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蜜蜂の群れに襲われ絶命した農耕馬

本間 平 明冶三十九年十二月十五日生(八十二才)

此処に蜜噂騒動の登載に当り、先ず初めに被害馬の持主の谷本芳秀さんの経歴の一部を記してみたいと思います。当町内のお年寄りの方には、接触交際された方が多くおられることと思います。
芳秀さんは、大正六年香川県より、当上富良野細野農場(現在は日新鰍の沢)に父谷本彦六さんの長男として、祖父亀吉、父の妹フジノ、父の弟友一、母トクの一家六名と共に入植し、昼なお暗い雑木林を切開き開墾農業に従事されました。
昭和三年一月、母トクさん死亡三十八才、同月二十三日祖父亀吉さん死亡六十二才。昭和二十三年父彦六さんは村会議員に当選され、明けて二十四年四月二十八日任期半ばに惜しくも死去されたわけでした。
区長その他在郷軍人の役職等も何度もしておられ、特に大正十五年の十勝岳爆発当時は、上川管内の在郷軍人の奉仕隊の一員として、後片付け清掃等に従事されました。寝食を忘れてとはこのことと、つくづく感心致しました。何事につけても、身を粉にし、人々の先頭に立って御苦労された方であったと、今尚その姿が偲ばれます。

谷本芳秀さんは軍用地に入植されたのですが、切っ掛けは、日新鰍の沢と演習地が地続きであった関係で、戦争中軍の依頼で茅原を二町歩開墾したことでした。そこに大根、人参、牛蒡、キャベツその他の野菜を耕作し、旭川第七師団司令部の糧秣所に、鰍の沢部落の白井藤蔵さん等七人の人達と共に納めていたからでした。
終戦後、この人達に濱習地が農地に開放された時点で、報償として昭和二十三年一人当り十町歩程の払下げを受け、現在の如き立派な農地になったのであります。

私もその頃江幌部落で農業を営んでおりました。終戦間際の八月十日頃からだったかと思います。
江幌に吉田貞次郎さんの所有地の落葉林が約五町歩程あり、愈々敵の攻撃が日を追う毎に迫ってきましたので(当時は極秘で一般人には解らなかった)、狩勝峠に防空壕を構築する材料に、このから松林を伐採して運び出す作業を、現役の兵隊さん達が担当しておりました。私も当時、第二国民兵の一員として、在郷軍人の籍に入っていたためと、同じ部落の住民のため使役に加わり作業に従事しておりました。
八月十五日午前十一時ごろだったと思います。上空に味方の軍用機が飛来して空から何か信号で知らせているようでした。この時は私達は何が何だか理解が出来ませんでしたが、まもなく兵隊さん達が作業を中止し、彼方此方へ一団となって集合して談合の後、三三、五五と帰隊して行きました。今思えば終戦の知らせだったようです。伐採された沢山の丸太は、その後そのまゝ処置されず放置されてしまったわけでした。

その後、昭和二十一年の春に吉田貞次郎さんから、貴方に苦労掛けた山であったのでと、薪代に若干残してあった丸太と横木をもらうことになり、枝木拾いの時に、吉田さん、清野さん達と一緒に拾いました。私は、清野 達さんと身近に接したのはこれが初めてでありましたが、その後折りある毎にお逢いして親密の度合いが深まって来たわけです。
昭和二十四年の秋に、清野さんから突然に「君、僕の願いをきいてくれないか、実は叔父の吉田喜八郎(吉田貞次郎さんの弟)と僕とで演習地を二戸分払下げを受け、開拓者として入植することになったが、開墾して見ると、なかなか困難なことで成功がおぼつかない、どうだ一つ引受けて開拓してくれないか」との事でした。私も耕作面積が余り広くなかったので、喜んで早速引受けることになった訳でした。

お年寄りの方なら既にご承知の事と思いますが、終戦前なら日本航空界の権威者、陸軍中将吉田喜八郎閣下と、陸軍少佐清野 達さん、到底私如き者はお側にも近寄れなかったものでした。
ここに来て私は意を決して、昭和二十六年に後地入植者として、こゝ美瑛町美馬牛新星に入植、二十七年に白井藤蔵さんの発案により、部落名称も妙見部落と命名、以来昭和四十六年秋まで開拓民として頑張って参りました。
当時、日新鰍の沢部落から入植されたのは、白井藤蔵、白井吉四郎、白井一美、谷本友一、谷本芳秀、千葉春之進、大川義秋、道井イセノ、大森重夫、西塚福一の十名、上富草分から斉藤松治、水谷 茂、日の出から山崎盛一の方々も一般入植者として、同部落に居住されていたわけでした。私の土地は谷本芳秀さんと地続きでした。

