郷土をさぐる会トップページ     第07号目次

清富地区小水力発電(前編)

竹内 正夫 大正十年二月十六日生(六十七歳)

私の生立ちと発電所建設の動機

私は上富良野町で一番山奥の清富で生れ、小学校は日新尋常小学校・通学距離約六粁、高等科は市街上富良野尋常高等小学校・距離は約十二粁、夏は自転車、冬は徒歩の通学でした。
昭和十年高等科卒業後農業の手伝いをしたが、貧弱な自分の身体に気付かず只一人前の大人と同じだけ仕事をせぬばならぬと思い働いた処、二年余りで健康を害し、その後次々と幾つもの病を併発した。
一時は生死の境を彷徨状態となり、美しいお花畑を幾日も歩き続け、時には素晴しい気持で宙を飛び歩いたこともあった。危うい命を取止めて後、重労働の農業から遠ざかるため代用教員約三年、転地療養の意味もあり会社員約六年、その内どうやら健康が戻って来た様で、昭和二十三年上富に帰り一、二年農業の手伝いをして見てやっと病魔との闘いに勝抜いたなあ、と思った。
昭和初期の恐慌時の印象は、病療中もサラリーマン時代も頭の中から離れなかった。
冷害凶作と不景気の鉢合せとでもいうことだったのだろう。親達や大人達の嘆き話し、又嘆き乍ら働く後姿を見たり、又時には親達から『お前達も早く大きくなって一生懸命手伝って呉れよ』等と、話されたことが子供の私等の胸にもじーんとしみ込んだ儘になっていた。又大人達が何事かで学校等に集ると、農村自力更生とか、副業を起そう、多角経営にしなげればならない、有畜農業でなければならない、等色々のことを恐慌に切抜けるため考えたり、論じられたりしていたことを子供の耳にそのまま、残って居り、私共が大きくなったらこれ等の問題を解決しなければならないのだと感じていた。
昭和十二年、日支事変が起きて豆類等が高くなり、景気は急に良くなった。事変は増々大きくなり十六年暮に大東亜戦争に拡大し、物資は増々不足となって、二十年八月十五日の敗戦の日を迎えてしまった。
食糧は極度に不足し、つい此のあいだまでは、町の友達とけんかをすれば「このどん百姓め」と罵しられ口惜しい思いが残っていたのに、敗戦後になるとどん百姓の「どん」が「お」に変り、おまけに百姓の下に「さん」迄つく様になり、食糧が何より大切な暗が到来し農業者の地位は急激に跳上った。此の状態を、只一時的なチャンスに終らせることなく長く長く持続することに鋭意努力を重ね、尚一層の向上を目指し再び昭和初期の様な恐慌に遭遇することのなき様にせねばならないということが私の頭の中にあった。
終戦時は会社の社員であった。終戦直後退社願を出したが、深い事情があり引止められてしまった。その時会社の上司の言葉は今も忘れられをい。「君はどうして会社を止めて百姓なんかせぬばならないのだ。日本は戦争に負けて今は食糧も足りなくて困っているけれど今少し我慢すればアメリカとプレトンウップ借款協定が成立する、そうすればアメリカから食糧は幾らでも入って来る。現在アメリカは小麦が余って太平洋の真中へ捨ててるんだ、君は裏面目にやって呉れるのだから君の様な人間は会社は絶対骨を拾うんだ。日本は今後工業立国になって行かねばならないし、百姓が又苦しい時代が来ないとは絶対言えないんだぞ」と厳しい口調で言った。百姓なんかという言葉には憤りを感じたが、今になって見ると百姓の事等全々解らない人が良くこれだけ先行きを読んでるものだと感心せぎるを得ない。その上司は東大出身者で外国の事情も良く勉強している方だった。
後先になったが私の居た会社は、満俺(マンガン)鉱採掘しており、戦時中は軍需会社で本社東京丸の内中外鉱業KK、社長は原 安三郎で当時は財界屈指の大物であった。軍需会社のことについても書き度いことがあるが、紙数に限りがあり触れないことにする。
昭和二十三年になって、再度退社願いを出し漸く三月末付で依願退職の辞令をもらった。
上富良野へ帰って見ると、農村だけに食糧事情は良かったが電力事情等は鉱山より遥かに悪かった。
電灯はローソク送電でランプ位の明るさ、町の種々の工場も充分仕事は出来て居らず、精米とか製粉も自分の家で搗いたり、清富の部落等は各戸と言える程小川の水に水車を架けギータン、バンタンと麦、稲黍を搗き、夜はその水車で自動車のダイナモを廻して電灯をつけていた。
