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続・戦犯容疑者の囹圉記

故 岡崎 武男 大正七年七月五日生(昭和四十三年没)

 囹圉記 (12)
自 昭和二十一年五月八日
至 昭和二十一年五月三十一日




五月八日

出獄のINAの老人の、煙草を置きし姿忘れず南方軍兵士の作品……
 抑留の くらしになれし われともは
     明日の作業の 鎌をとぎける
 うれしきは 雲の似顔の さまざまに
     透き人をと 想わせること
 新しき 道の速さよ 更衣

五月十一日
 帰還せば 農に決めたと 獄庭を
     鍬ふり耕す 友の尊く

五月十二日
 砂の上 克く耐え忍べと 書きしあり
     友の気持ぞ 我が思いなり

五月十三日
 戦犯の 公判終えて 独房へ
     横田少尉の 影やいたまし
判決 憲兵司令部 横田少尉 二年

五月十四日
戦犯の取調べも首実験や、旧敵国人の告訴により一人二人と呼び出され起訴されてゆくが、此の頃は毎日の食糧が一日十オンスと制限され、身体の衰弱が目に見える様になって来た。
他の憲兵の戦犯問題にまで、神経を使う丈の精力がなくなって来た。誰もが一日中なるべく動かず、静かに監房の中で寝て、腹の空くのを成るべくなくする様に心掛けた。

五月十六日
此の独房は、大監房の二階建で、階下に入る者と階上に居る者とは気分的に衛生的に大変差があるため、一ヶ月交替をする事にした。今日は階上に交替の日である。僅かに二十二段階の階段を登る途中で一休みして登り切る有様である。

五月十七日
曽って戦時中に苦しめられた上官に対し、仕返えしの様な態度が露骨に出て来た。
今日も司令部副官を引張り出し、戦時中の人事についてつるし上げを食わしていた。今更悪かったと許らせて何になるのかと思うが。

五月十八日
 久しくも とれる鏡に 寂しきは
     ほほ骨出でて ひげの老いたる

五月十九日
食糧の制限は、戦犯の審理と共に益々制限された。
食糧の分配には毎回紛争が耐えなかった。此のため食糧の分配には皆の飯ゴを一ヶ所に列べてそれに分配し、その量を箸をたてて計る様になって来た。

五月二十一日
判決 憲兵隊司令部
    永原大尉 四年
    山崎軍医 無罪
    野口兵長 無罪

五月二十二日
 故郷の 夢を見たしと 願いつつ
     願うが程に 思いかなわず

五月二十三日
全員の蚊帳を引上げるから全部出せとの事である。
某憲兵中尉の蚊帳を利用した自殺未遂があったのだ。
南方生活でカヤを取られては、日本人は一日も生きてゆけない。貴重な一滴の血を吸われる事は全く殺人行為である。

五月二十八日
一度は受けねばならない取調べを覚悟していたが、今日呼び出された。幸いにして指名される何ものもなかったため無事に帰された。何かホッとした思いである。而し安心してはならない。約八百名の同志がいるのだ。

五月二十九日
 山墾き 羊を飼いて 温かき
     暮らしぞしたき 夢をえがきぬ

五月三十一日
 炊事場に 上る煙りを 待ち暮らす
     永き一日 なおながきかな

機関紙 郷土をさぐる(第8号)
1990年 1月31日印刷  1990年 2月 6日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一