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続・石碑が語る上富の歴史 その(六)

中村 有秀

伊藤凍魚の句碑
『ものの芽の
      雪降るときも
             旺んなり』
建立年月 昭和三十七年八月五日
     (昭和三十九年八月現在地へ移す)
建立場所 自衛隊上富良野駐屯地営庭小公園
         (現在は駐屯地公園内の落葉松林)
句碑建立の由来
伊藤凍魚の句碑は、昭和三十七年八月に駐屯地営庭小公園に建立され、昭和三十九年八月、駐屯地飛行場(現在は隊員の自家用車用の駐車場)建設のために、駐屯地公園の樹令六〇余年の落葉松林(大東亜戦争のさなか昭和十八年、敵機の空襲に備えて上富良野小学校校庭の外周三面に児童の避難用防空壕を構築のため間伐した時の残りの立木を移植した)の中に十勝岳を遠く望みながら、句碑が静寂な雰囲気をかもし出しながら建立されている。
建立の由来については、第四特科群長兼・上富良野駐屯地第四代司令であった『佐賀勝郎氏(俳号佐賀柿園)』が、上富良野駐屯地開庁三十周年記念『ふらの原野』特集号(昭和六〇年十月発行)にて次の様に記してある。
伊藤凍魚句碑建立由来記
上富良野駐屯地の一隅、落葉松林の中にちょつと小高いところに一基の句碑が立っています。
   ものゝ芽の 雪降るときも 旺んなり   凍魚
とあり、碑の裏面には建立の代表者として私の名が刻まれております。
しかし実際には、私の転出後当時の第一二〇大隊長自見太郎君がすべて事を運んでくれたのでした。
私の上富良野駐屯地司令としての在勤期間は、わずかに三ヵ月でしたが、昭和三十年の開庁の時、鳴川初代司令とともに旭川から移駐し、以来二特第六大隊長として約三年間勤務しておりましたので、上富良野町とは前後合わせて三年半の御縁ということになります。
さて句碑健立の由来ですが、旭川から移駐して間もなく、歯科のお医者さんの山崎氏ほか同好の方々の句会の集まりに加えて頂き、伊藤凍魚先生の指導をうけておりましたが、ある句会で先生から頂いた短冊の句がこの「ものの芽の……」だったのです。
私はこの句の中に、当時の冷たい世論の中に、黙々と訓練に励む隊員の姿を見る想いがしたのでした。その後第四代司令として再び上富良野に赴任したとき、最初の句会で伊藤先生に「駐屯地内に『ものの芽』の句碑をつくりたいが‥…」とお願いして快諾を得ました。しかし私の転出が意外に早く決まったので、私の在任中に果たすことができず、後事を自見君に託して転出したのでした。
自見君は立派にこの約束を果たしてくれました。しかも建立世話人代表者として私の名が刻まれ、今に残ることになったのは何とも恐縮の至りです。
因みに、伊藤礫魚先生は虚子と並んで、近世俳句界一方の雄として「雲母」を主宰した飯田蛇勿門下の異才といわれ、句誌「氷下魚」を主宰して特異な北海道句風を創造した方として道俳界史にその名を留める偉材であります。
  元第四特科群長兼第四代上富良野駐屯地司令
一等陸佐  佐賀勝郎
(昭和三十七・三〜三十七・四在任)
〒二八四 千乗県四街道市鹿渡一〇八一
句碑建立の発端は佐賀駐屯地司令であったが、三十七年三月に駐屯地司令になるも、同年四月に急に転属となり、後事を託された、自見太郎第一二〇特科大隊長(俳号自見一路)は、急拠設立された伊藤凍魚先生句碑建立委員会の事務局長となった歯科医の山崎慶一氏(俳号 草果)・事務局の高橋民吉氏(俳号 冬芦)及び『このみち俳句会』の皆様と相談しこの困難な事業を短期間に成し遂げたのでした。
