郷土をさぐる会トップページ     第07号目次

続・舞台めぐり

高橋 七郎 大正八年三月十五日生(六十八才)

前号のあらすじ

私は少年時代から漫才に興味を覚えていたが、小学校に入ってから、例年の学芸会に何かと役割を割り振られるうちに『舞台』への興味が興じるようになっていった。ハーモニカ、手風琴、映画鑑賞、そのなかでも特に笑いのあるエノケン、ロッパ、アキレタボーイズ等は、最も好んで観て廻った。
しかし、徴兵により満州へ出兵することになり、五年間の勤務、その合い間に、慰問を兼ねて舞台に立つようになった。
戦火も本土に迫り、私達は満州、朝鮮と各地を移動、そのうちに終戦、思いもよらぬソ連シベリヤ抑留の身となる。明け暮れ憂うつな日々のうちに、収容者の中の有志になる「全線座」が誕生して、慰問を行いドタバタ劇「大忠臣蔵」の大成功に意を強くして更に原稿づくりに没頭する事になった。
最終公演
ボーイズの出し物は、ミュージカルショー「西遊記」と決めて、三人ボーイズは、孫悟空、猪八戒、沙悟浄となり、玄奨三蔵法師役には、当時女形で人気のあった鈴木恒平(品川在住)を借りて配役を定めた。ストーリーは、三蔵法師一行がゴビの砂漠で道を間違えてシベリヤに到着し、ここから奇想天外の方向へ運び、数多くの奇談、珍談を折込んで危難を克服しながら西へ西へと進み、ヨーロッパからイギリス、そしてアメリカに渡る。
ハリウッドが出て、セントルイスブルースも唄い、シカゴでギャングと遭遇し乍らも難を切りぬけ、太平洋を越えて、憧れの富士を望む三保の松原で一行は美しい天女の舞いを賞(め)で、山むらさきに水清く、桜花く故郷を極楽浄土と定めて一生を送った。是があらすじである。
座員一同の協力で、歌、踊り、奇術ありスリルもあって捕虜生活の限界一杯に創意工夫を折込んだ傑作の一つになった。
幻燈の原理で、舞台一杯に張られた白幕に、三蔵法師一行が雲に乗って飛ぶ影絵の効果も、舞台装置担当で電気専門家の矢野氏が受け持ってくれた賜物であり、僻地のソ連の人達を驚愕させた一駒である。
四月の陽光が春の訪れを知らせて燦々と輝やいている昼近い時であった。突然作業中止と収容所へ帰還指示が伝えられた。愈々ダモイか、騙され続け乍ら、それでも一凄の望みを託して鉄道工場内の日本兵は全員収容所へ戻った。
果たせるかな、先住部隊の元関東軍四九四部隊達が帰還組となり、伐採組の我々は残留組である。
然し、この収容所も閉鎖の話もあり、残留組とて永くは残らない望みも出て来た。そこでこの日を夢見て思案を練っていた出し物「ボーイズ東へ行く」が、本当に最後の公演であり、全線座切り上げ公演となった。
筋書は、抑留者がシベリヤ鉄道に乗り込み、ウラジオを目指し、輸送船で無事内地に帰り、村人達の出迎えをうけて、待ち受けていた花嫁と結婚行進曲に合わせて踊る。(希望の夢を描いたものだ)。
ラストシーンで、復員者六名、花嫁姿六名が手を組んで行進曲を唄いながら踊るくだりになって、観客達も、早や故郷に心も帰っていたのであろうか、涙を流して喜こんでいたその姿が、今も瞼に焼き付いている。
東京ダモイ復員
失意のどん底から這いだして、望郷の念にあえぐ抑留者達の中から、聯(いささ)かなりとも生き抜く希望を与えようと組織された全線座芸能団の目的が、一応達せられて、その内に親しい友情が生れ、喜び、苦しみを分け合っての、丸一年間、幾度となく死地を脱して生き延びて来た幸せを、泌々(しみじみ)と語り合った座長、沢井氏初め十数名の先住部隊の諸士とも別れる日が遂に来た。内地へ帰り再び逢うことを約して、別れを惜しみながら彼等は一足先に帰還(ダモイ)列車で東に向けて去って行った。(現実には残留組の吾々の方が、六ヶ月早く日本の地を踏んだのである)
