郷土をさぐる会トップページ     第08号目次

きのこ談義

高橋 七郎 大正九年三月十五日生(六十九歳)

秋の訪れで、周囲の山々が色づき初める頃になると、山歩きの好きな者にとっては、キノコ採りの楽しいシーズン到来であり、親、兄弟にも教えない、キノコ採りの穴場とでも云う場所へと想いを馳せるものである。
「このキノコ、食べられますか?」古新聞紙にくるんだ大小様々なキノコ類が、秋の日射しの差込む机の上に拡げられる。地元の古株である私に対して、幾らかキノコの知識でもあろうとの見方か、仕方なく『そうですなー、食べられますよ、どんなキノコでも……焼いて、煮て、干して、いためて!そして食べた後で笑いだすか、痺れるかそこまでは保証できません!!』「なーんだ!」の顔をして、包を置いたまま室を出て行く、貧弱なボリボリ類やら名も知らぬ小粒キノコ類で興醒めな品許りで。
在隊当時、秋になると繰返えされた話である。

キノコの種類
山々に囲まれた町だけあって、山菜も豊富であり、キノコ類も森林、原野を問わず、何百種に及ぶキノコ群が発生する様である。その内の一部分であろうが、一般的によく知られ、又私が採り、食したものは二十数種類位で、次のキノコである。
1落葉キノコ(ハナイグチ)、2ボリボリ(ナラタケ)、3タモキノコ(タモギタケ)、4マツタケ(モミタケ)、5ハッタケ、6ヤナギタケ(スギタケモドキ)、7ムキタケ、8ヒラタケ、9ハナビラタケ、10マスタケ、11ヒトヨタケ(ササクレヒトヨタケ)、12カゴタケ(アミガサタケ)、13ユキノシタ(エノキタケ)、14ナメコタケ、15シイタケ、16クロシメジ(ヤギタケ)、17ムラサキシメジ、18ホンシメジ、19ホテイシメジ、20ハタケシメジ、21マイタケ、22コガネタケ等である。
然しながら落葉キノコに例をとっても何種類にも分れているところから前記の外に数は倍加される。
本町にもキノコ通の福田さんを初め、数多くの方々が居られ、種々珍らしい話、エピソードも聞くが、最近特に熱心な町職員の北向君は初物と云っては落葉キノコ、珍らしいコガネタケなぞ運んで呉れるので嬉しく頂いている。相当キノコ通になった様でその内に舞タケでも舞い込んで来るのではなかろうかと、福の神を念じている。
ハナビラタケは一度だけ、十勝岳登山道のトド松切株の上に発生していたのを持帰り、図鑑と照し合せて初めて知ったキノコであり、又マスタケは山歩きで見かけてはいるが、普通のサルノコシカケ位で見すごしており、偶々占冠でナメコ採取時の道すがら路端に落ちていたキノコを木村 了氏が「これがマスタケで、鱒の味に似ている」と教えられたサルノコシカケ科のキノコである。
カゴタケの発生場所に出会った事はないが、義弟がトラクターで開拓用地稼動の際に採取して来た分を篭一杯貰って食べた。味は格別美味であったが、キノコの穴に砂が入っていて洗っても取り除くことが出来ず、ジャリ、ガリと頂いた記憶が残っている。
次に本町では、あまりキノコの歴史は古くないところで、偶々キノコとの出会いを探って見る。
1.落葉キノコ(ハナイグチ)
周囲の山が落葉松林に覆われていた時代もあって、本町の落葉松植樹は盛んに行なわれた様である。
記録によると、明治37年、前郵便局長の河村善次郎氏が現在の丘町に落葉松を植樹された事が記されて居り、炭坑景気の上昇と共に、坑木として利用された落葉松は、歴代村長兼務で運営された森林組合長、村上国二氏達先覚者の熱意と指導に依るところである。
大正九年、私が生れた頃、家から一番手近にある西町の通称丸一山に、金子全一さんの先代庫三氏が落葉松を植えられた由、大正十五年十勝岳爆発災害時、丸一山周囲は泥流、流木に覆われたが、高台であったため西側の笠原さん宅と落葉林は無事であった。
昭和となり、災害復興、開拓最中で、一般の人々もキノコなぞに関心を持つ余裕もなかった筈で、その頃から落葉林にキノコが生え始めた様である。