句碑除幕までの動きについて、自見太郎氏の日記及び『このみち俳句会』三十周年記念誌によると

◎ 昭和三十七年六月初旬
  伊藤凍魚・佐賀・自見の三者で具体的構想を練る
◎ 昭和三十七年六月十七日
  伊藤凍魚先生句碑建立趣意書発送(別記参照)
  事務局長 山崎草果 事務局員 高橋冬芦
◎ 昭和三十七年六月二十日
  自見太郎氏・山崎草果氏・高橋冬芦氏等で句碑に用いる石材を十勝岳山麓に求
  めて探す作業を始める
◎ 昭和三十七年六月二十八日
  石材を自衛隊重車輌にて、上富良野町、嶺八兵衛石材店に搬入し、研磨刻字の
  作業に着手す。
伊藤凍魚先生句碑建立趣意書
伊藤凍魚先生は樺太に於て俳句雑誌「氷下魚」を創刊、北方の雄大なる自然の中に生話するものの詩を提唱し、終戦後は漂浪の末北海道に居を据えその主宰する氷下魚を復刊し、北方の酷烈なる気象風土を俳句に培い、北方特異の俳句風土を俳壇に開眼せしめたことは衆知の事でありますが、素々華美を好まず寡黙実践主義を推め、再参その門下の慫慂ありたる句碑建立に就ても之を許さざるところでありましたが、偶々当時の陸上自衛隊上富良野駐とん地司令佐賀勝郎氏の要請にて我が北海道の中央に位置する同駐とん地営庭内に句碑建立が進められ然も万端準備完了というこの熱意に感激し、われ等先生の承諾を得て茲に急拠その句碑建立の議がまとまり一般同志に相謀る間もなくその序幕式、祝賀会と左記の通り挙行いたすことになりましたる次第、このことは過去俳壇には前例のないことであり、何卒御諒察の上は多数の御臨席を得たく当日は式後隊内見学の計いもあります。
尚、句碑石村及建立の労力は凡て陸上自衛隊の協力によるものでありますが、この建碑に就ては意義あらしめる上に於て諸費は広く志ある仁の協賛芳情を得て実現を図りたく、不敢左記一同発起人となり共鳴の士の御後援を得たく茲許貴意を得申上げます。
昭和三十七年年六月十七日
発起人    一等陸佐  佐 賀 勝 郎
上富良野駐とん地司令   高 杉 恭 自
       二等陸佐  自 見 太 郎
上富良野町長       海江田 武 信
このみち同人会代表    山 崎 草 果
氷下魚同人会代表     恩 地 樺 雪
旭川花樺会代表      井 上 末 夫
             花  樺  社
◎ 昭和三十七年七月二十八日
  陸上自衛隊上富良野駐屯地営庭に、輝石安山岩(原石縦七尺九寸、横五尺、重
  さ五屯)の原石中央に縦四尺、巾二尺を砥ぎ出し、赤石蘭邦書による『ものの芽の
  雪降るときも 旺んなり』の句を彫りつけた句碑が完成し搬入して建立。
◎ 昭和三十七年八月五日
  伊藤凍魚先生句碑除幕式を駐屯地営庭にて、参列者八十名を迎えて行われる。
  その後、上富良野町農協二階ホールにて、伊藤凍魚先生句碑建立祝賀会が盛会
  に行われた。
「このみち俳句会」と「伊藤凍魚先生」
『このみち俳句会』は、昭和三十一年一月二十八日に、田浦 博氏(俳号 夢泉)、本田 茂氏(夫久朗)の諸氏が、町議会議員で上富良野新聞の編集発行をしていた岩田悌四郎氏(雨滴)を中心として第一回の俳句会を信用金庫の二階で開いた時に始まった。
出席された方は、本田夫久朗・岩田雨滴・山崎草果・岩田紫香・金子尚夫・田村碩一・外崎喜石・田浦夢泉・林 一夕・梅田麓園・石川耕石・式守百合子・大石秀明・会田久左工門の諸氏で『月あれば 月の色なる 氷柱かな』という帯広から投稿した高橋冬芦が入選した。
二・三回句会を重ねた時、会名を決めることになり、本田夫久朗の案になる『このみち』が選ばれ、『このみち俳句会』になる。