それから間もない五月始め、初夏を思わせる日射しの昼下り、愈々待ちに待った帰還列車に乗り込んだ。ボーイズ遂に東へ行く、三人組も伐採組なので一緒になってこの地を離れて行く、恨みも、未練も、悔いも皆捨てゝ列車はシベリヤ鉄道を東へ向って莫進する。この地も見納めかと思って僅かに開けられていた貨車の扉の間から、四六時中飛び去る景色を眺めて、瞼の裏に焼付けて来た、一ヶ月近くもかけてナホトカ海岸に降り立った。
引揚げが開始されて間がなかったのか、収容所に入らず、海岸線に幕舎が立並び、その幕舎生活が数十日続いた。日夜の明け暮れに作業もないまゝ、ごろごろ寝起きしていたその間にも名前を呼出されて貨車に乗り、何処かに連れて行かれる者も増えて来て不安の日が続いた。
六月八日頃だったか、夜突然の名前呼出しに整列して驚いた。残留組の二百余名がバリノエ(病人)として取り扱かわれ、急拠引湯船に乗る段どりとなった由、その訳は通訳が腕時計一ヶで、ソ連係官と交渉成立したとか、真偽の程は不明のまま、一夜、収容所内で泊り、翌日夢心地で恵山丸に無事乗船して、夕刻ナホトカ出航、三日目に舞鶴港に、涙の入港となった訳である。
復員手続き、垢おとし等のため舞鶴隊舎で二日を過した。
舞鶴演芸の夕べ
愈々明日は解散となる前夜、引揚者に対する慰問演芸会が催された。当の有名プロ芸能人によるもので、久々の娯楽に精一杯楽しもうと思った矢先に、引揚者の中から三組程、演芸を披露する様にと主催者側から提案された。
同船で引揚げた三千余名の内には、かなり芸達者が居る筈であるが、我々のグループから、ボーイズが推せんされた。
さあ大変だ、三人組の内、不幸にして白助(新井氏)は帰還していない。取り残されて居たのである。演芸開始まで五時間余りしかないので、よーし本当のシベリヤボーイズの最後だッ、黒助(鶴田)の同意を得て、白助の分も二人で分けあってやろう!!と決意して、急いで筋書き整理にかかる。観客は皆同じ境遇に在った同志許りである。遂、先日上演済みの「ボーイズ東へ行く」に枝葉をつけて実演しようと。広い講堂に、引揚者全員が集まり演芸会が始められた、流行歌に、曲芸ゴマ、浪曲、漫談、漫才等、次々と演じられて、観客を喜こばしていた。
それに引かえ、出番を待つ身のつらさ、気がきではない、数年振りに観る芸能人の名前も、今紹介された筈なのに、一人として覚え得ない儘に、舞台の袖で震えながら観ていた訳である。
慰問プロ達の演芸が済み、引続いて引揚げ組の出番である。浪曲真似や演歌等が終り、遂にボーイズの番だ!!然も最後の締めくくりを受け持った事になった。片隅に置いてあるギター二丁の内、掻きならすだけである安物の音調されていない方を借り受けて肩に掛け、ままよ、どうにでもなれ!!と半ば捨て鉢気味で舞台に馳け上る。
先ず見渡して度肝を抜かれた!!顔!!顔!!顔が段々畑一杯にうまって、全部舞台の二人に集中している、三千数百の顔に囲まれて、井の底に舞台が有る様で、余りにも我々の存在が小さ過ぎる。然しシベリヤでは無かったマイクが有る。「よーし!!行くぞ!!」と許り、黒助と赤助はマイクに噛りついた。
♪亦も出ました アキレタボーイズ
 暑さ寒さも ちょいと吹き飛ばし
 春夏秋冬 明けても暮れても
 唄いまくるは アキレタボーイズ ジャンゝ
 (ギターの音が、全々変だ!!唄でごまかせ!!)
==浦島太郎替うた==
♪昔、むかし 強者がー
 東京ダモイに 騙されてェー
 シベリヤくんだり 来て見ればー
 口にも言えない 事許り
♪スターリンの給養にー
 石割り 伐採 鉄運びー
 只、働らきに 働らいて
 故郷へ帰った 夢ばかり〜〜
(大きな拍手と歓声が挙った!!)「しめた!!」
黒助が、シベリヤの薯掘り情景を茶化しながら、デアボロの古い曲で唄う『ワァーッ!!』、場内一杯に反響が起った。(調子は上々ッ!!)
