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名誉町民・村上国二氏を語る

安部 彦市 昭和五年一月二日生(六十歳)



裏山からのどかに聞こえる小鳥のさえずり、時折聞こえるうぐいすの声、つきる事なく湧き出る真清水の池の面に、映ゆる大樹の影を見つめながら、悠々自適の日々を送って居られる村上さんの八十有余年に及ぶ、その歩んだ道程を省りみながら、逆境と茨(いばら)の青春、更にいくつもの大きな社会的な試練に対し、確たる信念と自らの力によって、これを乗り越えて来られた村上さんを語るに当り、村上さんの発刊された「生いたちの記」を読ませて頂き、また度々お伺いをいたし、種々昔話しを拝聴しながら記してみました。


明治三十八年三月一日、四国徳島県富岡町に、父善次さん、母ヒデノさんの三男として生をうけられた国二さんは、小学校二年生の時家族八名と共に北海道に移住された。田中農場の小作人として、現在の東中、東五線北十六号付近に落ち着かれたのである。時は大正二年二月の事であった。南の国徳島に比べると、北海道の二月は全く雪と氷の別世界であった。同年四月一日、東中小学校の三年生として編入、少しずつ北国の生活にも慣れようとしていた九月のある朝、登校中不意に足掛けをされ、又学校に於いて当時よく遊んでいた降参相撲で、その足を更に痛めてしまい、足が腫れ、引ずって歩く全くの重病人になってしまった。この時が原因の骨膜炎は長い間村上さんを苦しめた。
日夜高熱と痛みに苦しむ姿に、父母は町内飛沢病院に入院させた。
病院では手遅れのため、骨が腐り足を切断しなければ治らないと言う医師の診断であった。母は泣いた。いつかこの足は切り落とされるのかと思うと一人でに泣けてくる。深夜の病室に母と子の泣き声が悲しく響いた。然し医師は足をいつ切るとは言わなかった。
母が最後迄頑張ってくれたおかげだと思う。
四月に一応退院したが治った訳ではなく、通院をしなければならない。馬がいないので十九才の兄が、毎日手橇に乗せて引張って行ってくれた。
珍しいものを見せてくれ、うまいものを買ってくれ、雪が溶けると背に負うてくれた兄。馬がほしいがまだ馬は買えないと、口では言わなかったが、馬が好きだった兄のあの日の顔。
「生いたちの記」に記るされた村上さんの文章の一節である。
信仰深い母の慈愛と、温かい兄の愛情によって、村上さんの足は切らずに救われたのであった。
小作人は地主に年貢を納める。水田の年貢は反当り米一俵であった。当時の米の平均反収は四俵位、その中からの一俵は大変なものだっただけに、何とか自作農になりたい。これは小作人の悲願であった。
大正四年秋、村木農場に売地が出たので買い求め、念願の自作農になった。村木さんの跡地で、面積十五町歩、内耕地が七町程あり、湧水があり、陽当りの良い現在村上さんの住んでおられる所である。従って今迄慣れた東中小学校や、友人と別れを告げ、江花小学校へ編入する。山の中腹の江花小学校は、生徒五六十人、先生一人の複式学級であった。
この思い出の江花小学校も統合により閉校となり、今は公民館江花分館に変り、その周辺は町内一の古木が繁茂している。また櫻の名所として多くの人々の憩いの場、公園として今も存在するが、村上さんには、何時までも心のふるさとである。
村上さんは小学校は卒業したが、高等科に通う事は出来なかった。しかし向学心に燃える友達と共に夜学に通った。六年生の復習から始め、中学の講議録を学び、出来るだけ多くの書を読み、先生の話を聞きながら少しでも心の糧を畜えるため励んだのであった。
第一次欧州大戦で日本の景気はよくなった。特に北海道では豆の価格が上り成金農家が続出した。
しかしこの大戦の好景気は僅か三年位で終り、後に残ったものは悲惨な畑作農家の夜逃げという姿になってしまった。
