郷土をさぐる会トップページ     第07号目次

市街地の水道

千葉  誠 大正七年一月十三日生(七十才)

町名の語源である「フラヌイ」(硫黄臭い水のあるところ)が示す通り、上富良野の西部平地は、フラノ川、ヌッカクシフラヌイ川の影響を受け、入殖当初より飲料適水の確保に困難を極めていた。
明治三十二年鉄道が開通し駅舎が設置されてから、とりわけ泥炭層の深い西地区に発展を余儀なくされた市街地の形成は、飲料水の確保には最悪の条件であった。
ほとんどの家庭は手押ポンプで木炭と砂の濾桶(こしおけ)に汲み上げ、濾過して使っていたが、金魚が育たなかったし、独特の悪臭が残り、最適なものではなかった。
主婦や嫁、娘達にとって炊事、洗濯には欠かせない水が悪いことは致命的であった。また客を生業とする旅館や飲食店は苦労が多かった。
水を求めて
大正四年頃金子康三、山本一郎、高畠正信、脇坂博夫氏等が共同で、鉄道敷地(中町一丁目一ノ五附近)に上総掘(かずさぼり)工法により探索したが良質の水は得られなかった。
翌年市街地に水道を引くのには自然流下をと考え、高い地形の処を選定することゝなった。東二線北二十六号(旭町三丁目五ノ二十二附近)に良質の地下水があると聞いて、四人共同で用地を買収してこの近くで農業をしていた菊地甚助氏に依頼して井戸を掘った。本州より六〜七糎程度の竹管を取りよせ、継手には四角い木材を刳り貫いたものを使った。当時としては最高の技術と思われる工法で二十六号道路沿いに青柳商店(本町三丁目三ノ五)前迄の導水に成功した。
市街中心部には鉄道用地と鉄道を横断しなければならないので、再三に亘り鉄道当局に請願したが許可が厳しく、最終的には「鉄道の駅舎並びに住宅(当時二十数戸)の飲料水を優先的に給水せよ」と云う条件を出され、水量が少ないこともあって、相当な私財を投じて施設されたこの町はじめての水道は、鉄道の以西に及ぶことなく終末をつげた。
この施設は附近町内の共同水汲場として、昭和十年頃まで無償で使用され喜ばれていたが、施設の老朽化とともに改修されることがなく消滅してしまった。
水道設置の動き
昭和二十三年、補助、起債による水道設置の機運がたかまり金子全一、高畠正男両氏等が中心となり、町当局(村長田中勝次郎氏、村議桐山英一、穴田祐二氏等)と交渉を続け、水源を旭野地区中の沢演習地内(旧佐川澱粉工場附近)に求めて調査し、概算設計で一、五〇〇万円、このうち補助起債一、二〇〇万円受益者負担三〇〇万円と試算されたが機が熟せず、実現に至らなかった。
戦後鉄道の駅舎及駅員住宅では、この町の水の悪いことが問題となり、飲料水を富良野から運んで使用していたが、旭川鉄道管理局では鉄道敷地内(錦町一丁目一ノ十四〜十九附近)に飲料適水の井戸(町誌七六九頁参照)より、昭和二十七年に鉄道専用水道を設置した。朝鮮戦争の影響で、鉄材が不足で古材を使用したため設置直後から漏水破損が甚だしく、昭和三十年六十三万円を投じて大改修が行われたが、経費は増高し、加えて冬期間の凍結防止に鉄道関係者が不寝番につくなど維持、管理は非常に困難であった。
当時は自衛隊の駐屯もあり、市街地及び周辺が次第に膨張しつゝあり、ボーリング会社が設立されて市街地の各所で一〇〇m〜二〇〇mの鉄管が打込まれ、水の探索が行われていたが、満足な期待を得るまでには至らなかった。
その頃鉄道沿いの町内では、この鉄道の施設より水をもらえないかとの要望もあり、宮野孫三郎、千葉 誠、樋口義雄、中川庄右エ門が代表となり、鉄道の水道管理者である樋口勇作分区長をはじめ、上富良野駅長、旭川鉄道管理局長に分水の請願を行った。