これを何処か良い場所に大きな水力施設を造り、昼は農産物の加工に夜は電灯に、と両方に利用することが経済、文化の両方の向上に役立つ、これを先づ実現しこれを根幹として、第二、第三の事業を興し弱い農民の力の結集の効果を上げて行くべきであると考えた。
発電所建設運動の開始
始めは清富の学校附近の五、六人に話掛けた。総論については反対する人は一人も無く皆賛成、然し具体的内容に入ると、先づ負担金の大小、場所は何処にするか、水力利用設備をする場合電灯だけでなく昼間も利用することが、経済効果が倍にも上るのであるが電灯だけつけば良いと考える人が多かった。
又その頃は、銅製品である電線が非常に高価だったので、配電線を長距離引かなければならない人と隣が近く短い線路で済む人で利害に差が大きく出るのであった。
これ又お互に納得しない。話は進展せず少し深入ったことになると自分でもわからなくなるので、小水力発電の設計工事をやっている業者を新聞広告で見付け、専門家を訪ね相談することにし札幌に出掛けた。札幌市南一条西十八丁目北海水力電業社を訪ね、社長緑川武寿さんにお会して当方の状況を説明した。社長は、初めての人には出来た処を見て頂くに限る、百聞は一見に然ずだ、と言って定山渓線沿の石切山で唐木田さんという方が十四、五戸でやったのを見せてもらった。
出力三KW、配電線は五粁足らずで一戸当り四万〜五万位の負担金だそうだ。此処を見せてもらい、少数の方が纏まって地域の自然条件を活用すれば理想的な暮しになると感じた。自分等も色々と地域発展のことを想像して見ているが、先輩が居るものだなと思った。部落の人方に専門的説明をするのに、それなりの人を出向させても良いというので、小水力発電の権威者だというタービン水車の設計技師に一日来町願うことにした。九月末頃であった。
関係者外でも、部落内の希望する人は誰でも来て聞いてもらい、又川の水量の確認、落差の推測等をしてもらった結果は、水量は約十個、落差は私の方で約五米と推定を申上げ、これだけあれば約十KWの発電が出来五十戸位迄電灯出来ると判断され、関係者達も相当の不安が解消された。それにしても一番早く知り度いのは一人一人の負担額である。その額に依って自分が参加するかしないかが決るという。額をはっきり知るのには、設計して見なければわからないので設計もして見ましょう。若し着工しなければ設計費はとらないということになり、設計を依頼した。
測量師が来たのは十一月始め雪のちらつく寒い日で、美瑛の白金線のバスで来た。山越に馬車で出迎えに行った。その日は私の家で泊って頂き、翌日から測量にかゝった。取水地点から放水地点迄八五〇米あり二日かゝった。測量が終って野帖整理をし落差が算出された、四米二〇だという。まあまあだが、私は測量師の来る前に田と田との段差や段数から算出して五米以上あると思い、水車技師が説明に来た暗も落差は五米以上あると言った手前少し物足りない気がした。
その明くる日は白井弥八さんが澱粉工場の水路測量を頼むと言われたので、そこへ行った。私も手伝い、落差の測量だけなので午前中で終った。昼食を御馳走になりその後、どうも私の方の発電所の落差が私の思っていたより少ないが測量は確かか?と聞いた。大学卒業後余り経験年数は多くないが、誠に温厚そうな人だったが俄然怒り出した。白井老人が私に「竹内お前のいうことは無茶というものだ、測量技師の方は精密な器械で測ってのことだ、器械が物を言っているのだぞ」といわれた。私は失礼なことだが若干は自分の腑に落ちないことを主張した。
然し白井老人の言う通りだと思い、引下ろうとしたが測量技師はきかない、明日もう一度測り直しをすると言い出し、その明くる日はポールをかついで若い測量技師に怒鳴られ乍ら走り廻った。測量が終り野帖の整理をして計算の結果、やはり三五センチ余り違って居りました、と素直に私に頭を下げた。私は何とも言い様のない変な気持ちであった。然しこれは又後で書く事になるが、結局は河川課の検査で一米余の誤差だったことになるのです。素人の感も馬鹿にならないものと自分乍らに思いました。
工事着手
こんなことがあったりして秋は一日一日深まった。水路の設計図は十日位で出来て来た。相当な大工事なので秋の農作業の終った時期にやれることをやって置かなければ、春になると農作業に大忙く、幾ら電気をつけたいと言ってもそれにかゝり切ることは出来ない。少しでもやって置こうと、相談は纏まらないけれど水路コースはこれ以外にはない。
