郷土をさぐる会トップページ     第07号目次

廃馬の想い出

薮下 鉄次郎 明治四十四年十一月十日生(七十七才)

私が、昭和八年十一月二十日、現役兵を満期除隊したころの事です。実家の新潟で隣に住んでいた佐野様の母が、重病患者で入院しておられた時、満州鉄道に勤務していた次男が、母の見舞いの為帰郷しておられました。この時無職の私を見て、満州鉄道に入社する様に勧められ、私も一たんは満州鉄道に入社する事を決意しましたが、その前に兄が北海道に居るので、満州に行けばもう兄に逢う事も出来ないと思い、迷った挙句、兄に逢ってみようと思い、昭和九年二月十日上富良野村東九線北十六号の兄の処に来ました。
北海道に来てみて先ず農業の経営面積の広いのに驚きました。ここで兄に一緒に農業をしようと勧められ、満州に行く事を断念して、農業の見習として働く事になりました。慣れない農業の仕事、まして馬は生れて初めて扱うので大変心配でもありました。
同年十二月十九日、薮下みさをと結婚。
昭和十年、水田六町五反と畑一町歩を、西谷元右ヱ門さんから、又辻 甚作さんの水田一町歩を借受、小作農家としてスタートしました。兄と私は耕作面積は区分しておりましたが、農作業は一緒でした。
馬も二頭の内一頭は、私の管理責任でした。冬の間馬の運動をさせないで燕麦を与えていました。春三月ある日市街に肥料運搬の為、馬小屋から馬を出した処、元気がよくて富原近く迄走り続けました。
肥料を馬橇に積んで市街を出て間もなく、跛行を始めました。家に近くなった頃には可哀相な位足を引きずりました。翌日市街の河井獣医さんに見て貰ったが骨軟症と診断されました。馬の運動不足から来る病気と説明され、しばらく毎日治療に通いました。
水田を耕し始めの頃は、午前中使用して午後は休ませておりましたが、とうとう代掻きには使用出来ず、市街の牛馬商にお願いして新たに馬一頭を二百五十円で購入して蒔付作業を終らせました。農作業を終った時期には百二十円位の馬との事でした。
牛馬商の勧めにより、この骨軟症の馬を肉用に売りましたら、わずか十円でした。こうして初めての年から、農業経営における馬の大切さを痛切に感じました。また昭和九年、十年は苦労したのに不作で、反収三俵半位でした。しかし十一年は幸い豊作で五俵余りと記憶しています。
当時、北海道庁の指導で、農事実行組合事績共励会と言うのがあり、内容は除草、堆肥、農家簿記の三種目が優秀な農事実行組合を表彰すると言う制度でありました。昭和十一年、東中九、農事実行組合長の飯村葭次郎さんから、事績共励会に申込みするから努力して欲しい旨伝達がありました。私は、自分の水田除草や、堆肥の増産するのに、共励会制度を不思議に思いましたが、耕作面積が広いので止むを得ない事かと思っていました。幸い除草と堆肥は上位の成績を見込めましたが、簿記の記帳については、組合員二十六戸中記帳している家庭は少なかったのです。飯村組合長さんは困ってしまい、組内の青年四名に各家庭の経営面積と家族人員に応じた経費を簿記に記帳する様に依頼しました。
それからこの四名の青年は、分担して毎晩各家庭にお伺いして、御主人や奥さんに聞きながら簿記に記入するという随分苦労を重ね、ようやく全戸分を完成致しました。そして簿記の検査の結果合格点となり、しかも総合点数が一位となり表彰を受けました。
飯村組合長さん始め、組合員の喜びの顔が今でも瞼に浮びます。祝賀会には村長さん代理として、新井収入役さん、議会代表として西谷元右ヱ門さんが出席され、記念写真も撮り楽しい一日でした。
私はその後健康を害して農業をあきらめ町外に転職する事にした処、西谷元右ヱ門さんのお勧めを頂き、昭和十五年十二月上富良野村役場に就職、昭和四十四年六月依願退職して現在に至っております。
時代が変りましても、農業経営には堆肥の増産と農業簿記の記帳は大切ではないでしょうか。
最近上富良野町農村を考える会が発足して、今後の農業経営に対し、あらゆる角度から研究されている事を聞き非常に嬉しく思っておる一人です。更に一層の努力を期待致します。

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一