鉄道内部では分水を望まない声が強かったが、樋口分区長は前任地で飲料水に苦労した経験があり、「井戸は汲めば汲む程良くなる、湧水量があれば一般住民にも分水すべきである」と、鉄道内部の説得に奔走してくれた。
昭和三十一年十一月、管理局より冬期渇水時期に井戸の湧水量試験をする旨の通達があり、翌三十二年一月二十日、現地に於て鉄道側樋口分区長他二名、町側樋口義雄消防団長他消防団員三名、需用者代表として宮野孫三郎、村上寛次の両名等が立会して、二時間に亘る試験の結果、毎時五十六tの湧水量と測定され、分水の可能性が濃くなった。
上水道利用組合の設立
湧水測定の結果が良好と認められたため、関係者の意慾がたかまり、建設準備委員会の発足で組織的な運動が展開されて、昭和三十二年七月十七日、旭施第九四〇号、旭川鉄道管理局長より分水戸数五〇戸に限定するなど厳しい条件付で許可指令が出された。
七月二十日関係者の緊急総会が招集され、建設期成会を設立、会長樋口義雄、副会長兼書記宮野孫三郎、会計干葉 誠、理事中川庄右工門、赤川太作、佐藤 勇、毛利勝太郎、金子全一、清水健太郎、監事三嶋保蔵、村上寛次等役員十一名を選出した。(次の臨時総会で理事河村善翁、菅野豊治両名を追加選任)
工事の実施設計及施工、組織体制、事業の運営については役員に一任され、八月十八日第一期建設事業に着手、役員交代で現場監督、受益者の土工事出役等により十月二十三日動力揚水により、鉄塔七m、貯水タンク五t、自然流下圧送方式による給水設備が工費一七八万円で完成し試験送水を行った。
期成会は、上富良野町上水道利用組合に改組、期成会役員は引続き組合役員に選任され、組合員六〇戸で十一月一日午前零時を期し給水事業が開始された。
同日午前十時水源地揚水施設前において組合設立竣工、通水の式典が関係来賓並びに全組合員出席の上盛大に挙行された。
大正初期より永年に亘る宿願の市街地水道が、迂余曲折のうえようやく発足した。
「うまい水が飲める」「どぶ臭い水で産湯を使わなくなり、これからの赤子は幸せだ」との声もささやかれた。
設立当初の一ヶ月基本料金は、四人家族一戸一八〇円、家族一人増す毎に二〇円となっている。
事業の運営
組合設立いらい旭川鉄道管理局に、水源用地と水道施設の払下げを交渉していたが、三十二年七月二十八日旭施一〇五一号、旭川鉄道管理局長より用地一、〇〇四uと給水施設を六三二、二三三円で売渡す指令が出され、譲渡契約、納金の完了八月二十日を以って引き渡しを受け水道事業の基礎が確立された。
近隣市町村にまだ公営水道が設置されていなかったので、旭川市水道局に依頼して建設、事業運営の指導を受け、規約の制定には公益性を充分とり入れると共に、物故組合員には鄭重な弔慰を捧げるなどが配慮された。
鉄道の水道が払い下げにより組合運営となったため、道に認可申請を提出、昭和三十三年十月二十三日、三三環一〇八五四号、北海道知事より水道法附則第六条の規定による水道として認可された。
日を追って加入希望者が増加するので、第二期建設事業として井戸の増設、施設の拡張をはかり、渇水対策として東二線北二十七号、林下武治氏地先湧水の取水について交渉を重ね、地主、草分土地改良区及び関係者の了解を得て、昭和三十四年十月一日湧水の使用権と途中の地下貯水タンク埋設用地四八九uを買受け、翌年第三期建設事業として取水施設、三〇t地下貯水タンク設備、七五oによる導水で弁天揚水施設(錦町一丁目一番)と接続する補水施設を、工費一一〇万円で十月二十七日竣工した。
又各戸に量水計(メーター器)の取り付けを行い、水圧を増加するため揚水塔を五m嵩上げするなど、鋭意給水設備の改善に力をそそぎ、水源用地二ヶ所一、三九〇t、揚水塔鉄骨組一二m一基、塔上貯水槽防錆鉄製五t一基、日ノ出補水用貯水槽三〇t一基、電動揚水ポンプ一台、エンジン揚水ポンプ一台、七五o消火栓二基等施設を完備し、第一期より第三期事業まで五ヶ年で一六九戸に給水する諸施設の建設事業が完了した。
