郷土をさぐる会トップページ     第08号目次

― 各地で活躍している郷土の人達 ―
十勝岳とふるさと会と私

株式会社 時事ジャーナル社長・札幌上富良野会会長
南  順二 昭和三年八月二十日(六十一歳)

眼前に十勝岳がある。感無量だった。この前に来たのは、母が亡くなって、気落ちしている父と正月を家で過しても寂しいので、新年をカミホロ荘で迎えることになり、長兄一家と入山した時だから、もう八年になる。その父も昨年亡くなった。
札幌に≠モるさと会を作ってほしいという話は、和田前町長の頃からあった。たまたま、私が新聞社の社長をやっていたので、同郷人の消息を知るうえで都合がいいと思われたのであろう。そこで、時折り会合で顔を合わせる床鍋繁則さん(北農中央会長)や西尾六七さん(元道議会議長)らに話し、同意を得ていたのだが、多忙で責を果たしていなかった。
酒勾佑一さんが町長になって、安田英雄助役が札幌の小社に訪ねて来られるようになった。同級生の久保栄司君の紹介によるものである。安田さんは、非公式ながら町長の要請でもあるというので、いつまでも延ばしておくわけにはいかなくなった。私は新聞社を辞めて時間にゆとりが出来ていたので、今度は本気でやらなくてはと思うようになった。
何事でも同じだが、新しい組織をつくる時は『いつまでにつくる』というタイムリミットと決心が大事である。そこで人脈も広く手固い組織人の和田俊雄さん(元道庁幹部職貞)、宗谷支庁長の花輪洋一さん(当時は生活福祉部次長)、久保栄司君の弟さんで道総務係長の久保勝美さん等に相談、皆さん積極的に動いてくれ、六十三年十月に設立総会を開くことができた。会の名称は『札幌上富良野会』と決めた。
総会には酒匂町長、安田助役、小野三郎議長、菅野 学農協組合長、堀内慎一郎商工会長、南 藤夫観光協会長、平井 進道議ら町から十数名がかけつけてくれ、総勢百八十名を超える盛大な懇親会になった。
現在、会員は札幌市と近郊市町村で四百名余りだが、少くとも、この倍くらいはいるのではないか。これも町からの情報や道庁勤務の町出身者が頑張ってくれたからで、有り難いことだと思っている。
私は四十年以上も故郷を離れていたので、せっかく総会に出席してくれた先輩諸兄の顔も定かでなく、失礼したむきもあったと恐縮している。しかし、大方の人も同様だったらしく「あの方はどなたでしたっけ」という風景があちこちでみられた。それでも何十年ぶりかの同級生や同じ地区・町内のなつかしい顔を見つけて話がはずんだ。
私の乏しい人脈でお名前を書くのをお許しいただくと、まず金子 淳先生のかくしゃくたる姿が目立った。長身のスマートさは相変らずで、ご壮健そのものと拝見した。床鍋繁則さん、海江田尚信さん、町村末吉さん(和田前町長弟・町村牧場主)、河村善翁さん、古谷正之さん(旧姓河村)らも見えた。
私の同級生では、北電を定年退職して系列会社の役員をしている長瀬賢一君、商店を経営している古茂田信一君、一級下で今でも交友のある旭川いすゞモーター社長の山出善一君(旧姓守田)もきてくれた。また女性の出席者が多く、四十代の若い(?)人達もかなり出席してくれた。旭川中学の頃在町した拓銀の山内 宏頭取も顧問に就任いただいたので次回から出席してくれると思う。
その上富良野会の「第一回ふるさと訪問旅行」を、五月十七日の十勝岳山開きに合わせて行った。
十勝岳噴火の見舞いを兼ねての初企画だったが、さすがに不安もあってか参加者は四十名余りだった。しかし、全員が「来てよかった」を実感した楽しい旅だった。冒頭の感慨はその時のものである。