能弁な村上さんの父は、土地売買の中間に立つ事が多く、売ったり買ったりして儲けているうちは良かったが、一流のブローカー相手となると売買も大きくなり、不況の訪ずれと共に次第に損失が大きくなっていった。兄が入営する前は、一時奉公人を使ったり、出面を頼んで耕作していたのが、僅か三年位の間にこの土地も人手に渡り、更に多額の負債が残ってしまったのであった。
母が「世の中が嫌になったから死ぬ」と言ったのも無理もない。土地ブローカーの華やかな社交界の中で、父が家へ帰れない心境も原因も解っていながら、どうする事も出来なかった。
冬来たりなば春遠からじ、吹雪の北国も次第に春めいて来たある日、幾寅の浅野牧場へ嫁いでいる姉の所へ遊びに行った。姉の家の仕事を手伝いながら何日か経ったある日、朝から大吹雪となって仕事は全部休み、家族の者は親せきの処へ遊びに出かけ姉と二人きりになった。
姉は囲炉裏のそばでつまごを作り、村上さんはわらを打っていた。姉が二十五才、村上さんが十五才の時である。色々の話のあと、姉は女性だけに家庭を守っている母の立場、母の気持がよく解っていた。
姉「国二、浅野牧場の中に〇〇さんという立派な人がいるが、この人は大変出来た偉い人で、村や公共のために働いている。然し子供達は皆道楽者ばかりで、次々と家を飛び出し、酒だ女だと金ばかり使っている。上富良野の実家では父の事業失敗のため、私はここに嫁いで居ても何かと肩身のせまい思いをしておる。国二、お前のところは大変だけれども子供は皆真面目だ。いくら貧乏でも心まで貧しくなってはいけないよ。姉さんは嫁に来た身だから、いくら実家の事、母の事を心配してもどうにもならない。国二、村上家はお前がしっかりやってくれなければ………」
国二「姉さん心配しなくてもいいよ、国二はどんな事があっても村上家のために働きます。学校に行っているとき、足の病気の時も父母や兄さん、姉さんの世話になった事は忘れません。必ず村上家を再興させ、御恩返しを致します」
見合わす顔、とめどなく涙が二人のほほを伝って止まらなかった。
吹雪は相変らず止まず、炉の火はとろとろと燃えていた。
「父の借金は俺が働いて返済する」「村上家は必らず再興させる」「母には自分達の力で必ず心配をかけない」「石にかじりついても必らずこの信念をつらぬくぞ……」
十五才のこの時のこの誓いを村上さんは終生忘れない。何時も涙をためながらこの話しをしてくれている此の強い決意のもと、夏は野良仕事に出て働ける限り働いた。秋には樺太に渡り造材にと、村上さんの青春時代は始った。しかしその前途には幾つもの大きな障害が待っていた。足の骨膜炎が再発し、樺太大泊庁立病院で大手術を受けなければならなかった。探さ九糎、長さ十五糎にも及ぶ大手術であった。
このため何ヶ月も仕事を休んだ。また造材作業中伯父の倒した丸太の下敷きとなり九死に一生を得た事もあった。又、同じその日北海道の実家が火災で丸焼けとなってしまった。焼跡にぼう然とたたずむ母や妹の姿を思い起す時、余りの不運に己の運命を呪い、挫折感に陥り働く気力も抜け、眠れぬ日々が続いた。しかし絶望の淵に立っても、かすかに浮かんで来るのは、幾寅の姉が真剣に語ってくれた、あの言葉と再興を誓った自分の言葉であった。
苦しみばかりで楽しさを知らない幾年かの歳月は流れた。こうした逆境の中で、債鬼に責められながらも、ただひたすら村上家の再興を願い、この実現に向けて働いて来た努力は少しずつ報われて来た。長い少年以来の忍苦の年月が静かに去り始めたのであった。農家の生命線ともいうべき土地を五町歩買い求める事が出来、除々ではあるが村上家再興の基礎は固まり始めたのであった。
当時を思い起しながら感慨探げに村上さんは言う。
あの時、最も喜んで呉れる筈の幾寅の姉に、この姿を見せる事の出来なかった事が本当に残念だった。(姉は大正十四年故人となっていた。)
涙と共に誓った姉との約束、その姉ももういない。病気で入院していたが見舞にも行けなかった。亡くなっても葬式にも、お詣りにも行けなかった村上さんが、せめてこの姉の恩に報いるために、その遺児四人を引き取り養育したという。
自分の生活が大変な中、更に姉の子供達迄引き取り世話をすると言う事は並みの人間に出来る事ではない。