昭和三十七年十月三十日農協ホールに於て、関係来賓を招き全組合員が出席して設立五周年の式典が盛大に挙行された。
建設事業が完了したので組合の組織機構の改善に意をそそぎ、水道管理の重要なることに鑑み、昭和四十年四月七日、第九回通常総会で専任水道管理者として樋口義雄(水道管理登録六四九号)を指名し高畠正男が組合長に選任された。
昭和四十二年四月九日、第十一回通常総会と併せて設立十周年記念式典が挙行され、記念事業として上富良野開基七十周年にあたり、町に調度品を贈ることに決定し、六月七日新庁舎に於て高畠組合長より茶室用戸棚一式が海江田町長に贈呈された。
日の出水道組合の設立
十勝岳爆発の被災地である西日の出地区は、悪水に悩まされ地域住民から水道設置の声があがっていたが、附近の湧水は水利権の問題で導水が不可能の状態であった。昭和二十八年九月上旬、有志が集まり水源地調査の結果、西一線北二十九号高田秀雄氏所有地内に湧水を発見し、地主も心良く承諾されたので、施設計画を協議していたが湧水附近の関係者の承諾を得られず代表者を差し向け再三交渉したが、水利権を主張され取水を断念せざるを得なくなり、当事者は断腸の思いであったという。雨降りの中を湧水を求めて幾度となく歩き廻り、岡久松太郎宅で一同途方にくれていた処、村上国二氏(第三代町長)が来宅し、その事情を聞き「小田島一郎氏前のエホロカンベツ川西側に、湧水があるはずだから念のため調査してはどうか」との言葉で、一同早速現地におもむき湧水を発見した。
水質検査を道衛生部に依頼する一方、河川関係、水利関係の了解を得て、資金は農協より融資を受け、受益者二十四声が家族ぐるみで出役して、昭和三十八年暮れのおしせまった十二月三十日、待望の水道が完成し、同日日の出水道組合を設立した。組合員二十四戸、組合長岡久松太郎、副組合長杉山由太郎、会計佐藤英俊、書記岡久儀平、監事高田重太郎、岡久敏之の六名が選任された。第一期建設工事費は一四五万円、労力出役延四二五人であった。
昭和三十九年五月、栄町に給水、四十年泉町自衛隊宿舎、開発事業所、農協等に給水区域を拡張し、昭和四十三年十月二十日西小学校全施設に給水した。
設立以来、水道法で定められた給水区域の設定と、水道管理は上富良野上水道利用組合に委託していた。
両組合の合併
両組合は市街地及び周辺の給水事業を行い、業務委託で事業が運営されていたこともあって、次第に合併の機運がたかまり、合併準備委員を選出、数度に亘り委員会がもたれ、昭和四十二年十一月六日、合併覚え書きに調印された。翌年九月三日、第一回臨時総会で合併決議となり、昭和四十三年九月九日午前零時を期して合併した。給水区域は東二線北二十六号吹上道々沿から、本町、錦町の以北市街全域と西日の出と西小学校を含む西三線国道沿に拡大され、給水戸数三九八戸となった。
町営水道移管
上富良野町では町営水道が計画されていたが、昭和四十四年九月十九日付町長より三ヶ年継続事業で、水道計画を樹てているので、給水区域を町に編入したい旨の通達が出された。十一月二十七日第二回臨時総会が召集され(議長三島 彰氏)、給水区域の町編入、編入時点でこの組合が解散する重要議案が満場一致で可決された。町では昭和四十五年を第一年次として、昭和四十七年末を目途に、町営水道の工事が開始された。昭和四十五年三月三十一日、北海道知事より給水区域が町に編入の時点で、この組合の給水事業が廃止される旨の認可が出された。
