されたので、実算新規の負担金は僅か三万円余りですんだのでした。
北電の電気が導入になったのは、昭和三十六年十二月でした。
発電所が廃止となり、タービン水車も発電機も雑品として五千円で売られることになり、明春雑品屋の手で取りはずして行かれる時には、十一年間毎日夜も昼も手掛けて来ただけに涙が出てしょうがなかった。あの時私に五千円の余裕金が在れば、記念として買い取って置きたかったが、その時の私にはそれだけの余裕はありませんでした。
昭和五十八、九年頃迄私の前が発電所と言うバス停留所になっていました。四十年頃から転勤して来られる小学校の先生が、発電所も無いのに何故発電所と言うのですかときかれ、今迄の発電所の事をお話しすると、大変驚いて、子供達がそんな事を知らないでいるから何かの機会にぜひお話しをして呉れとか、或いは記録が欲しい等と言って下さった先生もあったので、何時の日か書き残す必要があると思って居りました時に、郷土をさぐる会の加藤さんから語があったので、良い機会だと思い寄稿しました。
吾が町の歴史にこの記録を残して頂く機会を与えていたゞき感謝にたえません。
尚大理石の配電盤丈は残しておりましたが、これもこの機に上富良野町郷土館に寄贈し、永久保存として収蔵していたゞく事になりました。

機関紙 郷土をさぐる(第8号)
1990年 1月31日印刷  1990年 2月 6日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一