私事になるが、私は上富良野尋常高等小学校(戦時は国民学校)の高等科一年を出て、昭和十七年に旭川市立中学(現北高)に入った。太平洋戦争が始まっていたので、軍需工場や援農にかり出されることが多かった。同郷からは古沢伊和夫、石川炳両君が同期生にいた。古沢君は間もなく陸軍に志願して十五、六歳で戦病死した。石川君は清富小学校から旭川に転出、一高、東大を出て愛知県刈谷市の中山工業社長として活躍している。彼は今でも朝鮮籍を変えず、南、北祖国の続一に努力している。
私達は終戦後の二十二年(四年卒は二十一年)の卒業なので修学旅行をやっていない。そこで平成元年の今年、満六十歳になる者が多いということで、九月に定山渓温泉で修学旅行を兼ねた還暦祝いの集りを持った。全国から六十名余りが参加、石川君とは同室だったので、故郷の話が徹夜ではずんだ。
中学卒業の年、恩師の末広宗一先生が父のところへきて、私に教師になるよう勧めてくれた。勿論初めは代用教員だが、努力次第で正教員になれた頃である。当時はまだ復員も始まったばかりで、先生の数は極端に不足していた。正直なところ私は迷った。
父は家畜商として、戦時は軍馬でかなりの利益を上げていたから生活に不自由はなかった。だが、さりとて受け継ぐ家業でもない。敗戦のショックで日本の将来も全く見えない時代だったが、私は父の反対を押し切って東京の大学に進んだ。母だけが唯一人の理解者だった。
二十七年に大学を出て、検事になろうと研究室に残った。教授の勧めだった。当時から司法試験は難関だった。しかし、父母からは、そんなに援助は続けられないと言われ、また研究室の周囲はみんな優秀で自信がなくなったので、この年の秋、旭川に本社のあった北海日日新聞の東京支社に入社した。こんな地方紙でも競争率五十倍の就職難時代だった。
戦後はあらゆる物質が不足していたので、新聞は白い紙でも売れた時代があった。ということは新聞社にとっては好景気であり、民主主義の世の中になって新聞記者の活動範囲は限りなく広く、そして華やかなものだった。しかし、朝鮮動乱が終り、国内全般の景気がよくなるに従って、新聞社は激しい競争の時代に入っていった。このため地方紙の多くは経営困難に陥り、北海道新開と張り合っていた北海タイムスは、北海日日新聞、小樽タイムス、釧路の東北海道新聞を次々と合併、吸収してシェア拡大をはかっていた。発行部数に大きな差はあったものの、三十年代は道新、タイムスが道内二大紙といわれたのである。
東京には三十三年春までいた。国会、政党、首相官邸、開発庁、道庁などを担当して、多くの政治家や官僚を知ったことが、その後の仕事に役立つことになった。大野伴睦、緒方竹虎、石井光次郎、鹿島守之助、山口喜久一郎、佐藤栄作という大物開発庁長官の北海道視察に同行できたのも、その後の政経部記者として大変プラスになった。また、中川一郎さんとは彼の役人時代から亡くなるまで三十年も交友が続いた。いま政界は若返り、皆さんこの世を去った。
#コちゃんの愛称で親しまれた大野さんには思い出が多い。その一つが上富良野と縁がある。昭和二十九年、第六次吉田内閣の開発庁長官となった大野さんは、初め道内視察に青函連絡船経由を指示した。函館を見たいというのである。羽田―千歳の航空路線は既に開設されていたので、青函経由の道内視察は大野長官が初めてだった。
実は、この来道には大野さん個人の目的があった。岐阜県出身の大野さんが幼児の頃、大野家でお守りをしてくれた女性が上富良野にいたのである。秘書官の中川一郎さんが新聞社などを通じて調べた結界その所在がわかった。その女性とは、当時町内で映画館を経営していた桐山さんの母親である。何十年ぶりかの村面は、土田次郎さんが経営していた割烹で行われた。大野さんは懐しさのあまり涙ぐんで「こんどは俺のオンブする番だ」と実の母親の如くいたわり、周囲を感動させた。大野さんらしい人情話だが事実である。大臣さんと一緒に、当時としては高級車で上富良野入りした私をみて、父は驚いたようだった。