金子全一さんの話によると、当時丸一山へ行く道すがら、切株にボリボリ(ナラタケ)がたくさん生えていても採る人が居なかったとのことである。
落葉キノコは、落葉林にしか生えないとされている、最初の頃、岐阜出身の親達も落葉キノコなぞは見た事もない筈である。傘が茶色、茎が白い落葉キノコ(シロヌメリイグチ)だけを子供達に採らせて三杯酢等で食べ始めた様だ。その内黄色(ハナイグチ)(ヌメリイグチ)の方が落葉キノコとして採り易く常食する様になった。
林の中はよく手入されて居て、子供時代の良い遊び場でもあった。帽子とり、陣取り、かくれんぼ、戦争ゴッコ、そして兄達とキノコ採りに行っても誰も採らず、種を播いて植付けた様に生えていて、一時間位で今のみかん箱二つ位は子供達で充分に採れた。家の前でキノコを洗って居ると、附近のおばさん達は「そんなキノコ!喰べられるの!」鮮かな色なので毒キノコとしか思えなかったのであろう。
今ではすっかり貴重品となり店頭ではおろか、山々には札幌、北見、釧路ナンバーの車まで押かけて、昨年の秋には交通整理のおじさんまで出動したとか大変な人気であり、山や森林の持主も頭痛の種が益々増える時代となった訳である。
2.タモキノコ(タモギタケ)
ハルニレ、ヤチダモなどの切珠、倒木に群生するタモキノコはマイタケと共にキノコを代表するもので、天然ものには、仲々お目にかかれない時代である。
落葉キノコ採りに興味を持ち始めた昭和の初期、明憲寺南側(光町一丁目附近)フラノ川沿いの川岸一帯は雑木林が残っていて、爆発災害時には根元を全部泥流に覆われて、比較的大きな樹木が生き残っていた。その為雑草も、笹薮もない平亘な泥流地で、歩き易く、よくクワガタを採りに行き、遊んだものである。暫らくしてその附近の手入れが行なわれ始めた。涙橋(上富良野橋)を渡ってすぐ南側へ約七、八十米の長い桟橋が設けられ、その末端からゴミを捨てる様になって、当分の間は市街地区ごみ捨場として利用された。
ある夏の午後、兄達のゴミ捨てに荷車の後について行き、桟橋末端からゴミ箱を引っくり返した。
可成りのゴミの山が出来ていて、桟橋の末端の高さは子供心に丁度平屋根の天辺に登った様な感じで、四、五米はあった様に思われた。ゴミの山も時に桟橋に届いていたので、引くり返したゴミ箱は七、八度もんどり打って、遥かなゴミ山の端末まで転がって行ってしまった。
箱を拾うためゴミ山を下まで降りて行った兄は、先方の立木の根元に黄色い塊を見つけて皆を呼んだ。
近づいて「何だろう?キノコに違いないけど……一抱えもあるキノコの群生で、色も鮮やか、特有のキノコの匂いである。先づは親達に見せようと兄は抱え持って帰路についた。
桟橋を渡り終えたところで大人の人に出合った。「お前達!そんなキノコ喰べたら、死んじゃうぞ!」大変だ!命あっての物種と許り、兄は慌てて抱えていた塊を道端に投げ捨てた。然し次の兄は一握位の株を捨てずに持ち帰り親に見せた。始めてのキノコの様だったが、匂いや形から食キノコと認めて、夕餉のお吸物に僅かであったが皆で食べた。その実味かった味と、捨てたキノコの恨めしさは生涯忘れることが出来ない想い出である。自分にとっては天然のもののタモキノコとの出会いは、恐らく始めのそして終りであろう。
部隊の人達も、演習その他で山野と駆け廻る機会が多いだけに、矢張りキノコとの出会いも有るようで、安政太鼓の生みの親とも言われる前田さんも、キノコ好きで可成り精通されて居られる様だが、タモキノコの見事な株と出会い、念のため福田さん宅に持ち込んで、タモギタケの確信を得た話を聞き、キノコ騒動を想うと羨ましい限りである。
僅かな株で採るに足らないタモギタケは、深山峠下の橋たもとの立木の上や、中茶屋附近に積み重ねられた薪の上部に黄色い姿を見かけたが、採る程の塊には出合いそうにもない。
