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聞信寺第二世住職 故門上浄照師を偲ぶ

加藤 清 大正八年一月二十六日生(六十八歳)

思い出

北海道総合保養地域整備法が制定され、北海道の各候補地が申請され、富良野大雪地域が、道内一番の候補地になったことを新聞で知り、地元で生活している者として喜ばしい限りであります。此の時に当って上富良野の観光開発の先鞭をつけた方は、聞信寺前住職故門上浄照師を思い出します。
前御住職については、私は観光開発についての思い出を纏めてみたいと考えました。宗教上門徒として父が聞信寺の世話役をしていた為、子供の頃から御住職の御人柄は伺っていました。
私が役場の職員となり、担当職務の中で観光開発の仕事をするようになり、関係書類を見る度に、前御住職の山の開発に対する御熱意と言うか、御執念は尋常なものではないと感じていた矢先、大正十年発行の趣意書を見せていたゞき、私なりに山の開発について強い関心を持つようになり、山に対し諸般の事柄を御住職に伺い記録いたしました。
師が始めて山に登ったのは、明治四十二年五月二十二日、安政火口周辺の踏査を始めて以来のお話しを伺い、益々興味を覚えた次第です。
師は、開拓当初、京都本山より命により北海道開拓者の指導教化の為派遣され道央の地、上富良野村教覚寺(現中富良野西中)に駐在布教に勤めていた処、明治四十五年二月二十五日付で教覚寺住職を拝命、宗門の拡張と薫育に勤めている頃、十勝岳に始めて登り山の魅力にひかれ、山の開発と宗教の発展を結びつけて考えたと申しおられました。
第二世住職門上浄照師は、教覚寺の住職として布教中、将来上富良野市街地が発展すると達観し、一大英断をもってかねて懇意にしていた方々を地盤として、上富良野市街地に真宗本願寺派の説教所を設置し、大正五年五月十日認可となり、大正八年八月十八日聞信寺の件許可され、御尊父門上晴雲師が開基住職を拝命、浄照師は副住職となり開基以来幾多の困難を克服し、仏門の興隆を図ると共に聞信寺の護持に努められた。
地名の命名
師が踏査して命名された地名は、仏教の経典の中から引用したものが多い。当初踏査された荒陵の池の場所は、八十余年も前のことで、欝蒼たる森林の東方に南北に活動している火山帯安政火口の下の這松地帯で、此処の場所に自力で山小屋を造って、糧抹等も準備され、人が泊れるようにされ現住職の奥さんの話によると、奥さんが小学校二年生の頃中学生のお兄さんと、小学校五年生の姉瑞枝さんと三人で此処に泊り、翌日下山の際現自衛隊弾薬庫の付近にさしかゝった頃大雨に見舞われ大変苦労して帰宅されたが、師は迎えに来てくれなかったと言れたことを思い出し、熊の棲息する山小屋に最愛の子供を残して下山した御心情は、自己に対しても誠に厳しく律したことが伺れる。明治年間に踏査を始めて以来、発見命名された地名、施設名、碑は次の通り。
ヌッカクシヌラヌイ川で発見された滝、上流より勝鬘の滝、維摩の滝、法華の滝、記念碑、十勝岳山頂の光顔巍々、九条武子夫人の歌を刻んだ碑、白銀荘前庭の長谷川零餘子の歌碑、白銀荘の北方泥流に通ずる道路脇に佐上信一長官の揮毫に依る十勝岳爆発記念碑、中茶屋の橋の附近に石田雨圃子氏の歌碑、大正十一年に建てた太子堂は二間〜三間の建物で五〜六年あったと聞いている。師はこの仙境に精神教化の母とも申すべき聖徳太子の聖像を安置し講堂を建てることを悲願としており、計画された設計書は太陽堂がスポンサーとなり、四間に六間のテント張りのキャンプ施設を作ることになり設計書も出来ていたが、大正十二年の関東大地震のため中止になったと聞かされ誠に残念である。
保育事業
児童の保育の重要性と農繁期労働力の調整を考えられた師は、昭和四年春から聞信寺境内で農繁期に託児所を開設、農家の労働力の調整を図った。開設以来現在に至る五十有余年に亘る間、託児所、保育所、幼椎園と名称の変った時代はあったが、一貫して幼児の保育教育が続けられている。師の開設時の慧眼と受継いだ現三世住趣門上美義御夫妻が、御父君の意志をついで幼児の保育、教育に尽されている御功績は誠に大きなものがある。
横死無縁故者、戦死者の追悼法要
山を愛し、山と共に静寂な環境を求め信仰の道を実践された師は、十勝岳の大爆発の折、死体の収容施設は、最初山藤病院前に設けてあったものを、七日目からは聞信寺の境内に移設し、仏教団の先頭にたって、毎日毎日沢山の死体をお預りしました。その中で最もお気毒なのは、死体を見ましても容体が余りに変化しているため誰の死体か見分けがつかず、六日も七日も経過しても、遂に受取人が見つからないものでした。余儀なく村役場で仮埋葬をしたのが七名もあり、その後発見された方と共に十二名の無縁死体がありました。