==金色夜叉の替うた==
♪熱海のー 海岸ンリュタリューター
 貫一 お宮のリャンゴレン〜〜〜
金色夜叉を、皆が知っている満洲(中国)語と、ソ連語の単語等を折りまぜて、歌と台詞で喋べる。
一節、一句切毎に大反響の笑い声のため、次の文句に進めない。黒助とお互いの顔を見合わす余裕が出て来た。
==(駅案内の口調)==
「貨物一番線にィー 東京行きィー 特別列車が到着致しまァ〜す!!、
危のうございますからァ〜吹上げ倉庫のォ〜白線までェおさがり下さ〜い!!」
『扉が開きましたらァー、引揚者は特別食堂付寝台車にィー、鞄持ちその
他の諸々はァー木材積み無蓋車にー我れ先きに飛乗り下さーい!!』
(ワーワー!!の声で中断!)
「発車オーライ!!前方信号オーライ」『赤でもオーライ!!』
ボ!!アーッ(汽笛)…″
==(毬と殿様の歌)==
♪列車は飛びます 東海道ー(違うよシベリヤだよッ!!)
 シベリヤ鉄道一線に〜
 着いたところは どこじゃいな どこじゃいな
 着いたところは ウラヂオーストップ!!
「オーイ!!船が出るぞー〜〜
『オオ居る居る!!船だ牛若丸に、凡天丸、航空母艦も待ってたぞ!!』
「ドラの音と汽笛ボーッ、ボーオーッ!!」
==(ラバウル小唄)==
一、♪去らばーナホトカよー 亦来る日までー
   『二度と来ないからナーッ!!』(爆笑!!)
  ♪暫し別れを デッキの上でー
   思い出数々の あの空見ればー
   雲の彼方にー七つ星……
二、♪船は出て行くー 煙は残るー
   残る煙に未練は無いがー
「まだ未練あるのかい」『黒パン二つ持って来るんだったァ!!』
「そんな事ではないでしょッ」
  ♪今尚 この地で 働く友のー
   心しのべばー 目がうるむー (拍手!!) ― 略 ―
無事日本に着いて懐しい我家へ……花嫁が待っている、出迎えの大衆に挨拶も済み
==(結婚行進曲)==
一、♪僕は二十六の 男子です
   シベリヤ帰りの 独り者
   働き鍛えた この腕にー
   もりもり 溢れる力こぶ
   求めているのは お嫁さん
   どなたーか とーんで来ませんかー
== 二、三番略 ==
四、♪みんな仲よく 手を握り
   これから築く 新しい
   おいらの国だ 日本をー
   担うこの腕 このかいなー
   求めているのは 富士の山
   清く 気高い 心意気
   強く 勇々しい 心意気!!「チャカチャン!!」
二人揃って、頭を下げた。場内割れんばかりの万雷の拍手で観客は答えてくれた。みんな思いは同じであったのだろう。二人で演じた四十分が夢の様に過ぎ、上気して舞台を降りた時、舞台裏で見ていた年若い流行歌手が一言、心をこめて「よかーったワ!!」、プロの若いシベリヤを知らない彼女に言われて、本心からホーッと一息ついた次第である。
大観衆の前で大受けした演芸は始めの終りでもあり、又居室に戻る観衆と共に階段を昇っていると、前の方で、ボーイズの話題だ、「あの二人組は、その道の本職じゃないかな……」の声を聞いて、内心喜びと、自信を強くしたところである。
翌日は、憧れの故郷へ全員解散となり、舞鶴から東舞鶴まで、小型船で輸送されたが、ふと隣りに見覚えた顔があり、声を掛けた、「アノー君は上富の人だネー」『あ〜高橋さん!!昨夜の演芸観せて貰いましたよ。やりますねー相変らず……片岡ですよッ」「あゝ想い出した、四級下だったか、和田さんの家の手前でしたねお宅の家は、然しこの引揚げ船では外に上富の人は居ない様だし奇遇ですねー」、十五年振りに会った彼は、幼ない児童の面影を残して居たので、生きて還りついた内地の第一歩だっただけに、一入懐しく、積もる詰も数限りなかった。