今は愛別、塩狩等で盛んに栽培され、スーパー店頭に並べ売られているが、味、匂い共優るのは天然物とされている。
3.ボリボリ(ナラタケ)
ミズナラの木などの広葉樹や、針葉樹の切株、白樺、埋れ木等の周辺、草むら等至るところに生えるキノコなので食した人等も多い筈である。
昭和十年頃、大雄寺境内の白樺林が泥流跡の自然生えで大人の背丈程に伸びた頃、道端に小粒ながらボリボリが群生し、小篭に採っていると、近所の顔見知りの小母さんが「そのキノコ食べられますか?」『ハーイ、ボリボリです』この様に当時は余り、キノコには関心をもたなかった様である。
特に十勝岳山ろく、中茶屋附近の伐採林跡地や、その跡地に植林まもない笹薮等に、大型のポリポリが無数に生えていた。
キノコが非常に脆いだけに、採った後は慎重に取扱わなければならない。
秋日和にバイクで遠乗りがてら、日新奥地でダンボール箱一杯に採り、積め込んでバイク荷台に縛り付けて、意気揚々と砂利道を飛ばして帰り着き、箱の蓋を開いてガックリ!、中身は粉々に破けてキノコのキの字すら見当らず全部捨てた記憶がある。
昭和三十八年秋、晴れた日に東京から転勤されて来た部隊の厚生科長夫妻を伴って、中茶屋奥の伐採跡地に案内した。
車を降り笹薮の整理されている植林地帯に入ったが、暫らく経っても奥さんが追って来ない。仕方がないので車まで戻り、「どうかしましたか?」と聞いたが、奥さんは車の中で青い顔を強張らせている。
訳を聞くと、一歩笹薮に入った途端、大きな蛇(青大将)を跨いで仕舞い慌てて車に逃げ帰ったとのこと。無理もない話で、都会育ちの女性でなくとも嫌なことであり、仕方なく科長と二人奥に入った。
丁度出盛りで、有ること有ること、這いつくばって袋と篭に入れる。偶飛沢尚 武さんに出会い、心強くなって更に奥へ進む。両手の容物が一杯になる。科長は入物が間に合わず、真新しいワイシャツを脱ぎ袋代りで詰めこむ。二人共一時間足らずの内に両手、背中に持ち切れない程採り、これも蛇様の御利益と奥さんを慰めて引揚げた。
保存法として乾燥を教えたので、その晩狭い官舎部屋一杯に拡げられたキノコの図と、驚いた奥さんの姿を想像して何時までも懐かしい想い出となっている。
4.クロシメジ・ムラサキシメジ
落葉キノコが有り触れて興味も薄らいでいた昭和45年頃、横山末松さんに誘われて始めて静修奥の当時は町有林であったトド松林へ出掛けた。
最初は小粒のムラサキシメジだけに終ったが、二度、三度と行く内に、クロシメジを教えられ、マツタケ(モミタケ)も二本許り採ることが出来た。又種々様々なキノコ類が生えているのに驚ろき、ハツタケ類からサクラシメジ類と数知れぬキノコ群を見かけたが、自信のあるクロとムラサキより採る気にはならなかった。
シメジ類でも、特にクロ、ムラサキは輪になって生えていることを知り、一本見つけてから目をこらし、輪の方向を見定めてから除々に手前から順に採って行く。根こそぎでは次の年の楽しみがなくなる思いがして、土づきの所を残し丁寧に抜いて行く。
鼻うたまじりの楽しさで、一つの輪で30個から50個、時には一ヶ所で持ち袋一杯になった時もあり、このキノコ狩りは病みつきになった。
ムラサキシメジは、名の通り美しい紫色で、誰にでも判かるキノコである。然し陽当りの良い所で採ったキノコは、汚黄色・汚褐色に変っているのでよく採り残されている。少し苦味があって魅力に欠ける。本には雑木林に発生すると記されているが、私は主にトド松林か落葉林より入らない為、たまにその林の中に楢の大木があって、その木陰に群生する見事な紫色の一等品を五・六年続けて採取出来たが、次第に数も減り遂に発生しなくなった。
晩秋の晴れ渡った日の午後、上天気だったので高橋唯一さんと、江幌奥のトド松林に取り残されたキノコでも拾ってくるつもりで出掛けた。
