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一役買った十勝岳電灯線工事

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(七十五才)

昔の十勝岳登山

今は十勝岳の登山も、交通の便が良くなったので随分楽になったが、私達の青年時代には、朝は二時頃に起き、支度万端会館に集合、三時頃から出発して、一応吹上温泉を目ざした。ここで一度息を整えてから、硫黄の煙を避けながら登り、頂上に着くのが丁度昼頃で、絶景かな絶景かなと全員車座となり、爽快な気分でにぎり飯をほうばったものだ。
束の間の感激に名残りを惜しみつつ、馬の背から旧噴火口の急坂を滑り降りて、適当な温度のお湯で汗を流す。又獣道を横断して、吹上温泉で英気を養い、又テクテク家路を急ぎヤレヤレと、床に入って泥の様に眠り呆けた。
当時の登山道は、噴火口から硫黄を採取して中茶屋の製錬所迄運ぶ鉄索道沿いが、一番近道だったらしかった。
電燈線張替
吹上温泉がなくなってから、勝岳荘と白銀荘のヒュッテが出来、電燈線が鉄索沿いに引かれ、其の後昭和三十四年十一月に旧噴の湯を利用した凌雲閣が建ち、昭和四十年十月には町営のカミホロ荘が開業された。
この凌雲閣迄電燈線を延長利用していたが、相当古くなって風雪害で故障が続出、損傷の箇所を発見するのに大変であった。当事者も手を焼く始末となったので、町としても相談の結果、道路沿いに送電することを一決して、早急に工事に取りかゝったのが、確か四十七、八年頃だったと思われる。
工事は地元の荻野、大久保両電気の共同請負となり、ズブの素人である我々が、この労役の主体として募集される義理合いとなってしまった。
積雪との闘い
勿論青写真に基づいての工事であるから、労力を提供する以外に心配する事はなかった。何百という穴を掘り、電柱を立て、電線を張る手伝いをする。
只、これだけの事であったが、問題は地質が火山岩地帯のため、二人一組で一日で一本分しか掘れず、その上十一月に入るともう積雪は一米から二米、場所に依っては丈余(注文〜尺貫法単位、一尺の十倍、約三・〇三メートル)という所もでてくる。
先ず除雪をし、小指程もある熊笹を刈り、根切りして、漸く二十糎も掘るともう巨岩にぶつかる、これが普通の有様なのである。
十一、十二月の七時出勤は、相当辛抱が必要だ。工事用具を積み込んで急いで出発しても、九時迄に現場到着出来たのは稀な程で、登り坂ではスリップする。全員で押したり引いたりして前進する。平地が静かでも山に入ると大吹雪だったりして、仲々仕事が捗らない。
もう一息というところで、宗谷方面の電燈線に大災害が発生し、この復旧に富良野地方の電工さんが召集された為暫く作業中止となり、いくら焦っても遅れるばかりで、それでも先ずはどうにかカミホロ荘までは届かせることができた。
然し、こゝの高台から一直線に凌雲閣迄が大難関で、普通の所でも二米近い雪はねをするのに、深い谷間には倍ぐらいの吹だまりがある。二段にも三段にもはね上げる関係で、労力は倍以上もかかる。
雪はねに一日、穴掘りと二本つなぎの電柱を立て上げるのに一日、ついに凌雲閣まで四、五日もかゝる始末である。
第二の難工事も終って送電する事が出来たので、その日は電工さんも交えて茶碗酒で乾杯して、ひとまず無事故を感謝し健闘を讃え合った。
支線の架設
もう正月も近づいて来たが、まだ最後の仕事が残っている。勝岳荘からカミホロ荘、凌雲閣へと経由していた電燈線を今度は逆に、カミホロ側から送る事になっていたのである。電柱だけは元のまゝで使い、電線を張替えるだけなのだが、それには勝岳荘迄資材を運ぶ事、これには道々側からの運搬道が必要である。役場の除雪車によって、何日もかゝって道は開かれていたが、運搬のトラックが立往生することもしばしばで、仲々資材が届かない。仕方なく我々は、先ず旧電線の取りはずしを始めたが、起伏の甚しい森林の中を、胸迄埋る様な深い雪の中に、作業用通路を作る事からとりかからなければならなかった。
突貫作業の必要から人夫が増員され、あわせて中富、富良野の同業者が応援に駈けつけてくれることになった。しかし流れ作業ながら何回となく、登り降りをしなければならず、すぐに汗だくの状態になる。さて、いよいよ電線を張るにしても、中途半端な電線と違って、太い電線に丹念に被覆がしてあるので、重いのなんの。それも相当の勾配を上りに向って架設しなければならず、何が何でも一巻だけは途中で切断するわけにはいかない代物である。
今ブームを起している綱引きよろしく、全員のチームワークをたよりに引張らなければノルマが上がらない。
苦心惨憺の末上り切った所がカミホロ荘を見下ろす高台、一難去って又一難、今度はカミホロ道々側から谷底に一度降りて、見上げる様な急坂を綱一本を頼りに引張り上げて、始めてドッキングさせる大仕事である。これも何回となく滑り落ちそうになりながら、漸く完了することができた。
いかに農閑期とはいえ、よくも頑張れたもの、さすが開拓魂で鋳えた身体の尊さと、今更ながら自負している次第である。
請負の金高は別として、この大事業の完成には、前述の応募者が労務の主体であった事実の外に、勇気をもって請負をされ監督指揮に当たられた荻野栄多氏、大久保徹夫氏の功績が挙げられる。と共に町消防関係で特に荻野氏は団長の要職にあり、一方大久保氏は幹部職のかたわら新聞販売の家業上、朝三時頃から旭川迄朝刊の受領に行き、美瑛、中富の販売所に届け、更に担当の上富良野町内へは各戸に配達を行っていた。僅かな就寝で、我等と共に大型ウインチの車を運転して、指揮監督の任を全うされるという頑張り様で我々一同頭の下る思いであった。
山加の奥から始めて凌雲閣、さては勝岳荘、白銀荘迄どれ程あろうか。我々の手をつけない電柱は、一本もないのである。
さしもの工事も正月近くなって漸く完成し、電工さん方も加えて関係者十数名で、完工の祝酒を吸み交した事も今では遠い懐い出となった。
当時の気力はどこへやら、今は老人会の行事に出るのが関の山、養老年金をたよりに暮らしている此の頃である。
只見れば 何の苦もなき 水鳥の
金儲けとはいえ、よくやり遂げたものと、一本一本感無量で十勝岳温泉へ通うバスの窓から眺めている。

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一