昭和三十二年五月、田浦夢泉の紹介で『氷下魚(かんかい)』主宰の伊藤凍魚先生、同夫人雪女先生を迎えて句会を催したのが『このみち俳句会』と『伊藤凍魚先生』との結びつきでした。
昭和三十年九月、自衛隊上富良野駐屯地開庁の時に第二特科連隊第六大隊長として佐賀勝郎氏(俳号 柿園―後に第四代駐屯地司令として昭和三十七年着任)が来町し三年間の勤務の中で『このみち俳句会』に参加されると共に伊藤凍魚先生の指導を仰ぎ、その間に執行紫暁・赤地高明大隊長等の俳人を出し、遂に第二代駐屯地司令である小林敬四郎氏(俳号 甲陽)も氷下魚に参加した。
伊藤凍魚先生・同雪女先生と『このみち俳句会』『自衛隊駐屯地』が十七文字の排句のつながりは次第に深くなる中で、昭和三十四年六月の『このみち俳句会の一日入隊』が行われ、氷下魚中隊長に伊藤凍魚、女性だけの鈴蘭小隊・このみち小隊等が自衛隊員とキャンプファイヤーを行って句会を催したのでした。
第二特科連隊第六大隊長であった佐賀柿園氏は上富良野を去ったが、再び昭和三十七年に第四代駐屯地司令として着任し、最初の『このみち俳句会』の句会で伊藤凍魚先生に『ものの芽の 雪降るときも 旺んなり』の句碑を駐屯地内につくりたいがとお願いをし快諾を得たのでした。
佐賀柿園氏が伊藤凍魚先生からいただいた『ものの芽の……』の短冊が一番心に残り句碑になったのでした。しかも、この『ものの芽……』の句は伊藤凍魚先生の代表作の一句です。
昭和三十七年八月五日の句碑完成後の翌年の一月二十二日伊藤凍魚先生は腎臓疾患により永眠されました。
しかし、凍魚先生の御逝去後に第二の句碑が寄しくも同じ自衛隊である「自衛隊札幌地区病院庭内」に昭和三十八年六月二十三日建立、除幕式及び追悼句会が氷下魚人の多数参加して行われた。
句碑は、三角形の自然石で北辺の防人を象徴するがごとく五稜形の台座に乗って、病院庭内左側の一隅に建立されている。
  刻句は
『おのづから
    穹(そら)にみちあり 鳥わたる』 凍魚
  句碑建立発起人として裏面に刻字
第十一師団長  陸将  平井 重文
札幌地区病院長 陸将補 平野謙次郎
札幌地区病院  ななかまど俳句会
=氷下魚第三四二号にて次の様に句碑のことを掲載=
句碑のことさきに道央の地、上富良野自衛隊営庭に凍魚先生の句碑が建立されましたが、半歳後、その意義に感銘を受けられた、陸上自衛隊帯十一師団良、平井重文氏が昨年十一月入院中の凍魚先生を訪れ、自衛隊札幌地区病院庭内に句碑建立のお話をされました。凍魚先生も入院中の若い隊員の方たちの励みとなるならばと了解され、句碑建立が決り、その後自衛隊の方々のお骨折により進められて来ました。自然石に散策の方々も気軽に倚られるようにと云う先生の御希望のとおり三角の自然石を台座の上におき基礎を終え近く完成の運びとなりました。生前の計画であったのが、厳寒のなかに凍魚先生逝かれて、除幕はついて追悼大会と同日となって、来る六月二十三日行うこととなり、感一入の思いであります。除解式には氷下魚人も多数参列出来るようご配慮を頂くなど、最初から最後まで全て自衛隊の御尽力によるもので、有難く御礼申し上げますとともに、追悼大会当日は皆様にも多数参加される様おすすめ致します。
除解式   日時 昭和昭和三十八年六月二十三日 午前十時半
       場所 札幌市中の島  陵上自衛隊札幌地区病院 庭上
刻 句   おのづから 穹にみちあり鳥わたる  凍魚
第十一団長平井陸将は俳名平井氷壷といい「ものの芽の……」除幕式に「年輪を句にきざまれし四十年」の祝句を送って来ております。
句碑建立に陰で苦労された自見太郎氏