林道を百米程登った処で、この辺から入って見ようと一歩林に入った途端、見事に大輪となったキノコの集団に出合った。傘は全開して色も汚褐色の上、十五米位の輪で隙間一つもなく植付けた様に見えた。
この林の中で誰も手をつけていないのが不思議に思ってか、唯一さんは食べられないキノコと始めからきめつけて採る気配がない。
傘うらの茎のつけ根にムラサキ特有の色が僅かに残っている。『ムラサキだよ全部!!』それでも唯一さんは半信半疑でリュックを降し、手に持った袋を広げて片っ端から採り入れた。優にミカン箱三個分は在った様だ。唯一さんは「これから旭川の親せきへ行くから見せてみる」と言うので、自宅には以前充分採取して有ったので全部持たせ、ムラサキに間違いないことを念を押して別れた。
唯一さんはそのキノコを旭川に持って行き、弟に見せたら町内の人達が伝え聞きして集り、一時間足らずの内に全部貰われて仕舞ったそうで、都会の人達の方がキノコに詳しかった話である。
5.手近に生えるキノコ
(1) ホンシメジ
家の前が鉄道用地で、線路両側は未だ雑草潅木が生えていて処々繁みが残っている。
昭和48年頃、鉄道用地払下げの話が出て、ある日美瑛保線係員の測量手伝いをすることになり、潜ったこともない線路向い側の潅木の中に入った。
巻尺を引き、測り終ったところで係員の人が、白い大きなキノコを見つけた。経25p程の美しいシメジだったが、食べられる真偽の程はわからないままに捨てて仕舞い、その年は探しもせずに終ったが、翌年近いところだけに潜って探して見た。
二、三ケ所見事に輪をつくり発生しているのを見つけ、毎年秋になるとガサゴソ潜り50ケから100ケ位は採取してムラサキやらクロと一緒にして乾燥保存し、冬の食卓に供している。
然し線路向い側も次々と工場建物が増えて、近年次第に発生数も減って行くことは淋しい限りである。
(2)ユキノシタ(エノキタケ)
鉄道用地払下げを受けた百坪程の三角地帯に、アカシヤの大木が二本自然生えで在ったので、切らずに残し日陰に役立っていたが、その根元に雪の降る頃小さな株であるがエノキタケが発生した。
降り積もった初雪が消え始めて、時季はずれのキノコが姿を現わす風情も又格別で、朝餉の味を一段と盛上げて呉れる貴重なキノコである。雪虫が飛びかう頃になると楽しみにしていたキノコであるが、前の台風でアカシヤが一本倒れた為取り除いてからは、根元に発生していたエノキタケも遂に姿を現わさない。
各種の樹木を植えて置くとその内にキノコ類も発生することを確信している。
ムラサキシメジも二、三度発生したので、今度は落葉キノコを夢見て五十本程植林した訳である。
昨年は近所の家垣ヒバの根方に沢山キノコが生えた知らせを受けて、早速行って見るとエノキタケが無数に発生していた。雪虫の飛んでいる頃なので間違なくエノキタケと素人なりに判断し、夕飯に食したが異常もなく、又楽しみが増えたところである。
最近はキノコ栽培が各地で盛んに行われていて、店頭には季節感やら、有難味なども失なわれている位に年中売り出されている。自然の恵みに浴して山歩きの楽しさを味わう為には、是非心掛けなければならないこととして、国、町、私有山林を問わず、管理、責任者も定められ、又所有者も居られることなので、一応は通報、承諾を得て行動することで、火の用心は勿論のこと、迷惑のかからない様諸々の事項を守り、気持よく歩き採らせて貰うことが肝要である。
秋晴れや、雪をいただく十勝岳の季節になると、あの山、この林のどこかの木陰でひっそりと生えたキノコの下で、おとぎの国に出てくる様な小人達が、輪になって踊っている幼い時の夢を見ている、のどかな今日この頃である。

機関紙 郷土をさぐる(第8号)
1990年 1月31日印刷  1990年 2月 6日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一