昭和四十七年四月二十一日、第二回通常総代会で組合解散後の清算人が選任された。給水事業も町より補水を受け順調に進んでいたが、夏の旱魃とエホロカンベツ川の改修で川床の低下による影響で、西日の出水源井戸の減水がひどく、理事会を緊急に召集、対策を協議中の処八月十一日午後三時頃より西日の出全域に亘り断水した。緊急事態として町長に要請、自衛隊給水班の出動により深夜までかかって二五tの給水を完了し、急場をしのぐことが出来て断水家庭より深く感謝された。一方、西島津高橋秀治氏の好意で地先の湧水より有我工業所の突貫工事で、動力圧送による一、三〇〇mの導水により、二十四時間振りに西日の出水源井戸の補水を完成し復旧できた。
町営水道工事も予定通り年内給水の見通しとなったので、樋口管理者を町に出向、組合施設の町移管に手落のないように配慮し、昭和四十七年十二月三十一日午後十二時を期し、全給水事業を町に移管した。又この組合は昭和四十四年、第二回臨時総会の決議、昭和四十五年知事の廃止認可に基づき、水道事業が自動的に閉鎖され、同日給水事業の重大な使命を果し、発展的に解散した。昭和四十八年一月二十日、町水道落成式の席上、多年の功績を褒賞されて町長より感謝状が授与された。
昭和四十八年一月二十七日、第三回通常総代会に於て、清算目論見書が承認され、清算事務に入り二月十四日、上富良野町福祉会館に於て解散式が挙行された。
解散のとき組合員は四二〇名、給水戸数六九七戸であった。
解散時の役職員
組合長    高畠正男 副組合長 金子全一 副組合長 岡久敏之
総務理事   千葉 誠 会計理事 大倉寿吉 理 事  真鍋鹿之丞
理 事    萩野栄多 理 事  長瀬勝雄 理 事  中条義勝
理 事    中村久二 理 事  岡久儀平 理 事  高田重太郎
 理事    佐川 登 理 事  久保宝石 理 事  高田樫三
代表監事   三嶋保蔵 監 事  伊部酉市 監 事  村上元松
水道管理者  樋口義雄 専任職員 菊地昭男
年  表
S32・ 1・20 鉄道専用水道、弁天水源湧水量測定
7・17 旭川鉄道管理局長より分水許可
7・20 水道建設期成会発足
8・16 第一期水道建設事業着手
10・23 建設工事竣工、試験通水
11・ 1 上水道利用組合設立
〃  竣工式、通水式挙行
33・ 7・28 鉄道より水源敷地及施設売渡指令
7・31 売買契約締結
8・20 敷地及施設の引受完了
10・23 北海道知事より水道事業認可
10・25 第二期水道建設事業完了
34・10・ 1 日の出補水源用地買収
35・10・27 第三期水道建設日の出補水管と揚水井戸接続完了
37・ 5・ 7 弁天揚水塔五mかさあげ
10・30 設立五周年記念式典挙行
38・12・30 日の出水道組合設立
41・ 7・11 自衛隊あかしや官舎給水契約
42・ 4・ 9 設立十周年記念総会
9・ 5 日の出水道組合給水管と接続完了
11・ 6 両組合合併覚書調印
43・ 9・ 2 第一回臨時総会合併決議
9・ 3 両組合合併契約書調印
9・ 9 午前零時合併完了
44・11・27 第二回臨時総会、給水区域の町編入と組合解散決議
45・ 3・31 北海道知事より水道事業廃止(時限付)認可
47・ 4・21 第二回通常総代会に於て清算人選任
8・11 西日の出断水により自衛隊出動給水
8・13 西日の出補水工事完了、24時間で復旧
12・31 給水区域を町に移管、水道事業完了、組合解散
48・ 1・20 町長より感謝状授与
1・27 第三回通常総代会清算目論見書承認
2・14 解散式挙行

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一