お気の毒な方々を仮埋葬の儘にして置くに忍びず、吉田村長さんにお願いして全部改葬させて頂くお許しを得たのでした。発掘の上火葬に附しその白骨を、新たに建てる無縁塔に納めて永久にお守りさせて頂きたいと念願したものです。皆さんに無縁塔建設費の御寄附を仰ぎたく、時の村長吉田貞次郎さんに添書をして貰いご協力を頂き十二名の方の法名を刻んだ記念碑を、昭和二年八月十三日聞信寺境内に建立され、以来毎年追悼法要が修業されている。
又大東亜戦争中に散華された門信徒の方二十一名の追悼法要も、聞信寺の年中行事として毎年修業されており、第三世御住職様も御尊父様の御遺徳を継承されていることに敬意を表するところであります。
十勝岳大爆発の発生から六十余年、戦争が終ってから四十余年たちました。今こうした方々のお陰で、現在何不自由なく暮している者として、その御苦労を深く味わっていたゞきたいと念願しているものであります。
大正十年に発行した趣意書
東方の天空に聳立ちする十勝岳の連峰を仰ぎ見て此の山を本道一の霊場として、また、精神教化の場として創造したいと大願を抱いて立案された約七十年前の趣意書を掲載します。(原文のまゝ掲載)
               趣      意
私共は折角人間として生れて来たのでありますから、精神的にも物質的にも、なるたけ多くの事業に関係して其進程に參與し、有らん限りの力を致すべきことを心がくべきでありませう、所が私は複雑な世相に引きずられて余儀なき歩みを續けて居るものであるやうに考へられてなりません、かうした考へから回顧しますと、私の過去の仕事に生命が見えなくなって參ります、私は無生命の勞作の堆積に過ぎないのだと思ふと、何とも言ひ得ぬ淋しさを感ぜずには居られません、人は種々な經驗を持って居ますけれども、この經驗を整理することが出來ないで悶えて居るのが少なくはないのではあるまいかと私は思ひます
道を求むるに必ずしも山とは限らぬ、生命を探ぐる靜寂の境でなけれぼならぬといふのではありませんが、實際を申しますと時には騒々しい環境から離れて沈思し、うるさへ日課を忘れて瞑想することも私共に望ましいことであります、これは唯私一人の心情ではなからうと思はれます、こんなことから私は多年閑寂靜寥な霊地が有ったらと考へて居たのであります、然るに今度私は恰好な勝地を見つけたので大方の諸賢に御相談を申し上げ且つ御願ひせずには居られなくなったのであります、何卒私をして霊地の大概と計劃の一般とを語らせて下さい
足一度富良野線を踏めば海抜六千九百尺東方の天空を劃して聳立する十勝岳の連峯を仰ぎ見るでありませう、四時常に緑なる密林を懐にして、ぬっと熔岩に焼けた禿峯腮を落した處に噴煙が立ち上って居る、これが俗稱硫黄山で岩脊奇態走りては止まり、止りては千仭の斷崖を成す、天工の妙到底筆にすることは出來ません、これと指呼の懸崖を隔てゝ温泉がある、清澄の潤色なく垢穢を去らずんば止まさるものがあります、今では上品な湯宿が有つて客を容れて居る、温泉を南に五六十歩の處眺望洞然瞰下幾十里自ら身の輕きを覺えられます、一たびこゝに立てば恐らくは生渡忘れることのない爽快を有せられます、夕張岳を西南四五里の處に望み、北は石狩岳と相對して石狩の大平原を呑む耕園乃畝たゞ指すに任せ、裾野の汽車が走るところ下富良野、上富良野、旭川が数へられます若しそれ頭を回らせば高峯俄然人の知らぬ遠い歴史を藏して寛るやかに我を撫で、居る、私はこゝ、に立ちて幾回か泣いた、そして私はどれだけ教訓を得たか知れません
私はこの仙境を得て遂に大願を思ひ立つやうになりました、それは此地に我が文明の父といふべく精神教化の母とも申すべき聖徳太子の聖像を安置し講堂を建てゝ、彼の日夕繁激な仕事に馳驅して心身共に疲れた人々を此霊場に遊ばせたい、崇高な太子の御生涯を偲ばせたい、講堂に徳者の提唱を聴かせたい、かくの如くして佛の所謂修己潔体洗除心垢の大方便たるを得ることあらば私は人々と共に折角人間に生れましたことを心がら喜ぶことが出來やうと思ふのであります
私は此大願の前には一點私心私欲を挿まぬことを佛陀に誓ひます
ざつと一通りを語りました、どうぞ御同心を願ひますどうかこの大願いを成就させて下さい、殊に紀元の新らしい木道に一霊場を創造し得ますならば将來を教ふることゝもなるであらうと思ひます
 大正十年八月
上富良野 聞信精舎にて 門上浄照識す

機関誌 郷土をさぐる(第7号)
1988年10月25日印刷 1988年10月30日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一