昭和五年、村上さんは緑あって川井たまえさんとご結婚され、厳しい中にも希望に燃えた第二の人生への門出は始まった。
昭和五年、江花青年団の団長を勤められ、又昭和十年には農地委員を、昭和十三年には推されて江花行政区長に就任された。生活の厳しい中で勤められた色々な役職は、村上さんの人生に於ける人間形成、知識の吸収の面で大いに勉強になった事と思う。
昭和十五年、当時の村会議員、芳賀吉太郎氏の後任として村上さんが推され見事当選された。以来昭和三十八年の辞任迄の二十四年間、信念の男として庶民的な飾らぬ人柄と地味な努力は多くの方々の信頼を得、昭和二十六年町制施行の年から町議会副議長として町の発展、町民の生活向上安定のため、尽力されたのである。
江花は団結力の強い統一の取れた円満な部落であった。終戦後の昭和二十二年、昭和二十六年には、村上さんの外に石川庄一さんも立起され二名の町議会議員が誕生していた。その後村上さんの辞任後は大場清一氏、新屋政一氏と変り、それ以後は部落から町議を推薦せず、西山地区からの候補を応援し今日に至っている。時代の流れとはいいながらも何か心淋しい感がする。
村上さんは、昭和三十八年多くの関係者に推され、町長選挙に立起する事になった。「海江田武信氏」「床鍋正則氏」と三人の戦いであり、三ッ巴の選挙戦は白熱化し、江花部落民も総出でこれを応援し、見事当選の栄を確保されたのであった。加えて昭和四十二年再度町長に選任されたのである。清潔なそして温厚な人柄と深遠なる識見と、実行力をもって町民の先頭に立ち、新しい町づくりを目指し東奔西走献身的に活動された。
昭和五十四年天皇誕生日の佳き日に、勲五等讐光旭日章の叙勲を受けられ、更に昭和五十六年菊香る文化の日、町制執行三十周年記念式典に於いて、名誉町民の顕彰も受けられたのである。
これは村上さんの過去に於ける功績を如実に表わすものであり、部落民挙げて祝賀会を催し、この慶事を祝い長年のご苦労にねぎらいの言葉を送ったのであった。
戦事中農業会が設立されて、田中勝次郎氏が会長を努めて居られたが、昭和二十二年農業協同組合法が公布され、新しく上富良野町農業協同組合と、東中農業協同組合が産れる事になった。
昭和二十三年二月、上富良野町農業協同組合の設立総会が開催され、初代組合長に石川清一氏、初代専務理事に村上国二氏が選任された。何れも新人理事であった。しかし専務理事に推挙はされたが、家庭にも相談の上でと返事を保留し、父善次さんに相談した結果、「折角選ばれたのだから、どこまでやれるかやれるだけやってみよ」と言った父の一言で専務理事は決定したのである。
しかし組合長、石川清一氏は、昭和二十二年道議会議員に、昭和二十三年からは北海道農民連盟委員長として、また昭和二十五年には参議院議員として道政に、国政に、農民組織にと全国、全道を奔走され、組合長の留守を守り続ける専務理事は重大な責任を負わなければならなかった。
人間一代の中には、その運命を大きく変えてしまうような分岐点に差しかかり、そこで重要な判断をしなければならない時があるものである。村上さんが専務理事に就任されるに当り、これにふみきる迄には相当な迷い、悩みがあった事と思う。
設立間もない農協が、昭和二十四年六月十日、八町内の大火に依って重要な施設建物の大半を焼失してしまった。幸い事務所は免れたものの、それでなくても今迄大変だった農協は、本当に苦難の道に立たされたのであった。村上さんは火災の後任末の陣頭指揮に当りながら、更に農協本来の体質改善と復興五ヶ年計画を立て、先ずは出資金の増口に当った。連日連夜誠意をもって部落を廻ったという。然し当時の出資金は少なく、これが成功する迄はどうしても他の方法で資金を継がなければならず、中富良野農協に救いを求め、その年に四百万円、翌年三百万円を借りて何とかこの危機を脱したものだという。
上富良野農協の最も苦しい時、中富良野農協によって救われたのであった。今日では出資金も増額され施設も立派になった。これまでの出来事は今では上富良野農協設立当初の裏話的な事柄でもある。