水路関係者には若し話が纏らなければ、水路使用料として茶の間の電灯丈はつけて上げますと言って水路の掘削に着手した。大体は畑仕事も終っていたが、雪降る迄は何かと気忙しく感じ、農家同志のこともあってお願いして三、四人の人が出て来て呉れた。一番深い処は二米五〇糎の掘削になる。今日の様にユンボ等の重機であるのならこんな仕事は朝飯前だが、その頃はすべて人力ショベルとツルハシの仕事であった。作業をするのに遣り口を出して見ると、側法を計算すると深い処は地面で巾六米余から掘らなければならず、五十糎も掘ったらもう土の置場がないので掘った土をゼリー(昔畜力で水田を造る地均しに使う鉄板で出来たチリ取り型の道具)で、土運びをした。掘る人方も側法があり、土手から遠くなるので一米余り掘ると投上げれなくなり、致し方無く溝の中へゼリーを入れゼリーにワイヤーロープを付け上に馬が居て引き上げる方法等、大変苦労し乍ら何日も掘り続けた。
素人の仕事だけに次ゝと困難に打当る。何とか知恵を絞って仕事を進める、それこそくたくたになった。
詰が纏らない儘工事は続けていたのが、その勢に引かれてか清富二組、三組の方々が参加したいと言って来られた。全員ではないのだ。水車技師の話では清富全戸点灯の出力は充分と説明して行ったのだから、一人でも多く加入してもらうことが望ましいのではあるが、配電線が延びてその割合に利用者が少い場合負担金が嵩む、又途中で不参加の人がいた場合線路用地の使用が出来るかどうか、そうした問題点は後廻しにしての詰なので中々むずかしい。電線の価格を農協で調べてもらったらトン当り一八万〜一八万五千円といわれた。会社勤めの時上司から経済新聞を読めと言われてとっていたら退社後も上富へ送付して来て居た。それを見ると屯当り東京値は一〇万〜一一万なのである。そこで在社中の同僚の本社在勤の者に問合せた処、返電があり新聞と同じ東京渡し一一万円と知らせて来た。これはしめたと思った。清富全域に配電するには三屯余り必要とする価格が七万も違えば二〇万以上の工事費が違う。皆さんに報告した。誰もが喜ばない筈はない。
奥の方の参加希望の方も大体参加確定の様になった。
そうこうしている中、雪は四十センチも積った。雪が邪魔で工事が進まないので今年は打切りにしようということになった。
補助制度の朗報
十二月の始めだった。その日の朝も雪が三十センチ近く降った。朝七時過ぎその頃農政の係をやって居られたと思われる元助役の加藤 清さんが、帽子をとった頭からぼうぼう湯気を上げ乍ら家へ入って来られた。こんなに早く何事でしたかと尋ねたら、「貴方々が発電をやろうと一生懸命やって居なさるということなので、激励とそれに今度道で中小水力自家発電に補助を出す制度が出来たので知らせに来たと言われるのだ。全く予想もしていなかったことでほんとうに嬉しかった。
補助は発電設備に対して半額だという。電線が安く入手出来る朗報に次いでの朗報本当に嬉しかった。
それに十二粁の道を三十糎近い雪を踏み分け、自分の労をいとわず、わざわざ来て下さったその気持ちにはお礼の申し上げ様もない気がした。
関係者の皆さんに第二朗報をおつたえし、希望者は誰何でも入って貰うことにした。電線で二十方円安くなり補助金ももらえる。これを無かったと思えばどんな都合の悪い人でも抱えて行ける。話は急速に進んだ。然し残念なことに清富全戸四十戸の内加入者は二十八戸に止まった。自分個人のダイナモーで良しとする者、又灯油を闇で買ってもその方が良いとする者、人様々だった。
組合の結成
一月上旬に組合結成が出来た。組合長さんは原田武夫さんだったと思う。申合せ組合なので法律的なことの代表者は私になった。水利権の申請、電気工作物の設置許可申請等は、北海水力電業社に依頼した、又発電設備の機械類一切は北水に頼んだ。電線は農協に東京の値段を話した処、それに近い値にするから農協から買えと言うので農協に任せたが、最終的価格は十三万五千円より安くならなかった。
配電線工事は、町内荻野兄弟電気商会に契約した。
(以下次号へ続く)

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一