郷土をさぐる会トップページ     第07号目次

樺太の思い出(前編)

数山 勇 大正十年一月八日生(六十六才)

昭和十七年十二月十日、師走に樺太行きの命を受けて日暮れの早い北への旅である。横須賀海兵団より新兵十六名と共に砕氷艦乗員として大泊基地へ向った。
汽車と連絡船とにより二泊三日掛りで二つの海峡を渡る旅である。車中満員の時は網棚の上で寝たこともある。夜明けの桟橋駅、稚内に着くと宗谷丸が黒煙を吹き上げながら我々を待ち出港準備中であった。
今でも残るドーム形の波よけがある桟橋駅には北風が吹きつける。客もオーバーの襟を立て、無言で寒々と、岩壁に大小の手荷物をさげている。私もその中の客の一人となった。
八時出港、午後四時大泊着予定、渡る海峡はもう氷の海で一面真白く、波もなくバリバリと音を立てながら進む。地の涯、なにか淋しさを感じる。
一日一回の連絡船は、時間通りに港大泊に着いたが、あたりはもう暗く、電灯の光だけが輝いている。
横付橋が掛けられ下船が始まる。我らが乗組む予定の砕氷艦は警備の任務で今は港にいない。三日後に帰港と言う。仕方なく街に出て宿に一同落着く事にした。明くる日は朝食をすませ、荷物だけ置いて初めて見る街の見学であった。
冬の風景
沢なりに続く街並みは細長く一の沢、二の沢と果しなく続いている。高台に登って行くと、見渡すかぎり明るく調和のある街並みである。道幅も広く舗装され、街路樹はどこ迄も続き、ナナカマドが植えられ真赤な実だけが白い雪をかむり、輝いて目に映る景色は実に美しい。時折り雪が綿帽子の様にかぶり、一段と彩られた光景を思い出す。街のどこの家に入ってもルンペンストーブが真赤に燃えている。海岸線には至るところに石炭が露出しているという。街の人々は橇を引いてかますに二、三俵ずつ運んで来る。買うのではない。拾って来るのだという。三十度を越す寒さの中での作業、それは寒天干しである。山隘を利用して幾重にも連なる葭簀(よしず)の棚を造り、その上に並べておくと自然に凍れ干しとなる。寒天造りは冬の風物である。
この地は寒いので大変に良い雪質である。サラサラと水分のない最高の雪である。転ぶと大穴をあける、起き上がれない程だ。冬の楽しみはスキーだ。
入港すると半舷上陸して練習、土日は朝から弁当持ちで四粁コースを二三回走る。上達者は士官の指導に当たる。初心者の人が多い。午後二時を過ぎる頃は早くも夕暮れが来る。或る日士官と私だけの練習日である。弁当運びは私の仕事、スキー荷物は車で現場迄運ぶ、そして一日の練習が終り士官と私は車で送られた。夕暮れは実に早い。車はやがて士官と共に料亭菊水の前で降ろされた。私は不思議でならない、そこは大泊一流の料亭で我らの行く所ではない。一人の士官が私に、「今日は最後で御苦労会だ」と言って座敷に通されたのである。早くも料理が出され芸者達も七、八人待っていた。これは予め準備されていたようである。席につくと一人の士官が、「君は主計だ、飲屋ばかりでなくこの様な所で料理を習って行け」と言う。私はそれどころではない。
士官と芸者の間に席が板ばさみとなり、若い芸者は私をねらって酌に来る。生れて初めての体験である。
然し今夜の切角準備してくれた慰労会の御馳走は喉を通らなかった。苦しみの思い出である。
春の浜辺
長かった冬の街にも春の日差しが伸びて来た。
浜辺を徐々に溶かし、湾内の氷もきしみ音を上げ乍ら、あの宗谷の海峡へと流れ去って行く。うららかな日々が続く頃になると、波のうねりも大きくなり、やがて鉛色の海にもいよいよ大望の鰊の群が海岸一帯に押し寄せてくる。海の色迄変色して鰊の大群で海面が盛上ってくる。冬の眠りからさめた浜は、身欠きの干場棚が浜一面に出来上るのである。鰊舟は一斉に活気づき、エンジンの音が響き渡り、?も騒ぎ出すのである。
浜では網の補修がいたる所で始められ舟も修理に余念がない。
引潮の浜辺を歩くと海苔の香りがする。見渡すと岩壁一面に付着している。早速大きなザルと小舟を持ち出し掻き取った。これは夕食の豪勢な味噌汁となるのであった。外出帰りの兵隊の中には、浜辺に干してある身欠鰊をこっそり戴いてくる者もいたようだ。街の軒下には、春を忘れず必らず渡ってくるつばくろの巣造りが始まっていた。
短い北の夏
遅い春から一気に香りも豊かな夏が来る。紺碧の空と海、四季の移り変りの中で様々に変化する海、北国の山野に咲き乱れる草花、限りなく続く空と海の色は美しい。浸食された断崖に打寄せる荒波、削り取られた岩肌に、無数の海鳥が乱れ飛ぶ婆は北の海の厳しい中にもやさしい一面でもある。短い夏の日、高台の丘に登ると、明るい感じの大泊庁舎や女学校が並んで見える。沢地には川が流れ、王子製紙の工場が白煙を上げている。若草の上に寝転がって浜辺を見下し乍ら昼寝をする。若草の香りが漂ってくる。どこまでも続く草原には珍らしく十頭程の牛が放牧されていた。岡野牧場である。