その後、何かの雑誌にこの一件を書いたのを桐山さんが読んで、その時の写真を送ってほしいといって来た。あわてて探したが、たしかに保存してあった筈の写真がないのである。入社してから九回も引っ越したので、その間に紛失したのかもしれない。
桐山さんには手紙でお詫びするしかなかった。
大野さんは、このあと釧路視察中に政変の知らせで急きょ帰京、吉田内閣は絵辞職して、暮れに鳩山一郎内閣が誕生した。その後自民党副捻裁としての大野さんの活躍は周知のとおりである。
札幌に来てから政経部、論説のほか岩内、帯広と地方勤務も経験した。その間三十年代後半からタイムスの経営が悪化しはじめ、雪印乳業の黒沢酉蔵先生が社長、町村金五先生が会長になるなど言論の火を守る努力が続けられた。
当時こんな秘話もあった。四十七年春の事である。
富良野出身で苫小牧東部開発の社長だった太田 剛さんに、黒沢、町村両先生から「北海タイムス社長」の白羽が立ったのである。太田さんは私の家内の親戚である。太田さんが断ったので実現しなかったが、当時論説にいた私に内々の電話があった。このため、町村会長、川村秀雄社長(元道教育委員長)の新体制が発足、四年程続いた。私はこのとき役員に起用され、総務局長、労務担当などをやったが、経営が苦しい時だけに、労組との徹夜団交などはしょっ中だった。
川村社長は八十二歳まで頑張ったが、五十二年退任することになり、私に社長の指名があった。私はまだ四十八歳未満で、しかも専務から数えて序列は五番目だったので固辞したが容れられなかった。いろいろあったが、在任中二度黒字決算をして、五十八年に三期六年の社長を退任した。五十四歳だった。
話を本題に戻そう。中学生の頃から戦後にかけて、私は十勝岳に十回程登っている。パーティーはいつも、親友だった松野寛志君(元上中松野茂夫先生の弟)、海江田徳信さん(現上富町議博信氏の兄)が一緒で、石見昭郎君(江幌中で先生をしていた)が同行したこともある。三君とは終戦後の東京でも親しく往き来していたが、松野、海江田の両君はすでに故人となった。石見君は佐呂間町で商店を経営しながら、商工会の事務局長、教育委員長で活躍している。
登山といっても、あの頃は学生服に地下タビのいでたち、リュックサックに三、四日分の食糧をつめ込んで、市街から徒歩で登ったものである。中茶屋から宇余曲折する七十七曲がりはなつかしい思い出である。夏山ばかり登ったが、雪渓でヒグマに遭遇したこともあって、かじ屋のグラインダーで削ったヤスリの山刀を持ち歩いた。山小屋は白銀荘と勝岳荘を利用したが、設備の劣っていた勝岳荘の方が多かった。その勝岳荘も今は取り壊されてないようである。
ある年#nの背あたりで深い雲に包まれ、下山出来なくなった事がある。そんな時にリーダーが大変な力を発揮する。女性を含む一行五名が命綱のロープで体をつなぎ、数時間もかけて勝岳荘にたどり着いた。命からがらだった。山男を自認する徳ちゃん(海江田さんの愛称)の頑健なからだ、落ち着いたリーダーぶりが、とてつもなく頼もしかったのを覚えている。
あの頃、私達はまだ十代の若者だったので「十勝岳は、うちの箱庭みたいなものだ」などとうそぶいていたが、予定日に下山せず、営林署から油をしぼられた事もある。町のシンボルみたいだった吹上温泉は今はないが、九条武子歌碑や泥流の近くにあった大正十五年爆発遭難者の霊びょうはまだあるのだろうか。少年時に「十勝岳は上富良野のもの」と信じこんでいた気持ちは今も変っていないようである。
いまは亡き友の話になると感傷的だが、もう少しお許しをいただきたい。松野、石見両君は小学校同期、徳ちゃんは一級上だったが、私達は本当に仲がよかった。松野君は頭が良く、難関の東京外語ロシア語科に入り、私は無二の親友として兄事していた。
徳ちゃんは函館師範、石見君は親戚を頼って東京の中学に行った。三人とは東京の学生時代も社会人になってからも交友が続いたが、松野君が逝き、続いて人並みすぐれた体力の持ち主である徳ちゃんが、あっけなく世を去ったのはショックだった。