自見太郎氏は、大正八年一月八日大分県中津市で生れ、昭和十四年陸軍士官学校を卒業、昭和二十年八月陸軍少佐として終戦を迎えた。
昭和二十九年陸上自衛隊に入隊し、久留米連隊本部幕僚(第四特科連隊)、昭和三十五年千歳第四特科群第一二〇大隊長となる。昭和三十七年三月に第四特科群が上富良野駐屯地への移駐に伴い第一二〇大隊長として着任。昭和三十八年、佐世保相浦駐屯地業務隊長、昭和四十一年別府駐屯地業務隊長を歴任し、昭和四十四年一月退官す。
俳人としての自見氏は、終戦後に自見産業(株)を興し仕事のかたわら、野見山朱鳥(菜殻火主宰)に昭和二十七年より排道を学び俳号を一路とする。自衛隊入隊後は自衛隊俳誌「栃の芽」(富安風生選者)に退官まで投句を続けるとともに、昭和三十四年から昭和五十三年まで「修親」(池芹泉選者)に投句する。
昭和三十五年、千歳の第四特科群に配属されるや、群長佐賀勝郎氏(俳号柿園)の紹介で「氷下魚」の誌友となり伊藤凍魚に師事し指導を受ける。
昭和三十七年三月、千歳より上富良野へ移住の際に千歳支部にて「佐賀柿園」「自見一路」送別句会が行われ、凍魚選の中に両氏の句が「氷下魚」第三三三号にある。
大土管 凍つ呆心 口並べ       柿園
暖冬の 煙霧ものうき 基地の春    一路
自見一路は当町に来ても句作に励み、「氷下魚」第三三三号・第三三四号の「氷下魚抄」の凍魚選に次の句があった。
雪嶺の 壁かげ映え 朝茜
噴煙の 雪嶺汚れて 春来子
漂泊の こころにかよう 陽炎野
残雪の 野の酪炎の 旅愁めく
昭和四十二年から四十四年は富安風生主宰の「若葉」へ投句し指導を仰ぎ、四十四年から勝又一透主宰の「岬」、六十年から能村登四郎主宰の「沖」に所属し現在も十七文字の俳句文学に研讃を続けている。
上富良野町、田浦 博氏(俳号 夢泉)にあてた昭和六十二年の年賀状に次の句が
一病を 労わり会いて 年迎ふ     一路
また、昭和六十三年の賀状には次の旬が添えてある。
生死一如 流水のもと 年明くる    一路
北方の風土に生きた俳人伊藤凍魚
伊藤凍魚は本名を義蔵、明治三十一年七月一日、五男一女の末子として会津若松に生れたが、この頃、家運傾き母方の星野家に同居して祖父母に育てられた。
三歳の時に父親が事業に失敗して家出、六人の子供と両親を見なければならない母親の苦労は肌に泌みて感じていた。
十一歳の時に一時父親が顔を見せるが祖父母に容れられず再び去ってしまう。小学校を終え中学校の受験に合格したものの、家庭の状況で断念し、会津若松の旧家で漆器・度量衡・酒造業を営む新城猪之吉(俳人 杏所)の許に奉公し、眠い目をこすって中学校の教科書に読みふけった。
十七・八歳のころから俳句に目ざめ『軒の栗』に投句、この時の俳人との交友は終生変らず続いた。
縁薄き父は大正八年死去、奉公先を辞して上京、大野簿記学校、専修大学経済専門部二部に学んだが学費が続かず中退、苦学中に『鹿火屋』主宰の原石鼎に師事し編集に加わる。その後、丸善が札幌に開設した出張所に勤めながら『ホトトギス』『鹿火屋』などに投句。丸善勤務も関東大震災で東京に転勤になったが、大正十三年から樺太、落合町の富士製紙工場に転じ、その翌十四年に同好者と『氷下魚』を発刊した。その年の四月に雪女夫人を迎える。
雪女夫人は明治三十一年二月十二日、永山村の屯田兵松井浮石(永山蛙吟社を創立、牛島藤六、青木郭公と交流)の長女として生れ、庁立上川高女卒業後、東京女子薬学校(明治薬学大学の前身)を終え薬剤師免許を取得し、旭川赤十字病院に薬剤師として勤めて、母マサも短歌、俳句をたしなむ家庭に育ち、当時小樽で発行されていた『いたどり』に投句したのが俳句へのかかわりの初めで、以後『時雨』『ホトトギス』『鹿火屋』に出句を続けていた。