その後役職員の献身的な努力と、組合員の協力により、昭和三十三年には農協設立十周年記念式典を、昭和三十四年には農協ビルの落成を行っている。農協設立以来、専務理事として農協発展のため精魂を傾けた村上さんは、昭和三十五年の改選期を以って理事を勇退された。
その後、新屋政一氏、中田 正氏、御子息村上 誠氏、前川勝治氏と絵花地区からの理事は続いている。
又村上さんのこれ迄の功労を讃え、昭和六十三年四月、上富良野農協の定期総会に於いて、中西覚蔵氏、高木信一氏と共に名誉組合員の顕彰を受けられたのであった。
少年時代姉との固い約束の村上家再興を一時も念頭から離さず、苦労をしながら努力された結果自立経営が出来るようになった。こうして青年時代、夏は農作業に、冬は造材事業にと何年間もの繰り返しの中に学び得た木材の知識は、村上さんを植林事業への理想と希望を強く印象づけた。姉に誓った村上家再興は植林事業でと目的は定まった。
目的が決まると多少無理な計画でも気持で押し切り、守るより攻めの前進しかない。
昭和十四年に十五町歩、昭和十五年に十町歩、昭和十六年に十町歩と計画通りに植林を進めその理想は着々と進行し、遂に念頭の百町歩を越え、百五十町歩の植林をなし得たのである。
この村上さんに対し、森林組合から組合長にとの強い要望があり、昭和三十三年遂に森林組合長の重責を背負う事になった。
村上さんは、植林は自分自身一生の事業であると同時に、上富良野町を北海道で最も植林の多い町にしたい、きっとしてみせる、これは農協専務理事時代からの一つの夢であった。
木を植えるという事は、公害を防ぐ最も重要な緑の産業である事を自負し、植林を奨励し、間伐の重要性を強調した。そのため上富良野町は山林面積の七〇%が植林地に変り、その比率は全道一となったのである。
その頃、全道の森林組合長が一堂に会する北海道森林組合連合会の大会が、札幌自治会館に於いて盛会裏に催された。
この大会に於いては、各地区代表が五分間ずつ林業に対する所信を発表することになっていた。
上川を代表して演壇に立った村上さんが語り始めると、前回迄野次と怒号が飛び交っていた会場も、静粛になり真剣に聞き入り、話しが終ると同時に万来の拍手が響いた。
その要旨は、北海道農業の在り方の中、植林の育成というものであった。
当時の農家は一戸当り三十万の負債があり、これを解消する為には、一戸当り三町歩の植林を行ったならば、この返還は出来る。併せて農家経済の立て直しが出来ると言うものであった。
それ以来、上富良野には林業の強者が居るとの認識が広まり、やがて是非とも連合会の常勤理事として努めて貰いたいと言う強い要請があった。しかし村上さんは、自分はそんな器ではないが、連合会の内容を知る為に出来るならば監事としてつとめさせていただき、三年後に考えてみたいとの返答をした。監事は北海道で三名、道南、中央、道北の三地区から出ている。この時上川、空知を含む中央部はすでに内定していたが、これを断り村上さんが北海道中央部からの監事として就任されたのである。
常勤理事の件は、上富良野町長に就任されたため実現を見なかったのであった。
昭和四十七年頃から、富良野市、中富良野町、上富良野町、占冠村の森林組合の合併話が持ち上り、昭和四十八年四月、富良野地区森林組合が発足した。
事務所を富良野市に置き、初代組合長に村上さんが就任された。しかし種々の事情もあり、同年十一月組合長辞退を決意され、長い公職生活のすべてに終止符をうたれたのであった。
上富良野森林組合長に就任されてから十五年間、陰に陽に自身の経験と実績を基に、植林を奨励して来られた村上さんの大きな指導力は高く評価されている。こうした功績に対し、昭和四十八年五月、北海道緑化功労者として知事から表彰を受授されたのである。
ここに村上さんの良く語られる言葉と、「生いたちの記」に記された心境の一部を記してみる。