松野君の兄弟は皆さん絵が上手だった。次兄の成夫さんには、小学生の頃、十勝岳など風景のスケッチを教えてもらったこともある。また、長兄夫人の妹さんは私の家内と女学校の同期で、そのご主人が北海道放送勤務ということもあって、今も家族づき合いしている。
石見君は、もうすっかり佐呂間町に根を下ろし、町の発展に獅々奮陣の活躍をしている。教育委員会の仕事で久保栄司君との交友が続いていたらしいが、私も彼の仕事を一、二手伝ったことがある。一つは、東京の何処かの区と姉妹縁組みしたい、もう一つは、赤字で因っている国民宿舎「華園」の引き受け手はないかということだった。
姉妹縁組みの方は、毎日新聞の知人に紹介したが、どうなったか。東京砂漠で生活する子供達を、自然豊かな佐呂間の湖や森に親しんでもらおうというものである。しかし、この種のものは本州の過疎町村も同様に熱心で、競争相手は多い。北海道の自然は確かに魅力だが、距離的に難行するだろうと心配している。
国民宿舎の方は、札幌でグリーンホテルなどを経営している北海道振興の久米聖治社長が、大学の後輩で親しいので、石見君に紹介して好くいった。
北海道振興が華園を全面的に買収して、六十三年秋に新装オープンした。同社は近くゴルフ場も作るらしい。秋に祝賀会の招待を受けたが、長男の結婚式と重なって行けなかった。
北海道は明治時代、本州各県からの移住者が血と汗で開拓した島である。多民族国家ならぬ多県人島なので′ァ人会組織が強かった。今は三代目、四代目が主流となり、また本州の支店経済で人口の移動が激しいので、余り活発とはいえないが、アメリカ大陸のように、移住者が団体で入り込んで開拓したからこそ存在する特有の現象に違いない。
これと似た形で、今盛んなのがふるさと会″ということになるだろう。その代表格が東京の「北海道倶楽部」で、在京の県人会のなかでは最大の規模を誇っている。昭和二十年代から長い間、町村さんと太田さんが会長、理事長だったが、昨年から中田乙一会長(三菱地所相談役)高秀秀信理事長(水資源公団総裁)が代表となった。
ところが、五十代年になって東京札幌会、同旭川会というように市町村が相次いで≠モるさと会″をつくるようになり、その傾向は札幌まで波及してきた。戦後の工業化社会が、国民の移動を活発にしたので、大都市に人口が集中するようになり、人々は潤いを求めて≠モるさと会(昔の県人会)を復活させたのだと思う。
東京には何百という≠モるさと会があると思うが、もう十年も前に「東京ふらの会」がつくられている。会長は太田 剛さんである。太田さんは富良野市出身で&x良野は東洋のスイスのキャッチフレーズを政、経済界に宣伝して歩いている。そんなことから財界誌の三鬼陽之助さんが、&x良野バカとあだ名をつけたほどである。勿論ひやかしてのことである。
「東京ふらの会」は、一単位市町村の他の組織と違って富良野一円を対照としている。たしか、富良野市、上富良野、中富良野、南富良野、占冠の一市三町一村で構成されていると思うが、私も上京の折り二回程出席させてもらった。お陰で、戦後全く会っていなかった同郷の知人何人かに会えた。望外の喜びだった。同期の谷原和子さん(旧姓西野目)と妹さん、一級上だと思うが遠藤慎治さん(葵設備株式会社社長)吉田敏明さん(五建工業株式会社社長)、まだ若い方で毎日新聞の高松 弘さんらである。
私は記憶が悪いのか、四十年ぶりの相手を思い出すことが出来ず困惑するばかりだったが、谷原さんは「すぐわかった。昔の面影がある」と私を見つけてくれた。それなのに、私の方は谷原さんに少女の昔を見出せなかったのだから、四十年の歳月はたしかに長い。