『氷下魚』創刊まもなく雪女を迎えて、第二号からは雪女が鉄筆を握り、ガリ版の『氷下魚』が刊行され、第四号からは活版刷となる。
昭和十五年に樺太での作品をまとめて句集『花樺』を上梓している。
昭和二十年七月、樺太庁の委託で物資調達用務のため上京中に終戦となり樺太に帰る事が出来ず、家族を案じながら戦後の人心荒廃を見るに忍びず、俳句による復興を提唱して国内を遍歴。
札幌に仮寓して旧知の俳人との交流を深め、引揚げて来た旧『氷下魚』の誰彼を訪ねてはその無事を確かめているうち、案じていた家族が引揚げ、旭川に居を定めるが、凍魚は引き続き札幌にあって『はまなす』『花樺集』の選者として後進の指導にあたるほか、道内外にまでその足跡をのばし、戦後の混乱のなか軽薄な風潮と、ことばの乱れを正すべく奔走した。
昭和二十二年、旭川で『花樺会』を結成し、その頃から北海道新聞俳壇、NHK聴取者文芸俳句の選評の担当と、その活動範囲を拡げる。
昭和二十五年五月に来道した『雲母』主宰飯田蛇笏の巡遊に随行、北海道内の俳人に多くの感銘を与え、それ以来蛇笏の人格に深く傾倒し『雲母同人』として意欲的な作品活動を展開し、北海道における『雲母俳人』の育成にあたった。
昭和二十九年十二月、通巻第二十四号として『氷下魚』は復刊号を発行した。
『かえり咲く ものみなわれに 情(こころ)あり』   凍魚
戦後一途にその信ずる俳句をおし進めた感懐がこの一句にこめられている。
復刊した『氷下魚』は比良暮雪をその片腕として本間静心子・奥村拒雷・敦賀風?・恩地樺雪・長谷川水皺・竹中雨閣・菊地滴翠・斉藤英烈風らの新旧俳人が一体となって発足したが、この間多くの俊英を育成すると共に、凍魚は北海道新聞俳壇選者として一般の俳句普及にも尽力を惜しまなかった。
『氷下魚』は号を重ねて充実し、第一合同句集『凍土帯』を昭和三十三年、第二合同句集『氷紋』を昭和三十五年、『道新俳句』を昭和三十六年に刊行、『雲母』においては幹部同人として毎号その作品を発表し重きを加えていたが、札幌における独居と俳誌刊行の心労がいつしか健康を蝕んでいたのである。
『氷下魚』復刊から約十年後の昭和三十八年一月二十二日、凍魚は生涯排句を見据えて生き抜き生涯を閉じたのである。
『氷下魚』が樺太で創刊されて以来、通巻第三四二号をもってその足跡に終止符を打って終刊となったが、これは凍魚生前の生きざまのように潔い告別でもあった。
昭和三十八年五月発行の『氷下魚』終刊号の表紙裏に凍魚の代表作七句の中に『ものの芽の……』が掲載され、最後の頁に飯田竜太が『ものの芽の雪降るときも旺んなり』の句について、北辺に生きた人でなければ生み出すことのできない詩の生命力を持っていると称揚した。
凍魚亡きあと夫人の雪女が一門の『花樺社』を主宰、慕い寄る門葉の指導を続け、昭和四十三年二月『雲田社』より雲母叢書第三十二編として句集『夫の郷』を出版、昭和五十二年、旭川市文化奨励賞を受けている。
付記
 『伊藤凍魚の句碑』に関し、上富良野町の山崎慶一氏、田浦 博氏並びに大分県在任の自見太郎氏から貴重な資料と御協力をいただき心より厚く御礼申しとげます。
参考文献『このみち』
     (このこのみち俳句三十周年記念)
    『ふらの原野』
     (陸上自衛隊上富良野駐屯地開庁三十周年記念特集号)
    『北海道俳句史』 木村敏男著
    『樺太の俳句』  菊地滴翠著

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一