さて、私宅に三年程前から、夏になるとクローバーや菜種の花、シナの木の花の蜜採りに毎年九州から養蜂業者が訪れ、採集期間中、私宅に泊っておりました。昭和三十一年六月十三日、朝から灰色の雲が低空に垂れ込めうっとおしい雨模様の暗い日でした。丁度、谷本さんの土地の片隅に蜜蜂の巣箱が置き並べてありました。その近くで息子の英治君が、二頭引き(馬二頭立てて引くプラウの事)で耕起中でした。
馬は良く仕事中に鼻息を荒く、ぶるぶるっと鼻を鳴らすことがあります。丁度小雨が降っていたので、低空を飛んでいた蜜蜂が鼻やたてがみに接近したため、鼻を鳴らして馬が嫌がり、激しく首を振り回したため、その拍子に鼻先を刺されてしまい、この痛みに耐えかねて益々驚き荒狂い出しました。
さあ大変、百箱二段階に置並べていた蜂箱から、一箱に三万匹、百箱全ての三百万匹が一団と群がり、一勢に襲いかゝり上空五〇メートル四方は峰の大群で真暗になりました。そこで谷本さんは、吾が身の危険も顧りみず馬助けたさに、又大川義秋さんが農薬散布機でBHC薬剤を馬の周辺に吹掛け、蜂の攻撃力を弱めながら協力しました。谷本さんは二頭の馬のげしやロープを解き離し、引網を外して馬を自由にして逃がす行動をとりました。一頭は蜂の群れに迫れながら逃げ帰り厩舎に飛び込むも、もう一頭は逃げ切れず、巣箱の所から百メートル程離れている私の畑に転るように逃げて来て、もがき苦しみながら息絶えたのでした。

無防備の私達は、遠まきに助ける凡もなく只見守るだけでした。一方逃げ帰った馬も厩舎の中で苦しんでおりましたが、死期が近づいたのか自分で外に出て、直立の姿勢で鼻を大きく脹らませ、吐く息荒く四肢で交互に地面を引掻きながら、目を覆うばかりの約三十分間程苦しみ、人々の希望もむなしく見守る中、ばったりと倒れ絶命しました。
この馬は鹿毛の牝六才、野外で倒れたのは栗毛の牝五才馬、何れも働き盛りの立派な馬でした。馬体は蜂の残して行った針に被われ、真白で見るも無惨に変り果てた姿に涙なしには見られなかったものでした。谷本さんは、分厚い胴巻をして外套を着ていましたが、それでも首筋から胸部の一部、顔面等刺され腫れ上り、刺れた後三十分程で高熱を出し、嘔吐して意識も朦朧となっておりました。その前に、渋江病院へ往診の連絡をしてあったので、まもなく来診手当を受け奇蹟的に助かったのでした。
私達はじめ、他の人達も若干刺れましたが、被害は軽微で済みました。夕暮頃小雨の中、二メートル程土を掘り二頭仲良く並べて、大勢の人達により手厚く埋葬致しました。蜂屋さんも何程か刺されたようでしたが、免疫に成っているのか軽症で済みました。

蜜蜂は、相手を刺せば必らず相手の体に剣先は抜けないで残り、相手を倒すが自分も命を失います。その事を蜂の本能として熟知しているので、よくよくでない限り刺すと言う事は無いのです。然し一旦事有る時は死を覚悟して怒り狂い、集団で攻撃を仕掛けて来ます。この恐ろしい蜜蜂と言えども、愛情を持って接すれば絶対に危害を加える事はないのです。
蜜蜂は、我々人間の為に花粉の交配、又は花蜜を採集して与えて呉れる大切な益虫であります。
翌朝名も知らぬ小鳥達が飛んで来て、蜂の死骸をついばんでおり、今は敵も味方も倒れ去り、一人哀れを感じました。私は只茫然と畑の中に立ちつくしておりましたが、今も尚、心の奥に廻って参ります。
この蜂騒動で、当時日新小学校の運動会が、一日日延べになったエピソードもございました。

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一