私は、いま新聞社の延長線上の仕事をしている。だから第二の人生とは考えていない。新聞社時代からの公職も「代って下さい」と言われない限り続けてやっている。ただ、ご指導いただいた方々が$ク神派だったので、どうしても思考が古典的になるようである。
一例をあげれば、黒沢酉蔵さん『新聞は社会の木鐸である』。町村金五さん『新聞は曇りなき社会の鏡である』。川村秀雄さん『新聞もまた教育なり』といった調子である。皆さん、明治の気骨で人生を貫いた方ばかりなので、モノ・カネ至上主義を嘆くのである。要は、日本も経済大国になったのだから気持ちにゆとりを持て。自己中心を反省して、人類、自然を見つめた地球的視野を養え、という訓えだと解釈している。
いま地方自治体は、それぞれ手作りの地域活性化に努力しているが、これなども、あまりセクト主義に陥ると、競争の弊害の方が強くなるのではないだろうか。富良野地域だって、自然環境は同じでも自治体が異なれば、利害は必ずしも一致しないはずである。それどころか農協も、商店街、観光業者も相互にしのぎを削っていることだろう。
「上富良野が母村だから言うことを聞け(笑い)という訳ではないが…」と、何人かの首長さんと話したことがある。特産物を同一ブラントにするとか、観光PRを一元化するなど、これからは広域化や、ブロック別に戦略を立てる方がより効果的ではないかということである。道路・交通体系などのアクセスはじめ、水や土地利用はもとより、近未来社会に対応するためには、一自治体の能力は極めて限定されると思うのである。十勝岳観光にしても、関係市町村が協力することによってもたらされる相乗効果の方が、単独でやるよりもはるかに大きいと考える。
現代は自由競争社会である。理想を掲げてやって来たはずの共産主義国家さえ行き詰って、方向転換を図っているのである。しかし℃ゥ由民主主義″にも弱点はある。優勝劣敗、弱肉強食の社会を是認するところから出発しなくてはならないからである。
自由社会で住みやすい社会。この事について、私の心服する黒沢酉蔵先生は「(運命)協同体」主義で私達を指導された。この考え方は、アルフレッド・マーネスの「一人は万人のために、万人は一人のためにある」という思想に由来しており、私の最も好きな言葉である。先生が亡くなられて、今年の九月、七回忌の祭事(キリスト教)が行われたが、今年は生誕百五年に当たる。先生はまた、世界連邦主義者でもあった。国境がなくなる日は遠いが、この思想は現実の俗論と同格で教育的に語られるべきだと思う。
故郷、友人から私の人生観まで雑感をとりとめなく書いた。一枚の繪会長で夕張市出身の竹田厳道さん(東京夕張会会長)が「故郷は、ダメになる程愛着が強くなる」と言ったが、分かる様な気がする。
遠ざかって行くもの、失なわれて行くものに対する想いが、いっそう募ることはよくある。
「国破れて山河あり」というが、国境はなくなっても≠モるさとは消えないし、宇宙時代になると「故郷は地球という表現になるかも知れない。
そして何よりも、故郷に錦は飾らなくても、せめて顔向け出来ないようにはなりたくない、と思っている。
著者の主なご経歴
昭和三年、上富良野町錦町一丁目、故南喜四郎次男として誕生、上富良野小学校から旧制市立旭川中学校(現旭川北高校)を経て、日本大学法学部を卒業、北海日日新聞社(現北海タイムス社)に入社、在東京政経部記者となられ、昭和三十九年から本社各局長論説委員、支社長を歴任後、昭和五十二年から五十八年まで北海タイムス社長。
現在、北海道政治行政情報誌、時事ジャーナル会長のほか、北海道私学振興基金協会理事、北海道開発審議会特別委員など多くの要職をされておられる。
(編集部)

機関紙 郷土をさぐる(第8号)
1990年 1月31日印刷  1990年 2月 6日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一