緯度の高い樺太の夏の一日は長い。朝四時頃には悠々と太陽が昇っている。夕方は十時を過ぎてもまだ明るい。映画を見て街に出る。真紅に燃え尽きた夕焼けの海がやがて暮れると、静かに昇る大きな月は又実に美しい光景である。真白な海軍のセーラー服を着て街をかっ歩するのも、この季節で実に楽しい時である。
冬の警備
我々の任務は、北方の沿岸警備と船団輸送の護衛である。主な装備は砲一門、三連装機銃二基、潜水艦攻撃用爆雷を若干搭載している。
宗谷海峡を航行する外国船は、一切臨検を受けなければ通過出来ない。時折りこの海峡には一万トン級のソ連船団が通過することがある。停止命令を出す。その都度カッターを降し、水兵数人と通訳一人、士官一人が、ソ連船の船腹から下ろされた縄梯子を登って行き船内を臨検する。カッターの水兵は揺れる梯子につかまって待っている。ソ連は婦人船員が多い。デッキにも出て来る。立派な毛皮のロングコートを着ている。下から水兵が見上げるとコートの中まで見えたという。水兵の間では「下着を付けていない」「いや付けている」「付けないお国柄らしい」などと論議されるが真偽は解らない。ソ連船団の中には家族で乗組んで生活をしている者もいる。甲板上では豚が放し飼いにされていたり、犬が吠えていたりする。何ヶ月もの航海だからそれが普通なのかも知れない。通訳の話ではアメリカから武器や食糧が満載されて運ばれているという事であった。
船団護衛と砕氷
冬のオホーツクの海を行き来する船団の護衛は、砕氷艦の活躍の場である。日本海を北上して来た千島行きの船団は、駆逐艦に護られた宗谷海峡を経て氷に閉されたオホーツクの海を通って行かなければならない。足の速い駆逐艦も氷の中では身動きできない始末である。護衛して来た我が身が危険である。
砕氷船が割って進む。割れた大きな氷を竹棒で大勢の水兵が両舷に並んで突放す、大仕事であるがこれも戦闘なのだ。前進後退を繰返しながらの前進で、時には一米以上もの折重なる氷には停止して動かなくなる。そんな時は、ローリングピッチングの繰返しで切りぬける。その割った場所を船団は一列に並んで進むのであるが、時間が過ぎると割目が付着してしまうのである。
一昼夜、二昼夜と続く夜は、砕氷の響きで眠れない。それが北方の冬の戦いである。氷の海を無事に抜け出ると、苦労していた駆逐艦も足早に船団を護りながら、周囲をスイスイと回航して行く、これが厳寒の北の海を守る任務であった。
     砕氷の唄
一、揺れる揺れるよ山又山の 氷の海はしけぞら模様
  今日も昨日も氷と雪に 氷る厳たる軍艦旗
二、凍る砲筒に月影冴えて 想いは遠く故郷の山河
  今日も昨日も氷と雪に 氷る厳たる軍艦旗
  潜水艦攻撃、爆雷、機雷
流氷が溶け春風が吹いて来ると、流氷原に亀裂が入り、やがて網走、知床方面に流れ去って行く。冬の間は波もなく静かな海も、やがて荒狂う日々が続く。この時から又昼夜を通して、厳重な監視体制に入るのである。敵潜水艦が出没する。魚雷を受けては命取りである。或る日当直兵が号笛を鳴らして艦内を知らせて走り廻った。敵潜水艦発見の報だ。
いよいよ爆雷攻撃が始まるのだ。全速の号令が響き渡る艦尾の路線に運び出される爆雷は、四〇キロの爆薬が充填されている。一瞬緊張した艦内の雰囲気の中で、海中投下が始まる、次々と深さを調整しながら信管を刻む、五百米程遠ざかる頃に、一発目の閃光が物凄く閃めいて爆発する。その都度艦が海から浮上がる。百米もの水柱が立ち昇る恐ろしさ、鼓膜を破るばかりの爆音が次々と繰返されながら轟き渡る。何十発かゞ投下されて行く。夜に入ると益々物凄い閃光の火花は職烈を極めるのであった。又海峡には機雷が布設されている。氷や荒波にもまれて傷つきて鎖が切れ海上に浮上してくる。大変危険な代物なのである。早く発見して爆破しなければならない。
名射手数名が呼び出され射撃するのであるが、艦も機雷も動いているのでなかなかあたらない。命中すると物凄い火炎と共に、水柱が数百米も立昇るが、その光景は誠に美しい。機雷を早く発見した者には、褒美として特別外泊が与えられた。爆雷の終った後の波間には、様々な魚が浮いてくる、これを拾い上げて料理に使用した。
樺太岬と宗谷岬の海峡には触角のある機雷が布設されていた。時折りソ連の機雷も流れて来た。
(次号へつゞく)

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一