「青年二十五才迄に志を立てよ、そしてその実現に努力せよ」十五才の時姉と涙ながらに誓った村上家の再興を立派に実現させた村上さんの信念であり言葉である。
「父賢なりと言えどもその子必らずしも賢ならず。母賢なればその子賢なり」
婦人の会合などでよく使われた言葉のようだが、自らの母、姉を偲びながら、世の母親が広い範囲で大いに勉強してほしい。そして子供達の幸せの為に、賢い母親に成って欲しい。との願いをこめた言葉でもある。
「鳩に三枝の礼儀あり、鳥に百日の孝あり、犬は三日飼えば三年その恩を忘れずという」(まして人間は………)村上さんへお伺いする度に開かされる言葉であるが、今日己あるのは両親のお陰、親への感謝の念を忘れてはならない。
この教訓は多くの子供さん達に深く受継がれ、誠さん夫婦をはじめ、兄弟の方々がやさしく愛情をもって接しておられる姿は実に美しい。
「もの心ついて以来しなければならないと思った事を、私は予想外に早く達成する事が出来た。天にすがり、地にひれ伏すという天地自然への随順の心に、神も同情を寄せてくれたのかと思うと、そこに感謝の念が湧いてくる。自分の事が出来たら社会公共の為、何かその力に応じてしなければならないという気持ちが、私の心の何処かに眠っていた。若しこの心の芽が生長し始めなかったら、私はきっと恥かしい人間になっていただろう」
村上さんは貧者の一灯と言いながら、江花小学校に体重計を贈られたのを始め、江花小学校校旗、江花女子青年団団旗の寄贈の他、公共に地域に尽くされた事柄は数え切れないものがある。
昭和十五年十一月、私の家が火災で丸焼けになった事がある。その折り村上さんから激励の手紙と共に、仮住居の材料を全部私の父がいただいたのを覚えて居る。人の悲しみを己の身に感じ、考えてくれる人である。
親と言う字は、立木を見る心と胸に刻み木を植えた。また人々にも指導して来たが、全ての公職を終えて十余年、今静かに思い出の山に足を運ぶ時、豊かな天地の恵みを受けながら、五十余年の風雪に耐えて育った落葉松が天に届けと伸びている。太い幹から梢まで静かに見上る時、過ぎ去った想い出が次ぎから次へと浮んで来る。
骨膜炎に苦しみ、債鬼に責められた青春時代、樺太への出稼ぎ、九人もの子育てに励んでくれた妻の姿、父、母、姉への想いが、顔が走馬灯のように瞼に浮んでは消えて行く。
町議会議員、農業協同組合専務理事、上富良野町長上富良野及び富良野地区森林組合長と長い間公職を努めた事も、今ではもう過去の夢なのである。
波乱万丈だった人生の八十余年の年輪の一つ一つの輪の懐しさをしみじみと感じられ、本当に感慨無量のものがあった。今日こうした生活が出来るのも、父母、兄弟、息子夫妻を始め、部落、町内外多くの方々の支えがあればこそと、改めて深く感謝の念を抱くのである。(本人の意表文)
昭和五十六年に上富良野町から名誉町民の顕彰を受けられ、更に昭和六十三年には上富良野農業協同組合から名誉組合員の顕彰を受けられた。
このように行政の面から、又経済団体である農協の両方から、顕彰を受けられて居られる方々は、上富良野町にただ一人しか存在しないのである。
今静かに余生を楽しんで居られる村上さんに接し話をきく時、その飾らぬ人柄と、一貫して貫いて来られたその信念に思わず引込まれてしまう。質素な生活の中、これ程大きな人間として、大きな試練の数々を乗越えて来られた人とは、全く思えぬ静かな語りの中に、明日への町の発展と、人々が仲良く平和な地域づくりを心から願っておられる。そのお気持に接し本当に敬意を表するものである。
今日長男誠さん夫婦、孫達の温い心遣いを始め、立派な子供さん達に囲まれて、自己の歩んだ道を省み、現代社会に生きる者への考え方を朴突に語る村上さん、今後一層健康に留意され、何日までもお元気で、何日までもお幸せでありますようにと祈りつつペンをおく。

機関紙 郷土をさぐる(第8号)
1990年 1月31日印刷  1990年 2月 6日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一