僅かの間に接岸、旅は又別々となり、私は岐阜在中の兄宅で一週間を過し、彼は直すぐ上富に帰った。留守宅に寄ってくれて、演芸の一部始終などを話してくれた様であった。お礼の言葉を申すべく、気に掛けながらも彼との再会の機会もなく、後日知り得たことは彼、片岡孝文君は旭川で他界されていた、残念なことである。
職場遍歴従然に
復員後、何かと身辺にも異変が起り、時の流れとはいゝながら、土管工場(現住地に有った)に転職、目まぐるしい職場経営の内にも、舞台に立って受けた感激が忘れ得ず、当時は人気のあった素人演芸会に、工場職員の中から、斉藤昭二、中川 稔、高橋義雄、渋佐 進諸氏の若手でボーイズを編成して、旧上富良野劇場で「村祭り」を上演、町では珍らしい演(だ)し物の様であった。
程なく大火罹災のために、工場は再起不能となり、職場は解散、次いで失業対策要員として町役場に採用された。
昭和二十六年暮れに、職場も馴れていた折りに、役場家族慰安の夕べが旧公民館で催された。
当時の若手職員今泉暁美、岡 実氏等と三人組で「あきれた学校」を上演したが、その時のボーイズが好評で、翌年の三月、中央婦人会主催で「名人演芸大会の夕べ」とかの催し会では、特別出演の名指しを受けて、旧日本劇場で素人芸を披露した。
猿も木から落ちる
得意になっていて、その年の六月五日に催された旭川招魂祭上川管内素人演芸大会には、当町から、故葛本利八氏、富樫銀治郎氏達の民謡会と、ボーイズ三人組が推せんされて出演することになった。
御遺族慰安の意味もあって、常磐公園横の体育館は満員の盛況で、緊張の度も加わり、場内音響効果の有無も、気付かぬ儘に順番を待っていた。
出番となって舞台に三人が揃って唄いだした!!が体育館も出来立てで、音響設備も無く、放送装備も持ち込みのため、唄う文句も、セリフすら伝わるどころか、ウァーン!!ワーンと吠えている様に響いている。観客の反響更になし、気は滅いり、焦りと恥ずかしさに早く引込みたい!!、今迄にない屈辱に苛まされて、居堪(いたたま)れず、フィナーレもそこそこに舞台を降りた。
相棒の二人には申し訳がなかったが、意気錆沈、以来、舞台恐怖症に陥って舞台に上る気持ちは消え失せてしまった。
部隊の舞台
昭和三十年九月駐とん地開庁に伴い、部隊の事務官として勤務し、暫らくは舞台には縁遠くなっていたが、偶々昭和三十四年十一月に、上富小体育館の落成記念として、PTA会主催の演芸会が催された。
当時の七、八町内会ブロックPTA会員は「舌切雀」の寸劇を計画演出することになり、依頼されてシナリオ作りと、いじわる婆さん役を割当てられ、一色正三氏、武氏、又雀役には渋江、田中、佐川、温泉、土田、福屋諸女子外数名で、暫らく振りの舞台一杯に走り廻り、フィナーレでは全員で日光和楽踊りを披露した懐しい想い出が残っている。
部隊に於いては、記念行事、年末演芸大会等が催されて、各部隊から選り抜きの芸能達者な隊員が、競って芸を披露して場内を湧かしていたが、自分は専ら舞台のバック装飾に努めていた。
晩年舞台づとめ
「雀百まで踊り忘れず」と申しますが、歳月が流れる間には、矢張り舞台での失敗や、恥ずかしさも薄れて、昭和四十一年独りで歌謡漫談を真似て演芸会に飛入り、優勝。又始めての試みであったが米軍演習部隊との「芸能くらべの夕べ」に、詩吟の木村 了氏と組んで「画道吟」王将を演じた。四、五分の短かい時間で終る詩吟の声に合わせて、題名に合致した絵を描くので、絵をかくより、恥をかいた様で、私なりに「画道」でなく「邪道」だと自嘲しながらも、誘われて詩吟部村田六輔氏や、木村氏交互に、再三「画道吟」「書画道吟」と共演させて頂いた。
観客に背を向けて、向けた背中と前の白紙に冷汗をかき描き、それでも貴重な体験となった晩年の舞台づとめである。
「終り」

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一